5. 甘い香り

その人は相変わらず甘いお香のような柔らかな香りがした。俺にはあまり馴染みのない甘い香りだった。



「また、ここに来るとは思いませんでした」



「そう? まぁ、ゆっくりしてよ」



「クスリとかもうやらないですよ」



「ふふ、分かってるよ。大丈夫。だからそんな警戒しないでよ。久々に会えたんだ、楽しもうよ? ね?」



「…はい」



その人はあの日と何ひとつ変わっていなかった。相変わらず優しい仮面をつけて俺に微笑む。



「ねぇ、君、そういえばいくつになったの?」



「23です」



「という事はあの時、君はハタチだったんだね。若いなぁー。今は何をしてるの?」



「デザイナーのアシスタントをしてます」



「デザイナーって服の?」



「はい」



「そっか、似合うね」



白川さんと再会したのは学校を卒業し、就職してからだった。ハタチの夏にパーティーを抜け出して騒いだ以来会っていなかった人。妙なヤクをやって酒を飲んで、散々ヤりまくった相手。その人との再会は偶然だった。タカオとバーで久しぶりに酒を飲んでいたら、奥から名前を呼ぶ声がして、見てみると見たことがある顔があった。 優しそうに微笑むその顔は何も変わっていなかった。透き通るような白い肌と柔和な笑み。スーツ姿だったがすぐに誰か分かった。


あの夏、楽しそうにヤクを出した人。人をハイにさせ、強すぎるほどの快楽を覚え込ませた人。怖いと思った人。 春仁に似てるけど、全く違人。


春仁に彼女ができてから3年が経ち、俺の状況は何も変わってなくて、誰か特定の相手と付き合うこともなかった。そしてつい先日、そんな俺の耳にある噂が飛び込んできた。春仁が結婚するらしい、と。そんな中の再会だった。堪えた。胸に開いた大きな穴は塞がるどころかその噂によりもっと広がり、修復なんてできないほどだった。痛みはもう感じなかった。ただ忘れたかった。だから白川さんと会った時、少し運命を感じた。もう二度と会う事はないのだろうなとあの夏に思ったのに。危ない香りがする人だと、あの時痛感したはずなのに。酔っていたからついて行った、そう誤魔化したいが、誤魔化しは効かない。誘われて簡単に誘いに乗った。俺は、自ら白川さんを求めた。



「お酒は何が好き? ひと通りあると思うよ」



「なんでも」



白川さんの部屋には酒の瓶が並べられている棚がひとつあった。まるでバーだ。この人はよく酒を飲む人なのかなと、俺は並べられた色とりどりのボトルを見ながら思った。白川さんはその中からウィスキーを取り出し、心地の良い音を立ててウィスキーをグラスへ注いだ。



「乾杯」



グラスを寄せ、音を立てて乾杯する。白川さんは一口だけ飲んだ。



「…酒、好きなんすか」



そう尋ねると白川さんは少しだけ間を置いた。その表情には少し、ほんの少しだけ、影が見えたような気がした。



「好き、は好きかな。お酒飲んでると色々と楽になる事が多いからね」



色々と楽、それは何を意味し、何を思って言ったのだろう。でも俺はそれ以上聞けない気がした。怖気付き、ウィスキーを飲んでは優しい顔をする白川さんを見た。



「ま、久しぶりだし、パーっと飲もう! 軽いものが良かったらビールもあるからね。何でも気軽に言ってね」



「ありがとうございます」



白川さんも酒を飲んで楽になりたい何かがあるようだった。それは俺も同じ。俺も酒を飲んで忘れてしまいたかった。春仁の事を忘れようと前に進もうとするのに、どうしたって忘れる事なんか出来なかった。何故だろうか。何故ここまで春仁にこだわるのだろうか。


優しい、柔らかい、温かい。未知の生物は笑顔で癒しを与えてくれる。側にいたい。ただ、側にいたい。いや、違う。ただ側にいたかっただけじゃない。あいつを、自分のものにしたかった。分かってはいたが関係を壊す事があまりにも怖く、何も出来なかっただけなのだ。


酒のペースは早く、酔ってふわふわと心地良くなるのも早い。白川さんに触れられると、その時は、その時だけは春仁を忘れる事ができるから俺はまるで落ち着くために白川さんを求めた。早く、一刻も早く、あいつを忘れないと。その一心で。



「……白川さん」



酔って気持ち良くなってベッドの上に転がる。白川さんは横に腰を下ろすと、そっと俺の頬に触れて首を傾けた。



「ん?」



「好きな人がいて、そいつが結婚するってなったら、白川さんならどうしますか」



春仁は結婚する。春仁が彼女を作り、俺と連絡をあまり取らなくなって3年が経ち、そんな噂が耳に飛び込んだ。正直驚いた。驚きすぎて訳が分からなかった。付き合って3年、とはいえまだ23。若いよな。それだけその人の事が好きだって事なんだろう。そう結論に辿り着くと何もかもが嫌になり、忘れようと必死になり、次へ進もうと躍起になって今にいたる。快楽は1番のクスリだと脳も体も分かりきっていた。



「好きな人、か。そうだね、まずは結婚式場、燃やすかな」



白川さんは変な人だ。



「……は?」



突拍子もない事を真顔で言う。それが冗談か嘘か全くわからない。



「好きな人が結婚できないようにしてしまうかな」



「白川さんが言うと冗談に聞こえません」



「嘘のような本音だよね。結婚してほしくないもの。だって好きなんだから。僕の側を離れないでほしいじゃない。…勝手に、消えないでほしいじゃない」



白川さんはそう少し悲しそうに笑った。白川さんはそういう経験あるんですか、そう聞こうとした。でもそれを察したように白川さんは口を開く。



「君の好きな人はなんて名前なの?」



まるで自分の事は語りたくないようだった。



「…春仁って言います。中学からの友達なんですけど、最近は連絡もマトモに取ってません」



「そっか。それでその子が結婚する、とかそういう事かな」



「……はい」



「そっか。それは辛いな…」



辛いねと側にいてくれる誰かがほしかった。誰でも良いから、大丈夫だと、言ってほしかった。白川さんは俺の欲しい言葉をくれる。そっと俺の額に軽いキスを落とすと、ギシッとベッドを軋ませて股を割って入った。



「さて、辛い事は早く忘れようか」



瞳を覗かれ、合わさったその視線にどきりとした。あの日みたいだったから。あの夏の湖の辺りの、忘れたくても忘れる事はできないような熱くてどうしようもない思い出。白川さんの熱に流され、ヤクと酒でハイになり、何度イッてもイき足りなくて、頭がバカになりそうなくらいの快楽に溺れる。それが最高に怖かった。この危険な人に溺れてしまうのではと心底怖かった。


白川さんはあの夏のように柔らかく笑うと、甘い香りを残して唇を食む。重ねられる唇からぬらりと舌が口内を弄り、唾液が溢れた。互いの舌を重ね合い、口蓋を撫でられると、ひくっと腰が反応した。白川さんはふっと笑みを浮かべると優しく唇を重なる。白川さんは甘い人で俺が求めれば求めるだけ答えてくれる。だからこの人といる時だけは現実逃避ができた。辛い事を忘れて今そこにある快楽に縋っていれば楽だった。白川さんもそれを良しとしてくれた。


いくらあの夏の出来事が怖くても、やはり、この人が与える快楽は何よりも安定剤になる。春仁の事を思い出さなくて良い。それが救いだった。でも白川さんとは、何度まぐわっても何を考えているのか分からなかった。やっぱり何か深入りしてはいけないような、近付きすぎてはいけないような、得体の知れない物を感じてしまうのは何故なのだろう。でも、どうだって良いと思った。今、縋れるのは白川さんしかいないのだから。


白川さんと関係を持って数週間ほどが経ったある日、白川さんは俺を知らない人の家へと連れて行った。その人の家は繁華街から少し離れた高級住宅街で、コンクリートが剥き出しとなった近代的なデザインだった。4階建てデザイナーズマンションは、メゾネットタイプで洒落ていた。リビングルームは吹き抜けで、螺旋状の階段から上階部分へ上がることができた。3階の301号室、角部屋。俺達を招いた人は派手目な男だった。



「いらっしゃい」



男は白川さんと同じ位の背の高さで、年を取れば取るほどモテてますって顔のワイルドな人だった。真っ黒な髪は首筋にかかるほど長く、軽くウェーブがかかる。つぶらな瞳に顎髭、笑うと目尻にシワが寄る。年はたぶん40前半くらいで、白川さんよりは年上に見えた。



「寒かったろ」



「今日はどうしてこうも寒いのかな。風邪引きそうだよ」



「丁度、ホットワイン作ってたんだ。飲むだろ?」



「うん、もちろん」



玄関を抜け、リビングルームを抜けて奥のキッチンへ向かう。キッチンには男がひとり、鍋をゆっくりかき混ぜている。その人はなかなか奇抜で、強面な人だった。スキンヘッドで右耳はピアスがぎっしりと刺さっていて、右の小鼻にもピアスが開いている。黒の薄手の長袖を着ていたが、手の甲には模様のような刺青をしていた。トライバルっぽいデザインだった。



「こんちはっす」



その見た目の怖い人がぺこっと頭を下げた。



「ふふ、こんばんはの時間帯だけどな。まぁ、いいや。この見た目のヤバイやつはヤス。んで俺は安西。よろしくね」



安西さんは隣の強面を紹介すると俺の前に手を差し出し、フレンドリーに握手を求めた。その手にはゴツいシルバーリングが何本も指にはめられ、指や手の甲にも墨が入っていた。手を握ると、ぎゅっと強く握り返される。



「蘭、です」



そう圧倒されながらも挨拶すると、隣で白川さんが捕捉情報を出すように口を開いた。



「デザイナーのアシスタントしてるんだよ」



「へぇー! それは頼もしい。どこのデザイナーの事務所で働いてるんだい?」



「えっと、峯崎 シンゴって人の…」



「あ、そう! シンちゃんの! 南赤山に事務所構えてるよね?」



「はい、そうです」



「クラシックから奇抜なのから、カッコいいデザイン多いよねー」



やけに食いつくなと思いながら話を聞くと、この安西さん、只者ではなかった。安西さんは"NIYOL & ARANCK"(ニーヨル & アーナック)というシルバーアクセサリーのブランドを立ち上げた人で、それはそれはとても有名な人だった。ブランドは知っていたものの、創設者が誰かは分からなかった。というのもメディアにもショーにも顔は一才出していないはずだ。まさか、この人がその創設者だとは。彼はアンジーと呼ばれていて、俺はてっきり外国人だと思っていた。



「いやぁー、そうかそうか。知ってくれてるなんて嬉しいなぁ」



「俺の世代は絶対知ってると思いますよ! カッコいい男はNAのシルバーリングのひとつふたつ持ってるもんだって。でもやっぱり高価なんで、俺なんかは雑誌見て満足してる類の学生でしたけど」



「アハハ、学生に手が出せる価格設定じゃぁねぇわな」



安西さんは大きな口をあけてガハハと豪快に笑うのが癖みたいな人だった。安西さんの隣に座るヤスは、そんな安西さんが笑う度に少しつられて笑うように口角を上げている。ヤスは見た目は怖いけど、物静かで物腰が柔らかく優しそうな人だった。


ヤスと安西さんはこの家に一緒に住んでいるらしい。同棲して3年、付き合って4年になるようだった。ヤスは俺と同じ歳で白川さんと同業者。でも和彫専門ではなく基本的にはアメリカントラディショナルやギャングが入れているような黒と灰色のコントラストのタトゥーがメインらしい。しかもあの蓮司さんのスペードにナイフが刺さっていたタトゥーを彫った人だった。あれ、カッコ良かったよなぁと俺は頭の片隅で思い出して顎を撫でる。



「蓮司さんには何度も聞いたんすよ。俺で良いんすかって。俺んとこの先生が有名で通って来てたのに、俺に彫ってほしいって、デザインに一目惚れしたって言ってくれて、あんな有名人の体に彫るなんて緊張ものでした」



「へぇー。そう、だったんすか。俺、そのタトゥー見た事ありますけど線がハッキリしてて、デザインもクラシックなアメリカンタトゥーって感じでカッコいいなって思いました」



「そう言ってもらえると嬉しいっす!」



「じゃぁー蘭くんは、蓮司のことも知ってるんだね?」



そう安西さんは俺を見ながら首を傾げた。しばらくホットワインを飲みながらワイワイと話していると話題はヤスから蓮司さんの話へと移った。どうやら安西さんは蓮司さんの知り合いでもあるらしい。



「はい、でも、まぁ…一度飲んだことがあるくらいですけど」



あの卑猥な会合を飲んだと言って良いのかは分からないが、飲んだという言葉が適切だろうなと思った。



「そうなんだ。典型的なハンサムだよね、彼。何度かモデルやってもらおうと思ったんだけど彼人気だから、なかなかゲットできないんだよねぇ」



「そう、なんですか」



あれは確かにモデルとしてかなり目立つ。世間一般ではあの金髪黒眉ハーフをイケメンだのハンサムだの言うのだろう。タカオを巻き込んでは笑うような男だったが、とても快楽に弱く、豪快で、面白い人ではあった。



「いやー前にね、シロと蓮司と知り合いのクラブに行った事があってさ。蓮司のやつ、ホールで踊り狂ってるかと思ったらすーぐ何処か行っちまうんだよ。あれ、割と有名なモデルだって自覚ねぇんだよなー。どっかでおっ始めといて、何があったか殴られて鼻血流して戻って来た事あったよな?」



安西さんは呆れたように笑いながら白川さんにそう尋ねた。



「あったね、そんな事。でもあれ、蓮司も悪いんだよ」



「そうだったのか?」



「うん。あいつの性癖を知ってる相手らしくてさ、近寄って来たんだけど蓮司が煽りすぎたらしくて、…ふふ、返り討ちにあったって。もう本当に問題児だよ。相手も相手で本当に殺そうとしちゃうから怖かったけどね。でもあいつ懲りないんだもん。その後何度、似たような事起きたか」



「アハハハ、そうだったのか。あいつとクラブ行って飽きる事ねぇよな」



「まぁ、それは確かに」



だから、タカオ、か。あの時もタカオを求めていたのはそういう事かと俺は理解して少し笑ってしまった。あの蓮司って人、相当ヤバい人なんだな。しばらく白川さんと安西さんで話が盛り上がっていた。俺はへぇーとか、ほぉーとか相槌を打つ事しか出来ない話だった。けれど疎外感を感じる事は不思議となかった。ふたりの話を聞いている事がなんだかとても面白く、それはきっとヤスも同じらしかった。楽しそうに頷いたり、少し笑ってみたり、ふたりの話を前のめりに聞いている。



「いやぁーでもよ、シロは温泉行きにくいだろ? 今でこそジャパニーズタトゥーだっつって和彫もアートの一部だから認めろーみたいな風潮あるけど、やっぱりヤクザとは離せない彫りもんだからな」



「刺青の考え方がやっぱり日本はまだまだ保守的だからね。一般的ではないし、和彫はファッションタトゥーとはやっぱり違うと思うよ。…ヤクザが覚悟を決めて、背負う物。カタギには戻らない、その覚悟。…なーんて、そんな風潮は今でも多少なりともあるからねぇ。だから僕も公共では肌は見せないようにしてるよ。怖がらせたくないもんね」



「ま、でも俺ァその方が好きよ。人に見せるもんじゃないって考え方。強い意志と決意のもと彫ったごつい刺青をさ、年がら年中隠して、脱いだら実はすげぇのが入ってる、ってそのギャップはやっぱ最高よ」



「ふふふ、安西さんらしいなぁ。確かにアメリカじゃぁタトゥーを入れてない人を探す方が難しいし、入れてても皆んなポップに見せてるから圧なんてないものね。そういうアウトロー文化が色濃く残るのは日本らしいのかもしれない」



「やっぱこの国は保守的だからなぁ。でも、この刺青文化に関して言えばアウトローで最高よな。まさにシロみたいな優しそうな面した人間が、服を脱いだら体中に入ってる、なーんて興奮ものじゃない、ねぇ?」



安西さんはケタケタと笑った。確かに白川さんと最初に出会った時、遠目で見た白川さんはいかにも温厚で優しくて春仁みたいで、いいなぁと目で追った。それが近付いて来ると、まさか腕から和彫が見えていて驚いた。それを隠すところは、なんだか気を使い、圧を掛けないようにしていて、そういうところが、"そんな刺青入れてるのに優しい"って思考になっちまうのだろう。要はギャップだな。


刺青について散々話した後、安西さんは酒がなくなったとキッチンへ消えた。それを見計らったようにヤスが口を開いた。



「シロさん、俺、…今、和彫をちょっと勉強してるんですよ」



「え? そうなの? ヤスくん、興味ないかと思ってた」



「いえ、ないことはないです! ただ、俺には難しい技法が多すぎるというか。絵のタッチがどうしても、俺はアメリカンになってしまうんで、敬遠してたのは確かですけど。でもやっぱシロさんの作品見てて、かっこいなぁって。いつも隆史さんと話してるんすよ」



「ヤスくんに言ってもらえると嬉しいなぁ。でも、彼も僕の作品見てくれてるって意外。彼は和彫入れたがらないもんね?」



「そうですね。隆史さんは和彫に関して言えば見る専門ですからね。それで、あの…お願いがあって」



「うん、どうしたの」



「いくつかデザインを考えてみたんで、見てもらって良いすか」



「もちろん」



「部屋に何冊かまとめてるんで」



「うん、分かった」



隣で白川さんとヤスで話しが盛り上がり、「すんません、シロさんを一瞬だけ借ります」とヤスに頭を下げられる。



「ちょっと行ってくるね」



そう白川さんとヤスは上階へと上がって行き、俺は手を振りながら見送った。誰もいない広いリビングで、することもなくただ部屋の様子を眺めていた。あのテレビは薄いしデカいな、とか、壁に掛かってる絵が前衛すぎて、上下逆さまでも分からないな、とか、やっぱりシルバー系の置物が多いな、とか。部屋を眺めていると、スコッチとグラスを持って安西さんが戻って来る。スコッチなんてボトルは見た事はあったが、飲むのは初めてだ。



「あれ、ふたりは?」



安西さんはグラスをテーブルに置き、スコッチを開けながらそう尋ねた。



「上に行きました。ヤスさんの和彫のデザインを白川さんが見に」



「あ、そう。ヤスはシロ大好きだからね。シロの描く和彫に相当惚れ込んでるから。自分の専門とは違うのにねー」



「みたいですね。勉強してるって言ってました」



「シロ先生にどう評価されちゃうかなー?」



安西さんは片眉を上げてふふっと笑うと、俺と自分用のグラスにスコッチを注ぎ、「乾杯」と言いながら、ひとつを俺に渡した。俺はそれを受け取って少しだけグラスを上げる。



「いただきます」



飲むと香ばしくて甘い…なんだろう、メープルシロップのような味がした。これはこれはつい進んでしまいそうになる、が、がつんと喉が熱くなる。あまりたくさん飲むものじゃねぇぞ、と酒に言われている気がした。



「お、…美味しいですね」



けど、喉が熱い。



「お! 良かった、口に合って。貰い物なんだけどね、なかなかスコッチって飲まないからさ。こういう時にはピッタリかなと」



「初めて飲みました。ありがとうございます」



「ふふ、良かった良かった。…ねぇ、そういえば、蘭くんは墨、入ってるの?」



「いえ、入ってません」



「そうなの? シロと一緒にいるから、てっきり和彫入ってるのかと思ってた」



「いえ、…いつかは入れたいなと思ってはいるんですけど」



「興味はあるんだ」



「そう、ですね」



「せっかくシロと一緒にいるんだ、入れてもらえばいいのに。シロのデザイン、カッコいいよ。腕も良いし」



「ちょっと考えてみます」



「うんうん、是非」



他愛もない会話をしながら酒を飲む。安西さんは有名なデザイナーで地位もある人なのに、とても気さくでよく笑う。



「……あー、少しだけ酔ってきた。俺、そんなに強くないんだよねぇ」



「そうなんすね。かなり強そうに見えます」



「アハハハ、やっぱり? よく言われるけど、強くはないのよなー。弱くはないけど、さすがにスコッチをこう続けて飲んでると、酔い回るの早いかなー。あー頭がふわふわする」



安西さんはそう言って欠伸をひとつした。



「水、ありますよ。飲みます?」



透明なガラスのデキャンタに水が入っていた。空のグラスに注ごうと手に取って訊ねると、「いんや、大丈夫よ」そう言って安西さんは微笑んだ。酒を飲み、良い酔いを感じながらただダラダラと話す。たまに上から笑い声が聞こえ、安西さんが大声で「早く降りて来いー」と呼びかけるが、「ちょっと待って下さーい」とヤスの返事が返ってくる。スコッチを飲み続け、しばらくした頃、ようやく上階からヤスと白川さんが降りて来た。何故かヤスは上半身裸だった。何事かとヤスと白川さんを交互に見る。



「見てください!」



ヤスはそう嬉しそうに言うと、くるりと背中を見せた。



「おぉー!」



そこには油性ペンで描かれたらしい錦鯉が一匹。筋彫りのようだった。一瞬見ただけだと、本当に筋彫りだと思うだろう出来だった。



「ど、どうすか!」



「カッコいいじゃない。2人でコソコソと何やってるかと思いきや」



「へへ、楽しんでました」



「お楽しみだったか。混ぜて欲しかったねぇ」



本当にカッコいい鯉だった。鱗までしっかり描かれていて、色がなくても存在感があり、ヤスの真っ白で広い背中によく映えている。



「あーなんだか、楽しくなっちゃった」



ヤスはそうウォッカのボトルを片手に安西さんの横に落ち着いた。



「なに、2人でウォッカ飲んでたの?」



「はい。そっちは? スコッチですかー。俺、ウィスキー系好きじゃないからなー」



ヤスは完全に酔っていて楽しそうだ。ヘラヘラと溶けたように笑うと、ウォッカをぐいっと飲んでいる。白川さんはその姿を優しく笑いながら見ていて、俺の隣にまた腰を下ろす。



「シロさん来ると楽しいすよね」



「お前、本当シロ好きだよな」



「はいー」



ヤスはそう返事をすると、疲れたように安西さんの太ももを枕に体を横たえた。安西さんはヤスの酔った顔を見下ろし、ふふっと笑っている。



「だってよ、シロ。告白されてんぞ」



「アハハハ、僕も好きだよー、ヤスくん」



「わ、嬉しいす」



なんだか妙な関係の人達だなとその時感じた。それは少し何か得体の知れない違和感。その正体は分からないが、ただ少し、心地良さというものが消えていた。妙に緊張してしまう。



「あー、それにしてもいい感じに酒入ったな。気分が良いよ」



「うふふ、うん。君、いつもあまり酒飲まないものね。今日はやっぱり酒入らないと緊張する?」



「蘭くんいるもんなー。まぁ、シロと関係がある子が来るって聞いてりゃぁ、ちょっと緊張はするわな」



「えー、なんでよ」



俺? 白川さんと関係がある子が来ると緊張するのは何故。どういう事だ。白川さんと安西さんの妙な空気感に俺は眉を顰めた。ヤスは呑気にヘラヘラと笑いながら、手を伸ばして安西さんの頬に触れた。



「隆史さーん、キスして良いすか」



「お前、だいぶ酔ってんな」



「酔ってますよー。隆史さんしてくれないなら、シロさんしましょ。俺、シロさんのキス好き」



「おーっと、妬かせるねぇ」



白川さんは安西さんを見て笑うと、隣で「僕もヤスくんとのキスは好きだよ」と微笑んだ。そうか、違和感の正体はこれか。この3人はヤった事があるし、それは1回や2回だけじゃない。少し危険な匂いがするのは、この人達もまた、アブノーマルな関係だからだろう。酒とヤクそして乱行。それに俺が巻き込まれるのではないかと勘づくと、体が緊張してしまう。そういう事らしい。どうすっかな。その予想が当たったらどう逃げよう。ヤクはもう二度とやりたくねぇよな。


そう考えている俺をよそに、安西さんはチュッと軽く音を立ててヤスにキスを落とした。ヤスはそれに満足すると、またへらっと笑い、起き上がるとうんと伸びをしている。



「じゃ次、シロさん。キスして」



「おいおい、結局シロとするのかよ」



「だってー、ねー? 久々だもの、キスしたいじゃないですか」



「アハハ、いいよ、おいでー」



ほうら、な。やっぱりそうだ。この人達には壁がない。白川さんは拒否する事なく、ヤスとキスを交わす。安西さんとする時よりも少し軽いキスだった。それを安西さんはふふっと笑っているだけ。彼氏が他の男とキスをしているのに笑っているのだ。その人達にとってこれは、ただのお楽しみにしかすぎないのだろう。



「やっぱり好きだなー、シロさんのキス。ねね、蘭くんともして良いの?」



白川さんとキスをした後、ヤスは俺ではなく白川さんにそう尋ねた。これはちょっと経験した事のない事態だった。でも俺の予想は概ね当たってしまいそうだ。あぁ、だとしたら白川さんは何故、俺をここに連れてきたんだろう。何か理由があんのかな。



「うふふ、蘭に聞いてごらん。彼もキスは上手いよ」



「え、そうなの? 蘭くん、キス、しましょう」



急にこんな状況に置かれて動揺しない人なんているのだろうか。流されてしまえば結末なんて分かりきっているのだから拒否をするなら今しかない。でも、ヤクをやるわけじゃないなら。楽しい事、気持ち良い事はたくさんしたい。だってそうすりゃぁ、忘れられるだろうから。あいつの事、ヤってる時は頭にないから。その時だけは何も考えなくて良いから。


……あ、だから、白川さんはここに連れて来たのかな。



「もちろん、いいすよ」



俺の返答にヤスは屈託のない子供みたいな笑顔を見せた。熱があるのかと思うほどの熱い掌を俺の頬に寄せると、そっと唇を合わせる。開いたその隙間から舌が伸びてきて、熱い息が交わる。柔らかな唇、ぬるりと絡まる舌、歯列をなぞって唇を離した。



「あー、良い。気持ち良い。蘭くんのキス、気持ち良い」



快楽に流されるのは楽だよなぁ。何もかもを忘れられる時間というのは、俺にとって何よりも必要な時間。今は、ただ楽しければそれで良い。それで良い気がする。



「俺の部屋、行きましょう!」



ヤスが白川さんの手を引いた。白川さんは俺をチラッと見ると、「行こう」と優しく笑って誘った。やっぱり、そうなるんだ。


ヤスの部屋にはキングサイズの大きなマットレスがひとつ、アメリカントラディショナルタトゥーのデザイン画がいくつも額縁に入れられて壁に掛けられ、無数のレコードと本が棚に入り切らず、床に落ちている。巻きタバコが趣味らしく紙と葉っぱがテーブルの上に置きっぱなしだった。部屋はタバコとメンズものの爽やかな香水の混ざった匂いがした。本当にこの人達とまぐわうのかな、そう部屋に入って緊張を隠すように部屋を見回していると安西さんがそそくさと服を脱ぎながら、「怖い?」と後ろから声を掛けてきた。 



「え、…いえ、そういう事じゃないんすけど…」



否定しつつ、ヤクはやりたくねぇな、と顔を顰めてしまう。



「複数とヤんの初めて?」



「…はい」



「あ、そうなの? そっか、抵抗ある?」



「ない、と言っては嘘になりますけど、…快楽に流されたい気もします」



「うんうん、それで良いよ。楽しくて気持ち良けれりゃぁ、それで」



パンツ1枚の安西さんはしっかり鍛えたられていて、厚い胸板には大きなアメリカンイーグルが彫られていた。それはトライバルっぽいが、アメリカントラディショナルな色も入っている。どっちつかずなデザインだが、安西さんぽくて似合っていてカッコいい。マットの上で白川さんはすでに上半身裸で座っていた。ヤスは棚に片手を突っ込み、何かを探しているようだった。ゴソゴソと酒瓶片手に。どうしよう、またヤクなんか出されたら。

あり得ない事ではないよなと俺は服を脱ぎながらヤスを横目に見つつ、警戒してしまう。



「蘭、おいで」



その警戒に気付いたように白川さんは俺に手招きをした。白川さんの髪に指を絡め、その顔を見下ろす。後ろから安西さんが通り過ぎにそっと俺の頭にキスを落とすと、そのままヤスの隣へと向かった。ヤスの腰に手を回すと、軽く首筋と頬とにキスを落としている。



「あった!」



ヤスはようやく棚から何かを発見したようだった。げっ、ヤクか…? ヤクはもう勘弁してくれと眉間に皺を寄せていたが、ヤスが手にしていたのは年季の入ったポラロイドカメラだった。。この人達はヤクなしじゃないとヤれない、ってわけじゃなさそうだ。


ヤスはフィルムを確認していた。安西さんは床に膝をつくと、ヤスのジーンズのジッパーを下ろす。同時にカシャッ、ジーという機械音が響く。ヤスは安西さんを見下ろして1枚撮ると、カメラから出てきたその1枚を本棚の空いているスペースに無造作に置いた。


そして俺達にそのカメラを向ける。マットレスに横並びになっている俺と白川さんを1枚。白川さんはイタズラっぽく俺に笑うと、手を下に伸ばして、カメラを向けられているのに何の躊躇もなくそれを咥えた。舌を這わして喉奥で咥える。熱い息を漏らすと、またカシャッと音がする。



「し、白川さん…」



「んふふ」



白川さんの揶揄うような甘い顔を何度見たことか。何度見ても心臓は跳ね上がり、美味そうにしゃぶるから、下腹部がどんどんと熱を持ってしまう。息が徐々に上がっていくのを白川さんは楽しそうに見ている。



「隆史さん、出して良い?」



「ん」



ヤスは安西さんの頭を強く押さえると、気持ち良さそうに息を吐いて、目を軽く閉じる。腹筋に力を入れて肩で息をする。少し落ち着くと、安西さんの顎に指をかけて上を向かせるとそのまま唇を合わせた。



「隆史さん、好き」



「んふふ、お前、酔うと本当に甘えたになるな」



「うん。だって、好きなんだもん」



ヤスの見た目は怖い。でもこの中で1番、甘え上手で愛らしい性格だろう。安西さんを見下ろしながらまた1枚撮ると、「絵になりますね」と呟いて、またキスを落としている。



「白川さん、…俺もイきそう」



そんなふたりを見ていたが、俺は俺で切迫詰まるように快楽に押し流されている。



「良いよ、もちろん。たくさん気持ち良くなろう」



深く深く呼吸をする。呼吸を整えようとするが、脈と比例して呼吸の感覚も狭くなり、息は熱くなる。ヤスが部屋の入口に置いてあったレコードに針を落とした。静かにビンテージジャズが流れ出す。これまた意外だった。音楽はパンクしか聴きません、と言いそうな雰囲気だがそうではないらしい。確かにレコードを見る限りジャンルは幅が広かった。マットの端に腰を下ろして巻きタバコに火を点けた安西さんに、ヤスは微笑みかけ、そのジャズソングのフレーズを流暢な発音で口ずさんでいる。その囁くような小さな歌声を耳に、俺の体がびくんと跳ねる。真っ白なシーツを握り締め、白川さんを見下ろす。白川さんは満足そうに微笑んでは、俺の内腿に軽いキスを落とした。



「蘭くん、気持ち良さそう」



ヤスはそう言って俺の顔を見下ろして口角を上げている。こうして誰かとまぐわってしまえば、体も頭も楽になる。まぐわってさえいれば、ただただ楽だった。誰ともつかない喘ぎ声、濡れた卑猥な音、肌がぶつかる乾いた音。甘くて心地の良い時間はあっという間。しかし夢は覚めた時、急に現実を突きつけられて怖くなるものだった。さんざんヤりまくって、いつの間にか意識を失っていたらしい。


ふと目が覚めた時、安西さんとヤスの姿はなかった。部屋には白川さんと俺だけだった。白川さんも俺も裸で、マットの周りにはティッシュやら、ゴムの袋がゴミ箱に入れられず散らかっていた。隣の白川さんは心地良さそうに眠っている。白川さんを起こさないように上半身をゆっくりと起こして壁に寄り掛かる。白川さんのその髪にそっと触れた。薄い茶色の髪色、真っ白な肌、優しそうな顔。こんな事してたって、何の解決にもならねぇのにな。良い加減、現実を見て、理解して、受け入れてやらねぇと。…ハルに、おめでとう、って言ってやらねぇと。



「…起きたの?」



起こさないように静かに白川さんに触れたつもりが、どうやら起こしてしまったらしく、白川さんは目を擦りながら俺を見上げた。



「すみません、起こしましたね」



「ううん、大丈夫だけど。どうした? 眠れない?」



「……あ、いえ。ちょっと考え事、してただけです。安西さん達はどこすか。ここ、寝てて良いんすかね」



「あぁ、うん、大丈夫。ここはヤスの部屋で、向こうに安西の部屋がある。いつもふたりはそっちで寝てるから大丈夫だよ。…水か何か飲む? 取って来ようか?」



「いえ、大丈夫です」



春仁と白川さんは違う。そうだよな。違うんだよな。あいつは今頃、何をしてんのかな。あいつの奥さんになる人、どんな人なんだろ。考えたくないと目を瞑って耳を塞いけど、良い加減、向き合わないと前に進めない。良い加減、向き合おう。



「蘭、大丈夫?」



「え、あぁ、はい。大丈夫です」



白川さんは少し困ったように眉間に一瞬皺を寄せると、ゆっくり起き上がり、枕を背中に壁に寄り掛かった。



「ひとりで抱えてると押し潰されてしまうよ? 僕で良ければ聞いてあげるから、言ってごらん」



白川さんは優しかった。あの夏の日、危険だと、怖いと思った人なのに、こうして側に居続けると、分かることがいくつもある。この人は壁を作り、心の奥底までは確かに読ませてくれない。けれど世話焼きで、少なくとも今の俺を支え、こうして側にいてくれる。この人は優しい。春仁とは優しさの種類が違うのかもしれないが、この人はこの人なりの優しさってのがある。現実を少しの間だけ遠のかせてくれたのもこの人の優しさだ。



「ふと、思うんです。良い加減、現実を見なきゃなって。長年好きだった人は最愛の人を見つけて、これからの人生を共に歩んでいくと決めたんだから、俺も進まなきゃな、って。受け入れなきゃな、って…」



「そっか。君は強いね」



「強くなんてないです。ワガママを言って逃げていたいですけど、…そうも言ってられないのかな、って思ったんです。こうしてさんざんセックスした後って、ふっと我に返ってしまうんですよね。そんで現実見なきゃならねぇよなーって、思うんですよね」



「そう、だね」



「今の俺には白川さんがいます。こうして横にいてくれるだけで、…なんか、色々と楽になるんです」



「……そう」



白川さんは少し弱い笑みを浮かべる。その後で、それを隠すように俺にキスをすると、「辛い事は忘れようね」そう囁いて舌を絡めた。春仁を忘れる為に、誰かを好きになりたい。その誰かはこの人が良い…。



「ん……っ」



白川さんの甘い香り。白川さんの熱。何もかもを忘れさせてくれるこの人の優しさ。何度も何度も、まぐわってはドロドロに溶けていくようだった。そうすれば、まるで全て忘れる事ができると信じているみたいに。白川さんとヤりまくり、そしてまた深い眠りにつく。次に目が覚めた時はもう、陽が完全に昇っていた。



「……蘭、君には龍が似合うと思うよ」



朝日が部屋を満たしていた。1階からはテレビの音と、遅い朝食を作っている料理音が心地良く聞こえている。



「急、ですね」



「君とヤってる時、いつもそう思ってた。君の褐色の肌には龍が似合うんじゃないかなぁって」



「じゃぁ、そうしようかな」



「あら、いいの? 僕、本気で考えちゃうよ。デザイン」



「うん。いいすよ。新しい人生っての歩みたいですから」



白川さんは「帰ったら一緒に考えようか」と優しく笑った。



俺達はその日、昼過ぎまで安西さんの家にいて、ただダラダラと他愛もない話をしては、美味い飯を食い、趣味の話をしてはまた盛り上がった。昼飯を食べ、少しして安西さんとヤスと別れる。そのまま俺は、白川さんの店に足を運んだ。新しい人生とやらを、手に入れるために。

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