第34話 近江さん その2

 俺こと三河晴斗は、二時間目の移動教室を終え、家庭科室からクラスに戻ってきたところだった。他の生徒たちはまだ戻ってきてないな……と思いながら、教室の扉をくぐると、中から声が聞こえてきてそちらを見やった。


「イヤ! やめて! 無理やりはイヤ!」

「孕ませてやるっていってんだろ!」


 クラスメートの甲斐が、同じくクラスメートの近江さんの腕を掴み、その近江さんは必死にふりほどこうとしている様子。どう見ても、甲斐が乱暴をはたらこうとしているようにしか見えない。俺は声を上げて近づいた。


「やめろ! 甲斐!」

「なんだ三河。じゃますんじゃねーよ! お前には関係ねーだろ!」

「近江さんが嫌がってる」

「孕ませてやるんだから、イヤもクソもねーだろ?」

「女の子が望んでないのに無理やりはダメだろ。当たり前の話だ」


 俺は甲斐の腕をつかんだ。甲斐が俺をにらみつけてきた。以前の、モブ陰キャの俺だったら、割って入ることはしなかったと思う。その俺が、澪やサリー、ナナミと付き合って、彼女たちの機微に触れ、女の子のピンチを無視できないところにまで育て上げられたのだ。


 甲斐は、ぎりぎりと歯を鳴らし、「クソが!」と言い捨てて去っていく。最近、女子に相手にされず、校内で荒れているという噂の甲斐。やけにあっさりと引き下がったなとは思ったが、これから生徒たちが戻ってくるこの教室で、乱暴狼藉を働くのはまずいと思ったのかもしれない。


「晴斗君! ありがとう!」


 目の前から、近江さんが、うるんだ瞳を向けてきた。


「ちょっと……ピンチだったから。男の子の友達多い私でも、さすがに襲われるなんて考えもしてなくて、ほんとうに怖くて……」


 近江さんの表情は、感謝の微笑み。目尻にたまったしずくが、こぼれ落ちそうになっている。と、その近江さんが、俺に抱きついてきた。俺の背に腕を回して、身体を密着させてくる。


「ちょっとだけ……こうさせて。まだ、怖くて、心臓がどきどきしてるから」


 そう言った近江さんは、細かく震えていた。俺も、近江さんを抱きしめた。これで近江さんの恐怖が和らぐなら。そう思って。


 やがて近江さんの震えが止まる。俺は、言葉をかけながら、その近江さんから離れた。


「もう、大丈夫そう?」

「え? う、うん。大丈夫そうだけど……」


 近江さんは、名残惜しそうな顔をしていた。


「ごめんね、近江さん。俺、付き合ってる女の子たちがいるから、近江さんとあまり密着できないんだ。教室に戻ってきたその子に見られると、傷つけてしまうから」

「澪……さんたち、だよね?」

「そう」


 近江さんは残念そうな顔をしたけれど、俺の話を受け入れて離れてくれた。その近江さんが、「突然でごめんだけど……」と続けてきた。


「前から、甲斐君には俺の女になれよって絡まれてたんだけど……」

「! 学園に報告しよう。捨ててはおけない」

「それはもうした。でも甲斐君、荒れてて、最近はところかまわず声かけてくるようになって……」

「それは……」

「学園側も、この子づくり全盛のご時世もあって、私からの声だけだと動きにくいところもあるらしくって……」

「…………」


 俺はうなった。甲斐の乱暴は捨て置けない。しかし、無理やりはもちろんダメだんだが、女の子が男を求めるのは当たり前というか、女の子が男子とスルのは称賛されるべきだという今の時代の価値観もあって、近江さんの立場が微妙なのは理解できた。


「でね。今考えたんだけど、晴斗君にボディガードお願いできないかなって」

「俺……がか? もちろん俺でよければ、なんだが、他のカースト上位男子の方がいいんじゃ……」

「晴斗君は、もうカースト最上位の男子だよ」


 今まで震えていた近江さんが、少しだけ笑顔を見せてくれた。そして、続けてくる。


「甲斐君も、晴斗君には手出しできないって思うんだ。さっきのことで、確信したの。晴斗君、まわりに澪さんやナナミさんみたいな四大美花を連れてるでしょ。晴斗君を敵にするって、この街の実力者の澪さんの家を敵にするってことだし、もうこの街にもいられなるのと同義だって」

「そうなのか……。いや、そうだろうな」

「だから、今年いっぱいでいいから、少しだけ私の近くにいて、私のこと気にしててほしいの。来年には引っ越す予定だから」

「それは……」


 澪たちのことが頭に浮かんだ。状況を話せば、あの四人なら納得してくれるはずだ。だがたぶん心の奥底では、俺が他の子に近しく接するのは嬉しくないという気持ちがあると思う。理性では認めても、感情では納得しきれないという部分が。


「返事は、澪たちに相談してからでいいか?」


 俺が尋ねると。


「もちろん。私が無理を言ってるのは百も承知。でも私も追い詰められてて、気持ちもいっぱいいっぱだったから、話してみたの」

「わかった。二、三日、待ってほしい」


 そう言って、その場はお開きにしたのだった。そしてその晩、澪たちに話すと、すんなりOKが出た。俺は今年いっぱい近江さんのボディガードをすることになり、近江さんは学園で俺たちのグループに入って行動することになったのだった。



 ◇◇◇◇◇◇



 そして近江さんが俺たちのグループに入って数日して。食堂で昼食をとっているときに、近江さんが申し訳なさそうに話してきた。


「明日、一人で港南ショッピングモールに買い物に出る予定なんだけど……」

「俺もついていった方がいいか?」

「うん。申し訳ないけど、お願いできたらって」

「近江サン。学園外なら安全ジャン?」

「私もそう思ってたんだけど……。前に街中で甲斐君と鉢合わせして絡まれたことがあって……」

「甲斐君も相当のワルですね。晴斗さま。ついていって差し上げてください」

「でもそれってデートみたいじゃ……」


 ちゃかしたナナミが、澪たちに非難の目を向けられた。ごめんなさいと、ナナミが素直に引っ込む。こういう成り行きで、俺は明日、近江さんと出かけることになったのであった。

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