4. 色を失う

目が覚めると扇風機が回っていた。風鈴が静かにチリンと心地良い音を鳴らしている。酷い吐き気と眩暈に襲われながら俺は重い体を起こした。トイレは何処だろうか。吐きたいと周りを見回すと、キッチンスペースにあるカウンターでコーヒーを飲んでいた白川さんと目が合った。



「起きた? 大丈夫?」



そう首を傾げて訊ねてくるが、大丈夫なわけが全くない。



「気持ち悪いんすけど…」



うっ、と吐くのを堪えて訴えると、白川さんはビニール袋を俺に渡し、コップ一杯の水を持ってきて横に座った。



「手洗はタカオくんがいるから、ごめんね。昨日は無理させちゃったみたいだね」



言葉は全く耳に入らなかった。胃を綺麗にするみたいに吐き続け、空になっても、吐き続けてしまう。きっと、タカオもずっと吐いているのだろうなと、俺は吐きながら考えていた。



「水、飲んでね」



白川さんは吐いている間、ずっと俺の背中をさすっていた。吐き終えて、水を口に含んでまた吐き出し、少しスッキリして俺はそのまま自分が寝かされていたソファにぐったりと寄りかかる。床には布団が敷かれ、蓮司さんが寝ていた。死んでなかった、と呼吸する蓮司さんを見下ろして安心したが、その顔にはタカオに殴られた痕が残っていた。



「少し、落ち着いた? 薬いる? 胃薬あるよ」



昨日の今日でクスリなんて欲しいと思うわけないだろと思った。クスリってだけで妙に緊張してしまうようだった。



「大丈夫です」



そう断ってまた横になる。フカフカのソファは寝心地が良かった。俺はふぅと体を落ち着け、側で心配そうに看病してくれる白川さんを視界の端に捉えた。この人の仮面が気になる。優しい仮面をつけた悪魔のようにも見えるのだから、さっさとその正体を知りたい。ヤクをやらせてヤりまくる。どんな効果があり、どんな副作用があるかも分からない妙なヤクをポケットから出すような人。それを説明もなく飲もうと誘っては微笑むような人。白川さんは何を考えているのか全く分からない。どこか冷たいものを感じて、近付いてはいけない類の人間だと赤信号が灯るのに、俺はこの人とのセックスを思い出してふっと笑ってしまう。正直、気持ち良かったよな。



「まだ辛い? 大丈夫?」



白川さんは俺の髪に触れるとそう首を傾げた。



「大丈夫です」



「そう?」



白川さんは呟くと、「ゆっくり休んでね」と付け足してソファから腰を上げて、カウンターへと戻って行く。白くてデカくて温厚で柔和、春仁みたいだけど、春仁じゃない。春仁はヤクなんかキメてセックスしたりしないもんなぁ。


しばらくすると青白い顔をしたタカオがトイレから戻って来た。手にはペットボトルを握って、ふらつく足取りでダイニングのイスに腰を下ろす。ダイニングテーブルにトンとほぼ空になった水のペットボトルを置くと、眉間に皺を寄せて白川さんを見ている。



「水、まだあるよ」



白川さんは少し気まずくなったのか、ソファから立ち上がると柔らかな口調でそうタカオに訊ねた。タカオは水なんかどうでも良いと言わんばかりだった。



「シロさんは何でそんなに平気なんすか」



タカオのやけに冷たい目に空気はぴりつく。白川さんはその目を見ながら、ふふっと笑うと、冷蔵庫から水を一本取り出して、タカオが置いていたペットボトルの横に置いた。そのままタカオと向かい合うように、テーブルを挟んでイスに腰を下ろす。



「君達よりは飲んでないからかな」



「は? 違うでしょう。コレ、酒のせいじゃない事くらい分かるよ。ずーっと妙に体が熱かった。それが治ったら頭痛に吐き気。…ね、あんただけ、ヤク、やってないですよね。あんただけ」



「さぁー? どうだったかなぁ」



「あんたが持ってきたヤクなのに他人事みたいすね」



「ふふ、他人事ね」



白川さんは表情ひとつ変えない。この人はそういう人らしい。問い詰めたところではぐらかし、微笑み、一定の調子を崩さない。自分のペースに持ち込むのが上手い、怖い大人。きっと何を言っても無駄だろう。



「ねぇ、ヤバいクスリだったからあんたはやらなかった、そういう事なんじゃないすか」



「何をもってしてヤバいのかは分からないけど、あのクスリには身体的な依存性はない。でも、人は気持ちの良い方にすぐ転んでしまうから怖いよね」



「……あんた、本当…」



「そう怖い顔しないでよ。楽しんだでしょう? 気持ち良かったでしょう? あーいう遊び方を覚えるのも良いもんじゃない。良い暇つぶしじゃないかな」



この人は普通じゃない。タカオもそれはすぐに察知したらしい。ぐっと唇を噛んで、それ以上言い返すのをやめた。同じ世界に住んでない人間に、あーだこーだと自分の価値観を述べても無意味だ。


欠伸をひとつする。家に帰りてぇなと思うものの、体は言うことを聞かなかった。疲労困憊、腰も痛いし、頭も痛い。吐き気は少しはマシになったが、まだ軽く目眩がする。起き上がる気力は皆無だ。俺がぼうっと天井を眺めていると、タカオが椅子から立ち上がったのが見えた。



「蘭が起きたら一緒に帰ります」



「分かった。君は蘭くんが好きなんだね」



タカオの眉間には一瞬皺が寄せられ、白川さんはそれの表情の変化をしっかりと見ていた。タカオが一方的に牙を剥き出しているだけで、白川さんは余裕に躱して楽しんでいるようだった。タカオは無視を決め、水を握ったまま俺が横になっているソファの下に座ると、クッションを抱えて不機嫌そうに携帯を触っている。白川さんはそんなタカオを見ながら、ふっと笑って雑誌を読み始めた。


静かな空間だった。扇風機の音、風鈴の音、雑誌を捲る音。柔らかい風にまた、うとうとと目蓋が重くなる。そうして俺はいつの間にか眠っていた。再び目を覚ました時、部屋は薄暗かった。カーテンは少しだけ開いており、そこから光が射している。薄暗い部屋は頭痛を軽減させた。上半身を起こし、枕元にあった水を飲む。そこに一緒に携帯もあった。今何時だろうか、春仁から連絡はきているだろうか、そう気になって手を伸ばそうとした時、「良く眠れた?」 そう白川さんは口角を少しあげて、読んでいた本を閉じた。



「はい、…すみません、寝過ぎました。だいぶ体も楽になりましたし、すぐ、帰ります」



「アハハ、いいよ、気を使わなくて。どうせ僕ひとりだし、今日は休みだから」



白川さんはそう言って微笑むと、「何か飲むかい?」と首を傾げている。はい、と頷いて上体を起こすと、白川さんは冷蔵庫を開けながら顎を撫でた。



「二日酔いには何が良いだろう。水もあるけど、さっき吐いてたからね、少し、塩分とか糖分とか摂るべきだよね。スポーツドリンクが良いのかもしれないけど、そんな物ないしなぁ。あるのは、オレンジジュースと、緑茶と、紅茶と…」



「水で良いですよ」



「そう? じゃぁ、はい、コレ。何か胃に入れたら? お腹は空いてない? さっきコンビニに行って来たから色々あるよ。おにぎりに、パンに、あ、オススメのチョコレートもある。あとカップ麺と、…」



薄暗い部屋で俺は白川さんから水を受け取り、テーブルに広げられたコンビニの食べ物を見下ろす。床では布団の上にまだ蓮司さんが寝ていて、タカオはソファに寄りかかりながら眠っている。起こさないようにダイニングのイスに座り、「あまりお腹はすいてないので」、と断ると、「食べておくべきだと思うよ、遠慮しないで」と微笑まれる。この人の仮面が分からない。怖いのに。警戒すべき相手なのに。本当はすごく優しい人なのでは、と呑気な頭が考えてしまう。



「じゃぁ…これ、頂きます」



手に取ったひとつのおにぎりを見て、白川さんは嬉しそうに微笑むと温かい緑茶を急須から注いで、湯呑みを俺の方に差し出した。



「これも、どうぞ。おにぎりと緑茶は、定番じゃない?」



この人はずっと気に掛けているような口ぶりだった。世話焼きなのだろうか。



「ありがとうございます」



一口飲んだ。温かいその緑茶は、空っぽの胃をゆるゆると温めて満たした。温かい物を腹に入れるととても安心してしまう。不思議なものだ。



「僕もお腹空いたし、たーべよ」



白川さんはいかにも甘そうな、ホイップクリームがぎっしり詰まった菓子パンを手に取って食べだし、俺はその選択が意外すぎて目を見開いてしまう。甘党なのかなとその食べる姿を見ながら思った。



「今、何時ぐらいですか」



「3時過ぎかな」



「カーテン開けたら眩しいかなと思って、閉めてたけど開けようか? 遮光カーテンだから部屋の中暗いよね」



「あ、いえ、まだ3時なんすね。すごく長い時間、寝た気分だったんで」



「ふふ。うん、まだ3時少し過ぎたところ」



「そうなんすね」



食べ終え、「ご馳走様でした」と伝えると白川さんはまた優しく笑う。



「好きな物、食べてね」



この人は怖い。でも圧がない。空気が柔らかい。だから春仁みたいだと思ってしまうんだろうな。危険だと分かっているはずなのに、それでも表向きの優しさについ、心を許してしまいそうになるのは人の性ってものだろうか。白川さんの事を知りたいと思ってしまうのは危険な事だろうか。


その時、「げ、もうこんな時間かよ」 そう目を覚ました蓮司さんが舌打ちをしている。タカオも目を覚まし、周りを見て俺と目が合うと、すぐに視線を逸らした。気にしてんだろうな、きっと。



「どーしよ。シロー、寝過ぎちまったじゃないかよ。起こしてくれよー」



「おはよう」



白川さんは騒がしい蓮司さんに水を渡し、蓮司さんは「サンキュ」と蓋を開けて豪快に飲んでいる。相当喉が乾いていたのか、あっという間に飲み干してしまった。



「何か用事があったの?」



「いや、特にはないんだけど。今日を無駄にしたなと」



「まだ3時じゃない。ゆっくりして行きなよ」



「おう。あんがと。あー、てか、昨日の記憶ほっとんどないわ。頭も痛いし、まじなんなんだよー」



「昨日の記憶ないの?」



少し驚いた顔をした白川さんは、胡座をかいて口をへの字に曲げている蓮司さんを見下ろした。



「あのタブレットを飲んだとこまでは覚えてるけど。そっから覚えてないねぇ。でもすっげー気持ち良かった事だけは覚えてる」



「蓮司らしいね。でもさ、それなら、頬が腫れてる理由は覚えてない?」



白川さんにそう言われた蓮司さんは、顔色を変えて、近くにあった姿見を覗き込んだ。自分の頬に見事なアザが出来ているのを見て、絶句している。驚きが強すぎて痛みなんか感じないのかもしれない。タカオに殴られて、ヤられるだけヤられたのに、この人は何ひとつ覚えてないらしい。



「ドーランで隠れると良いけどね…」



「……まじ、やば」



モデルだと言う蓮司さんにとって顔にアザは致命的で、白川さんの言葉なんて耳に入っていないようだった。



「ヤバイよな? かなり、ヤバイよな? おいおい、3日後、雑誌の撮影あんだけど。てか、なんでこんなことになってんの? 誰か殴った?」



蓮司さんはかなり慌てた様子だった。そりゃぁ、焦るだろう…。目が覚めたら顔が腫れているのだから。殴った張本人を見ると、予想外にも平然としていて、何食わぬ顔で蓮司さんをじっと見ている。



「本当に覚えてないんだね。…そのケガね、蓮司がコケてついたものだよ? ほら、酔って、ウォッカのビンにさぁ、顔面からどーんと」



白川さんの嘘を、蓮司さんは眉間に皺を寄せて聞いていた。しかしその皺はすぐにゆるりと消え、蓮司さんは頭を抱える。



「俺、阿呆すぎるじゃん。やべぇな、記憶が全然ないしよー。絶対怒られるじゃねぇかよー」



白川さんがなぜ嘘をついたのか。タカオを庇う為? だとしたらなぜ? もしくは単純に争い事を避けるためだろうか。分からないが白川さんは嘘をつき、蓮司さんはそれを信じた。



「じゃぁ、俺、そろそろ帰ります」



白川さんと蓮司さんのやり取りを見た後、タカオは立ち上がった。立ち上がるとうんの伸びをしてから、椅子に座っていた俺を見下ろす。さっきは分かりやすく外された視線に、俺の心臓はひくりと反応した。目が合うと、あの出来事が生々しく蘇る。やはり少しの気まずさってのはあって、それは視線をわざと外したタカオも感じている事だろうと思った。



「蘭ちゃん、一緒に帰るでしょう?」



「あ、あぁ、…そうだな」



つい動揺が声に出た。タカオはいたって普通なのに、いや、上手く隠しているのに、俺は少しぎこちなく、顔にも声にもその動揺が出てしまう。



「俺も帰ります」



白川さんにそう言うと白川さんは「家まで送って行くよ」と車の鍵を手にしたのを見て、タカオは「駅まで遠いんすか」と食い気味に反応した。



「最寄り駅までだと、徒歩20分、ってところかな。少し離れてるんだ」



「最寄りどこですか」



「地下鉄の水ノ蔵前だよ」



「あー、なら、俺は電車で帰ります。蘭ちゃんは?」



自分がいる場所もよく把握していなかったが地下鉄なら乗り換えてわりとすぐに帰れる、が、もちろん車の方がそりゃぁ魅力的だった。ここから駅まで20分歩いて、電車乗って、乗り換えて、また駅から家まで歩く。正直しんどい。しかし、電車で帰ると言い張るタカオを無視して、白川さんの車に乗って帰るわけにはいかなかった。それに白川さんとふたりっきりになるべきではない。



「タカオが電車なら俺も一緒に電車で帰ります。最寄り、一緒なんで」



そう断ると白川さんは「そう」と微笑んで鍵を元にあった場所へと戻す。



「じゃぁ、エントランスまで送るよ」



その言葉にタカオはまた食いつくように、「大丈夫です。ご心配なく」と感情をただ漏れさせる。



「あ、そう? じゃぁ、ここで。エントランス出たら右に曲がって、ずーっと真っ直ぐ行けば賑やかになるから、そうしたら駅の看板出てくるから分かると思うよ」



白川さんは困ったように一瞬だけ笑った。



「ありがとうございます」



気まずくなって俺はそう礼を伝えるが、タカオは何も言わず玄関まで足早に進む。白川さんは俺達を玄関まで見送ろうと後ろからついてきて、蓮司さんは布団の上で、「またなー」と顔の怪我を鏡で見ながら言葉だけを投げた。タカオはそそくさと玄関のドアに手を掛ける。別れ際、「いつでも来てね」と白川さんは柔和な笑顔と優しい口調で言った。いつかまた来る事になるのだろうかと、俺はその時ぼんやりと考えていた。



「はい。では、また」



「うん、じゃぁね」



ヒラヒラと手を振る白川さんに見送られ、俺達はそこを離れた。マンションの一室だった。部屋を見て思ったが、家族向けに作られていそうな広い部屋だった。立地も駅からは少し遠いが、決して悪くない。ひとりだと言っていたから一人暮らしなのだろうが、彫師ってそんなに稼げるのだろうか。不思議な人だった。


マンションは10階まであり、周辺の中では1番高い建物だった。白川さんの部屋は8階。エントランスに下りると、小さな子供とその子の母親らしき女性とすれ違う。やはり家族で住んでいる世帯が多いのだろう。そこから20分ほど駅まで歩き、タカオはずっと眉間に皺を寄せていた。何も話してはくれなかった。何かを言いたいのか、否か。こいつもこいつで思う事があるらしい。一見普通に見えたが、そうじゃないらしい。


無言を貫くタカオを見ながら考えていた。昨日言った言葉は本心か、それとも冗談だったのか。そう考えている俺の横で結局タカオは何も言わず、聞かず電車に乗り込んだ。しばらく電車に揺られる。その間もタカオは口を閉ざし、何も話そうとしない。俺から何か言うのも違う気がして、チープな作りの車内広告を眺めて時間を潰した。電車を乗り換え、しばらくまた揺られる。最寄り駅手前、タカオはとても緊張した顔をしていた。顔が強張っていた。



「あの、さ。このあと、少しだけ、話しがしたいんだけど時間ある?」



そう小さな声で尋ねた。



「あぁ」



頷くとタカオは少し微笑んでから、また外を眺めた。そこから会話は全くなかった。駅に着き、タカオと近くのカフェに入るまでの間は時が止まったように長く感じた。タカオは一体、何を話すのだろう。


窓側のカウンター席、道行く人を眺めながらタカオと並んで座った。アイスコーヒーを飲みながら、タカオをちらっと横目に確認する。隣に座るタカオはアイスコーヒーを飲まず、じっと見つめていた。穴が開きそうなほど、ただ、じっと。



「あの、さ」



ようやく口を開いたタカオは、まだ俺を見ずにアイスコーヒーを眺めていた。



「うん」



「昨日は、本当に、ごめん。…ごめんなさい」



予想外だった。ごめんなさい、と簡単に謝られてしまう事が。タカオは俺に暴力を振るったと思っているのだろうか。あれは合意の上の行為ではなく、レイプだったと。散々ヤった後で、本気だと、告白した事には触れないのだろうか。こいつは今、何に対して謝ったのだろう。



「謝られるとは思ってなかった」



そう素直に答えると、タカオはようやく俺を見た。



「でも、あれはほぼ…アレだったから」



あのセックスはほぼレイプだったから、という言葉は指示語に置き換えられる。周りに人もいるし口にだせる言葉ではないかと、俺はタカオを見つめたまま口を開いた。タカオの表情は苦しそうである。



「強引は強引だったけど、抵抗しようと思えばできたろ。俺、そこまで弱くねぇよ。悪いけど、お前相手なら簡単に上を取る事もできたと思うけど」



あまり思い詰めないでくれ、という意味を込めてそう伝えると、タカオは「そうなんだ」と少し安堵した様子を見せる。少しの間を置いて、タカオは首を傾げた。



「でも、それなら蘭ちゃんはなんで最後まで抵抗しなかった、の?」



「なんで、って。理由は特にねぇよ」



「そう、か。そうだよな。ハイになってたもんな。…なぁ、蘭ちゃんは昨日のこと、もちろん全部覚えてるよね?」



タカオは気まずそうに眉間に皺を寄せて眉を下げる。



「覚えてるね。お前は記憶が消えちまえば楽なのに、って思ってんのか」



そう言ってやるとタカオの表情は少し驚いたようだった。それから迷ったように顔を顰めた後、溜息を吐いて頭を掻く。



「蓮司先輩だよね? 俺にクスリ飲ませたの」



あ、そうだったと俺は思い出した。タカオは嫌だとあれほど拒絶していたのに、蓮司さんがしれっとタカオに飲ませたんだ。俺は「そうだな」と頷くと、タカオは呆れたように鼻で笑った。



「蓮司さんと関わると碌な事がない。…俺、あんな風に蘭ちゃんを抱くつもりなかったんだよ? 言い訳だけどさ、蘭ちゃんには何も言うつもりはなかったし、もちろん手を出すつもりもなかった。なのに結果はアレ。はぁ、本当、どうしようもねぇよな。蘭ちゃんも先輩みたいに、酒飲んで何もかも簡単に忘れることができたら良かったよな…」



タカオは昨日の事を無かった事にしたいらしい。なるほど、と俺はストローでコーヒーを飲みながら少し考えて口を開く。



「じゃぁ、忘れてやろうか」



俺の言葉にタカオは「え?」と目を丸くした。



「別にお前とヤった事は気にしてない。それが本音だよ。だから、忘れて欲しいなら忘れるし、お前も深く考えなくて良い。ただ、問題はそこじゃねぇよな? セックスだけが問題なら何も問題はないんだよな」



静かな声で淡々と伝える。タカオはぎょっとしたように表情を歪ませ、動揺したらしかった。少し沈黙を作った後で俺を見る。



「そう、だよな。覚えてるよな。でも負けを知ってるから答えは要らない。……なんであの状況で告っちまうかなぁ、俺」



「酒とヤクのせい、だろ?」



なにもかも酒とヤクのせいにして逃げ出そう。そうすりゃぁ楽だから、というのはきっと俺自身に言い聞かせる言葉だろう。タカオはその言葉を聞いてふっと笑う。

 


「酒とヤクのせい、か。そうだね。でも俺は確かに蘭ちゃんが好き。それは酒のせいでも、ヤクのせいでもない。だから側にいたい。このまま友達でいてくれない、かな? 無理なお願いかもしれないけど」



タカオは叱られた犬みたいだった。後悔が顔に表れ、哀情が姿勢に表れ、耳と垂れ下がる尻尾が見える。



「分かった。妙な関係になるな?」



「ただヤっただけなら酒の過ちだって言い逃れ出来るけど、本心伝えちゃったらね、逃げられないよね。そこの部分だけ記憶消えれば良いのに」



「お前がそう思うんなら消してやりたいんだけどなぁ。しーっかり覚えてんな」



「ですよね。ごめんな。気ィ、使わなくて良いからな…」



「使うつもりねぇよ。まぁ、ただ、こいつは俺の事好きなのかなー、と常に思う事になるけど」



揶揄ってやるとタカオはようやく表情を緩め、「いつまでも蘭ちゃんの事を好きだと思うなよ」と、笑って言い返す。そうだな。それもそうだ。



「ふふ、だな」



静かな沈黙が少し流れた。タカオの緊張はほぐれていて、それは表情からも、行動からも見てとれた。アイスコーヒーを飲みながら、タカオは外をぼーっと眺めて口を開く。



「俺ね、モデルやってたのね」



「そう、みたいだな。蓮司さんが言ってたよな」



「モデルで食っていこうって思ってたくらいだった。けど先輩に出会ってドラッグやって、ハマって、全ておじゃん。事務所にバレてクビになってモデルやめさせられたのにまた繰り返した」



タカオは自分のことを初めて話した。蓮司さんがタカオの人生は波乱万丈だと言っていたが、どうやらその通りのようだ。しかしその波風を立てているのは、蓮司さん本人だった、という事になるのだろう。だからふたりの間には確執があるのだろう。



「先輩はね、バカでアホで、とんでもない快楽主義者でド変態だけど憎めない人なんだよ」



でもタカオはそう少し切なそうな顔をした。蓮司さんに対して恨みが100%というわけではないらしい。



「扱いを間違うと、こっちも地獄行きだって分かってるのに、つい、流されたくなってしまう。危険だけどさ、あんな見た目してたら、そりゃぁ近寄りたくなるわけで。自分には振り向かないって分かってるんだけど。…だから、蘭ちゃんもね、少し、少しだけ、先輩に似てる」



「は? どこが?」



俺が、あの金髪黒眉に? 何故? どの辺が? と頭にハテナマークをつけているとタカオはへらっと目尻を下げた。



「見た目じゃねぇよ? なんていうのかなぁ、俺に優しくて、ノリが良くて、一緒に騒いでくれて、…でも決して深くまで入りこませてくれなくて、俺に興味示してくんないとこ」



タカオは蓮司さんをそんな風に見ていたのかと、少し驚いた。あれだけ嫌悪しているように見えていたが、昔は純粋に慕っていたのだろうか。だからこそヤクにハマって、全てが終いになったのが悔しかった。それをそそのかした相手が蓮司さんだったから。そういう事、だろうか。俺に興味を示してくんないとこ。その言葉からも、こいつは蓮司さんが好きだったんだろうな。



「…そう、か」



「ごめんごめん、なんか、深妙な感じになっちまったわ。けどさ昔っからそういうとこあんのよね、俺。自分には絶対振り向かない相手を好きになってしまう、というか、なんというか。まぁでも蘭ちゃんとは良い友達でいたいから。嫌わないでね、俺の事」



タカオは弱々しく笑った。



「嫌わねぇよ。嫌う要素ないだろ、今ンとこ」



「ふふ、今ンとこなくて良かった!」



しばらく他愛もない会話をしているうちに、タカオの緊張は完全になくなり、妙な空気も消え去っていた。時刻を見て、タカオはそろそろ帰るかなと席を立ち、俺も一緒にカフェを出た。


帰路に着きながら考えていた。タカオは俺が春仁に抱いてる感情に気付いているし、否定し続ける俺以上に、その感情が何かを理解していた。だからあっさりと友達だと身を引いた。つまり、春仁に対する感情がダダ漏れているのだろうか。俺はこうしてうだうだと長い事悩んでいるが、春仁は俺をただの友達としか思っていないのだろう。もし俺がお前の事が好きだと溢してしまったら、驚くかな。そりゃぁ、驚くか。男が恋愛対象だったのか、という理由で驚くのだろうな。


春仁はどんな人が好みなんだろう。どんな風に人を抱くんだろう。また良くない方に感情が転がっている事に気が付いた。あいつとは友人だと言い聞かせ、感情に蓋をしては窮屈で。無性に春仁に会いたくなった。会いたいと思ってしまえば我慢なんて出来ず、携帯を手に取ってしまう。



『今夜、飯行かないか』



そうメッセージを送った。こうしてあいつからの返事をソワソワしながら待っているのだから、春仁がただの友人なんて何をどうしたって無理があった。あいつからの返答に俺は一喜一憂してしまうのだから、友人だなんて無理がある事くらい分かってる。分かってはいるがどうしようもない。この関係を壊したくないのだから。


春仁から返事は来ず、俺は携帯をポケットに突っ込んでゆっくりと家に帰った。家に着いてすぐにシャワーを浴びる。体の至る所にアザや切り傷、擦り傷がいくつもある事に気が付いた。昨日は酔っていたとはいえ、意識ははっきりしていたはずだった。確かに何度か寝落ちてしまっていたが、こんな傷を負うような事をしたろうか。鎌鼬の被害にあった気分だった。どうやってついたか分からない無数の傷に、ボディソープは死ぬほど沁みた。まったく、これだから酔っ払いは嫌だ。大きな溜息を吐きながら左の内腿に視線が止まる。指を食い込ませた鬱血痕がそこにはくっきりと残っていた。これはタカオじゃない。


その時ふわっと香った甘い香り。髪から香ったようだった。ひくりと体が反応した。髪を、体を、念入りに洗った。 赤くなるまで洗った。沁みてもまだ洗い続けた。白川さんの匂いを取らなければならないと必死になっていた。あの人の側は危険だ。


しばらくシャワーを浴び続けた。浴室を出ると蒸気がブワッと外へ逃げ、タオルを腰に巻いて部屋のクーラーをつける。冷蔵庫から水を取り出して、勢いよく流し込むように飲んだ。涼んだところでジョガーパンツを履き、Tシャツを着る。その時、ヴーとバイブ音が響いた。テーブルに置いていた携帯を手に取って確認すると、春仁からのメッセージだった。


『行きたい! 今、サークルが終わったからこれから向かうけど、どこに行けばいい? 桜ヶ丘で良い?』



『桜ヶ丘駅にしようか。いつものとのろで待ってる』



『分かった!どこで食べる?』



『いつもの居酒屋はどう?』



『了解! 20分くらいでそっちに到着予定だよ』



『南口で待ってる』



『はーい!』



よしっ! と心の中でガッツポーズを決めると、携帯をポケットに突っ込んだ。やっぱり春仁に会えると思うと心底嬉しくなってしまう。嬉しいだけじゃない。なんだかすごく安心するのだ。あいつは俺にとって精神安定剤みたいなものかもしれない。妙に安心させられるのは、昨日の今日だからだろうか。平気だと思っていたが、じわじわと効いてるらしい。何か踏み込んではいけない世界に足を突っ込んだような気がしてならない。だからこそ、平和人間の春仁に会って癒されたいのかもしれない。ただ会うだけで良い。側にいて、飯を食って、他愛もない話ができれば、それで良い。


駅に着き、錆びた案内掲示板に寄りかかりながら春仁を待った。春仁は人混みの中、頭ひとつ分出ているから分かりやすい。相変わらずデカい。背が高く、体格も良い。白くてデカくて人間に尻尾を振りまくるサモア犬みたいだった。俺を見つけると分かりやすいくらいに明るい笑顔を撒き散らして、俺の目の前までやって来た。



「久しぶりー!」



嬉しそうな顔を見れただけでも幸せだと、つい口角が緩んでしまっていた。



「久しぶり」



春仁はえへへと愛らしい笑顔を見せながら、「本当、今日は丁度良かったよ」と隣に並びながら呟いた。



「暇してたのか?」



「うん! 泊まらせてもらおうかと思って、連絡しようと思ってたんだ!」



「それは良かった」



そう微笑んで言うと春仁は、えへへとまた笑っている。ふたりで世間話しをしながら居酒屋に入り、ビールを頼んで乾杯する。ジョッキを当て、お疲れ様と乾杯をひてビールをぐいっと飲んだ。昨日も散々飲んだが、春仁と飲める酒は格別だった。目の前でへらへらと、屈託なく溶けていく春仁を見れるのだからこれほど至福な時はない。



「何か飯頼むだろ? 何にする?」



「えっとねぇ」



春仁はメニューを捲り、いくつか食べたい物を店員に注文した。すぐに頼んだ揚げ豆腐やササミやサラダなど、低カロリーでいかにも健康に良さそうな物が並べられていく。春仁らしいな、食べ物にかなり気を使ってんだろうなと思った矢先、味噌カツと唐揚げ大盛が目の前に現れ、俺はその量の多さにぎょっとした。気を使っていたわけでは、ないらしい。こいつはただただ、食べたい物を頼んだだけだ。



「唐揚げいただきます」



春仁の食べる姿を見ながら俺もひとつ、熱々の唐揚げを口の中に放り込んだ。春仁は幸せそうに食べている。上品に食べているつもりらしいが、一口が大きく、食事中のシロクマみたいで愛らしい。いや、モフモフのサモア犬?いや、これはどう見ても、シロクマだな。



「蘭は最近どうなの?」



最近、という言葉は昨日の出来事を思い出させ、言えるわけがねぇなとつい動揺してしまった。



「あー…最近ねー」



何と答えようかと春仁から視線を外し、食べたくはなかったが唐揚げをつついて食べた。



「特に変わった事はないかな…」



ちらりと春仁の目を見ると、春仁は目を細めて「そっかぁ」と少しだけ笑った。 何を思っているのだろうかと、俺はまた視線を外して唐揚げを口の中で砕いて飲み込んだ。少しの沈黙があり、春仁は何も言わず、ただビールを飲んでは揚げ物を食べている。


何か適当に答えるべきだった。特に何もないなんてそんなわけないだろうと、不審に思われて当然な回答だった。かと言って何を答えるべきだった?


学校の事? 学校で出来た新しい友達? タカオ? いやいやいや、ダメだろ。でも何か言うべきだったよな。無愛想な感じがするもんな。つまらないやつと思われたくないんだけどなと、あーだこーだと後悔する俺に春仁は、「学校はどう?」と首を少し傾げた。



「あー…うん、楽しくやってるよ。最初怖がられて誰も話しかけてくんなかったけど、今は割と楽しくやってる。派手なやつが多くてさ、ファッション系だなーってつくづく思うよ」



「そっかぁ、そうだよねぇ」



今度は上手く答えられたろうか。春仁は「ファッション系ってカッコいいなぁー」と褒めては笑った。



「学校に読者モデルが何人かいてさ。そいつらは何着てもカッコいいからスゲェよ」



「へぇー! モデルいるんだ。そりゃ凄いや」



俺は春仁の返答を聞いて話題を変えようと、明日は休みかと訊ねる。春仁はうん頷いた。



「なら、DVDでも借りて見ない? 気になる映画あってさ」



「蘭が気になる映画? なになにー?」



「この前テレビで特集されてたんだよ。90年代の映画特集みたいなやつでさぁ、サスペンスもので、あのー有名な渋いハリウッド俳優が出てるやつでさ、なんっていったかなー…豪華なキャストで、映画に詳しくない俺でもちょっとテンション上がったんだよ」



「あれね! 分かるよ! 僕もテレビで特集見た! 題名忘れちゃったなー。でもあれすごく怖そうだったよね?」



「ホラー系の怖さではないけど、人の怖いところを突いてるって感じだよな」



「そうだね! サスペンスかぁー。謎を解いて最後には…って展開、期待しちゃうな。ねねね、もう一本はさファンタジーにしない?」



「うん、もちろん。お前、怖いんだろ」



「こ、怖くはないけど! ファンタジーで中和しないと夜眠れないとか、な、ないから!」



「あ、そう。夜眠れないんだ?」



笑ってしまった。俺は春仁の苦手なものを発見したらしい。怖いものはダメなのか。子供みたい。春仁は眠れるよ! と否定しながら口を尖らせた。



「なんか目ぼしいファンタジー映画でもあるのか?」



「あるある! イギリスの森をテーマにミュージカル調でね、すっごく画が綺麗なんだ。ほぼCGの幻想的なやつ」



「あー、あれ、面白そうだよな。コミカルなやつだよな?」



「そうそう! もう出てるかな?」



「出てんじゃねぇの」



「じゃぁ、それにしよ! それはかなり見たい!」



春仁と飯の後の事を考える。何が見たい、何が面白い、何が好き。酒を飲んで美味い飯を食って、春仁とダラダラと話をする。それがどれほど価値のある事か。どれほど俺にとって幸せな時間か。目の前にいる春仁には気付かれないよう、そう春仁との時間を噛み締めていた。やっぱり、春仁は良いなぁ…とその顔を眺めては想いを募らせた。


店が少しずつ混み始め、店内が徐々に騒がしくなった。隣の4人掛けのボックス席に、2人の派手な男が通された。ひとりは黒髪で前髪が長め。でもオシャレだと感じるのは、軽くワックスで固められて後ろは刈り上げ、綺麗なうなじを露わにしているからだろうか。スッキリとした雰囲気で右耳の軟骨にピアスを開けている。シャツは少し派手めな和柄、黒字に鶴が散りばめられている。とはいえチンピラが着ているようなソレとは全く違う。最近、流行っている海外ブランドのシャツだろうと思った。シャツのセンスが好きだなと、少し気になって見てしまっていた。


もうひとりは雰囲気が柔らかそうな、線が細くて背の高い男であった。色白でサイドを刈り上げた茶髪のパーマである。丸いメガネをして、サブカル好きです、と顔に書いてある。雰囲気のまったく違う2人組は俺たちの隣の席に腰を下ろすとすぐにビールを注文する。やたらと大きな声で話してはゲラゲラと笑っている。



「そんでぇ、リカちんが、その後ナオキとホテル行ったらしいのよ」



「え、やばくね? リカちん、この前、岡野先輩とヤったって言ってたよ」



「いやーリカちんヤバすぎんの。まじ激しいわー。友達としては楽しいけど絶対恋愛に発展しねぇよな」



「恋愛なんか出来ないっしょ。他の男のとこ行きまくる女とか普通に嫌でしょ」



会話の内容なんて聞きたくはないが、こうも席が近く、大声で話されると聞こえてしまうのが苦だった。



「…ハル、なんか飲む?」



俺は賑やかな2人組を無理に無視しながら、空のジョッキグラスを顎でさし、春仁に尋ねる。春仁は「じゃぁ、蘭と同じのにする」と言って微笑んでいる。店員を呼び、レモンサワーを頼む。また春仁を見るが春仁は相変わらず楽しそうで、隣の事は気にならないらしい。うるせぇな、とか思わないんだな。悪態をつくとこも見たことないしな。春仁が誰かに悪態ついてるの、ちょっと見てみたいけどな。



「つーか、あいつ、遅くない?」



そう黒髪の刈り上げは時間を気にしていた。どうやら仲間が来ていないらしく、携帯を確認しては忙しなく入口を見ている。



「すぐ来るって言ってたけどね」



茶髪は携帯を見ながら酒を片手に返事をした。黒髪はそんな言葉なんて聞いていないらしく、電話をかけ始め、「おーい、待ってんだぞー! すぐ来るつったろー!」と電話相手にケタケタと笑いながら突っ掛かった。電話の相手と少し話し、会話を終えるとビールを3つ注文する。仲間がすぐ来るのだろうな。更に騒がしくなるだろうなと思うと俺のテンションは下がった。もうそろそろ出た方が良いか。でも、春仁はまだ美味そうに何かしらを食べている。この呑気な生き物は鼻歌混じりに、もぐもぐと何かを食べながらまたメニューを見ていた。こいつはまだ食うのか。本当にシロクマに見えてきて、愛らしさが増すばかりだった。可愛い。



「何か食べたい物あったのか?」



「うーん、悩んでる。一皿どれくらいの大きさかなぁーって」



「頼んだら俺も食うよ。だから好きなの頼めば良いだろ」



そう言うと、嬉しそうに「それじゃぁ…」と春仁は店員を呼んだ。春仁が頼みたいものは頼んでほしいよな。食べたい物は食べてほしいよな。春仁には笑っていてほしいからと思って微笑んでいた矢先だった。



「えっとー、この特製お好み焼きひとつと、豚キムチチャーハンと、串カツ5本セットお願いしまーす!」



春仁には笑顔でいてほしいけど、胃袋の大きさがえげつねぇ。俺は驚きすぎて、目を見開いて、口を一文字に閉じて春仁を凝視した。これはシロクマだな。サモア犬じゃない。デッカいシロクマだ。



「蘭は好き嫌い全然ないからありがたいよー」



「そ、そうだな」



酒を飲んで尚且つこの量の食べ物を胃に入れるなんて、どんな運動をしたらちゃらになる? 俺は少し苦笑いに近い笑みを浮かべていた。しばらくして春仁が注文した食べ物が来たのと同時に、「お連れ様は、こちらです」 と、背後で店員の声がした。刈り上げ2人組は仲間の登場にどっと湧いている。



「うぉー! めっちゃ久しぶりじゃん!」



「お前、変わらないなー! 相変わらずオシャレだし、男前ー!」



褒められる仲間は俺達に背中を向けて自分の席についた。通路を空けて春仁の隣、俺の対面側。どんなやつだろうかとちらっとそいつを見ると、 互いに目を見開いて固まった。



「タカオ…?」



「げ…え、うそ、蘭ちゃんじゃん」



かなり嫌そうな、気まずそうな顔をしたタカオがそこにはいた。一瞬にして騒がしかったその空間が驚くほどしんと静かになった。時が止まったかのようだった。タカオの表情も強張ったままで、俺も俺で何を言ったら良いのか、タカオを見上げたまま動けなくなった。刈り上げふたりは俺を下から上までじっくり見て、誰だこいつ、と言わんばかりの顔をする。タカオは焦った顔丸出しで、春仁はニコニコと笑顔で紹介されるのを待っている。こんな事ってあるんだな。昨日の今日ってのが気まずいよな。



「え、なに、知り合い?」



黒髪がタカオに尋ねた。



「あー…学校、一緒なんだ。同じ学科で、勝井 蘭、…蘭、こっちは、高校の友達の七瀬と藤野」



タカオはしどろもどろにぎこちなく、そう紹介しながら黒髪の七瀬と茶髪が藤野を紹介する。これは参ったな。一緒にいるのが春仁だという事が気まずさを増長している。さんざん春仁の事を聞き、俺の感情に気付いてる男がここにいる。とんだ状況だと、俺は頭を抱えそうになったが冷静なふりをして、ふたりに「はじめまして」と頭を軽く下げた。



「はじめましてー!」



騒がしい黒髪の七瀬は、にっと白い歯を見せて笑っている。俺はちらりと春仁を見た。春仁は相変わらず穏やかににこやかに、紹介されるのを待っている。こいつを紹介しないわけにはいかないのだ。



「こっちは中学からの幼なじみの春仁」



タカオの顔を見れず、俺は藤野と七瀬に紹介するようにふたりをまず見た。



「はじめまして、久保 春仁です」



春仁は愛想を撒き散らして笑っていて、俺は静かにタカオを見る。通路を挟んで隣に座っていたタカオは、春仁をじーっとしばらく見た後、俺を見て、分かりやすく片眉を上げる。へぇ。これがお前の。そう顔に書いてある。


顔をつい顰めてしまった俺にタカオは気にせず、「はじめまして」と春仁に挨拶をした。甘い顔をくしゃっと緩めて笑顔を作っている。



「はじめまして!」



春仁に人見知りという概念はなく、誰にでも話し掛けたいタイプの男だから俺は気が気ではない。タカオはもちろん全てを知っている。俺の抱く感情もそう、そして昨日の出来事もそう。別にやましい事はしていない。が、ただ春仁には知られたくない。



「えー、すげー世間狭くね? 偶然だろ? 偶然で、ここ座ったら知り合いいるとか、ウケんな!」



「春仁くんは、学生?」



藤野は首を少しだけ傾げて春仁に質問し、春仁は「うん」と頷いた。



「大学生?」



「そうだよ」 



「どこどこ?」



「明南大」



「まじ? 頭良いねー!」



「そんなことないよー」



春仁は藤野に質問攻めにされていたが終始ずっと笑顔だった。藤野も春仁と話すのが面白いらしく、俺達はそっちのけで春仁と話している。ちらりとまたタカオを見る。タカオはビールを飲みながら、藤野と春仁をいったりきたり視線を動かしている。


話しが弾んでる藤野と春仁の会話を聞きながら、俺はさっさとこの場を後にしたいと焦っていた。タカオが酔って良からぬ事をポロリと口に出す前に、さっさと帰りたい。帰りたいが急に帰るのはおかしな話しで、様子を伺うだけで帰るタイミングを逃し続けている。タカオは何も話さず、口を開かず、ただ酒を飲んでいた。何を考えているのだろうか。



「なぁなぁ、今日っておサルさん来ねぇの?」



無言でいたタカオに七瀬が突然そう訊ねる。タカオはビールを飲み干すと、空のジョッキをトンとテーブルに置いて「来ない」と一言。



「サトルは久しく会ってないからなー。お前はまだ会ってくれるけど、あいつっていつも忙しいだろ? なぁ、毎日何してんの?」



「んー、バイト? さっき家にいたけど、これからバイトだから来れないんだって。ごめん、って言っておいてって言われた」



「あっそうですかー。まぁ、仕方ないか。…あれ、でもあいつって本屋でバイトじゃなかった? こんな夜遅くまで開いてるの? 本屋って」



「夏の間だけ24時間やってる本屋の夜勤もやってるみたい。ほら、赤ノ内の駅前のあのデッカい本屋あるじゃん。一階がカフェバーになってる。あそこ、24時間やってるんだってさ。そんでそこの夜勤。真面目くんは金稼ぎも真面目だからね」



「働くねー。…てか昔っから不思議だったんだけど、お前らって性格真反対なのによくずっと一緒にいれるよな」



藤野の言葉に、へぇ、と俺は少し興味を引かれた。タカオがずっと一緒にいる友人か。タカオにもそういう存在がいて当然なんだろうけど意外だった。タカオが振り回してんじゃないのかな。それってただの友人なのかな。そうぽつりぽつりと考えていた。



「正反対の性格だから居心地良いのかなぁー。幼馴染だし楽だし。あいつ、俺の事、すげー好きだし」



そう思っていた俺の考えを肯定するようにタカオはそう屈託のない網を浮かべている。



「あいつ、ずっとお前といるもんなー。まぁ、次こそは来いって言っておいて」



「うん、言っておく」



タカオはそう流すとまたビールを注文し、ふと俺と目が合うと「蘭ちゃんは?」と空のグラスを顎でさした。



「あ、…じゃぁ、レモンサワーで」



タカオはきっともう、何も思ってないのだろうな。俺が気まずいと勝手に思ってるだけかもしれない。



「おふたりさんもルームシェアっすか?」



七瀬は突然、そう俺と春仁に訊ねた。おふたりさん“も”ルームシェア。つまりタカオはそうなのだろう。



「してないけど、…どうして?」



俺が答えるより早く春仁が答えた。



「タカオとそのーサトルっつー友達、高校卒業してから同棲してんすよ。ここら辺、家賃高いじゃないすか。だからふたりも同棲かな? なんて。なんかすげぇー仲良さそうだし!」



「同棲じゃなくて、ルームシェアな。ニュアンスが違う」



タカオは真顔でそう七瀬に言った。 七瀬は一緒だろと笑ってる。



「へぇー、ルームシェアかぁ。海外の大学生みたい!ちょっと憧れる」



春仁は相変わらずで、タカオはその言葉を聞いて、「まぁ、楽しいよ」と返事を返した。



「俺達が借りてるマンションも立地が良いから家賃高いけど、シェアだと全然払えるから。シェア良いよ、オススメ」



「そうなんだ!」



ふたりが案外普通に会話をしている事に安堵した。いや、当たり前なのだろうが、俺としては少し不安だった。春仁への想いを、タカオがぽろりと口を滑らせたりしないだろうかと。でもそんな事は起きず、他愛もない会話が広がる。七瀬の学校の話、藤野のペットの話、本当に他愛もない雑談のような会話。酒も入り、緊張も解れ、俺はトイレへ行こうと席を立った。



「…ごめん、ちょっとトイレ行ってくるわ」



春仁は「いってらっしゃーい」と手を振って俺を見送り、そのタイミングを見てタカオも立ち上がる。



「俺もトイレ」



タカオが後ろをついて来る。騒がしい店内を歩いていると、タカオは俺の後ろではっと笑った。



「びびったね」



「…だな」



「心臓止まるかと思った」



「偶然って怖いな」



「…あれがハルヒト君か、だいぶイメージと違う」



「どんなのイメージしてたんだよ」



「んー美青年? 蘭ちゃんがゾッコンになるような可愛くて綺麗な子?」



「可愛くて綺麗、ね」



「まぁーでも、綺麗な顔してるよね。デカイけど。姿勢とかめっちゃ良いし、癒し系って感じだし、可愛いか。ま、…デカイけど。つか、背、高くね? 俺も高いけど、俺より高いじゃん」



「ハハ、あれはデカイな」



「あーいうの、好みなんだ?」



「タカオ、…もう、よせよ」



飽きれたように笑うとタカオは目を細めて俺を見た。



「往生際が悪いな。認めてしまえば良いのに」



「あのなぁ…」



「なーんで隠すかな? 俺の事、怖い? 俺が、ハルヒト君に蘭ちゃんとのセックスぶちまけそうで怖い?」



どきりとした。タカオの悪戯っぽい笑顔と言葉に、俺は簡単に右往左往してしまう。こいつは本当に顔に似合わず相当な悪魔だ。トイレのドアを開け横並びになりながら、「普通に引かれると思うぞ」 と俺は溜息混じりに呟くと、タカオはふっと笑う。



「ストレートだから?」



「あぁ」



「案外、あの顔でへらへら笑ってるかもよ? わー、楽しそうー、とか言っちゃうかもよ?」



「だから…」



「じゃぁ、ハルヒト君に彼女できたら喜べんの? 前にも言ったと思うけど喜べないなら、いい加減自覚した方が楽なんじゃない?」



痛い所を突かれる。春仁のそういう一面を、こいつに突きつけられる度にひやりと怖くなる。タカオはもちろん、俺のその恐怖心を見抜いている。



「蘭ちゃんって分かりやすいな」



困っている俺を鏡越しで見ると、タカオは洗面台に寄り掛かって首を傾げた。



「でもさ、蘭ちゃんってけっこうアブノーマルだから、あーいういかにも普通な好青年じゃ満足できないと思うよ」



「話が飛び過ぎだぞ。そもそも、あいつと俺はそういう関係にはならないって」



「なーんで言い切れんの?」



「それは…中学からあいつを見てるから。あいつに男っ気なんてねぇよ。そもそも色恋の話も想像つかねぇけど」



「ふーん。じゃぁ、さっさと諦めてしまえば良いのに」



それが出来ていたらここまで苦労はしない、そう言いそうになった俺に、タカオはにやりと笑う。



「できない? 諦めるにはまず、それが恋愛感情だって認めなきゃいけないから?」



図星な事を言ってはまた困らせる。



「もうやめよう、この話題は。俺達はただの友達だろ? 詮索はなしにしてくんねぇかな」



「ただの友達とセックスはしないよ」



カフェでタカオは反省したような顔をしていたが、こいつの本性はこっちらしい。あれだけしおらしくしていたというのに、狐につままれた気分だ。



「お前なぁ」



「ま、しっかり自分と向き合うんだな」



タカオはそう言うと眉間に皺を寄せていた俺を残してさっさと手洗いから出て行った。席へ戻ると春仁の対面、俺がさきまで座っていた席には七瀬が腰を下ろしており、通路をはさんで隣に藤野がいた。藤野は体を春仁に向けて座っている。



「…てか、まじでヤバイ! それ、本当ヤバイ! 連絡先知ってんの?」



七瀬がギャーギャー騒ぎ、戻ってきたタカオに藤野がその騒ぎを説明している。



「七瀬のずーっと好きだった子、春仁くんと知り合いなんだって。春仁くん、バレエやってたんだってさ」



「へぇー、すごいねぇ」



タカオはそう目を丸くして驚いたように返事をする。タカオも別の席に座ると、ぐいっとビールを飲んだ。俺も春仁の正面を取られ、仕方なくタカオの隣、春仁のいるテーブルの隣に腰を下ろした。



「つーか写真とかないの?」



「あるよー」



「見せてくれ!」



「アハハ、いいよ」



春仁は携帯で写真を見せると、七瀬も藤野もぐっと顔を近付け、「うぉー」と低い声で唸った。



「やばー何これ、なんなの?」



「これはね、僕が辞める時にみんなで撮影したんだ。これが、七瀬くんの好きなキョウコちゃんね」



「こんなのに囲まれてたの?」



「んー? うん、そうだね」



へらへらと笑う春仁は、たぶん羨ましがられてることに気付いていないのだろう。



「ちょっとこれ、見てみろよ」



七瀬が俺とタカオにその集合写真を見せた。真ん中に黒いTシャツと、緩いスポーツパンツを履いて小さな花束を抱く春仁がいた。その両サイドには先生だろう、年配の女性と30代後半くらいの男性。後ろに女性が中腰で6人、その後ろに男性が2人と背の高い女性が2人並ぶ。七瀬が春仁の斜め後ろにいる女性をアップにして、「これ、キョウコちゃん。ちょー可愛いだろ?」と紹介する。



「小学校の時なんてさ、ずーっと一緒に遊んでたわけよ。中学からバラバラになったけど、家が近所だったから、たまーに会ったりしてさぁ。でも高校の時に引っ越しちゃって、連絡先もいつの間にか変わってて、しばらく自己嫌悪。でも、もー、どんどん綺麗になってくんだろーなーって、勝手に想いを寄せてもう7年目!」



「へぇー、ちょー可愛いじゃん」



「だろ、だろ?」



タカオが笑うと七瀬は嬉しそうにその子を眺めた。春仁はそれを見て、幸せそうに口角を上げている。



「キョウコちゃんは辞めてから連絡とってないから、連絡先合ってるかなー? あ、でも、キョウコちゃんの隣にいる子は仲いいから、その子に聞けば正確なの分かるかも」



「おー! まじか!」



春仁はその連絡先を知っているかもしれない子に連絡を取ると、案外あっさり返信がきたようだった。春仁は驚いた様子を見せ、そして「七瀬くん! キョウコちゃんも連絡先知りたいって!」と携帯のメッセージを見せた。七瀬は半狂乱に喜びまくり、それを見ていた藤野は腹を抱えて笑っている。3人が盛り上がってる中、タカオはふふっと笑って俺に耳打ちした。



「女友達多そうだねー」



こいつは不安を煽っては楽しそうである。それにしても俺は、本当に春仁の事を知らない。もしかすると色恋沙汰はかなり派手にあったのかもしれない。俺が知らないだけで、春仁は色々と経験があるのかもしれない。



「春仁くん、俺、この子がタイプ。この子、なんていうの?」



藤野が携帯に表示されたままのその写真を指をさして春仁に尋ねた。



「あーマリリンだ! アズミ マリカ。マリリンだよ」



「へぇー、マリカちゃん。綺麗な人だね。連絡先知らないの?」



「うーん、連絡先かぁ…」



春仁は一瞬眉間に皺を寄せる。タカオはそんな春仁を見た後で、その携帯を取って写真を食い入るように見つめた。しばらく見た後、タカオは頬杖つきながらその携帯をテーブルに戻して春仁へ口を開いた。



「ねぇ、もしかして付き合ってた?」



突然のタカオの言葉に俺は驚いた。春仁のあれこれなんて聞きたくねぇけど、そう耳を塞ぎたいが塞ぐ事は出来ない。だから俺の眉間にも皺が寄ってしまった。



「えー、なんで分かったの?」



春仁はあっさりと肯定し、なぜか途方もなくショックを受けてる自分にショックを受けた。付き合ってないよ、って言ってほしかったのだろうか。こいつだって男だろうが。彼女のひとりやふたりいて当然だし、今だっているかもしれない。けれどそれって、やっぱり堪えるな…。



「写真。ハルヒトくんの丁度真後ろにいる子が、その子なんでしょ? これ、ハルヒトくんの肩に手を置いてるよね? 仲が相当良かったのかなーって思っただけ」



「よく見てるねー! うんうん、仲はずっと良いよー」



これはなかなか聞きたくない話題だった。耳を塞ぎたいと、沈黙した俺にタカオはふっと笑っている。



「マリリンはすっごく良い子でー、優しくて、カッコいい子なんだ」



「今でも付き合ってるの?」



あぁ、どうしよう。聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。逃げたい。タカオの言葉に俺は焦り、春仁の顔なんて見れなかった。しかし春仁はそんな俺の事なんてお構いなしに口を開いた。



「ううん、付き合ってたのは中学校の時にちょっとだけ!ほんの4ヶ月とか、それくらい。でもでも、今でも仲は良いよ」



「……ふーん」



タカオはそう相槌を打ち、俺は安堵に溜め息を漏らした。中学校の時だけ、か。中学の時に付き合っていた女の子、今でも仲が良く、藤野が連絡先を知りたいと聞くと渋い顔をする。今でも付き合っているわけではないのだろうが好意はどうだ。春仁はその子の事が、まだ、好きなんじゃないだろうか。胸がキリキリと痛みだす。ナイフで切り刻まれるようで耐え難い。俺はそれを隠すように酒を飲んだ。



「あ、でね、藤野くん、このマリリン、今はロシアにいるの。だから連絡先教えたとしても、多分、会う事は難しいと思う。それに多分、彼氏いるっぽいし…、だから、ごめんね」



あ、なるほど。



「いやいや、謝らないで! でもそっか、ロシアかー! 俺もロシア行きてぇー」



「寒そうじゃね?」



「俺、寒い所平気だし」



「えー」



ふたりの会話を聞きながら、ホッと胸を撫で下ろすのも束の間、春仁の感情がどうかってのに対しては何も解決できてない。春仁の恋愛事情は昔から怖くて目を瞑っていたが、それはこいつが俺に傾くかもしれない、なんて驕りをどこかで待ち続けていたくて、その馬鹿げた期待を真っ向から決定的に否定させないよう、逃げ回っていただけ。俺は頭を掻いた。どうしようもねぇな。


散々質問攻めに合った春仁は隙を見つけて、「トイレ行ってきまーす」と席を立った。



「じゃぁ、俺も」



もうここを出たい。落ち着ける場所に行きたい。そう思いながら俺もそっと席を立ち、ガヤガヤ騒ぐ七瀬と藤野とやけに静かなタカオを背中に、春仁の後をついて行った。



「大丈夫か?」



そう前を歩く春仁に声を掛ける。その言葉は春仁に、ではなく自分に、の方が合っているのだが。



「え、何が?」



春仁は何も気にしていないのだから、大丈夫かと心配された事に対して驚いている。



「いや、質問攻めにされてたから。大丈夫かなと」



「ふふ、うん、平気だよ。ありがと」



わざわざ振り向いてにっこり笑う春仁を見てると、ギュッと心臓を握り潰されたような感覚がした。痛みが増す。どんどんと。耐えられなくなる前に離れるというのもひとつの手だろうが、その選択肢は今まであって無いようなものだった。春仁は用を済ませて手を洗うと、隣で手を洗っていた俺を見ながら、少し困ったように眉を下げた。



「蘭こそ、大丈夫?」



しまったな。心配されるほど、感情が顔に出ていたのだろうか。



「え? あぁ、うん、平気。昨日と今日と飲み過ぎて、少し眠くなっちまったのかも。でも、大丈夫。まだまだ飲み足りないし…」



「帰ろっか」



春仁はそう口角を上げると首を傾けた。心配させたよな。気を使わせたなと、俺は急いで平気だよと続けた。



「まだ時間も早いだろ。俺は本当に平気だから。だってハル、まだ飲み足りないだろ?」



「ううん。飲むならコンビニでお酒買って蘭の家で飲むから大丈夫。僕も少しゆっくりしたくなっちゃった。ね、DVD借りて帰ろっか」



春仁にそう微笑まれると、俺は何もかも、口を滑らせて言いたくなった。好きだと。お前の側にいて、独り占めしたいと。口が裂けても言えない言葉が次から次へと脳裏によぎっては、口をついて吐き出しそうになった。



「そうだな、タカオ達とはまた飲もうか。今日はもう、帰ろうか」



「うん!」



でも、ひたすらに我慢をするしかないのだ。席に戻り、俺たちはタカオに帰る事を伝えてその場を後にした。春仁とDVDを借りて家に帰る。



「ただいまー」



「ふふ、おかえり」



「うん。ただいま!」



いつまでこの感情を隠しているのだろうか。決定的に拒絶をされない限り、ずっと、ずっと隠し続けて苦痛に耐えるしかないのだろうか。嫌だなと、舌打ちをしそうになる。


春仁は俺の家に置いてあった自分の灰色のスウェットパンツと白いTシャツに着替えると、ソファに座ってビールを開けた。俺も楽な部屋着に着替えてテレビを点け、ビールを開ける。



「乾杯」



春仁はへらっと笑った。ビール缶をガチンと合わせて、一口飲んだ。



「居酒屋で楽しく飲むのも良いけど、やっぱり宅飲みは最高だねー」



「そうだな。すぐ寝れるからな」



「うんうん」



春仁はいつだって変わらず側にいてくれる。こうして酒飲んで、部屋で寛いで他愛もない会話をしてくれる。ただこれがいつまで続くのか、俺には分からないだけ。時限爆弾のようで俺は怖いのだ。



「蘭、」



春仁は突然俺の名前を名前を呼び、振り向くと優しく笑顔を向けられる。



「ん?」



「今日は楽しかったよ。友達を紹介してくれてありがとう」



律儀なやつだ。愛おしいなと俺は相好を崩した。



「偶然の出会いって、面白いよな」



「うん、そうだね。蘭の友達を知る事ができて嬉しかった」



「そ、そうか…」



「うんうん。蘭はあまり自分の事を語らないから。学校のことも、僕と会っていない時何してるかも。だから、知る事ができて嬉しかった」



確かに春仁には自分の感情を知られまいと必死になりすぎて、あまり自分の事を語らずにいた。俺が春仁と会っていない時に何をしているかなんて、こいつに言ってしまえばこいつは離れてしまうだけだろうから。べらべらと話せる事ばかりではないが、もう少し話した方が良かったらしい。



「自分では気付かないもんだな。話してないつもりはなかったが、これからはもう少し俺の話もするよ。けど結局は、俺がお前の話を聞く方が好きだからなぁ。色々と聞いてしまうのかもしれない」



「僕だって蘭の事を知りたいよ?」



春仁はビールを一口飲むと、首を傾げて俺を見た。俺の事を知りたいという言葉は心底嬉しい。だが、口が裂けても俺の本音を言うわけにはいかない。



「そ、そっか。…何か聞きたい事があったら聞いてくれ」



そう動揺しながら言葉を吐いた。春仁はその言葉を聞くとじっと俺を見た。穴が開きそうなほどで気まずくなる。



「なんだよ…」



「うん、何を聞こうかなぁって思って」



「そういう事か。別に何でも良いよ。…俺に答えられる事なら、答えるから」



「何でも?」



「あぁ」



春仁はまた柔らかな笑みを浮かべた。



「じゃぁ僕も知りたいな。蘭は昔、どんな人と付き合ってたのか。僕はさっきマリリンの事を話しちゃったから、蘭にも話してほしい。過去のそういうお話し」



「俺は…どうだった、かな」



マトモな色恋の話なんて俺にはなかった。だって、ずっと昔からこいつの事を考えて生きてきたのだから。誰かに恋をする事なんてないのだから。



「マトモに誰かと付き合った事ってないかもしれないな。いや、ほら、…俺、荒れてたから。誰も近寄っては来ねぇだろ、そういうやつに」



この年で誰とも付き合った事がない、だなんて引かれるかもしれないと俺は言ってすぐに後悔をした。荒れてた事を理由にしたが、それだって女と付き合わない理由にはならない。俺はきっとその焦りが少なからず顔に出ていたかもしれなかった。でも春仁は俺のその言葉に、「そっか」と呟くように返しただけ。特に引かれたわけではないらしく、春仁の口角が少し上がっているのが見えた。とはいえ少しの沈黙に気まずさを感じ、俺は焦ったように、「俺らって、恋愛話ししないよな」と沈黙を嫌った。



「そうだよね。僕ってまだまだ全然蘭の事知らないんだなぁー。これだけ長くいるのにね?」



「そうだな、それはお互い様だよな。俺はお前に彼女がいたなんて知らなかった」



俺もお前の事は知らない事ばかり。でも知ってしまう事の方が怖いから、知りたくないと耳を塞いでいただけ。だから俺達はこういう色恋沙汰の話は、互いに何も知らないのだ。



「でも中学の時のお付き合いなんてカウントして良いのかなー? マリリンの手しか握ってないもん!」



ちょっと拍子抜けした。あれほど聞きたくないと耳を塞いでいたこいつの過去の恋愛の話。けどそれは、ありがちなとても純粋で浅い関係だったようだ。だから俺は素直に安堵した。



「そ、そうなんだ。まぁ、中学ン時なんてそんなもんよな」



でも安堵したところで根本は変わらない。こいつが本当は今でも彼女のことを、という点も変わらず。



「うん、そんなもんだよねー。彼女作っても、ちょっと奥手になっちゃうし、どこまで踏み込んで良いものか分からないもん。女の子ってなんか触れたら壊れそうって思ってたし!」



こいつは男の俺を好きになんかならない。その根本も変わらない。自分の状況が何ひとつ好転する事がないのだと、結論付けるしかないように思えた。離れたくない、が、側にいる方が辛いと感じてしまうところまで来てしまっている。側にいる事ができればそれで良いと思っていたのに今はもう違う。



「そろそろ映画見ようか」



俺は話題を逸らすようにDVDを手に取った。



「うん!」



笑顔の春仁を見ると心底癒された。それはきっと今も昔も変わらない。でも、その笑顔は今後、誰に向けるのだろうかと考えてしまうのだ。



「まずは、こっちのサスペンスにする?」



「うん! もちろん! 内容が怖すぎたらファンタジーで記憶を塗り替えないといけないから」



「ふふ、そうだな」



春仁はビールを片手にソファに座ると、「隣くる?」と床に座っていた俺に尋ねた。



「いや、このままで良いかな。何か取って欲しいものあったら言って」



「うん」



春仁の長い足が横にある。俺はソファに寄り掛かりながビールを飲んでいた。映画は90分ほどで、起承転結がはっきりしていた。たしかに血みどろな怖いシーンというのはあったが、春仁でも平気な程度だったらしい。春仁は映画を気に入ったらしく、「おもしろー! 何あの展開!」と小さく拍手している。



「予想つかなかったなー。2本目、どうする?」



俺はファンタジー映画を手にしながら、後ろにいる春仁を見上げてそう訊ねると、春仁は「うーん」と眉根を寄せた。



「2本目はちょっと時間をおこう。今は少し、余韻に浸りたい」



「そうだな。そうしよう。酒、足りてる?」



「うん、足りてるぜ!」



「ふふ、ぜ! あの刑事の口調、真似た?」



「えへへ、すぐ影響受けちゃうタイプだから。あの刑事カッコよかったなー」



「そうだな」



「なんかまさに色男だったよね。黒髪をこう、ぴしーっと撫で付けてるのに、あの殺人鬼との乱闘シーンでその髪が乱れちゃってさ、けっこうボロボロになったのに、彼女には『参ったよ、帰り道に大きなライオンがいたんだ』って、さらーっとジョーク言ってしまうの。かっけぇーってなった」



「あの俳優、いつも甘めなキザな役やるよな。でも今回はその甘さよりも、カッコ良さが目立ってた。主人公の男臭いハードボイルドな刑事の良いパートナーって感じで良かったな。面白かった」



「あの俳優さん、ちょっと蘭に似てるよね? 褐色で黒髪で黒い瞳で」



「え、は? どこが? お前の目に俺はすっげぇ、ハンサムに写ってんの? それは怖いな」



「蘭はハンサムだよ!」



そんな堂々と正面を切って褒められるとは思わなかった。これだから春仁は怖い。天然な人間たらしとはこいつのことだ。



「肌が小麦肌で目が黒くて髪が黒いってだけじゃねぇか。俺はあんなキザな性格じゃないし、口も上手くないよ。ハル、眼鏡買ってやろうか?」



「えー! 似てると思うけどなぁー。僕には同じ類に見えるんだよぉ。あーいうハンサム系な黒髪褐色肌、僕は全部蘭に似てるなぁーって思っちゃう!」



「思っちゃう、ってあのなぁ…」



かく言う俺も白くてデカい癒し系は全部春仁っぽいと思ってしまうから、春仁の気持ちを否定はできないのだが。



「やっぱり目で追っちゃうよね、自分の好きなタイプって」



「…え?」



こいつはさんざん黒髪褐色がどうの言っておいて、好きなタイプだと言い出した。それは、どういうつもりで言ったのかと、俺は何も言えず、春仁の言葉を待つしかなかった。



「無いものねだりなのかなー? 昔っから、蘭みたいな健康肌っていうのかな、綺麗な日焼け肌、小麦肌ってすごく憧れちゃうんだよ。プラス、やっぱり髪は真っ黒で、瞳も真っ黒。カッコいいんだよねぇ」



そっか。好きなタイプ、と言ってもそれは色恋の話なんかじゃない。男として憧れる、そういう事。それでも嬉しいよな。好きだ、って言われるのはやはり嬉しいよ。欲を言うべきじゃないんだよな。



「確かに、俺はお前には持ってないものを持ってるわな。でも俺はお前の髪色も、瞳の色も、白くてデカいとこも好きだぞ」



憧れとしての好き、に隠された本音を俺は春仁に告白する。春仁は溶けたようなヘラヘラした笑みを浮かべて、「嬉しいー」と笑っている。今の言葉に恋愛感情としての好きが紛れてるなんて思わない。だから言えた事だった。春仁はソファから降りると俺の横に腰を下ろし、テーブルに広げられていたチョコレートをつまむ。



「ねね、蘭のタイプは? どんな人?」



春仁にそう面と向かって聞かれると、相変わらず俺は少し焦ってしまうらしい。



「そうなぁ…、憧れるのはやっぱデカいやつとか、かな? ほら、ロッド刑事の元相棒。あの俳優とか結構憧れるな」



その俳優は甘い顔をした元はモデルだった俳優で、背が高くガタイも良く、髪は春仁のような薄い茶色だった。



「へぇー! 意外! あの俳優って、典型的なアメコミヒーローに出てきそうだよね?」



「あー、確かに! 出てそうだな、ムキムキだし」



「ねー? ムキムキだよね。体脂肪率少ないだろーな」



「だろーね」



「ふふ、ねー」



春仁は楽しそうに話すと少し間を置いた。それからぐっとビールを飲むとまた口を開く。



「憧れとしての好き、も、恋愛としての好き、も、僕は結構好みがハッキリしててさ。ね、蘭は? 恋愛として好きな人もあの俳優みたいな人?」



「え、…え?」



バレてんのかと怖くなった。さんざんムキムキと言った後だから。でも春仁はすぐに訂正をする。



「あ、いや、つまりー、系統? ライトブラウンな髪色で色の白い綺麗系。あの俳優、元々モデルだよね? だから蘭はそういう見た目が好みかなーって」



「あー……そう、だな。うーん…」



そうだよな。男が好きなんだよね、とこいつが言うわけがない。俺は頭を掻いて少し悩んだ後、お前の事を言うのなら綺麗系より可愛い系だろうかと言葉を続けた。



「なんというか愛らしい人、かな。背が高くて、色白で、綺麗なライトブラウンの髪。そうだな、そうなんだろうな…。いやまぁ、別にそれに当てはまらなくても、良いんだせどさ。強いて言うならそうかもしれない。」



「へぇー」



春仁は俺の言葉を聞くと、そう呟いただけだった。やばい。何かマズイ事を言ったろうか。もしかして、男が好きだとバレた? それで容姿の特徴が春仁に当てはまっていてたから引かれた、のだろうか…。



「いや、その、さ…」



「隠さなくて良いよ。蘭って今、好きな人いるんだ?」



「な、なんで?」



春仁が怖い。見抜かれそうで、怖い。嘘をつく事もできない状況になってしまい、逃げ場なんてなくなってしまう。



「えー、だって今、そんな感じがしたよ? 誰かを思い浮かべながら、その特徴を言ってたって感じがした。違う?」



全くその通りだが、それが春仁だとバレて引かれたわけではなさそうだ。



「違うわけではない、けど…」



「そっかー、そうなんだ! 可愛い子なんだね? 写真ないの? その女の子の」



女の子、じゃない。春仁の頭はとことんヘテロ。俺がこいつの色恋に入る隙間は1ミリもない。俺が言った全てはお前の事なのに。……女の子、ではないのに。



「写真、ねぇなぁ…」



お前の写真なんていくらでもある。でも、それを見せてしまえば全てが終わるんだろうな。



「同じ学校の子?」



「いや、…そいつは大学生なんだ」



「へぇー! 何大?」



「あー何大、って言ってたかな。…俺もよく知らないんだよ。いつもバイト先に来てくれるんだけど、ちゃんと話した事なくて」



まるっきりの嘘。分かりやすいほどの嘘を春仁につく。



「バーのバイト? わー、バーにいる女の子って大人でカッコいいイメージ! 蘭にぴったりだね! ねね、もし付き合ったら報告してね!」



ズキズキと胸が痛んだ。ナイフで刺され、しかもその傷を抉られる。痛くて痛くて堪らない。



「え、あぁ、おう。……お前も作ったら言えよ。ちゃんと祝いてぇもんな」



痛ぇな…。春仁にとって俺はいち友人。分かってたはずだろ。だから自分の感情に蓋をして、否定をし続けてきたんだろ。これは、ただの友情だって、永遠と。でも、ひどく傷が痛む。そのせいで、自分の感情に否定ができなくなっていた。好き、なんだよなぁ。何があっても、どうしようもなく、好きになっちまったんだよな。


………嫌いに、なれたらどれほど楽なんだろうな。


春仁はその日以来、俺の家に一切泊まりに来なくなった。春仁が家に来たのはこの日が最後になった。その日から約1週間ほどが経ち、春仁は彼女を作ったらしい。感情を隠し通すことが出来て良かった。バレずに済んだ。こんな事になると分かってた。だから、あいつの友達でさえいれりゃぁ、それで…。


自分にとっての青春は、春仁と過ごした日々だった。だから俺は、この日が来るのを恐れていて、そしていざ、この日が来てしまうと、自分は何も出来ないって事を思い知らされた。俺は明らかに彼女のことを避けただろう。話題に出ることが正直嫌だった。春仁もきっとそれに勘付いていて、俺には彼女の話をほとんどしなかった。春仁と過ごす日はめっきり減り、日々を淡々と生きた。何もない日々を、ただ、淡々と。世界はとても簡単に色を失ったようだった。

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