第五章 convey 第十三話 猫の本領


 どこを見るでもない虚ろな瞳は感情が感じられない。美里は、眞知の母親の表情を見て動きが止まる。

 まるで人形がそこにいるかのように心を閉ざしてしまっていた。


 「……もう、無理なのかな。私だけじゃ……」


 母親の両肩に触りながら眞知はうつむいて声を震わせた。


 「さっきお医者さんにも言われました。施設を考えた方がいいって」


 涙が溢れだし、眞知の頬をつたう。


 「せっかく頑張って、これから楽にしてあげられるって思ってたのに……これからだったのに……」


 美里は眞知の表情を見て、もらい泣きしはじめる。しかし、かける言葉が見つからずただ拳を握りしめた。

 眞知は腕の裾で涙を拭いた。


 「ごめんなさい。取り乱しちゃって」


 眞知がもう一度母親に声をかけようと口を開けたとき、係長が眞知の足を触って、黙って頷いた。

係長は急にコートを脱ぎ、ネクタイを取り、おもむろにシャツのボタンを外し始める。脱ぎながら係長は@スピーカでスクリーンを出し操作しはじめた。

美里が係長の行動に驚いていると、係長からメッセが届く。


『猫用チューブおやつは持っていますか?』


美里は頷いて、胸ポケットにいつも忍ばせているチューブオヤツを係長に見せる。


『私が鳴いたら、封を開けてお母さんに渡してください』


 美里が再び頷いたのを確認すると、オールヌードになった係長は、眞知の母親の背面に回り込む。そしていきなり母親の首元付近に飛び乗ると頬に頭をこすりつける。


 ぐるぐるぐるぐるるる……。


 係長の喉が大きな音でなり始め、その振動が母親の耳に伝わる。

 背面のソファに乗ったまま母親の頭にスリスリと体全体を使ってこすりつけた。

 母親の瞳に少しだけ色が戻る。美里は驚いて唇が開いた。

 

 勝手に動いたかのように母親が係長の頭をなで始める。係長は撫でてきた手にも、力いっぱい頭をこすりつける。そして母親の指をひと舐めすると、肩から飛び降り母親の膝の上に乗ると立つようにして母親の口元にまた頭を何度もこすりつける。

 

 母親はゆっくりと、今度は係長の背中をなでる。

 喉の音をより一層、大きく鳴らすと金色の瞳で母親の目を見つめた。


 「みゃうん」


 一声鳴くと小首を傾げて、母親の顔に頭をこすりつけた。

 美里が母親の背中から、猫用チューブおやつを差し出す。


 「どうぞ」


 母親はそれを受け取ると係長を見て口元におやつを差し出す。

 係長はぺろぺろと舐め始める。


 母親の口元がほころび、微笑みに変わる。

 眞知が母親の表情が戻ったことに気づき、思わず口元に手で抑えた。

 そして、また涙が溢れだす。


 「……美味しい?」


 係長はオヤツを舐めるのを中断して母親の指をペロッと舐めて、またオヤツを舐める


 「美味しいのね。ふふふ」


 眞知は、ほっとしたように涙をぬぐいながら微笑む。

 美里は持っていた保冷バッグを眞知に渡し小声で囁いた。


 「今ですよ」


 眞知は、強く頷くと弁当を取り出してレンジで温める。

 そして温めた弁当を持って母親の横に座ると弁当を広げた。


 「お母さん、あたし達もいっしょご飯にしようか」


 母親は眞知の顔をみて微笑む。


 「そうね。あら美味しそうね。エビチリと焼売が入ってるわ」


 係長は舐めるのをやめ、一歩ずつあとずさりして母親の膝から降りる。母親は微笑んで係長の頭をひとなですると、オヤツをテーブルに置き、急に立ち上がった。

「お味噌汁を作るわ、お野菜が少し足りないもの」


 眞知も慌てて立ちあがる。


 「お、お母さん、私作ってくるよ。インスタントあるし」


 その瞬間、母親の目元の表情が曇ったことに係長は気が付いた。


 「……そう」


 前足に力が入る。母親が暗い表情で屈んだ時だった。


 「あ、あの」


 美里がソファの後ろから言葉を発した。眞知も母親も係長も、美里に注目した。


 「おかあさん。わたし料理ほとんど作ったことなくて。インスタントでもいいから教えてもらってもいいですか?」


 眞知は眉間にしわを寄せた。


 「何言ってるのあな……」


 「ニャオーン!」


 眞知の言葉を遮るように係長が大きな声で鳴く。眞知が係長を見ると、係長は首を振っていた。


 驚いて眞知が母親をみると、母親は少し微笑んでいた。


 「あなた料理したことないの?」


 「そうなんです。電子レンジも使ったことなくて」


 「あらあら、それは珍しい子ねー」


 母親はもう一度立ち上がるとキッチンの方に美里と向かう。


 「あの電子レンジでお湯って沸かせるんですか?」


 「当たり前よ。じゃあインスタントお味噌汁をレンジで作ってみましょう」


 美里と眞知の母親は、電子レンジを使ってお湯を沸かす準備を始める。

 眞知は座り直し茫然と二人を見つめていると係長が隣に来た。


 「お母様は眞知さんの、いや誰かのためになりたいとお思いなのではないでしょうか?」


 眞知は再び係長の顔を見る。


 「ずっとお二人で過ごされてきて、お母様にとって眞知さんを育てることだけが生きがいなのでは? だとしたらもう一度ケアマネを含めてアセスメントをし直した方がいいかもしれませんよ。一緒に危険の無い調理や家事をして眞知さんの帰りを待つなどのやり方に」


 眞知がうつむき寂しげな表情に変わる。


 「でも先生も、ケアマネさんも施設を考えた方がいいって。若年性アルツハイマーは鬱になりやすいから心のケアが必要で、私ひとりでは面倒が見切れないのではないかって」


 眞知の目から、また涙がたまる。


 「やっと恩返しができるようになったのに、離れて暮らすなんて……」


 眞知は無意識に自分の服を強く掴んでいた。

 係長は母親にしたように、眞知のひざに乗ると自分の顔を眞知の頬っぺたに擦りつける。

 眞知は係長の金色の瞳を見る。潤い豊かな瞳は部屋の光を乱反射しながらも、黒目が真っすぐに眞知の目を見つめていた。


 「でしたら……」


 眞知の目を見つめたまま、係長は膝の上に座った。


 「あくまでご提案の一つですが、お仕事で外出されることが多いのでしたら、私どもではなく少しお金はかかりますが介護職の資格を持った家政婦の猫を常駐でお雇いになるのはどうでしょうか? 昔の猫として振る舞いながらお母様のサポートにあたれば、危険はぐっと減りますし安心できるのではないですか?」


 眞知の目が少し開く。

 

 「家政婦の猫?」


 「老婆心ながら、あなたはまだお若い。ご自分のことも大切にしてくださいね」


 眞知は係長を抱きしめる。


 「……ありがとう、ございます」


 キッチンで味噌汁の元をお椀に入れていた美里はソファの抱きしめる眞知と係長を見て、ショックでインスタント味噌汁の袋を落とし絶句する。


 眞知が係長を優しくソファにおろす。


 「あなた何歳なの? なんかすごく年上の人と話しているみたい」


 「猫年齢で四十歳ですが」


 「人の普通の年齢は?」


 「……六歳ですけど」


 眞知はくすっと笑う。


 「ちょっと。あなたもですか。猫なんだから猫年齢で敬ってくださいよ」


 母親がおぼんに味噌汁をニつ作ってテーブルに持ってくる。


 「さぁ食べましょう」


 ソファに座ると母親が眞知の顔を見て微笑む。眞知も唇を緩めながら割りばしを母親に渡した。

 美里は係長を抱きあげてソファの端っこに座る。


 「あら係長さんも、こっちに来ればいいのに」


 眞知が母との間にスペースを作る。


 「食事中ですから!」


 そっぽを向きながら係長を美里は離さない。

 眞知は不思議そうに美里と係長を見る。


 「ねぇ、よかったら係長さん。ウチの専属にならない? お給料なら弾むわよ」


 美里は驚いて係長と眞知を交互に見る。

 係長が発言しようと口を開けると、係長の口を突然押えて、美里は涙目で首をフルフルさせた。息も出来ない係長は美里を思いっきり睨みつけ腕をひっかいた。

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