第三章 new employee 第九話 桜の樹
◆◇◆◇◆
係長が前半の訪問を終え、事務所に戻ってくる。
「おつかれー」
吉田さんが事務所の洗面所の方から、歯を磨きながら係長に声をかけてきた。
「おつかれっす」
係長は首をこきこきしながら、ロッカーから昨日美里にもらったスティックおやつを1本取り出す。
「なによ。あんた昼ごはんそれだけ?」
「金ないんすよ。買いためてた猫用弁当も今朝食べちゃったし」
「なに、またギャンブル? たいがいにしなよ」
「はぁ……」
吉田さんは係長の浮かない顔を見て眉を寄せた。
「なに? どした疲れた顔して。今朝の事故でどこかケガしたの?」
係長は肩を落とした。
「違うんですよ。今日行った先々で昨日の子はどうしたんだって聞かれちゃって」
「あー、ばっくれインターン」
「田中さんは、『あんな元気に失敗する子なかなかいないよ、次が楽しみだ』とか言ってたし。篠原さんは掃除機を新品に買い替えてたり、並べてあった装飾品を掃除しやすいように片付けてあったり。青柳さんは、『今日は美里ちゃんどうしたの? 美里ちゃんに食事介助してもらいたいわ』って言うし……」
「で、なんて答えたの?」
「今日は学校の行事で休みです。ってつい」
「あんたバカねー。そんなの嘘ついたってしょうがないじゃない。一日でバックレたヤツが戻ってきた試しないわよ」
「そうですよね。しかしみんなそれぞれ迷惑かけられたってのに、どうしてあんなの待ってるんですかね? だってまた失敗するの目に見えてるじゃないですか。それならプロの我々が行った方が絶対いいはずなのに」
吉田さんは洗面所のマイコップでうがいし吐き出して口を首にかかったタオルで拭く。
「さあね。やっぱ本当は人間に介助してもらいたいのかもね。私ら猫はやっぱりどこまで行っても猫でしかないのかも」
「種族の壁ってやつか」
その時メインクーン所長が、係長の背後にやってくる。
「かかりちょーう。インターンの六条坂君なんか休んだんだってー」
地の底から響いてくるような低い声で今にも引きさかれそうな殺意を感じながら係長は裏声で答えた。
「はい。あの今日は学校の行事ででして……」
吉田さんは、苦笑いをして前足で目を覆った。
ひとしきり所長に絞られた後、スティックおやつを吸うように一瞬で食べると水をたらふく飲み、デスクの上で四十分のタイマーをかけて昼寝をした。
猫の語源は“よく寝る子”と言われているが、一般的な人間の体と比べて体の小さな猫は大抵は筋肉質で、その消費カロリーの比率は人間の何倍も必要とされる。つまり非常に疲れやすいとのことだ。だからすぐ眠くなる。
よく遊ぶし、よく働くし、よく寝る。それが猫だ。
この時間は事務所の他の猫達も昼寝をしている。
◆◇◆◇◆
『クロ……』
老齢のあさ黒の女性の夢。
今朝の夢だ。
係長はこの状況が夢だと確信していた。
いつの時代なのか現代に似ているが何かが違う。どこか古く懐かしさを係長は感じていた。
張り直しだらけの障子。月の明りが暗い部屋を外から逆に薄明るく障子を光らせる。女性はボロボロの布団に伏せっていた。朝の夢の時よりも明らかに歳を増し更に痩せこけている。
『もし、私が居なくなっても隣の人に頼んであるから大丈夫。そっちでご飯もらうんだよ』
猫の喉のなる音が響く。間違いなく自分の喉の音だ。
『ああ。クロ。線香花火きれいだったねー。もう一度やりたいねー』
視界が真っ暗になりガサガサと音がする。
覚えている。
クロが頭で女性の頬をさすった時の音だ。自分もまた栄養が少なく体毛が針金のようだった。女性も細くなった手でさすり返す。
『クロ、私の人生は奇麗だったかな』
真っ暗な天井を見て女性は呟く。自分は返事のつもりで必死に喉の音を一層大きく鳴らした。
『ああ、クロ。お前だけは一緒にいてくれたね』
『クロ……クロ……』
目の前は真っ暗なまま、自分の喉の音だけが耳に響く。
◆◇◆◇◆
ピピピピ……。
@スピーカのアラームで、係長は目を開ける。
「……なんなんだ今日は……」
係長は、そう小声で呟くと立ち上がりデスクから飛びおりる。
アクビをしながら事務所の玄関口に向かった。
「気をつけてねー」
吉田さんは、となりのデスクの上から、目も開けずに寝たまま囁くように言った。係長はふっと少し微笑んで事務所を出る。
車に乗り込んでカード型端末を差し込むとフロントガラスに行き先リストが表示される。午後はあと3件、最後に『佐藤宅』の表示があった。
係長はその文字を見つめながらシートベルトをつける。
◆◇◆◇◆
佐藤さんの住む古い団地に着いたのは十六時半を回ったころだった。
いつものように車を棟の横の道路に止め駐車証を出して降りる。割れ目から雑草の生えた古びたコンクリートの階段を上ると何棟もの団地が見える。棟の間に桜の樹が何本か植えられている。
係長は階段を上り切ると目を見開いた。
六条坂美里がそこにいたからだ。
美里も係長に気づいた。
「あ、やば」
「ちょっと、君,なにやってるんだ!」
美里は広げていた荷物をさっさと紙袋にしまい作り笑いで後ずさりしていく。
係長は獲物を捕らえるようにゆっくりと美里に近づく。
「あ、メインクーン所長!」
「え!」
係長は、びくっとなって振り返る。
しまった!と思い向き直すと美里は紙袋を抱えて薄暗い中、一目散に逃げていった。
「一体、何を……」
係長は目を凝らして近くの桜の樹を見る。
すると『白いぼやっとしたもの』が現れた。
「あのすみません。さっきの人間の娘、ここで何をしてたかわかりますか?」
『白いぼやっとしたもの』は、人のような生き物のような形になる。
“ほう。君は私が見えるのかい”
「はい。なぜか私は生まれつき、あなたがたのことが薄っすら見えるんです」
“これはこれは。そういったものに会うのは久しぶりだ”
「私はここの三〇一号室の佐藤さんのヘルパーをしているものです。先ほどの人間の娘はここで何をしていたんですか。なにか悪いことをしていませんでしたか?」
“悪いこと? 君の言う悪いことがよくわからないが、あの娘はココには居たが建物には入っていない”
係長はホッして息を吐いた。
「そうですか。よかった」
“それより佐藤さん。あぶないのかね?”
「佐藤さんご存じなんですか?」
“ああ、この団地に植えられて七十年は経つ。住んでいる人間、出ていった人間みんなよく知っているさ。だが佐藤さんは心配していた。このところ姿を見せなくなったからね”
「まだ、生きておられますよ」
“そうか。娘の方は、せわしなく出入りしているからわかるんだがね。ヘルパーと言ったね。それは人の死を看取る仕事のことかね”
係長は少し言葉に詰まったが頷いた。
「そういう場合もあります」
“そうか。佐藤さん、あの子は手厚くしてやってくれ。苦労人なんだ。あの子は……”
冷たい風が係長を通りすぎ思わずコートの襟を立てる係長。
桜の樹の『白いもやっとした何か』は、とうとうと語りだした。
“もうおばあちゃんだけどね。あの子もこの団地で育ってね。”
”お父さんと一緒に引っ越してきたんだ。男手一つでってヤツだが不器用な男でね。あの子はいわゆる不良ってやつになったのさ。反抗期がすごくてね。いつも父親とケンカしてたさ。いつの頃か、あの子は出ていってそれっきり帰ってこなくなった。”
”だが、父親も白髪になった頃に突然赤ちゃんを抱えて戻ってきた。近隣の者の噂では誰の子ともわからん子らしい。だが生まれた子を育てるためにあの子は人が変わったように働いたよ。夜も昼も働いていて父親と交代で娘の世話をしながらね。”
”でも血は争えんというか、父親が亡くなってから娘もまた不良になってしまってね。なかなか親子関係は上手くいってなかった。学校もあまり行かずに娘は大人になった。帰ってこない日もあったりしたが、娘はずっとここにいたさ母親と一緒にね。”
”娘はとにかく職が続かないようだった。出ていく時間も服装も短い時間で変わっていたからね。そのたびにあの子と娘は言い争っていたさ”
”だが、私は灯りや匂い、物音でこの団地の住人が今、何をしているのかだいたいわかっていてね。あの子は、佐藤さんはいつも夕食を用意して娘の帰りを待っていた。”
”帰ってくる日も、来ない日もね。”
”父親と同じように。”
”娘も、あの子も、あの子の父親も、なんの楽しみもなく、これといったきらめきもなく、なんのために生きているんだろうってね。私はいつも疑問に思っていたのさ”
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます