第三章 new employee 第十話 夕暮れ
係長はまだ暗い佐藤さんの部屋を見た。
「なぜ、そんな事を私に?」
桜の樹の『白いぼやっとしたもの』が微笑んだように見えた。
“わからん。ただ話せるものが現れた。そいつがあの子と関わるものだった。それだけだ。この団地の、この棟の子はみんな私にとって特別だ。でもあの子はあの親子は特にね。とても不器用なんだ。ただひとつだけ感じるのはあの子は精いっぱい娘だけのことを考えていた。だからわかるんだ、もしや。もしや自分が娘のために消えた方がいいなんて考えてないだろうかとおもってね”
係長は絶句した。
それは美里の想像とおなじ事だったからだ。
「でも、だとしても……」
その続きを言葉に出そうとして係長は止めた。
それを佐藤さんに思い直させたり止められる言葉が、係長には見つからない。
と言うより、例え言葉が浮かんでも係長にその説得力は到底持ちえない。人間ではない自分には到底、無理なことなのだ。
「娘さんは50歳を超えて今は立派にお勤めされています。だから……」
せめて桜の樹を安心させようと係長はただ知っていることを答えた。
“そうか。そうだったか。それなら良かった。しかくは取れたのかな”
「しかく? 資格のことですか?」
“さぁよくわからないが人の生きるのに必要なのだろう? 娘が電話で話しているのを聞いた”
「ちょっとそこまでは」
“そうか、そうか……少し長く話すぎたね。君も役目があるだろう。引き留めたね”
「いえ、話かけたのは私の方です。ありがとうございます」
桜の樹の『白くもやっとしたもの』は、少しずつ薄くなって消えていった。
係長は一礼して、踵を返し団地のエントランスに入る。
三〇一号室の前で佐藤さん宅のインターホンを押すと、娘が靴を履きながらドアを開けた。
「あ、ヘルパーさん。すみませんがよろしくお願いします」
係長がドアから離れると靴をトントンしながら娘は出てきた。
「あの……」
「はい?」
「何か資格を受験されるんですか?」
「あー下の階のおばさんねー。そうなの簿記の二級。こういうの持ってると社員にしてくれるってSVが言うから頑張ってるの」
係長はガッツポーズをする。
「頑張ってください」
娘はニコッと笑って「ありがとう」といって階段を下っていった。
部屋に入って佐藤さんを見るといつも通り窓をずっと見ていた。
係長は部屋の中を見渡す。よく見ると部屋には、あの桜の樹の下で撮った娘と佐藤さんの写真が画鋲で何枚も貼ってあることに気が付く。もうあまり見かけなくなった プリント写真だがずっと貼ってあったせいか黄色くなり色が褪せている。
排泄介助を終え、食事介助を始めると佐藤さんはやはり骨ばった手で食事を拒んだ。係長は娘さんのことや桜の樹の話を頭の中で巡らして何か話そうとしたが、言葉にならなかった。介助にどう繋げれば良いかわからなかった。
「とりあえず栄養ドリンクだけでも飲みましょう」
半ば強引に栄養ドリンクを口に含ませるのが精いっぱいだった。
灯りを点け部屋を出る。
無力感で係長は動作が緩慢だった。
桜の樹に佐藤さんの苦労話を聞かされても自分はご飯を一口も上げることが出来ない。
玄関のドアの鍵を預かっているキーで閉める。
三階から見える暗くなった夜の景色を見ながら、
係長は、ドアにもたれかかった。
重い足取りで階段を降りた。
階段を降り切ると、どこからかガサガサと音がした。ポストなどがあるエントランスの向かい、棟と棟の間にある花壇やつつじ、もみじ、桜の樹などが植えてある草むらのあたりに明らかに美里が隠れている。係長は大きくため息をついた。
桜の樹の『白くぼやっとしたもの』は美里が建物に入ってないと言っていた。
ということはまた『くろ』、要するに私目当てか。係長はそう思った。
「君、あんまり舐めたことしてるとインターンをクビってだけじゃ済まないよ。学校にも報告するからね」
ガサガサと草むらで慌てたような音がする。
しかし返答はなかった。
係長は少し待ったがずっと反応はない。鼻息を大きく吐くと、係長は車の方に速足で歩いた。そして、さっさと乗り込み走り出してしまった。
美里が草むらから、そーっと頭を出す。
係長がいないことを確認すると桜の樹の前で荷物を降ろした。
俯いて荷物をしばし見つめると、首を伸ばし桜の樹を見上げる。
「あたし、やっぱクビかなー」
冷たい夜の風が美里の制服を揺らした。
◆◇◆◇◆
その夜、仕事を終えた係長はバー「ロストキャッツ」の扉を開く。
いつものマスターの笑顔が係長を出迎えた。
だが、最近では珍しくいつものカウンター席に八津目の姿が無い。
まとわりつかれてウザかったはずなのに、少し寂しい気がした。
今日は少し愚痴の一つでもぶちまけたい気分だった。
マスターにマタタビウィスキーをぬるま湯割で入れてもらいその一杯で、係長は帰宅した。
次の日も、また次の日も利用者から『美里ちゃんはいつ来るの?』と聞かれ係長はその度にはぐらかした。
なぜ辞めたと言わないのか、自分でもわからなかった。
そして佐藤さんの団地の前には二日とも美里が来て同じように係長が来ると、こそこそ草むらに隠れていた。
係長は他の人に迷惑だからやめなさいとか、家にも電話するとか散々言ったが美里は言葉を交わさず隠れているだけ。
三日目には、係長はもう声もかけず、草むらに目線も落とさずただ速足で車に向かった。係長はもはや怒りを通り越し、呆れて果てていた。
車の中に入ってドアを閉めシートベルトを付けると小さなため息をつく。
「所詮、猫ぐるいの変態か……」
行き先を事務所に設定すると、自動運転車はライトをつけ走りだす。
係長は寒さを感じてスーツの襟を立てた。
そう言うと係長は階段を足早に上っていく。
◆◇◆◇◆
それは美里がインターンを休んで四日目。
今日の訪問は三十分ほど早い時間であたりは夕焼けで赤く染まっていた。
係長は、いつものように棟の隣に止めた車から降りる。
地面を見つめるように、うつむきながら石段を上った。
脳裏にやせ細った佐藤さんの顔が浮かぶ。
佐藤さんはターミナル期。
もう延命の意思はなく最期を迎えるために自宅に戻っている状態。
これ以上、食事を取らなければもう……
係長は自分の真っ黒な伸びた影を見ながら歩く。
最後の石段を登りきり顔を上げると、係長はその黄色い瞳を大きく開いた。
佐藤さんの棟、桜の樹の前に夕日に照らされた美里がこちらを向いて堂々と立っていた。夕日の光でオレンジに染まった顔で美里は神妙な面持ちだった。
美里の視線は係長の瞳をじっと見つめ、唇を一文字に閉めていた。
係長は立ちどまり眉を寄せ、その視線を受け入れたが表情は無い。
「準備に三分、排泄介助で十五分。食事介助はそれからでしょ?」
係長は美里を一瞬見つめたが、これまで沈黙してきた美里に返す言葉など無かった。美里から目線を外し、何も言わず棟の階段に係長は向かう。
「くろ、ごめん。話したら止められちゃうと思って。でも絶対見せてあげたい。佐藤さんに元気になってもらいたいの」
係長は振り返って改めて美里をみると、その後ろの桜の樹が大きな広い布で隠されている事に気づいた。
係長は、しばしその大きな布に隠された桜の樹を見つめた。
その布の下にあるものは容易に想像できる。
係長は向き直して階段をもう一歩上った。
「くろ!」
係長は足を止め、目をつむり耳を寝かせる。
美里の視線を背中からも感じ、手袋をはめた前足に力が入る。
係長はゆっくりと瞳を開け振り返らず、乾いた声で呟くように言った。
「二十分後です」
そう言うと係長は階段を足早に上っていく。
美里は微笑み、大きく頷く。
そして桜の樹の下で腕時計を見た。
係長が三〇一号室でインターホンを押すと、いつものように急いで出勤前の佐藤さんの娘が出てくる。
「あ、ヘルパーさん。今日もよろしくお願いします」
係長はまたいつものように娘の通り道を開ける。
「あの、いってらっしゃい」
係長の挨拶に娘はニコッと笑った。
「いってきます」
娘は肩にひっかけたトートバッグを右手で掴んでリズミカルに階段を下りていく。一階に着いた所で美里に気が付いた。
「あなた、たしかこの間ヘルパーさんと」
「今日は、あのプライベートです」
「制服……あなた高校生だったの?」
「インターンです」
「インターン? 最近は高校でもあるんだ」
佐藤さんの娘は手首の時計を見て、美里を見る。
「じゃあ、頑張ってね」
そういうと係長の登ってきた石段の方に進む。
石段を下りようと踏み出した時、ふと立ち止まり振り返った。美里の後ろの大きな白い布で隠された桜を改めて認識した。口を開けて美里に声をかけようとしたが、美里は三〇一号室の窓をじっと見ている。
佐藤さんの娘は優しい顔で微笑む。
「ありがとう」
そうつぶやくと、佐藤さんの娘は踵を返して足早に石段を下りていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます