第三章 new employee 第十二話 夜桜
◆◇◆◇◆
「では、失礼します」
佐藤さん宅のドアを静かに閉めロックすると、掛長は走って階段を下りた。
エントランスに出ると、美里は髪の毛や制服に桜の花びらを沢山つけて待っていた。
「どうだった?」
係長は軽く一息はいて美里を見つめた。
「食べたよ。完食だ」
美里の表情がパァーっと明るくなる。胸元でガッツポーズをとり、飛び跳ねた。
「いやったーっ!!」
「やった。じゃない! なんなんだこれ」
「造花だよ。くくりつけてあるの。春にお母さんのお店やお父さんの会社でディスプレーで使うやつ。桜吹雪はお母さんのアイデア。キレイだったでしょ? もう朝から晩までまる三日かかったよ」
「きみは学校も休んでたのか、わかってるのか? こんな事してココは団地の土地だ勝手にこんな事したら会社にどんな迷惑が、いやそれ以前に介護職ってのはこういうことをしてはね……」
美里は係長の言葉を遮って係長を持ち上げ抱きしめた。
「わかってるよ、くろ。あたし……クビだよね」
目をつぶって係長のおなかの匂いを嗅ぐ美里。
「でも、今しか……今しかできないこともあるって思ったの」
係長は抱きしめられながらも拒否はしなかった。
「そして、くろだったら上手くやってくれる。そう思った」
係長を抱きしめる腕が強くなる。
「あぁ、ずっと一緒に居たかったなぁ」
係長のおなかの中で美里は明らかに泣いていた。
その時、満開の桜の樹の下で『白いモヤっとしたもの』が係長の視界に映った。なんとなく人の形のようになると、それは係長と美里に向かってお辞儀をしてきた。
それを見た係長の手に少し力が入る。
「君たち、なんだねこれは。どこの人間だ。勝手に団地の樹にこんなことをして」
それは団地の管理人らしきお爺さんや近隣の住民の人たちだった。
美里はビクっと体を強張らせる。
「誰の許可を得てやってる。責任者はいるのかね」
管理人らしきお爺さんは花びらを拾って怒っている。
係長をもう一度抱きしめると、美里はそっと地面に係長を降ろした。
係長は美里の顔をじっと見つめる。
美里は涙を拭うと、きゅっと目をつむりすぐに瞳を開く。
締められた口元に覚悟が表れていた。
両拳を握りしめ、お爺さんの元に近づいた。
「あの。すみません。私が……」
美里が頭を下げようとした瞬間、係長が美里の前に立ちはだかった。
それは目の前の小さな黒猫だが、美里にはとても大きく、とても温かい存在に感じられた。
係長は住民の人々に向かって、深々とお辞儀した。
「すみません。私、介護のねこやの係長です。利用者を元気づけるためにウチの者が勇み足をしてしまい、申し訳ありません」
お爺さんは怪訝な顔をして係長を見た。
「介護の? ヘルパーか。誰の介護だ」
「三〇一号室の佐藤さんです」
佐藤さんの名前を聞いて、お爺さんの表情から少し怒りが薄まる。
「まだ高校生インターンの身でして、社会常識が欠如していますが大変真面目な子です。今回も佐藤さんのために、とやったことでした。私が今後このような事がないように、しっかりと教育してまいります。どうか今回は大目に見ていただけませんでしょうか?」
美里は固まったまま、じっと係長を見つめていた。
だがお爺さんと他の住人の視線を感じ、慌てて自分もお辞儀をした。
「す、すみませんでした!」
お爺さんや住人はお互い顔を見合ってひそひそ話し合う。
「まぁ、そういうことなら、こちらとしては掃除をしっかりとしてもらえればいいよ。他の植木とかにも、この桜の花びらを残さないようにしてね」
「はい! それはもう!」
係長は一層深くお辞儀した。
住人の内の一人のおばさんが街灯に照らされた桜の樹を見て呟いた。
「でも、奇麗ね。頑張ったのね、あなた」
「寒いけど、俺、缶ビールでも持ってこようかな」
「いいね。俺もやるよ」
「もう、みんな風邪ひいても知らんぞ」
住人達はまんざらでもないように、みな笑顔で桜の樹を仰ぎ楽しみだした。
係長と美里は顔を見合って少し微笑む。
係長はバッグから名刺を出して管理人らしきお爺さんに渡した。
「では、今すぐ片付けるのも野暮ですね。片付けは明日朝一番からということで、私たちは一旦失礼いたします。」
「あ、ああ。頼んだよ。来なかったら会社に連絡入れるからね」
「はい。それはもちろんです」
係長と美里はもう一度、深くお辞儀をすると車に向かって歩いていく。
美里は急に係長をまたひょいと持ち上げるとお腹のあたりに顔をうずめる。
「くろ♡ くろ♡ くろーっ♡」
「うお! こらやめんか!」
係長は思い切り美里の耳をかじった。
「いたーいっ!」
係長の攻撃にたまらず空中で係長を放りだす。係長は華麗に着地する。
「まったく君は変態が過ぎる!」
「いいじゃん。ちょっとくらい」
「良くないって言ってんだろ!」
係長はつい四本足で歩きだす。
「くろ」
美里の呼びかけに機嫌が悪そうな表情で振り返る係長。
スカートを両手で握り、美里は係長に深くお辞儀をした。
「よろしくお願いします」
その時、なぜかあたたかな風が吹く。
遠くから吹かれて飛んできた桜の花びらが、美里と係長の間にひらひらと舞い降りた。
ふんっと係長は車の方を向いて石段を下りだす。
「君は介護職より、イベント会社とかテレビ局にでも務めた方がいいんじゃないか?」
「いや。私はくろと一緒がいい」
美里はくろの後を追って歩きだす。
「勘弁してくれ」
石段を下りると係長は足を止めた。つられて美里も足を止める。
係長は眉をよせて呟いた。
「八津目さん?」
バー「ロストキャッツ」でカード勝負を仕掛けてくる常連客の八津目が、ピカピカの金の懐中時計を見ながら、介護のねこやのプリントが入った自動運転車に寄りかかっていた。
八津目はニコニコしながら皮の手袋をはめた手をあげた。
「いやぁ係長さん奇遇だねぇ。この車があったからもしやと思ってね。ちょっと待たせてもらった」
「なに? 八津目さんご近所なんですか? あれ? たしかこの街の人じゃないって」
「ああ、この街が気に入ってね。散策をしていたら、なんか季節外れの桜が見えてねぇ。ちょっと寄ってみたら、君と住人がなんかやってるじゃないか、今話しかけるのもどうかと思ってね。待たせてもらった」
美里は八津目を見て、眉を寄せる。
かがんで係長に耳打ちする。
「誰?」
「飲み友さ。そうなんですか。ごめんなさい。明日早いから今日はロストキャッツには行けないと思いますよ」
八津目はにやりと笑い頷いた。
「そうかそうか、残念だ。すこし話があったんだが」
「話?」
係長は八津目の足元に来て車のロックを外し、美里を手招きして車に乗るようジェスチャーする。
頷いて美里は小走りで近づく。
八津目と通りすがりに軽く会釈してから車に乗り込む。
八津目も細かく頷くように会釈した。
「いいさ。店で話すよ。疲れてるだろ? この子が例の新人かい? かわいい子じゃないか」
八津目は車のドアを開けると係長を持ち上げシートに乗せた。
「そうですか。じゃあまた」
八津目はまたニコリとして係長の目を見た。
街灯が八津目の後ろにあり、八津目の表情がはっきりと係長には見えなかった。
ただ、瞳の奥がほのかにグリーンに光っている。
八津目は車のドアをそのまま閉めると係長を見つめたまま何か囁いた。
美里は八津目を見てから、ずっとなにか、いぶかしげな顔をしている。
八津目は車を離れ、冷たい風に凍えるように肩をすくめて暗闇の方に消えていった。
「くろ?」
係長はシートの上で固まったように動かなかった。
人間の美里には聞こえていなかったが、聴力の良い猫の係長には八津目の最後の言葉が聞こえていた。係長の瞳は見開いたまま動かない。
“きみ、九回目だろ”
八津目は確かにそう囁いていた。
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