2. 出会い

一人暮らしは楽である。何もかもが自由で気楽で奔放だ。その自由さは、"色々な事"に対して自由になったが、相変わらず春仁との距離はそのままだった。春仁は大学へ入ると、毎週水曜日は必ず家に泊まるようになった。木曜日は朝一で授業があり、早くに学校へ行かなければならないのだと言う。春仁が家に泊まる毎週水曜日はバイトも休みにして、ふたりで過ごす日になっていた。


それから春仁はバレエを高校卒業と同時に辞め、太りたくないからと大学のジムへ週二日通っていた。爽やかに汗を流しているのだろうと、少し想像した。こいつと同じ大学の生徒だったら、とどれほど思った事か。春仁はジムの後、時間が合えば俺の家に寄ったり、一緒に外で飯を食ったり、なんだかんだで時間を共にする事が高校時代よりは多くなった。春仁と過ごす時間が何よりも楽しいのは変わらず。ただ、全てが自由になってしまった今、俺の中で春仁の存在はどんどん大きくなり、自分の感情を否定するには難しくなっていた。いつしか気持ちに気付かれるのではないかと思うと不安になり、不安になればなるほど、隠さなければと必死になる。失う事が何よりも怖い。怖くて怖くて、どうしようもなくなる。口が裂けても春仁に対する感情は友情だと言い続けなければならない。友情だと言えなくなってしまった時、それは、俺達の関係が終わる事を示しているのだから。


春仁に対する感情を相変わらずに、俺はひたと、欲だけは持っていた。春仁には言えない秘密というものがひとつ、またひとつと増えていく。春仁はただの友人。でも欲のまま生きれるなら…。



「あれ、お兄さん、ひとり?」



誰かと"遊ぶ"には繁華街の中にある、とあるクラブが手っ取り早かった。碌なやつがいないのは分かりきってはいるが、それでも全てが自由な今、欲には従順で、相手はある程度の条件が揃えば誰でも良かった。



「ひとりです。…そっちは?」



「うん、ひとり。はいこれ、奢り。何かのご縁ってことでさ、どーぞ」



「テキーラ、ですか? ありがとうございます」



色の白い、自分より背の高い、ガタイの良い男。顔立ちや話し方が優しそうな人。その条件が揃った人をつい、目で追ってしまうクセがついていた。名前も知らない相手と酒を飲み、話もそれほどせず、誘うような視線を感じながら春仁には言えない秘密事を増やしていく。



「……っ」



「お兄さん、良い体してンねー。俺、結構タイプだよ、お兄さんみたいな人」



ホテルに行けば盛りのついた動物みたいにヤる事は単純だった。男は冷たい手で俺の体を愛撫して、するりと胸から腹筋の縦筋を辿り、ヘソへ、そして下腹部へ。ただ気持ちが良ければそれで良かった。快楽には従順で、素直で、ヤった後の後悔の仕方も忘れてしまった。首筋を甘噛みされ、舌がゆっくりと下へと下がっていく。熱い息を吐くと、男は乱暴に股の間に割って入り、脇腹に噛みついた。



「痛ッ」



その痛みに体を起こそうとすると、男は起き上がるなと圧を掛けるように俺の前髪を鷲掴み、俺の目を見下ろした。



「お兄さん、痛いの好きそうな顔してたもんねー。好きでしょう? クラブでのお兄さんの顔、たまんなかったぁー。だから、たーくさん、可愛いがってあげるよー」



ヤる時にお喋りな男は冷めちまうなと、頭の片隅で考えながら男の目を見上げた。それでも欲には勝てない。冷めちまうと思っているわりに、体は素直で笑えてくる。



「アハハハ、もうここ、こんなガチガチなんだ。可愛いねぇ」



男はずっとひとりで喋っていた。



「気持ちよくしてあげるよ。ほら、どう? …アハハ、ちょっと触っただけなのに、エロいなぁ。ね、期待しすぎだよー」



本当によく喋る。一発殴って黙らせようかと思いながら、枕に片手を回して溜息を吐く。俺が溜息を吐いた事も、きっとこの男は気付いていない。男は下品な笑みを浮かべながら貪るようなセックスをした。一方的で、乱暴で、体中に歯形とアザをいくつも残した。濡れた卑猥な音が室内に響き、汗が額から滲む。悪くはない、が、良くもない。



「お兄さん若いよねー。いくつ?」



後ろを取りながら男はそう聞いた。



「じゅ、……19」



「え、20いってないの?」



「……はい」



「そうなんだね。年上が好きなの?」



本当、ハメながらよく口が動くなと、さすがに萎えそうになった。頬を枕に埋め、男の顔を横目に「年齢は、気にしません…」そう吐くと、男は「へぇー」と言いながら、急に勢いを増し、奥へ奥へと刺激を与えた。男は俺の髪を乱暴に掴むとそのまま枕へ押し付け、片手で腰を抱いた。



「…あ、ッ…」



ぐんっと深い所を突かれ、つい声が漏れる。男は満足そうにイキまくり、俺は不完全燃焼のまま男から離れた。まだまだシたかったが終わりらしい。つまらない。満たされないのは分かっていたが、やはり、何ひとつ得られない。あいつだったらどんな風に俺の体に触れるのだろう…。なんて恐ろしい事を考えてしまう。春仁とは友達。春仁への感情は蓋をしなければならない。だからこうして遊び歩いているのだろう。そう言い聞かせるが、ふと思う。だとするならば、俺は一生満たされる事なんてないのだろうな。


『おはよう』『おはよー!』『今日暑いな』『暑いねー! 朝からアイス食べてる』『学校終わったー』『僕はこれからジムでーす』『晩飯、一緒に食わないか』『いいよー!焼肉行きたい』『おやすみ』『おやすみー!また明日ねー』


春仁との他愛もない会話は毎日続けられていた。そこに色恋は全くなかった。けれどそれで良い。それが良い。そう思いながらメッセージのやり取りを途絶えさせないようダラダラと連絡を取り続けていた。


春仁への感情を認めたくない。だからアレコレ言い訳を考える俺に、認めろと突きつけて来たのは専門学校の友人であった。



「毎日そいつと連絡取り合ってるって、え、蘭ちゃんゲイ? 好きなの、そいつのこと」



そう直球にぶつけてくるやつだった。笑えるくらいなんでも口にするやつで、オブラートに包むって事を知らないようだった。



「いやー毎日連絡取ってるとか俺は考えらんねーわ! でも蘭ちゃん、寂しがり屋さんだもんなー。その見た目で実はかなり奥手な男だしな」



「うるせぇな」



適当にあしらってもそいつは構わずに話しかけてくる。春仁とは違うタイプの人懐こい、を極めたような人間だった。



「そんなウザがんないでよぉー! けどまじ、なんなの? 普通ではなくない? 好きなの? そのハルヒトって男のこと。白状しろよぉー」



けど人懐こいを通り越して、そいつはただのウザいやつに時々変わってしまう。特に春仁の話題に関しては過剰に興味を示した。



「そんなんじゃないって言ってるだろ、しつこいぞ」



「でもさ向こうに彼女できたら、その彼女ゼッテー嫌だと思うけどなぁ、毎日こまめに連絡取る男友達いるとかさぁ。いくら同性とはいえ、ウザくね?」



春仁に彼女ができたら、なんて今の今まで考えたくないと避けて通って来た道だった。友達に彼女ができたのなら喜んでやるのが当然。祝福してやるのが当然…? 痛ぇな。キリキリと痛み出す。胸の厄介な痛みには、もう目を閉じて知らないふりをする事ができなかった。春仁に大切な存在が現れるのが怖い。自分以上に親しい人間ができるなんて考えたくもない。そう思ってしまう時点でもう手遅れなのは分かっていた。俺が望む関係は春仁の友達なんかじゃない。


でもそれ以上は望むべきではない。だって友達なら春仁に彼女ができて、その人を愛しても、側にいれるだろ。俺はずっと春仁の側にいたい。何があっても、一番近い存在でありたい。彼女とは付き合うだの別れるだのあっても、俺が友達だって言い聞かせてさえいればずっと側にいれるだろ。だからそれで良い。それで。


でも、本当は? どうなりたい?

しかしこの感情を恋愛感情だと認めるという事は、俺達の関係を終わらせるということ。終わりへ向かうカウントダウンを始める事になってしまう。だとするなら否定をし続けるしか道はない。



「つーか、お前もお前で恋人作れば良いのに! 寂しいんなら恋人つくって、寂しさ紛らわしてもらえってー。やっぱ、女より男のが良い? 俺、知り合い多いよ。出会えるバーとか紹介しようか」



「あのなぁ、俺は別に出会いを求めてるわけじゃないし、男が好きってわけでも…」



「ない? でも蘭ちゃんさぁ、女に興味ねぇだろ?」



「………は?」



ドキッとした。つい目を見開いて、友人の顔を見てしまう。友人は片眉を上げて、「ま、どうでも良いんだけどさー」と呟くと口角を上げながら続けた。



「蘭ちゃんと仲良くなるとさ、なんだか雰囲気で女に興味ないってのが分かっちゃうんだよねー。さっきの反応で確信したわ。やっぱ興味ねぇーんだなって。隠してるつもりなら隠せてねぇよ、それ」



「隠すも、何も…」



つい口ごもってしまう俺に、そいつはケタケタと笑った。



「ま、でもぉー、蘭ちゃんってあんま人に興味ないのかと思ったけど、そーでもないって分かったから、ちょっとラッキー」



「何、ラッキーって…」



「いや、こっちの話し。青春しよーぜ、青春!」



「青春って高校時代だけじゃねぇのかよ」



「えー高校ン時だけって決まりあんの? 悲しすぎ。専門学生にも青春を謳歌させろよなぁー」



「お前はどう見ても、青春謳歌してきたようなタイプだろ」



「んふふ。どー思う?」



「陽キャの大ボスみたいな見た目だからな。楽しんできたんじゃねぇの?」



「アハハ、蘭ちゃんは面白いなぁー」



陽キャの大ボス、って例えは的確だった。タカオというこの男はえらく派手で容姿が良く明るすぎるくらいの男で、いつも周りに人がいた。



「ねぇ、蘭ちゃんにとってはさ、ハルヒトって人だけが特別なんだよね?」



「特別って何? あいつは俺にとって、良い…友達だよ」



学校の友達のハタチの誕生日パーティーで、タカオは楽しそうに口角を上げたまま、俺にそう尋ねた。酒が回り、酒の強い俺もだいぶ気分が良くなっていた。タカオは相変わらず派手で、自分のパーマがかった明るい茶色の髪をわしゃわしゃと掻きながら、白いシャツに何やら青い訳の分からない模様が入っているシルクシャツのボタンをひとつ開けた。室内は人が多く、クーラーをつけていても、窓を開けていても暑かった。郊外の別荘地で都内に比べては涼しい、とはいえ、やはり人が多いと少し蒸し暑い。そんな人の多い所でタカオは相変わらず俺のプライベートを知ろうと、あの手この手で質問をした。



「良い友達。へぇ。じゃぁ、蘭ちゃんは一体、何に興味があるの」



「……興味、ねぇ」



「ハルヒト君には興味はあるんでしょ? ね、教えてよ。どんな人? ゲイなの?」



「あのなぁ、タカオ。お前酔うとだいぶウザいぞ」



「蘭ちゃん、でも俺は思うよー。ハルヒト君はきっと、ストレートだよ」



人の話を全く聞いてないタカオは春仁はストレートだと、聞いてもいない質問に答えた。そんな事くらい分かってる。あいつが男に興味がない事くらい。だからこそ、こうして自分の感情を押し殺して側に居続けてんだ。押し殺しすぎて、もう、訳が分からなくなるくらい。溜息をつく俺をタカオはじーっと見ていた。その時、このパーティーを主催していた友人がテキーラショットを配って歩き、いちいちハグして回っていた。



「きゃぁー! タカオくんと蘭くーん、来てくれてありがとぉーねー! たーくさん飲んでよぉー!」



黄色い声できゃっきゃっ騒ぐ由香はタカオと俺にハグをすると、また別の友達のところへ走って行った。騒がしい室内に、騒がしい人々。由香は焦茶色の長い髪を掻きあげると、遠くでもタカオに手を振っていた。誰がどう見ても、彼女はタカオに気があるらしかった。今日だってタカオ目的だろうってことは一目で分かる。


俺たちは部屋の隅、窓際にあるソファに座りながら、ショットグラスに入っていたテキーラを一気に飲んだ。アルコールが口に残るのが嫌で、一緒に配られたレモンにかじりついた。完全にそのテキーラに頭をやられ、ふぅ、と息を吐く。その日は10杯目のテキーラだった。胸がじわじわと熱くなる。タカオは急に無表情になり、その顔を見ているとつい、可笑しくなってしまった。



「急に静かになったな」



「さすがに酔ってきた」



「さっきから酔ってたろ。悪酔いすんなよ」



「悪酔いはしないけど。……蘭ちゃんが俺の質問に答えてくれないから拗ねてんの」



「答えてるだろ。お前、水いる?」



「いらねぇー」



タカオは唇を尖らすと大きな溜息を吐いた。



「ふふ、拗ねるなよ」



「別にぃー」



「春仁はさ良い友達っつーか、尊敬する相手っつーか、なんていうのかな、分かんねぇけど、一緒にいると落ち着くんだよ」



そう言うと、タカオは片眉を上げて疑いの眼差しを向ける。



「…へぇー。あくまでも、友達、ね。俺には理解できないなぁ。友達と毎日欠かさず連絡取り合うなんて。下心なきゃできないと思うんだけどなぁ? …ほら、またメッセージ」



ヴーヴーとバイブ音が響いた携帯を指差して、くっと喉の奥で笑う。タカオは、いつものタカオではなかった。酒が入るとこいつはSっ気を惜しみなく出すらしい。タレ目と一文字眉の甘いマスク、細身だが背が高く、ファッションセンスも日本人離れしているし、どこにいても目立つ男だった。それなのに性格は気さくなやつだったから学校内外どこへ行っても人気があった。



「俺の事はもう良いだろ。お前こそ、最近彼女とはどうなんだよ」



自分の話題を明らかに嫌がった俺はタカオ自身の事について質問をした。質問しながらも携帯の中身が気になり、つい視線を下ろしてしまう。相手はタカオが言う通り春仁だった。『パーティー楽しんでね! おやすみ、また明日ねー!』そう受信したメッセージに、『ありがとう、おやすみ』そう返して、携帯をポケットに突っ込んだ。



「彼女とはついさっき別れました」



俺が春仁のメッセージに頬を緩めていると、隣でタカオがそう何でもない事のように言った。そんな素ぶり全くなかったじゃないか。



「え、そうだったのか、…悪い」



「いやいや、謝らないでよ。あまり上手くいってなかったし、別に気にしてないし」



「そう、か」



気まずい事、聞いてしまったろうか、と少し反省しているとタカオはいきなり笑い出した。肩を揺らしていつものようにケタケタと。



「どうした?」



「蘭ちゃん、俺に興味ないよなぁーって改めて思った」



「え? なんでよ。俺が黙ったのは聞いて悪かったな、と思ったからで…」



「そうかなぁ? 何を聞いても、言っても、蘭ちゃんって顔色ひとつ変えないから。興味ないんだろーなって思ったら可笑しくて」



笑いすぎて涙目のタカオは相当酔っている。しれっとしているようでいて、酔いがかなりまわっているらしい。



「あーあ。ハルヒトくんに会ってみたいなぁ。たぶん、話合うような気がする」



「お前に会わせるの? それは嫌だわ、何か吹き込むだろ」



「吹き込む? 何を?」



タカオの意地の悪い視線。俺は「なんでもねぇよ」と返すとタカオはまたふっと笑う。



「ハルヒト君ともし会えたら、そりゃぁ、吹き込むよ。色んなことをね。あることないこと、たーくさん」



「お前とは付き合い短いけど、何か色々知られてそうで怖ぇんだけど」



「人間観察が好きだからね。俺ね、こう見えて結構色んな経験してるから、人の性格ってのはすぐ分かるんだー。その人の好みとかも。だから言い当てようか?」



「…なんか、怖いな」



眉間に皺を寄せていると、タカオは酔っているはずなのに、やたらハキハキと楽しそうに口を開いた。



「蘭ちゃんはヤンキーが隠しきれない怖ーい見た目してるけど、実はかーなり奥手のウブで、いつでも割と構ってくれる優しいヤツ。でも性には割と奔放そう。ハルヒト君にしか興味がないから、セックスも適当に済ませちゃうタイプかなー。相手には困ってる様子がないってところを見ると、欲しいわけじゃない。つまり…特定のある人物しか、欲しくない。それがハルヒト君。そう、でしょう?」



「………春仁が特定のある人物、ね」



タカオは怖い。甘い顔をした、怖い男。そんなタカオはつらつらと俺の事を語ると、またケタケタと笑い出し、「人生楽しもうねー?」と首を傾けて甘えるような声で言った。 タカオがもし春仁に今言ったことをすべてぶちまけたら、あいつはどう反応するのだろう。春仁は笑うだろうか、それとも困るだろうか、それとも嫌悪に繋がるだろうか。その特定の人物、ってのがあいつの事を指しているのだから、嫌悪されちまうのがオチかな。



「おー、タカオじゃねーか!」



その時、ひとりの男が現れた。年はそれほど変わらない、いや少し上くらいのその人は、背が高く、体格も良い。少し長めのウェットなホワイトブランドで後ろは涼しげに刈り上げられていた。髪はホワイトブランドなのに眉は真っ黒で凛々して印象に残る。きっとハーフだろうと思う目鼻立ちで、こんなに人が多くいても、その人はえらく目立った。一般人の中にモデルがいる、そんな感じだった。男も女も注目するだろう見た目だった。



「えーなんでいんの?」



名前を呼ばれたタカオは何故かとても面倒くさそうに、気怠そうに答える。



「お前、久しぶりに会った先輩に対してそんな冷たい言い方はねぇーだろ」



対照的な明るい金髪黒眉の声。



「まじなんで? 由香ちゃんの友達?」



「そーそー、いや、まぁ、由香ちゃんは親友の友達?みたいな。ほら、ミオ覚えてない? 何回か会ったことあるだろ?」



「あーミオちゃん? あのラルフォンのモデルのコ、だよね?」



「そう、そのミオの友達。一回だけ会ったことあったんだけどお前の友達だっただなんてなぁ。世界はせまーい」



ワハハハと豪快に笑うその人は、やけにタカオとの距離が近く、そしてやけにタカオと話したがるようだった。横に座る俺を一切視界には入れず、話も挨拶もしない。俺から挨拶した方が良いのか、とは思うものの、タカオに紹介されたわけでもないから、ただタカオの隣に座り、気まずさにグイグイと酒を飲んでいた。その人は一向にタカオとの会話を止めないから、いい加減、居心地が悪くなる。どうしようかなと携帯を見ても、春仁からはもちろんメッセージはない。寝てしまった春仁を恋しく思いつつ、ふたりが話し込んでいるのなら少し席を外そうかと、俺はソファから立ち上がりそっとその場を後にした。


いつぶりに立ったろうと思うくらい、久しぶりに立ち上がると一気に酔いがまわった。クラクラと軽く目眩がして気分が悪くなった。テキーラ10杯はさすがに効く。そう飲んだ酒を軽く後悔しながら部屋を抜けると、廊下に繋がるドア付近で友達と話しをしていた由香が「蘭くーん、どこ行くのぉー」と猫なで声で俺に尋ねた。



「トイレ」



その場を早く後にしたい俺は素っ気なく答え、話しかけないでくれ、と言葉には出さず念じてみるが、このお嬢様育ちの常識なんて知ったこっちゃない由香には全く通じない。



「まじー? あ、こちら、ノブくんと、リンちゃんと、アリサ。3人とも高校からの友達でね、みんなが蘭くんを紹介してほしーって」



由香に紹介された3人は、少し気まずそうに笑いながら頭を軽く下げ、俺も頭を下げる。いやいや、本当にこの3人が俺を紹介してほしいと言ったのだろうか。どう見ても言ってないような気がするのだが。それでも無い愛想というのを無理矢理表に出し、少しだけ口角を上げてみる。



「あのー、はじめまして。由香とは同じ専攻なんですか?」



ぎこちない挨拶をしたアリサという女性は、アッシュグレーの長い髪を、緩く後ろで結んでいた。スレンダーな背の高い女性で、タイトなハイネックのワンピースを着ていた。



「はい。たまに授業とか一緒に出てます。あ、向こうにいつも一緒にいるのがもうひとりいるんですけど、…今話し込んでるみたいで。あ、名前言ってなかったけど、俺は勝井 蘭、です。はじめまして」



なんのインパクトも与えないであろう無難な挨拶をすると、「イケメーン! 年上に見えた! 同じ年なの? ハタチなの? なんかすっごいタイプ!」と騒ぎだしたノブくんと呼ばれる男性は、坊主に派手な柄のシャツを着ていた。背は俺と同じくらい。左耳にだけシルバーのフープピアスをして、細い指にはゴツい指輪をはめている。



「本当、イケメーン。なんかけっこう筋肉質なとことかいいよねー。すでに好きかもしれなーい」



「ありがとう」



二の腕を触られながらどう答えようか迷いに迷った挙句、ありがとうと答えると、アリサちゃんがアハハと大げさに笑った。



「鍛えてるんですかー?」



そう聞いてきたのは小柄な黒髪の子だった。リンちゃんと呼ばれるその女性はどうみても未成年に見えた。化粧っ気がないからか、それとも顔立ちがとても幼いからか。丸くて大きな目で、じっと俺を見上げている。



「少しだけ」



「えー、すごーい。なにかぁー、スポーツはされてるんですかぁ?」



「特にはしてない、かな。たまにジムには行きますけど」



早くそこを抜け出したかった。面白そうな人たちではあるが知り合うのは今ではない。早くトイレに行って、それから一旦夜風に当たりたい…。そう考えていたのに、いつの間にかいなくなっていた由香が、テキーラショットを人数分持って戻って来てしまう。俺はしまったと後悔した。



「はーい、ひとまず飲もぉーねー」



手渡されたそれは、本日11杯目のテキーラショット。 チンッと音をたてて乾杯し、飲みたくはないが仕方なく一気に飲み干した。ショットグラスは少し小さめで、量は決して多くない。それでもアルコールが喉を焼くようだった。同じものばかりでその味が嫌いになってしまう。



「くぅーマズイ!テキーラまじマズイ!」



渋い顔をするノブくんは、「本日5杯目ぇー」と手をパーにして俺に見せた。何を返して良いのか分からず、その言葉に少し微笑む俺に、つまらないやつと思ったのか、話しの広がらないやつとでも思ったか、3人でガヤガヤと話し始めてしまった。けど、それでいい。もともと俺はこの輪の中にいるはずではないのだから。今は早く、夜風に当たろう。


俺はふらーっとその輪からフェードアウトし、トイレへと足早に進んだ。トイレの前では知らない男女が舌を絡めてキスをしている。お盛んである。そいつらの横を通り抜け、用を済ませると玄関を抜けて外に出た。外に人はいないようだった。金持ちお嬢様、由香の別荘はかなり広い。騒がしいパーティーソングは外まで聞こえているが、近くに家もなく騒音を気にしなくても良い環境だった。中から漏れる音楽を聴き流しながら、玄関の数段ある大理石の階段に腰を下ろして一息ついた。


春仁は何してんだろ。いや、寝てるか。そう考えながら携帯をついつい見てしまう。もちろんメッセージはゼロ。騒がしい所は好きではなかった。クラブには行くがそれはヤるためである。基本的に人が多い所というのは得意ではなく人疲れしてしまうと、つい悪い癖かのように春仁に会いたくなってしまう。春仁とふたりで家でぐーたらテレビ見て、ゲームして、他愛もないくだらない会話をしてぇな。


時間は深夜2時。しばらく外で涼んでいたが、タカオから「どこ?」というメッセージが入り、うーんと伸びをした後で再び騒がしい家の中へと戻った。俺がさきまで座っていた場所には、さきほどの金髪黒眉のハーフが座っていて、俺は部屋の入口で受け取ったラムコークを片手にタカオを見た。


座らせてくれねぇかなー、と悩んでいるとタカオはその先輩の話の腰を折り、「先輩、蘭、来ましたんで…」と退けるよう訴えた。その人は「それは失礼」と笑うと、少し離れた所から酒瓶が入っていたであろう木箱を引っ張り出し、その上に腰を下ろした。それを見ながらタカオはその人に俺を紹介する。



「先輩、こちら、蘭。蘭、こちら蓮司先輩」



「はじめまして、蘭くん。俺、蓮司ね。ホール・ブレイク・蓮司。蘭くんの話しはさっきこいつから聞いた」



「そう、ですか…」



なんでだろ。この人の事を少し苦手だと感じてしまうのは。



「蘭、座んなよ」



立っていた俺にタカオは隣をポンポンと叩き、優しく口角をあげて微笑んでいる。その時、こいつが俺のことを蘭ちゃんではなく、蘭と呼び捨てにしていることに気付いて、軽い違和感を覚えた。タカオの目は妙に真剣で、警戒しているように見える。たぶん、いつもみたいにヘラヘラ笑ってないからかもしれないが、何をそんなに警戒しているのだろう…。


しばらくまたふたりで話し、それから蓮司さんはどこからか飲みかけのシャンパンのボトルを持ってきた。「今日は飲むぞー!」と叫び、ボトルに口をつけてぐびぐびと飲んでいる。あぁ、もったいない飲み方をする人だ。続いてタカオが飲まされ、俺も飲まされる。酸味が口に広がり、胃で炭酸が弾ける気がした。シャンパンというのは意外にもアルコールが高い。飲みやすいが調子に乗って飲んでいると意識がいつの間にかない、なんてこともある。今のところ意識はしっかりあるものの、ふわふわと周りがゆっくりと動くように感じた。胸がアルコールで熱くなり、これは酔ってんなと自覚する。



「いやーでも、タカオが真面目に学生やってるとか意外。てっきりモデル続けると思った」



「…モデル?」



タカオ、モデル、…? こいつはモデルをやっていたのかと、初耳の情報に首を傾けてタカオを見ると、タカオはシャンパンのボトルを握ったまま「やってたやってた」と投げやりな返事を返した。 酔いの回った頭で、タカオとモデルを結びつける。この容姿だ。人気がありそうだ。



「高1の時に、ピースだか、ウェールズだったか、メンズ雑誌に出て、その後事務所入って、なんか大手の専属やってたよな? だからてっきりモデルで食ってくと思ったんだけどね」



「へぇー…全然、知らなかったですね」



本当に何も知らなかった。こいつはモデルのモの字も俺には言わなかった。一言くらい言っても良いものを、何か理由があったのだろうか。タカオはシャンパンをゴクンと飲むと、「不祥事起こしてクビになりゃぁ、続けたくても続けらンねぇよ、バーカ」そう冗談半分に吐き捨てるうよに言うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。


驚いた。モデルだった事も初耳で驚いたのに、不祥事起こして事務所をクビになり、モデル生命を絶たれていたなんて。タカオはいつも明るく、誰からも好かれ、ウザいくらいによく喋るような男だが、相当何かを抱えているらしい。ワケありか。だとしたらモデルだった、とは言いたくねぇよな、と俺はつい眉間に皺を寄せてしまっていた。そんな俺の表情を見て、隣にいた蓮司さんはなんだか嫌な笑みを浮かべて木箱をソファに近付けた。



「あいつ、モデルだった、って君に言ってなかったんだ?」



蓮司さんはタバコに火を点けてふかすと、そう俺に聞いて首を傾げた。きっとこの人はタカオの不祥事の詳細も知っている。なのに知らないフリをして聞いたのは、俺にその不祥事がなんだったか聞かせるためだろう。この人はタカオの何なのだろう。タカオを苦しめたいだけのように見えて仕方がない。



「言ってなかったですね。付き合いも専門入ってからの仲ですし。高校時代の事、互いにあまり話さないんで」



「ふーん、あ、そ」



この人、やっぱり苦手だ。蓮司さんはタバコを深く吸うとしばらくして口を開いた。



「タカオってさ、あー見えてかなり波乱万丈な人生歩んでんの」



「そうなんすか」



「毎日が刺激的だったろーに。なのになんか平々凡々としやがって。つまんねぇーなぁ。刺激の多いキラキラした毎日を送ってきた人間が、こうも穏やかすぎる日々っての送れるものかな? どう思う?」



知るかよ、そんな事。そう口をついて出そうになった言葉をぐっと飲み込み、「さぁ」と濁した。この人といるのはなんとも居心地が悪かった。携帯で時間を敢えて確認し、どこか別の場所へ行こうかと考えていた時だった。その人はふっと笑うと、「君は危ない事の方が好きなタイプだよね?」と低い声で言う。危ない事。それは何を指しているのか俺には分からない。



「…何のことを言ってるのかよく、」



「君、モテるでしょ? 高校の時とか結構悪かったタイプじゃない? 見た目の良い不良って、モテちゃうよねー?」



「いや、あの、モテないですし、どういう事か…」



「その褐色の肌ってもとから? それとも焼いてる?」



話がどうも噛み合わない。



「もとからですけど…」



警戒心を丸出しに俺がそう答えると、その人は声を出して笑った。



「そんな眉間に皺を寄せないでよー。褐色の綺麗な肌とかマジ羨ましいって思っただけ! ほら、褐色の肌ってやっぱカッコいいじゃない。俺なんてこの通り白いからさぁ、日焼けすっとすげぇー赤くなってお終い。だから羨ましいなぁーって」



「そう、すか」



「ね、明日の夜、空いてる?」



なるほど。この人は、タカオが警戒するほどの人間。関わって良い事など起きない類いの人間かもしれない。その容姿からして狙えば全て手に入ってきたんだろうって事は、直感で感じるし、今、自分がそのターゲットになっている事もようやく理解した。だから苦手なんだな、この人が。俺を誘ってるからではなく、何もかも簡単に手に入ると考えていて、身勝手で傲慢そう。それが隠しきれていないから苦手なのだ。



「空いてないです」



「あら、ざんねーん」



ハンサムだと世間では持て囃されているだろう顔をくしゃっとさせて笑顔を作り、「しつこくすると嫌われるから、お誘いはここまでね」と付け足して、蓮司さんはまたタバコを吸っている。



「先輩、また口説いてんでしょ?」



その時、タカオはテキーラショットをひとつだけ持って現れ、俺の隣に再び腰を下ろした。



「口説いたけど、取り合ってくれなかったねー。残念だなぁ」



「へぇー」



タカオはショットを飲み干す。妙な空気だった。タカオからいつもの明るさが消えていたからか、蓮司さんが何やら楽しそうな笑みを浮かべてタカオを見ているからか。何かがずっと引っ掛かるような心地の悪い空気である。タカオは一息ついてソファの背もたれへ、ずるずると溶けるように寄りかかる。蓮司さんはそのタカオの顔を見下ろすとそっと長い腕をタカオへ寄せた。タカオはその行動にビックリしたらしく、目を見開き、その手を払った。それは異常なほどの反応だった。蓮司さんはその反応を見た上で、「ゴミ、ついてる」と笑顔を作って糸くずを取って見せた。タカオが何かを言い返そうと口を開いた時、遠くからひとりの女性が蓮司さんを呼び、蓮司さんは「ちょいと失礼」と言って席を立つ。その蓮司さんの背中を見ながら、タカオは大きな溜め息を吐いた。



「あの人には気をつけなね。厄介だから」



過去に何があったかは知らない。蓮司という人の事も、全く分からない。しかし揉め事を生むような、厄介なタイプの人間だという事だけはこの数分でよーく分かった気がした。



「そうだな」



そう言うと、タカオは俺を見上げる。



「ま、でも蘭ちゃんは平気か。ハルヒト君、一途だもんねー?」



「…春仁はそういうンじゃないんだって」



そう目を細めて吐くとタカオは甘ったれた表情で、「ふふ、そうかなー」と表情を緩めた。眠そうな、溶けたような目をしたタカオは、「ハ、ル、ヒ、ト」 と揶揄うように繰り返している。そうしてしばらく黙っていたかと思うと突然口を開いた。



「ねぇ、ハルヒトくんって彼女いたことないんだよね?」



また春仁の事かと俺は半ば呆れるが、酔っ払いにいちいち呆れていても埒が明かない。



「さぁ? 俺が知る限りはいない、と思うけど。中学の時からの友達だけど、彼女がいたってのは聞いた事がねぇな」



「ふーん。でも、ストレートなんだ?」



「直接聞いた事、ねぇよ、そういうの。ってかお前がストレートだ、って言い出したんだろ」



「あれー、そうだったけ。覚えてないなぁー」



ダメだコレは。



「ま、けどあいつはお前の勘通り、ストレートだと思う。雰囲気がそうだから」



呆れすぎてそう流そうと思った。



「でも案外、人間って隠すのが上手いからねぇ」



でもその一言に俺はつい反応してしまう。春仁が男と…? 全く想像できなかった。いや、女とも想像できないのだが。そもそも春仁が誰かと付き合うって事が想像できない。いや。想像したくないだけだな…。タカオは欠伸をひとつすると眉間に皺を寄せていた俺を見て、「だと良いよね?」と微笑んだ。こいつはタチが悪い。



「なんだっていいよ。あいつが誰を好きになろうが、俺には関係のない事だろ。ただ、あいつと楽しく友達やれりゃぁそれで良い」



「あくまでも友達を貫くんだ? へぇー。ストレートはそのうち、あっさりと結婚しちゃうからね。後悔しないようにね」



そう言うとタカオは長い脚を組み直し、ふふっと笑っている。あっさりと、結婚。そうだな、…そう、だよな。その言葉は自分が思っている以上に響いた。痛い。痛いけれど痛いなんて、言えない傷だった。血を流しても、流れていないと言い続けなればならない傷だった。タカオはさんざん春仁の事を聞いた後、満足したのか騒ぐだけ騒いで、うとうとと船を漕ぎ始める。寝かせてやろうかとタカオに肩を貸したまま俺は携帯を開いた。


もちろん春仁からの連絡はない。当たり前ではあるが、つい癖のように確認してしまう。春仁からの連絡がない事を確認した後、どうでもいいニュースサイトを開いて適当に記事を流し見る。その時、わっと入口が騒がしくなった。何事かと入口を見ると、背の高い男がそこにはいた。まわりが女性ばかりだったから余計、その背の高さは目立った。シンプルな白い薄手の長袖にジーンズ姿で、雰囲気はアメカジ服屋の爽やかイケメン店員。その人が腕を曲げる度、肩や二の腕の筋肉が盛り上がるから、服の上からでもその体格の良さが見て取れる。背が高いからあまりごつく見えないが、たぶん、きっと、かなり筋肉質だった。春仁みたい。 手足が長く、しなやかに筋肉がついている。体格が春仁を連想させ、俺はその人に釘付けになった。


明らかにこの中では最年長であろうその人は、切れ長の涼しげな瞳と、バタくさいツンと少し上を向く鼻と、薄い唇を持っていた。整った顔をしたその人は、春仁のように全体的に色素が薄く、薄茶色の長い髪を後ろで緩く丸くまとめて縛り、柔和な笑顔を見せている。


誰にでも笑顔で、優しそうな人。やっぱり、春仁に似ている。その人は登場するなり人々の輪の中にいて、楽しそうに話している。



「遅れてごめんね」



申し訳なさそうな困った表情と優しい声。



「おー! シロー!」



けれどその人に大声で駆け寄ったのが蓮司さんだったから、その人が蓮司さんの友人であることは一目瞭然で、その人への興味は完全に消えた。



「お! 蓮司! 久しぶり!」



そう思ったのだけど、どうも簡単に興味というのは消えないらしい。蓮司さんの友達には碌なやつがいなそう、なんて無駄にレーダーが働いているのだが、俺はその優しそうな人から目が離せなかった。



「元気してた?」



「元気! シロも元気そうで良かったー!」



「僕はいつも元気よー?」



声は違う。話し方も違うが、やっぱり春仁を思わせる。



「…誰だあれ」



タカオは眠そうに目をこすって、その人をじーっと見たが、しばらく考えても答えはでず、欠伸をしている。俺は氷が溶けて、かなり薄くなったラムコークのグラスを握ったまま、その人と蓮司さんのやり取りを凝視していた。



「なぁ、シロ。お前、酒飲んでねぇーよな?」



「当たり前じゃん、今来たばっかよ?」



優しい笑顔を見せるその人と春仁をダブらせ、俺は勝手に彼をこの騒がしい場所で見つけたオアシスに仕立て上げた。



「じゃぁ、まだ飲むな!」



「えぇー、なにそれ、意味分からない。俺、飲んじゃダメなの? …あ、由香ちゃーん、お誕生日おめでとー、プレゼントと差し入れ!」



その人は由香の友達でもあるらしく、駆け寄って来た由香にプレゼントを渡す。由香は満面の笑みを浮かべるとその人に大胆に抱きついて感謝した。



「きゃー嬉しい! ありがとー!」



差し入れはシャンパン二本だった。その二本のシャンパンはその場で開けられ、回し飲みが開始された。その間に蓮司さんはシロと呼ぶその人の腕を引っ張って、俺たちの前へと連れて来る。春仁に似た人がこっちへ来る。心臓が忙しなく煩い。脈が速くなる。タイプって厄介だ…。



「おい、お前らちょっと付き合えよ」



「は?」



かなり嫌そうな顔をするタカオの腕を引っ張って起こした蓮司さんは、何を企んでるのか分からない。俺は怪訝な顔丸出しで蓮司さんを見上げていたろう。その表情を見て、シロと呼ばれるその人は、俺に困ったように笑った。



「えっと、こんばんは。はじめまして、僕は白川 智人です」



けれどその人の声が優しいから、蓮司さんの企みなんてどうでも良くなった。この人、良いな。好みだな。でも遠目で見ると気付かなかったが近くで見ると、驚いた事に刺青をがっつり入れている。ワンポイントではない、多分、かなり広範囲に入っていそうだ。暑いからだろう、長袖を捲ったその腕に見える刺青は見事な和彫りだった。


綺麗だった。圧巻だった。つい凝視してしまうと、その人は俺の視線に気付き、眉を更に下げて、申し訳なさそうに袖を下ろした。



「刺青、ごめんね。ここ、暑いから…。ここの人達は、僕にスミ入ってるの、皆んな知ってるから、つい。でも怖いよね、和彫とか…」



申し訳なさそうに気を使うところ、春仁みたいだ。わざわざ、そんな事、言わなくても良いのにな。



「いえ、俺は別に…。カッコいいなと、思っただけです。気を使わせるつもりじゃ、なかったんスけど、見すぎてましたよね。すみません」



「あ、いや、ううん。怖がらせたわけじゃないなら、良かったよ」



ホッとしたように表情を緩めるその人の笑みが優しかった。白川さんとの出会いはそんなもんだった。和彫りの刺青を豪快に入れた、優しい笑みを持つ、柔和な人。春仁に似ている美しくて温かな人。


けれど人生はそう、上手くはいかない。その柔らかく温かな印象はその後すぐ、一瞬にして消えてしまうのだから。

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