第三章 new employee 第七話 美里の決意
◆◇◆◇◆
「ん……」
係長が目を覚ますと、美里の姿は無かった。
真っ暗な車の中、シートで伸びをしてから外に出る。自動運転車は事務所の駐車場の所定の位置に奇麗に止まりすでに充電を開始していた。
@スピーカで時刻を確認すると十九時を回っていた。
「やば」
急いで事務所に入るとメインクーン所長は、人間用のトレンチコートを着ていてもう帰るところだった。
「所長すみません。仮眠のつもりが」
「ははは。大変だったんだって? 六条坂さんが報告してくれたよ。自分のせいで『くろ』がヘトヘトだから少し休ませてあげてってさ。いい子じゃない」
「はぁ。彼女は?」
「もう帰らせたよ。ほっとくとずっと居そうだったから、半ば強引にね。でも結構落ち込んでたね。どう?使えそう彼女」
「さぁ、私にはわかりませんね。若いというか青いっていうか。人間の若者特有の面倒くささはありますね。この仕事に向いてるかどうか……」
メインクーン所長は前足を腕組のようにして天井を見てしばし考えた。
係長は一瞬、所長の目を見るもすぐに
「彼女の中でよほど前の『くろ』って子の存在が大きいんでしょうね。彼女の目的は完全に君。朝も話したけど今のこの業界に人間は貴重よ。是が非でも入社してもらいたいの。引き続き教育係を頼むわ」
「所長、向いてない人間を無理やり入れる気ですか」
所長は長い毛波を揺らして腕時計を見る。
「係長らしくないね。他の
それを聞いて、係長の真っ黒な顔が青ざめる。所長は笑いながら係長の肩を叩くと「じゃ、おつかれ」と言って帰ってしまった。
「勘弁してくれ」
今日の報告書を作ろうとデスクに飛び乗ると、猫用スティックおやつが3本置いてあり『今日はありがとう♡くろ』とメモが貼ってあった。
係長は深いため息をつく。
◆◇◆◇◆
客のほとんどが猫という変わったバー「ロストキャッツ」に着いた頃には二十時を回っていた。入り口の猫用の扉から入ると、大柄で高齢の男がカウンター席から両手を広げて歓迎した。男は金色の懐中時計をちらっと見てすぐに胸ポケットにしまう。
「よう! 待っていたよ。係長さん。どうぞどうぞ。今日は少し遅いじゃないか」
係長はまたため息をつく。
「八津目さん。また来たんですか? 降圧剤今日は飲んでないでしょうね? だいたいこんなに毎晩飲み歩いて奥さんに怒られないんですか?」
「ウチのも好き勝手やってるから、今更文句も言われんよ。それより今日こそは勝つぞぉ」
八津目と呼ばれた男は以前、このバーに立ち寄った際係長にカードで負け。それから毎晩のようにこのバーに現れ係長に挑戦してくる男だ。裕福らしく高い酒を飲んだり、負けてもあっさり係長のツケを払ったりしていた。
「一日一ゲームのルールですよ」
三十代で人間の女性のマスターは磨いていたグラスを置いてカードを出した。
「もう、今日は変な新人で疲れてるんだけどなぁ」
係長はカウンターの高い椅子に乗るとコートを脱ぎ後ろにかける。
「新人? 人に猫が教えてるのかね? ほー時代も変わったね」
八津目は口髭を触りながら笑った。
「いや、新人と言ってもインターンの高校生ですよ。もう頭のおかしい奴でね。私の事を前に飼っていた猫の生まれ変わりだと思ってる。まったく勘弁してほしい」
「ほー。それはそれは。面白い話だ。かわいい娘さんかい?」
八津目はカウンターに注がれていた酒をグビっと飲む。
「人間の容姿の良し悪しは、よくわからないよ。あっマスターが美人なのはわかってるよ」
係長はマスターにウインクする。カードを切りながらマスターは微笑む。
「あれ? 八津目さん今よく新人が女だってわかりましたね」
「なに言っとる。君が今、頭のおかしい女でねって言ったじゃないか」
「ん?言ったっけ?」
係長がマスターをちらっと見るとマスターは肩をすくめた。
「そんなことより、今日は負けんぞ。君のイカサマを絶対見破ってくれる」
係長はいやらしい目つきで笑う。
「イカサマなんて心外だなぁもう」
マスターはカードを配りはじめる。猫だらけのバーの中で係長と八津目の会話は溶け込み、店内のジャズは外にこぼれる。
街の外れから見る繁華街の灯りは眩しく、やはり空の星はほとんど見えない。
月だけが寂しく冬の夜を演出していた。
◆◇◆◇◆
「ただいまー」
六条坂美里が家に帰ったのは夜の七時近くだった。
リビングに行くと、全員が揃っていて一斉に声をかける。
「どうだった? 学校と違って疲れたでしょう」
「しっかりメモは取ったのか?」
「みーちゃん。大丈夫? 誰かに厳しくされたりしてないか?」
「あそこの
まるで政治家の囲み取材のような光景。
『ちょっと、見えないよ。みんな少しどいて! 美里一日目お疲れ!』
ガラステーブルの上にタブレットから出張中の長兄の顔が映っている。
「あれ、ニイニ。今オーストラリアでしょ? そっち何時なの?」
『もうすぐ夜九時くらいだ。そんなことよりインターンはどうだった?』
みんなが美里を注目している。
美里は、まるで梅干しを食べた時のように目と眉と口を縮めたような表情になった。
「どうって言われても……とても……」
『とても?』
みんなが心配そうな顔をする。
「かわいかった! やっぱりくろは最高。あの触り心地。ほら教科書に出てくるツンデレだっけ? もう撫でられるの好きなくせに嫌がったふりしてもう。おやつなんてぺろぺろちゃって」
「「「「「ちがーう!」」」」」
家族一斉に美里につっこんだ。
「仕事の方聞いてるのよ。くろにそっくりな猫の話はわかったから」
「そっくりなんじゃなくて、くろの生まれ変わりなんだってば、ねぇチィニイニ!」
母と父と祖父が「猫は九個の命がある」なんて言った次兄を結構なキツめの目線で睨む。
「あ、うん。その子がくろの生まれ変わりってのは置いといて、みんなは仕事のことが知りたいんだよ。みーちゃんが苦労してないかとかね、ハハ」
「いやぁ、まぁそれなりに初めてのことづくしといいますか……」
美里は今日一日、訪問介護であったことをかいつまんで話した。
「電子レンジが使えない?! マジで?! そんな事ある。だってあたし何回もご飯温めて食べてって作り置きしておいた事あるじゃない」
「いや、そう言われてみるとほとんど俺と兄貴でやっていたような」
「はぁ?! 信っじられない! 美里、明日から弁当は自分で作りなさい。材料は何使ってもいいから必ずガスでもレンジでもいいから器具を使って」
「はい」
しょぼんとした顔で美里は返事をする。
「洗濯もだぞ。家事は折半だったからパパが洗濯はやっていた。教えてやるから、せめてやり方位覚えなさい」
「何を言っとる。お前ほとんど会議があるからとか言って俺や婆さんに丸投げしてたじゃないか。美里、おじいちゃんが教えてやる。」
「掃除も僕と兄貴が比較的やってたからね。途中から全自動になったし今度から一緒に掃除しよう。基本的に整頓して掃除機かけるだけだから」
長兄が画面を揺らしてアピールしてくる
『おい、ずるいぞ。俺にも何かさせろ! 美里、ニイニがなんでも教えてあげるぞ』
クスっと笑って美里は画面に手を振る。美里は家族の輪から一歩離れて、お辞儀をした。
「とにかく。今日私一日くろと仕事をしていてよくわかりました。甘えてばっかりだったって。あと訪問介護ってお客さん?の生活のお手伝いをする感じの仕事みたいなの。だから生活のこと色々教えてください。」
父は感動で体を震わし涙をためながら頷き、美里の頭をなでた。祖父も同じように泣きながら美里の肩を抱き、次兄はニコリと笑って美里の頬っぺたを両手で包む。画面の長兄も腕を組んで泣いていた。
『よく言った美里。それでこそ我が最愛の妹だ』
母はその家族たちを見てどん引きした。
「うわ、ちょっとなんなのよあんた達。美里を甘やかしすぎよ」
「ですよね~」
微笑みながらそっと家族達をかきわけ、美里はリビングのソファにどかっと座る。
「問題は最後の人なんだよなぁ」
美里に続いて他の家族もバラバラに座り始める。
「それって最後に行ったっていうターミナルの?」
「そう。他の家の人はそれでも生きてる事を楽しんでる感じなんだけど、あの人だけはなんていうか……なんとか元気づけられないかなって思って」
「美里、人生はそれぞれ違うし本当に健康でない人の場合は楽になりたいと思うこともある。自分本位で考えるのはよくないとお爺ちゃんは思うぞ」
「うん。そうだよね。そういうの『先入観』って言うんだって、くろに怒られ……いや教えてもらった」
「ごはん食べないっていうのは、深刻だね」
「まぁ難しいな。係長さんの言った通り、仕事には持ち場があるから医療の方からアプローチしてもらうしかないんじゃないか?」
「そうなんだけどね。ねぇ桜ってこの時期に咲かせることってできないよね? その人いつも団地の桜の樹をずっと眺めてるんだって。もしかして桜が咲いたら元気でるかなって」
「いや、この時期に早咲きをしたって話を聞いたことがないわけではないが、無理だろ。今年は温暖化はどこへやらでやたら寒いからな」
「大きいニイニ。今オーストラリアなんでしょ?そっちって咲いてないの?」
「こっちはもう夏だよ。桜はもうだいぶ前に散ったようだ。咲いてたら送ってやったんだが」
「そっかー」
「そっかーじゃない!ダメに決まってるでしょ。あんた達も冷静に考えなさい。いち介護職が、それもインターンの人間がそこまで介入していいわけないでしょ」
「だから、そういうのに引っかからない程度にっていうか、そのなんていうか」
「いい美里。あなたが利用者のために何が出来るか考えるのは、とても良いこと。でも介護ってのは係長さんが言った通り医療、保健、福祉と情報共有して持ち場の仕事をしていくというのが大命題であるはずよ。美里は介護職としての仕事をまず覚えることが一番大事なんじゃないかな」
母の言葉に美里は唇をかんでうつむいた。
それを見た母以外の家族は美里を見たり、母を見たりを繰り返しおどおどしている。
「そう、そうなんだけど……なんていうか、まだ私に出来ることがある気がして」
母はじっと美里を見つめた。美里も見つめ返す。
「もし私がそこの所長なら、そんな勝手なインターン絶対クビにするわよ」
『クビ』の言葉に、美里は一瞬で顔がこわばり動揺した。
自然とうつむく。
だが、美里の脳裏に佐藤さんの姿が浮かぶ。
薄暗い部屋。
骨の形にまでやせ細った手足、苦労してきた肌、そして生気のない表情。
それは、燃え尽きる寸前の命の
カーテンから漏れるわずかな光だけが、彼女の表情を照らしていた。
美里は顔を上げて視線を母に戻す。
頑なに決意した顔。力をいれた拳はふるふると震えている。
母はその表情を見て大きく鼻息をはいた。
「そう。あなたがそこまで解ってやるんなら好きにしなさい。ただしね、全力でやんなさい。あんたは普通の大人の半人前、そのまた半分位しか力がないと思ってなさい。結果怒られても、クビになってもその方が美里のためになる。私達はあなたの味方よ」
母は美里の肩をがっちり抱き、頬をこすり合せた。
「うん。そこでお母さんに相談があるんだけど」
「ん?」
美里は母に耳打ちする。
母は少し目を見開き何度も頷き、今度は母が美里に耳打ちする。
「それなら……」
その会話に聞き耳を立てながら頷く、祖父と父と次兄。
テーブル上のタブレット内で長兄が画面を揺らす。
『ちょっと、聞こえないよ。何話してるの!』
縁側から風が雨戸を揺らしカタカタと鳴らす。
木枯らしが吹く冬の空は動きの速い雲が流れ、月が見え隠れしていた。
◆◇◆◇◆
食事をして風呂に入り自分の部屋に入った美里はすぐにベッドに入った。
灯りを消すと月の明かりで薄っすらと部屋の中が見える。
勉強机の上にある数年前まで『くろ』が使っていた毛布の入ったバスケットを月光が照らす。
「せっかく会えたのにな……」
掛け布団をかぶり美里は唇を噛み、しくしくと泣き始めた。
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