第三章 new employee 第六話 終末期
六畳ほどの部屋に大きな介護ベッドがあり、佐藤さんは背中と膝をギャッジアップしていた。布団から出ている脛は骨の形がわかるほど痩せ、肌の潤いはなく顔色もくすんでいる。両頬の痘痕が彼女の印象を強くする。
ベッド横のテーブルには小瓶の栄養剤が箱で置いてある。
『ターミナル』
先ほどの係長の言葉が思い出される。美里はショックでただ、立ち尽くした。
ここまで瀬戸際の人間を初めて見る。
佐藤さんはカーテンの隙間から外を眺めていたが、係長と美里に気づき瞳だけ二人に向けた。
「こんにちは佐藤さん。いやもう『こんばんは』かな?」
係長は他の利用者と同じように明るい声で、介護ベッドに一息で飛び乗った。
佐藤さんの耳元まで来ると低い声で話し出す。
「佐藤さーん。これからオムツの交換とお食事のお手伝いをさせて頂きます。よろしくね。あと今日は学生の見学がいるけど大丈夫?」
佐藤さんは美里を見てゆっくりとうなづく。
「じゃぁ準備してくるね」
係長はベッドを飛び降りるとベッドわきにある“介護のねこや”と書いてある紙袋の中から
美里の横を通る時、美里の足をペシッと叩いた。
放心状態だった美里は、ハッと気づき係長の後に続いた。
「挨拶くらいしたまえ。失礼だ」
シンクで流しの洗い物を少しずらして、係長は陰洗ボトルにお湯を入れる。
それでも美里は言葉が出ない。
係長はお湯を止めフタをしっかり閉めると寝室に戻る。紙袋からオムツとパッドを取り出し隣に積まれたタオルを持って、またベッドに飛び乗った。
「ベッドの調整していきますよ」
サイドバーにかかっていたリモコンで佐藤さんのベッドが平行になっていく。
係長は佐藤さんのズボンを脱がせていく。佐藤さんの腿はもうほとんど大腿骨と同じ形をしていた。美里はそれ見て、体が硬直する。
オムツを開くとパッドはほとんど汚れていない。係長はそれでも陰部をお湯で洗った。丁寧に、優しく……。そして優しくタオルで水分を軽く押えるように拭き取っていく。
「はい、窓側に向いてくださいね」
佐藤さんの膝と腰を持ちゆっくりと横向きにする。お尻も汚れてはいない。
同じように係長は優しくお尻を洗った。
美里は青ざめた顔色でその介助をじっと見ていた。
オムツの介助を終えると係長は電子レンジで温めた茶碗を持ってくる。
中に入っていたのは玉子粥だった。
「お食事ですよ。娘さんが作ってくれた玉子粥ですよー」
係長はオーバーテーブルの上にラップを外した茶碗を置くと、佐藤さんの上半身をベッドのリモコンでギャッジアップする。
玉子粥をスプーンでひとすくいし佐藤さんの口元に運ぶ。
「佐藤さーん。はいお食事ですよー」
しかし口は開かない。それどころか首を振る。
「ほら美味しいですよー。佐藤さーん」
佐藤さんはベッドにもたれかかったまま、骨ばった手でゆっくりスプーンを遠ざけた。係長はじっと佐藤さんの瞳を見た。佐藤さんは少し目を合わせたがカーテンの隙間の方に目線を映す。
係長は小さくため息をついた。
「じゃあ、仕方ない栄養剤にしましょう。これ美味しいから飲んで。一口でいいから」
オーバーテーブルに置いてあった小瓶の栄養剤を開け、ティッシュで拭いたスプーンに入れ佐藤さんの唇に付ける。佐藤さんは、喉を湿らせるように程度だけ口に入れた。それを二口、三口と続けていったが四口目は、また手で拒否してきた。
係長は栄養剤にストローを刺しテーブルの手が届く位置におく。
「わかった。じゃぁ今日はこれでおしまいね。ありがとう。喉乾いたら飲んでね」
係長は粥にラップを張り直し、ベッドを飛び降りキッチンに向かう。
結局、美里は佐藤さん宅に入ってから一言も喋らなかった。
◆◇◆◇◆
街はすっかり夜に呑まれ、まんまるで大きな月がひと際目立つ。
車窓から見える歩道には買い物袋を持った人と猫たちが帰りしなの賑わいを見みせていた。みな一様に一日の疲れが溜まった表情を隠せない。
そんな街の夜の光は、美里の精気の無い顔を一層際立たせていた。
「すっかり遅くなってしまった」
係長は、車内のフロントガラスに映るデジタル表示の時計を見て思わず呟いた。@スピーカでスクリーンを開くと、今日の介護記録の確認や他のスタッフの記録を閲覧する。
赤信号になり、係長と美里の顔を赤く染める。
「佐藤さん、ごはん食べなかったね」
美里が呟いた言葉に係長は前足を止めた。
「なんかまるでもう生きてちゃいけないみたいな……」
続けた美里の言葉に係長はスクリーンを閉じ、目をつむって前足でごしごしする。
「想像力豊かですね」
係長は一つあくびをして続けた。
「人間は猫と違って人生が長い。生まれて、遊んで、食べるために働いて、恋愛して、子供を作って育てたら、人生の大きな課題なんてなくなる。その後も労働力として必要とされているうちは楽しいでしょうが、引退してすることがなくなったら、それはそれは退屈でしょう。きっと生きているのも飽きちゃったんですよ」
「なにそれ、冷たい!」
美里は係長を怪訝な表情で睨んだ。
「そうですね。私が今言ったことは確かに冷たい先入観です。だがあなたが言った“生きてちゃいけないみたい”も先入観なんです。なぜ食事を拒否するのかの心理状態なんて想像したって答えなんか出ません。本当にお腹が減った感覚が無いのかもしれない」
係長の言葉に美里の眉はゆるんだ。
「食事を取らないなら記録につける。度が過ぎたら医療はじめ各方面に連絡。連携して方針を決める。我々介護職に出来るのは見守り、記録し、利用者の尊厳を守り、自己決定に沿って快適に暮らすお手伝いをすること、それ以上でも以下でもない。余計な先入観は結果的に利用者のためにならない。」
美里は両ひざの前に組んだ両手をバツが悪そうに見つめた。
「そうなんだ……なんか思ってた仕事とずいぶん違うんだね。わたしはもっと……」
美里は組んだ両手に少し力が入る。
「……もっと……」
それ以上言葉が見つからない。
入れていた力が少しずつ抜け、美里の瞳から光が無くなる。
ガラス玉のようで、どこを見ているのか焦点が合わない。
係長は、疲れ切った街の夜景に視線を写す。
耳は自然と後ろに倒れていた。
「私だってね」
係長はうつむき小さな声で呟いた。
「食べてもらいたいですよ」
その言葉で、美里の瞳は微かに開く。
目を細めて係長を見つめると、力なく微笑んだ。
信号が変わり車がゆっくり走り出しと、係長と美里を少し揺らした。
うつらうつらと今にも目を閉じそうにして係長はシートに、とぐろを巻くように寝ころぶ。係長が目を閉じると、それを見て美里はやさしく係長をなでる。
「ネコハラ……ですよ」
美里は微笑みゆっくり撫で続ける。
「くろ……」
「……だから、私は違うって……」
「介護って、もどかしいね」
係長は口元をすこし緩めた。
「佐藤さん、ずっと窓見てたね」
係長はしっぽをくねらせる。
「……桜です。棟の間にある桜をずっと見て……」
「桜、か」
係長の寝息が大きくなる。美里はそっと手を離した。
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