第三章 new employee 第十一話 冬の桜

開いたドアを持ったまま、美里と佐藤さんの娘のやりとりに聞き耳を立てていた係長は、ホッと胸をなでおろし中に入る。

靴に室内用のカバーを付けながら、なにを話すか想像していた。


雑然としたキッチンに入り椅子にのると冷蔵庫の中から娘さんが作った雑炊を出して電子レンジで温める。

胸に手を当てゆっくりと引き戸を開ける。


佐藤さんは窓の半開きのカーテンの隙間から当たる夕日の光にあたっていた。


まったく変わらない顔色、表情。

日に日に痩せ衰えていくその姿。

夕焼けの薄ら暗い光すら眩しそうに目を細めていた。


「佐藤さん、こんにちは。猫のヘルパーです。洗面所をお借りしますね」


係長はベッドの下の紙袋にある陰洗ボトルを取り出すと洗面所に向かう。

蛇口からお湯を出してボトルに入れ、部屋に戻る。

テープ止めのオムツとパッドとおしり拭き、そして陰洗ボトルを持って一息にベッドに上がった。


「今日もいい天気でしたねー、夕焼けが奇麗だ」


係長は窓に近づき佐藤さんが見つめる窓のカーテンを少し閉めた。

美里はカーテンの揺れに気づく。振り返って白い布で覆われた桜の樹を見上げた。


「よしっ」


袖をたくし上げ白い布に手をかける。


係長は丁寧に優しく佐藤さんの排泄介助を行った。

といっても栄養ドリンクしか摂っていないので、たいして汚れてもいない。本当は使い捨てのお尻ふきで拭くでも充分だ。だが係長はいつものように陰洗ボトルを使って気持ちよくなるように、陰部とお尻を洗う。

ほとんど骨の形をしたような太もも。骨盤の形がわかるようなお腹。


洗った水分を拭く時は皮膚が傷まないように、トントンと軽く抑えるように。

オムツをあてズボンを履く時も最新の注意を払ってゆっくりと優しく行った。

排泄介助を終え再び軽くベッドをギャッジアップし、背中と膝を少し上げた。


「おしもの交換お疲れ様でした。片付けたらお食事にしましょうね」


係長は洗うのに使った古いパットを廃棄用の袋に入れ、陰洗ボトルや使わなかったオムツも持ってベッドを降りて、洗面所に向かった。


洗面所で陰洗ボトルのお湯を捨てながら、鏡に映った自分の顔をじっと見つめた。


電子レンジから雑炊を取り出しスプーンを入れる。

お茶も温めコップに注ぎ、ストロー付きのフタを閉める。

雑炊とお茶を持ってベッドに戻ると雑炊だけをオーバーテーブルに置く。佐藤さんの口元にお茶のストローを近づけた。


「佐藤さん、お茶です。のどを潤してください」


係長の声かけに佐藤さんは、ほんの少し口を開けストローでお茶を吸う。

ほんの一回か二回、のどが動く。だが佐藤さんはもうストローを口から離す。


「じゃぁ、今度は娘さんが作ってくれた美味しい雑炊。美味しいよ。玉子も入ってる」


係長はスプーンでほんの少しすくった雑炊を佐藤さんの口元に差し出す。

しかし、やはり佐藤さんの口元は動かない。ゆっくりと窓の方に首を傾けてしまう。

スプーンを一度、雑炊の入ったお椀に戻し係長は、佐藤さんと同じ夕日の光が指す窓を見た。

夕日の色がどんどん濃くなっていく。


係長はその場に腰をおろす。


「こないだですね」


介助の時の声かけのようなハッキリとした声ではなく、呟くような普通の話し方だった。


「インターンの子がいたんですが、そいつ一日でバックレましてね」


どこを見るでもなく、ぼんやりとした目で係長は、雑炊の入ったぬるいお椀を見つめた。


「そら辞めたくもなるよってくらい何にも知らない子で、信じられますか? 電子レンジの使い方も知らず、掃除もしたことがないような甘やかされたヤツで行く家、行く家で失敗をやらかすんですよ」


佐藤さんは少し目を細めた。


「まぁ、辞めてくれてせいせいした。なんて思ってたら次の日から行く先々で『あの子はどうしたの?』とか『次はいつ来るの?』とか連日聞かれて。不思議なんですよ。あの子はみんなに迷惑かけてるはずなのに、利用者さん達はあの子が気になって気になって仕方ないんですよ」


スプーンにすくわれた雑炊をお椀の中でゆっくりかき回す。


「そんなんで悶々としてましたら、私が言葉も話せない飼い猫になった夢を見ましてね。夢の中の主人は線香花火が好きで、夏になると必ず私と何度も線香花火をやってたんです。その時、夢の中の主人が言ってたんですよ」


美里はいくつもの結び目をほどき終わり、大きな白い布を桜の樹から取っ払った。

布が風にたなびく。


「クロ。人生って線香花火みたいだねって」


係長は佐藤さんの顔を見た。


「私はてっきり生まれてから死ぬまでの事を花火の時間と捉えていたのかと思ったんですが、夢の中の主人が死ぬ間際に言ったんです」


佐藤さんの右手がぴくっと動く。


「私は奇麗だったかなって」


係長はスプーンを離してお椀を片手で持ったまま立ち上がった。


「主人は人生を人から見られ奇麗だと思われることを線香花火みたいと言っていたんです。それで合点がいきました。そうか行く先々であのインターンの子を利用者が気にかけていたのは、幼く何も知らない若者が失敗しながらも、一生懸命に働く姿がまるで線香花火の弾けている火玉のごとく元気を分けていたんだと……」


窓に近づくと係長はカーテンに手をかけた。


「あなたはどうですか?」


係長は一気にカーテンを開いた。

その瞬間、佐藤さんのずっと細められていた瞳が少し開いた。


そこには咲くはずのない真冬に、ひらひらと花びらを散らしながら、辺りをピンク色に染める満開の桜の樹が、爛漫とかりそめの春を造り出していた。


大きな枝の下で美里が、カバンの中から桜の花びらを散らすように巻いている。その花びらが、また風で散り、舞いあがり、夕日と相まって幻想的な光景を生み出していた。


佐藤さんは、胸元のパジャマを右手でぎゅうっと掴んだ。


「あのインターン。勝手にあんな事しやがって、後で掃除がどんだけ大変か。」


係長のスプーンを掴む力が強まる。


「でも、でもね。なんかすごいっすよね」


係長は佐藤さんに近づいて目を見つめた。


「人間ってのは生きてるだけで、人を元気にさせるんです。ただ生きてるだけで意味があるんです」


佐藤さんの乾いた目が動く。


唇が細かく震える。


「娘さん、もうすぐ簿記の試験らしいですよ。前を向いて今この瞬間も、一生懸命生きている」


係長はスプーンで雑炊をすくって佐藤さんの口元に近づける。


「食べませんか? 一口でもいい。娘さんを元気にするために」


佐藤さんのしわだらけのまぶたが開く。

震える手で係長の手を握ると……。


スプーンにのった雑炊を口に含んだ。


係長のお椀を持つ手袋の中の前足がぎゅっと力が入る。


夕陽はゆっくりと、そして優しく、その季節外れの桜の樹を照らしていた。

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