第三章 new employee 第三話 常識欠如にもほどがある

 係長は慌てて車いすから飛び降りキッチンに入ると、レンジから黒い煙が立ち、中で明らかに紙袋が燃えているのを見て仰天した。


 「な! なにやってるんだ」


 「きゅ、急に燃えだして_!」


 美里は焦ってコップに水をくんでいた。


 「いいから窓を開けて!」


 係長はレンジのコンセントを抜き、燃えている弁当の入った紙袋をシンクにいれて水で流し消火した。


 「大丈夫かい?」


 トイレの中から心配そうな田中さんの声がする。


 「とりあえず大丈夫です。ちょっとお待ちください」


 係長は丸焦げのレンジの中を確認してから、窓の近くで泣きそうな顔になっている美里に近づく。


 「何があったの?!」


 「よくわからないけど、『あたためろ』と言われたのでレンジを操作したらああなって」


 「あれ、もしかしてオーブン機能使ってない?」


 「おーぶんきのうってなんですか?」


 「君、電子レンジ使ったことないの?」


 「あの、すみません。ご飯はママ……母が作ってくれるので触ったことなくて」


 「本当に? 今まで一回も?」


 美里は目はもう涙でいっぱいだった。係長はため息をついてうなだれる。

 その時、二人の話をトイレで聞いていた田中さんが大笑いし始めた。


 「はははは、傑作だ。お嬢さまってのは本当にいるんだな。ははは」


 急いで係長はトイレに戻って車いすに乗る。


 「すみません、お待たせして。お尻拭きました?」


 「ああ、しかしすごいな」


 「本当にすみません。レンジと弁当は我が社が弁償いたしますので」


 「いや、大丈夫だろ。短い時間だったからススをちょっと掃除すれば使えるさ。弁当だけ再配達してもらえるかな」


 「はい。すぐに」


 係長は便器の前に立ち上がった田中さんのジャージを上げながら弁当屋に電話しはじめる。美里はトイレから出てきた田中さんにすぐに頭を下げた。


 「あのすみませんでした! よかったら私のお弁当食べますか?母の手作りですけど」


 田中さんは笑いながら肩眉かたまゆだけ上げて美里を見た。


 「君はお昼どうするの?」


 美里は床を見ながら腿の前でスカートを掴んだ。


 「私は、だ、大丈夫です」


 トイレを流して係長が出てくる。


 「だめだよ。そういうのは禁止されてる。介護職は利用者に物をあげても、もらってもいけないんだ」


 「そうなんですか……」


 美里は唇を結んで瞳を揺らした。


 田中さんは笑顔で美里を見つめた。


 「気持ちだけもらっておくよ。係長さんがもう再配達頼んでくれたしね。若いんだから知らないことは沢山あるし失敗もあるさ。恥ずかしいかもしれないけど、これから覚えればいい。ふふふ。おかげで久々に大笑いできたさ」


 美里が上目遣いで田中さんを見るとウインクしてくれた。

 思わず口元が緩む美里。

 係長はため息交じりでカード端末を取り出しケアの記録をつけた。


◆◇◆◇◆


 自動運転車は街道を抜けて海岸線に出る。

 延々と続く水平線を横目に助手席の美里は窓によりかかる。


 「田中さん、いいひとだったね」


 係長はまた、ため息をつく。


 「ホントだよ、あれはレアだからね。あんな事したらふつう激怒でクレームだから。わからないことがあったら聞いてよ。まったく」


 美里は車の窓を開け、頭を出して息を思い切り吸うと、突然大きな声で叫んだ。


 「たなかさーん!ありがとー!」


 呆気に取られて固まる係長。

 一息ついて窓を閉めると、美里は係長に顔を近づけ真正面で目を合わせた。


 「次は頑張るからね。くろ」

 ぴっと真剣な眼差し。


 輝く水平線は車内を薄暗く演出し、美里の瞳に不思議な輝きを映した。係長は一瞬見惚れるが、首を振り係長はそっぽを向いた。


 「と、とにかく仕事の邪魔だけはしないでくれ」


 海岸線をしばらく走ると平行して走る路面電車の踏切を曲がる。緑の丘の公園がしばらく続き、ひと際大きなお屋敷が並ぶ高級住宅街に入った。

 車は『篠原』という大きな表札がある洋館の前に止まった。


 「ヘルパーさんですね」


 インターホンを押して出てきてくれたのは、カラフルなエスニックワンピースを着た眼鏡の高齢の女性だった。


 「篠原さん、こんにちは。今日は新人も見学に来ております。よろしくお願いいたします」


 係長は玄関先で二足歩行のまま、深々とお辞儀をした。それを見て真似るように美里もお辞儀する。


 広い玄関を上がると廊下には、高級なアジア系のお面や郷土品が飾ってある。エスニックワンピースを着た女性についていくと奥の和室に通された。

中にもたくさんの郷土品が並んでいる。真ん中にひと際大きな介護ベッドがあり、そこに小さなお婆さんが横向きで眠っている。


 「姉さん、ヘルパーさん」


 エスニックワンピースの女性が声をかけると小さなお婆さんは薄目を開ける。


 「猫さんかい?」


 案内してくれた高齢の女性は二人を部屋に通すと静かに扉を閉めてどこかに行ってしまった。


 「こんにちは、篠原さん。今日はいいお天気ですね」


 係長はいきなりベッドの上に乗ると、リモコンで篠原さんの上半身を起こす。するとベッドが動いている最中に、いきなり係長を抱っこした。

 美里はびっくりして、とっさに手を出そうとするが係長が美里を見て首を振った。


 「猫さんはやっぱり触り心地がいいわねぇ」


 「恐縮です。篠原さんは撫で方が上手いから、つい喉が鳴ってしまいます」


 ゴロゴロゴロゴロ……。係長は喉を鳴らし始める。

 美里は両手を頬っぺたにつけて悔しそうな顔でその光景を眺める。


 「篠原さん今日は新人が見学に来ています。お目ざわりではありませんか?」


 篠原さんは美里を見てニッコリ笑う。


 「あら、かわいいこ。何歳?」


 もう一方の手をのばして美里の手を握る篠原さん。その手の柔らかさにびっくりして美里の頬が赤らむ。


 「じゅ、十八歳です。あの六条坂美里といいます。よろしくお願いします」


 「頑張ってね。若い子はそれだけでいいわね」


 係長は篠原さんの手をそっと外し、立ち上がるとベッドを降りオムツやパットのある棚まで行き陰洗ボトルと取り出す。


 「洗面所お借りいたします」


 「ああ、はいどうぞ」


 篠原さんは美里の手を離し、ゆっくり横になる。

 部屋を出て洗面所に向かう係長に、美里は付いてきた。

 浴室の洗面台に昇ると、係長はお湯を陰洗ボトルに入れる。


 「ああゆう柔らかい手が好みなんだ、くろって」


 自分の手を揉み揉みしながら、美里は少し不機嫌そうにした。

 係長は、蛇口を閉めてお湯を肉球に垂らして確認している。


 「柔らかい手は確かに好きだけど、だからってわけじゃない。本来われわれアニマルセラピストは利用者に触らせてあげることで介護をしていたんだ。オキシトシンが分泌されホルモンバランスが良くなると言われている。君たち人間の介護と一番違う特徴と言っていい。だからと言って利用者以外に触らせてやる義理はないから君が触れば怒るけどね」


 「えー」


 「えーじゃない。ここのケアは排泄介助の他に部屋の掃除も含まれる。君、掃除機くらいかけたことあるよね」


 「ソウジキ」


 怪しいイントネーションに一抹の不安を感じた係長は、掃除機を納戸から出す。それは年季の入った紙パック式の掃除機だった。

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