第四章 be opposed 第十一話 帰宅
◆◇◆◇◆
電車の振動で体が揺れる。
陽葵は赤い毛糸の手袋で掴まっているつり革を無意識に強く握っていた。
電車の窓から見える夕方の太陽は、通り過ぎるビルの隙間から細切れのオレンジ色の光を陽葵の瞳に差し込む。だが陽葵は眩しそうにもせず、ただ茫然と車窓の景色を眺めていた。
「どうだった?」
家に帰ると、今日は少し早く帰った母が陽葵の好きなハンバーグを作って待っていた。
「わかんない」
陽葵は、すぐにニ階の自分の部屋に向かう。母は陽葵の後ろ姿で察したように口をつぐんだ。陽葵の階段を乱暴に上る音は、お爺ちゃんである仁科さんのベッドにも聞こえてきた。
部屋に入るとカバンとマフラーをベッドに投げ、陽葵はどかっと机に座る。
すぐに辞書を開き何かを確認し、何度も解いたはずの参考書を開いて数学の公式を確認する。全部の教科の参考書を見終わると、どこを見るでもなく机の上で両手を揉みだす。
「陽葵、ごはんよ」
「はぁーい」
椅子から立ち上がり制服の上着を脱ぐ。
机の上段の棚に立てかけてある参考書が目に入った。
それは『一発合格 地方公務員』という参考書だった。
手にとって散乱する参考書の一番上に置く。
陽葵は@スピーカのスクリーンを開いて、“公務員 作家”で検索する。
上から“副業禁止”の文字が並ぶ。
「ひなたー」
階段の下から母がまた呼ぶ。
陽葵は参考書を見つめたまま立ち尽くし、また両手を揉んだ。
下に降りると父も帰っていた。
「食べよう」
父と母は顔を見合わせていつもの席に座った。
陽葵も席につく。
「いただきます」
三人で食事を始める。
父も母も受験の事はこれ以上聞いてこなかった。
あんなに好きな母のハンバーグに味を感じないのは初めてのことだった。
静かな食卓に父は不自然に微笑んだ。
「気楽にやれよ。もう一校受けるみたいだが、今から秋の公務員試験に絞ったっていんだからな」
陽葵はピクリと固まる。
「そうよ。こういうピリピリ感を体験するっていうのが人生で大事なんだから」
母親も微笑む。
「うん」
陽葵はごはん茶碗の上にハンバーグを乗せると、かきこむように食べてお茶で
「もう上に行く。ごちそうさま」
「あ、ああ」
「がんばってね」
陽葵の階段を上る音が静かに家に響く。
リビングの隣で灯りを消して眠っている仁科さんの手が、ピクリと動いた。
◆◇◆◇◆
「おはよう」
「おはよう陽葵」
「おはよう」
朝、寒い教室。美里を抜いた仲良しの三人が教室で挨拶をした。
「あれ? 美里は今日もまたインターン?」
「そうみたいね」
「じゃあ、あいつまたウチ来るのかな」
「ああ、陽葵のお爺ちゃん、ねこやだってね」
「美里、ちゃんと仕事してるのー?」
「んーなんかまだ見学の域を出ないって感じ」
「ああそうなんだ。でも頑張ってんだね」
「うん。あの子なりにね」
先生が教室に入ってくると生徒たちは静かに自分の席につく。
「おはよう。昨日受験だったものは一時間目は職員室で順番に面談だ。それ以外は自習。出来栄えと今後の課題を話し合う。進路相談、二次試験の相談等あるものは、遠慮なく言うように。じゃあ出席をとるぞー」
先生が出欠をとる間、陽葵はまた両手を組んで揉んでいた。
職員室に来た受験組は同じクラスでは五人で、陽葵は三番目に呼ばれた。
職員室の一角にパーテーションで区切られた場所がいくつかあり、各クラスの生徒が各担任達と個人面談をしていた。
陽葵が緊張して中に入ると、先生はタブレットに『仁科陽葵』と打っていて画面の資料が切り替わった所だった。
「で? どうだった試験は」
「その……あんまり」
先生は陽葵をチラッと見て、解っていたかのように頷く。
「そうか」
陽葵は俯いたまま先生をあまり見ない。
「仁科。もう一校はだいぶ受かりやすい。君の成績ならたぶん大丈夫だとは思う。だが君は確か浪人せず秋の公務員試験を受けたいという希望だったな」
「はい」
「先生な歯に衣着せず言うぞ。もう一校の大学に行っても就職活動にあまり役に立たん。もちろん学士はとれる。それに公務員なら大学に行ってから受ける方が将来的に給料は良くなる。だがな大学の四年というのは何かと自由度が増す分、逆にそう簡単じゃない。さらに大卒の公務員試験は倍率が高く難関だ。だが今年の高卒公務員試験の方なら、たぶんだが仁科は受かると先生は思う」
「……副業」
「ん?」
「公務員って副業禁止、なんですよね」
「副業? うんまぁ、それを言うならほとんど禁止だがな」
「そ、そうなんですか?」
「まぁ結局は普通の会社でも届け出をだせばいい場合もあるが大抵はな。かなり前から副業解禁だなんて色々政府が言ってはいるが結局はダメなパターンが多いな。教師なんかは絶対ダメ」
「そういう、もんなんですか」
「まぁやることにもよるらしいが、公務員は基本絶対ダメだろうな。何かやりたいことがあるのか?」
陽葵は目をキョロキョロさせる。
先生は陽葵の表情に気づきタブレットを机に伏せた。
「仁科陽葵」
陽葵は先生の目をはじめて見た。
「いいか、自分の将来のことだ。後悔の無いようにしっかりと判断して両親と相談しなさい。場合によっては資格をとってフリーランスで生きると言う道もある」
「資格?」
「たとえば六条坂美里だ」
「美里?」
「あいつのやる介護は将来的には介護福祉士という資格を取れる。そうすれば会社員じゃなくても、フリーのヘルパーとして色々な場所で働けたりもする。そういう場合は副業も大丈夫だろう。難しい資格なら医者や弁護士、専門行って看護師や会計士、管理栄養士なんかもある。仁科の言っている副業がもし本当にやりたい事なんだったら、そういう生き方もあるんだぞって話」
先生はニコッとして陽葵を見た。
「じゃ、よく両親と話してこい。 はい次!」
職員室を出ると、陽葵は廊下から見える景色が明るく見えた。
「資格……」
でも、そんな生き方をあの両親が許すだろうか。
安定と安全を望む両親。それは陽葵の幸せを願っての事。
陽葵にとってそれは柔らかく切れない鎖となって足取りを重くさせた。
◆◇◆◇◆
三年生だけの午前授業が終わり、同級生に混じり陽葵は校門を出る。
表門のすぐ前にある停留所からバスに乗った。空いていたので、普段あまり乗れない一番後ろの真ん中の席に座った。
広いバスの車内が見渡す。同じクラスの人はいない。
すぐにつまらなくなって、陽葵は窓側に移動した。
窓に寄りかかり、ぼーっと外を眺める。
車窓に流れる景色には、様々な職場や働く人が通り過ぎていった。
医者、車のディーラー、弁当屋、配送車、タクシー、花屋、コンビニ……。
「仕事って、こんなにあるんだなぁ」
バスの振動が心地よく、まぶたが重くなる。
その時、陽葵の降りる停車場のアナウンスが放送された。
陽葵は、ハッと目を見開き慌てて降車ボタンを押した。
バス停に降りるとふーっと息を吐いて胸をなでおろす。
ここから二つめの十字路を右に曲がれば、陽葵の家だ。
お昼過ぎの住宅街は静かだった。
陽葵の知らない町の顔。
たった十字路が二つ。距離にすればおそらく五十メートルほどなのに、妙に遠く感じた。
角を曲がって自宅を見ると『介護のねこや』の自動運転車が止まっていた。
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