第四章 be opposed 第十二話 かえるのうた


 「美里……」


 ロックの外れている家に入るとリビングの方から歌声が聞こえる。


 「かーえるのうーたがきーこえてくるよ。くわ、くわ、くわ、けろけろけろけろ、くわ、くわ、くわ」


 美里が一生懸命歌っているところに陽葵が入ってくきた。

 美里の顔がみるみる赤くなる。


 「お、おかえり」


 「ただいま」


 陽葵は吹き出しそうになっている口元を抑えていると、美里が両手で顔を隠し陽葵に体当たりをしてきた。

 係長はベッド上で仁科さんに食事介助をしていたが、振り返って会釈した。


 「お邪魔しています。騒がしくしてすみません。六条坂くんがどうしても歌いたいと言いますので」


 「ちょっ、くろが歌えって言ったんじゃん」


 陽葵は笑いながらカバンをリビングの椅子に置いた。


 「でも、お爺ちゃんにいくら歌ってもさ。わかんないと思うんだけど」


 陽葵はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。

 係長と美里は顔を向けて目線をあわせる。


 「ほらー」


 「いや、でも」


 陽葵はお茶を飲みながら二人を不思議そうに見る。


 「陽葵、ちがうよ。お爺ちゃんわかるよ」


 陽葵は、少し目を開きお茶をテーブルに置いた。


 「は?」


 係長は食事介助を中断して陽葵を見る。


 「もしかして、仁科さん……お爺様を認知症だと思っていますか?」


 「え、違うんですか?」


 「お父様かお母様から、そういう風に教えられたのですか?」


 「いえ、その元々一緒に暮らしてなかったので、なんて言うかその状態でしか知らないというか」


 「なるほど、つまりあまり知る機会が無かったといことですか」


 「ええ、まぁその」


 「お爺様は認知症ではなく。脳梗塞による失語症です。左脳にダメージを負って右片麻痺になる方に多くみられるブローカ型の失語症というものです」


 「ぶろーか?」


 「言語は理解できるのですが、表現がしづらいんです。声は出せても頭の中で変換機能が上手く働かず思った言葉を声に出せなかったりします。早期発症の場合リハビリでもっとうまく話せるようになることが多いのですが、お爺様の場合、かなり時間が経ってからの対処だったようでしたので……」


 陽葵はビックリして立ち尽くした。


 美里はポケットから、もはやクシャクシャになった紙きれを出した。


 「じゃーん」


 紙切れを広げると、それはいつぞやの五十音表だ。


 「何それ、コックリさん?」


 美里はがくっと頭を下げた。


 「違うよ! てか、こっくりさんて誰なんだよ」


 係長はその紙を見て苦笑いした。


 「君、それコミュニケーションボードのつもりかい? てゆーかそれ字なのかい?」


 「くろ!」


 美里は赤くなって怒りながら、食事介助でベッドの背もたれが上がった状態の仁科さんの左サイドに移る。


 「陽葵こっち、こっち」


 美里に呼ばれ陽葵は同じ場所まで来た。美里は五十音表を仁科さんの目の前にかざす。


 「お爺ちゃん、私の歌上手かったー?」


 美里はニコニコしてお爺ちゃんを見つめる。

 陽葵はお爺ちゃんの顔を見つめた。


 仁科さんの左手の人差し指が震えながら動く。


 は、


 い、


 五十音表の「は」と「い」を指す。

 美里が、ガッツポーズをする。


 「だよねー上手かったよねー。天使の歌声だったよねー」


 陽葵は茫然とした。

 今まで認知症扱いをしてバカにしたような発言をしていたことを思い出す。

 美里は額に入れて飾ってあった陽葵の書いた仁科さんの似顔絵を壁から外した。そして、仁科さんの目の前に似顔絵を持って見せる。


 「お爺ちゃん、陽葵は絵が上手いよねー?」


 陽葵はお爺ちゃんの顔を見る。


 その時、陽葵は初めて仁科さんのしわだらけのまぶたの中にある瞳がキレイな事に気がついた。黒目が大きく、白目が濁っておらず、光が反射して宝石のようだった。


 その瞳は真っすぐに陽葵の瞳を見つめていた。


 お爺ちゃんは震える左手で文字をなぞった。


 う、


 て。


 「ん? お爺ちゃん? 『は、い』じゃないの? ほらもっかい」


 美里が五十音表を更に近づける。


 お爺ちゃんは震える手で文字をなぞり続けた。


 て、


 つ、


 は、


 あ、


 つ、


 い、


 う、


 ち、


 に、


 う、


 て。


 陽葵は示された文字列を見て制服のスカートを握りしめた。


 し


 〝、


 ん、


 せ、


 い、


 は、


 お、


 ま、


 え、


 の、


 も、


 の、


 た、

 〝。


 それは、陽葵にとってずっと欲しかった言葉だった。

 誰にも言ってもらえなかった言葉だった。

 美里はお爺ちゃんの文字列をみて眉を寄せる。


 「ちょっとお爺ちゃん、これじゃなんだかよく……」


 だが、目に入った陽葵の顔を見て美里は言葉を失った。

 陽葵の目から大粒の涙が溢れていた。顔をくしゃくしゃにしながら、鼻水まで出そうだった。

 陽葵はお爺ちゃんに抱き着く。

 声を出して泣きながら、お爺ちゃんと顔を摺り寄せる。


 震える左手で陽葵の肩をお爺ちゃんは抱いた。

 美里はなんだかよく分からなかったが、もらい泣きしはじめる。

 係長はベッドのサイドバーに寄りかかってスプーンとお椀を持ちながら肩をすくめた。


◆◇◆◇◆


 「それでは、また伺います」


 係長は室内用のカバーを取ると、美里が少し開けている玄関から先に外に出る。

美里と陽葵は、目があって恥ずかしそうにまた、笑いだした。

 陽葵は泣きすぎて鼻が赤い。


 「なんか、色々やりすぎちゃったかな」


 「ううん。ありがとう。今日はお父さんとお母さんに色々話さなきゃ」


 美里は、口元を緩め、ぐっと拳を陽葵に突き出した。


 「頑張れ」


 陽葵もその拳に自分の拳を合わせる。


 「まったく、陽葵ちゃんは小さい頃から手が焼ける」


 陽葵は少しびっくりした顔をする。


 「あれ、覚えてたの。幼稚園のこと」


 「忘れないよ。だって陽葵ちゃんだけだもん。くろ見せたの」


 「あ、そうなの?」


 美里はしっかり玄関を開け外に出る。


 「じゃね」


 「うん」


 美里はドアを静かに閉める。係長はすでに自動運転車に乗り込んでいた。

 美里が歩きだすと、背後でまたドアの開く音がする。

 振り返ると、陽葵がドアから半身だけ出し、口を一文字にして少し上目遣いで美里を見た。足を止め、何か言おうと美里は少し唇を開ける。

 陽葵はドアノブを持つ手に力が入った。


 「美里」


 微笑む陽葵。


 「介護ってすごいね」


 美里は一瞬驚いた顔になったが、すぐに陽葵に向かって指をさす。

 そしてウインクした。


 「でしょ!」


 美里も満面の笑顔を陽葵に返した。

 係長は美里と陽葵をやりとりを見ながら、車の運転席で大きなあくびをした。


 (それにしても、あいつは仁科さんが失語症だといつ解ったのか……自分なら、わかっただろうか。初めてあった仁科さんを見て、彼が認知症ではないなんて)


 そんなことを係長が考えていると美里が戻ってきてドアを開ける。


 「次、いこっか」


 「ん? ああ」


 係長は自動運転車の運転スタートボタンを押した。

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