第五章 convey 第五話 尾行
◆◇◆◇◆
時刻は午後六時半を回った。
すでに空よりも街の灯のほうが明るくなっている。渋滞する街道は、朝のそれよりも一日の疲れを帯びた緩やかな流れに見える。
『介護のねこや』のプリントが入った自動運転車は、そんな街道から事務所の充電スペースにゆっくりバック入庫していた。
車のスライドドアが開くとバッグを背負った係長が降りてくる。他の介護猫も同じように帰ってきて、挨拶をしながら係長は事務所の中に入った。
「あ、おかえり、くろー」
美里はまるで当然のように係長を入り口で出迎える。所長と後輩のアビシニアンも美里の周りにいた。
美里は、買ったばかりの服を着ている。
ベージュのボレロのロングカーディガン、ネイビーのⅤ字ラインのTシャツ、ハイウエストのグリーンスラックス、ブラックのスクエアのトゥショートブーツ。薄く口紅もひいている。
係長は、初めて見る美里の大人っぽい雰囲気にまばたきを何度もする。美里が微笑むと、係長は照れて目線を外した。
「君は今日休みのはずだろ。なんでいるんだ」
「新しい服買ったから、くろに見せようと思って。テーマは『春からの出勤用』どう?」
くるりと一回転をして、美里は係長に着こなしを見せる。ニコニコしながら両手を組んで所長は、美里を見上げた。
「いいわよぉ。似合ってる。素敵だわー」
後輩のアビシニアンも頷きながら微笑んでいる。所長が係長をチラッと見てウインクしてきた。係長は咳払いをしながら、ちらちらと美里を見た。
「決めたってことかい?」
「何を?」
「何をって、この仕事に就くのかってことだよ」
所長が美里の背後からさっと顔を出す。
「何言ってるの。春から待ってるわよ。美里ちゃん」
係長は買ったばかりのスラックスの裾を美里が掴んでいることに気が付いた。唇には少し力が入っている。急にしゃがみこみ、美里は係長と目線を合わせた。
「くろ。あたし、この仕事向いてるかな?」
美里の目は真剣だった。
化粧もして大人の女性のような顔つきにはなっているが、その瞳は迷子の子供のように不安が溢れていた。係長はその揺らいでる美里の瞳をただ見つめる。
「向いてる向いてる。なんたって人間なんだから、それだけで充分よ」
所長は美里の背中を叩いた。
「……」
係長は、何かを言いかけるが口を閉じた。目線を外し何も答えないまま歩きだし、美里の前を通り過ぎる。タブレットや台帳のある自分の机の方に歩きだした。
「ちょっと、くろー」
係長は胸ポケットのカード型端末を充電器に差し込みながら、穏やかな口調で答える。
「悪いが、私は君のインターン中の教育係であって家族ではない。そういうことは家族と話たまえ」
「えー。そこは、キミは天才だよ。とか君なしじゃ仕事にならないよとかさー」
「そうよ。大丈夫。係長は照れてるだけよ。 係長ちゃんと言ってあげなさい」
所長が、場をとりなすように美里の前に出てきた。だが、係長は何も答えなかった。美里は、残念そうに床を見る。
次の瞬間、何かに気が付いたように頭を上げ係長は美里の元に戻った。
「六条坂君、ところでメッセアプリの交換しないか?」
美里の目が輝く。
「メッセ? やるやる♪」
所長はほっとした表情をして、アビシニアンとその場を離れた。
美里は@スピーカのスクリーンにQRコードを出す。係長は耳たぶの@スピーカのリングを触りながらまばたきをしてQRコードを読み取った。
「はい、友達登録完了」
「やった。これでいつでも、くろとお話出来る」
「ああ、ごめん。これ業務用の@スピーカだから」
「え?」
「ふふふ。友達登録すると君の居場所がわかるからね」
「なにそれ! ストーカーじゃん!」
「君が言うか!? いいかい? 私にだって予定があるんだ。これ以上付きまとわれてもかなわない。君が家に帰るのを確認してから事務所から出ることにするよ。もちろん業務用だから、この@スピーカは事務所に置いていく。」
「えぇー! ずるいよ! くろ」
「ずるくないだろ! その調子だとやっぱり私をつける気だったでしょ。さっさと帰りたまえ。もう十九時になるぞ。子供が出歩いていい時間じゃない」
「だから、もう成人なんだってば」
係長は美里の膝にぽんと手を置く。
「自分で金も稼いでないヤツは子供なんだよ。さっさと帰りなさい」
美里は、そのセリフに言い返せず悔しそうに口をとんがらせた。
しかし次の瞬間、係長を持ち上げる。
「あ、こら!」
ぎゅっと抱きしめて係長の首筋の匂いをかぐと、そっと床に係長を降ろす。
「仕方ない。今日はこれで我慢するか。明日もあるし」
係長はため息をついて手を振った。
「じゃ、明日ね」
美里は立ち上がると事務所を出て行った。
バス停の方に歩いていく美里の後ろ姿を、玄関から係長は見送った。
「まったく……どこが大人なんだよ」
係長は少し寂し気な表情で、豆粒のような遠くの美里を見ていた。
美里がバスに乗るのを見届けてから、係長は活動の記録を見直して修正をしていた。初回の活動記録というのは、他のヘルパーが今後に参考にするため特に念入りに記す。
八田眞知の母親は今日の朝、初回の活動であった。
『午前九時マンション訪問。九時五分入室。
娘様も同じものを食べたいということで、宅配ボックスには弁当がニ食来ていた。ヘルパーが入室した時、ご本人様は洗濯物を干していた。娘様不在。
声かけに笑顔で返答して頂く。娘様の分を冷蔵庫に入れ、ご本人様の分を温めて提供したが、フタを開けると「野菜がたりない」とおもむろに立たれキッチンに行かれる。冷蔵庫の野菜室から生野菜を取り出すと、包丁を探し始めたので声をかけて、弁当はバランスが取れていることを説明する。「私はいいのよ。眞知には足りないから用意してあげないと」と言い出し調理を止めようとしない。「作りたての方が美味しいから娘さんが帰ってきてから一緒に作ったらどうでしょう」と、言い換えるとやっと納得される。
無事完食。食後服薬。(栄養面などにこだわりがある。野菜ジュースなどが必要なのか確認が必要。)』
他の活動報告も修正を入れる。
ふと、手を止め掛け時計を見ると二十時を回っていた。
係長は一息ついて、ミュートにしていたメッセアプリを立ち上げた。
メッセは一件も入っていない。
「さぞ沢山送り付けてくるかと思ったが……意外だ」
美里の位置情報は、駅も過ぎてまだ移動している。事務所からはかなりの距離になっていた。
「あの子の家、結構遠いんだな」
業務用の@スピーカのリングを耳から外し充電すると、タブレットの電源も落とした。そして、横で事務仕事をしていた、夜勤の後輩アビシニアンの肩をポンと叩く。
「じゃあ、あがるね。夜勤、何もないといいね」
後輩はタブレット作業を止めて、係長に会釈をする。
「お疲れ様です」
「はいはい」
係長はロッカールームに向かい、制服を脱いでコートを着るとプライベート用の@スピーカを耳に付けた。カバンをロッカーから出すと、ぐるんと回して背負う。ニ足歩行から四足歩行に切り替えると、アクビを一つしてから事務所を出る。
春が近づいているとはいえ、外の冷たい空気は係長の息を白くさせた。
事務所の玄関から歩道に出るには数段の階段を降りなければならない。
係長は降りずに、街道を見回す。
二十時を過ぎると帰宅ラッシュも落ち着き、街道は信号待ちのブレーキランプの赤い光が目立っていた。
向かいの歩道の辺りで、係長は目線を止めた。
『白いモヤっとした何か』が、事務所前の係長をじっと見つめるように
係長は眉間にしわが寄る。停留所に向かうと、それもついてくるように移動してくる。バス待っている間も、ずっとそれは係長を見ていた。
「神社の一件以来、ずっとだな……」
駅前行きのバスが来て、他の待っていた人や猫と一緒に係長も乗り込む。
バスの上部にある猫用ネットの上に、他の猫達の邪魔にならないように箱座りをしながら、それが監視していた場所を窓から見ると、もうそれは居なくなっていた。
「ま、バスの中まではね」
振動とともに、ゆっくりとバスが走り出すと、係長はまた大きなアクビをした。
この時間でも看板や店の電灯で、駅前の繁華街は煌々と明るい。人も猫も、まだ沢山歩いていた。
駅前のバス停に降り立つと、係長は、まわりをキョロキョロ見渡す。
やはり交番の横の茂みに、『白くモヤっとした何か』が係長を見ている。
「何匹いんだよ」
辟易とした表情で俯くなり、係長は人ごみの中を全速力で走りだした。
監視していた者も、慌ててガサっと茂みから出る。
係長は息を切らしながらも、裏路地に入り『ロストキャッツ』の猫用入り口に、頭からぶつかるように入った。
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