第二章 candy girl 第二話 くろ?
美里は当然、家族に進路を相談していた。
「美里が望めば、すぐに四月からウチの会社で受付でもなんでも入れてやる。そこからゆっくりやりたい事を見つけていけばいい」
祖父はソファに座った美里の横で頭をなでながらにこにこと言ってくれる。
「父さん。やりたい事なんてね、ある程度大人にならないと見つからない物ですよ。美里、浪人したっていい。この時期はちゃんと勉強しなさい。長い人生一年くらいどうってことないんだ。それに中途半端な学校行くよりいいと思うぞ」
父はお茶をすすりタブレットを見ながらアドバイスした。
「なに言ってるのお父さん。ある程度方向性は大事よ。しっかり自分ですこしでも好きな事を見つけなさい。あたしの場合はデザインだったけど何かあるでしょう? なにか」
母親は窓際でウォーキングマシンに乗りながら汗だくで話す。
「美里、大丈夫だよ。いざとなったら俺と兄さんでお前1人くらい食わしてやるさ。なぁ兄さん」
次男の里志は、家庭用サーバーから氷の入ったグラスにミネラルウォーターを注ぎながら言う。
「ああ。来年結婚するとき一緒に来るか? 美里。お前なら、あいつも喜ぶぞ」
「何言ってるんだ兄さん、美里は僕とずーっと暮らすんだ。ねー美里ぉ―」
「こら。美里はわしの孫だぞ。嫁に行くまでどこにもいかせん」
「なに言ってるんだ。父さん。美里は私の娘だ。なぁミーちゃん。パパが一番だよな?」
美里は迫りくる家族に引きつった笑顔になり無言で固まった。
ぱんっ!
母親がウォーキングマシンを降りて柏手を打った。
「とにかく、みんな協力する。美里、あなた次第よ。やりたい事なにかないの?」
美里の背後でカロリーを消費した母親の体の熱とプレッシャーを感じながらも答えはおろか、言葉すら出すことも出来なかった。
そんな日々を、美里はこのところ続けていた。
学校の帰宅途中。誰もいない公園に美里は1人、ブランコに揺られていた。
憂鬱な顔つきでタブレットの画像を眺めている。
そこには赤い首輪をした黒猫に頬を寄せる幼き日の笑顔の美里の姿があった。
「くろ……」
美里にとって一番だったのは『くろ』だけだった。
美里が生まれた時と同時にくろは六条坂家に子猫でやってきたと聞いている。
ベビーベッドの中から一緒で双子のように育ったくろ。
小学校から帰ると一番にお出迎えをしてくれ、ごはんを食べる時は落とした箸を拾ってくれたりした。起きる時間になると舐めて起こしてくれ、兄に勉強を教えてもらっている時も二階の屋根づたいにスリッパを持って現れ、癒してくれたりした。母親に怒られるときは、『そのへんにしといてあげて』と言わんばかりに母親の足元に絡みつき、背中に乗って制止してくれた。美里が風邪をひいて寝込んでいる時は、片時も離れず美里の枕元に一緒にいた。
動画を観る時も膝の上にいて、お風呂に入っている時も足ふきマットでこちらを見ていた、トイレでも猫砂の上と便器の上とで一緒に踏ん張った。ベッドではいつも、くろの艶やかなしっぽをやさしく撫でながら眠りについた。
とにかく、くろは美里の一部だった。
「くろは、一番美里が好きだね」
美里にとって家族の中で一番誇れる思い出はくろが懐いてくれていた事だけだった。
だが、生まれつき心臓に疾患があったくろは美里が小学6年生の頃あたりから元気がなくなり、美里が中一になったその年の暮れ。心臓発作で13歳という短い猫生の幕を閉じた。
今でも庭の梅の木の下にくろは眠っている。
@スピーカで猫が話し始めたと話題になったのは、くろが亡くなった直後のことだった。
ブランコの上で美里はくろを思い出し涙が溢れだしていた。
タブレットに涙が落ちる。
その時だった。
公園を二足歩行でスーツを着た猫が横切った。
「はい。え? 小野さん家族対応でキャンセルですか? じゃあいったん事務所に戻ります」
仕事の話なのだろう。
@スピーカの登場以来いまや共に働き、喋る猫など珍しくもない。だが電話している声につられ、美里は顔をあげた。
その声に懐かしさを感じたからだ。
その時、公園にあの暖かい風が通りすぎた。
美里の瞳が大きく開く。
懐かしい声、金色の瞳、ひげの長さ、体の大きさ、そして何より艶やかで長く、くねくねとしたしっぽ。
ブランコの上で涙でうるんだ美里の目の前を歩く猫は、タブレットに映っていた“くろ”そのもの、うりふたつの黒猫だった。
美里は口を押え震えながら立ち上がると、思わずタブレットを落とした。
その音で黒猫もブランコにいる美里を見て一瞬、目があった。
ほんの数秒だが、美里には時間が止まったように感じた。
だが黒猫はプイっとそっぽを向いて何事もなかったかのように公園の出口に向かった。公園の脇に止めてある自動運転の車に近づきキーでドアのロックを解除した。
「くろ」
その声に黒猫が振り返る。
そっと近づいていた美里は、背後から突然黒猫を抱きあげた。
「くろ! くろなのね! やっぱりホントなんだ猫は生き返るってホントだったんだ!」
抱き着かれた黒猫は、ビックリして絶句し美里の顔を凝視する。
美里は一層強く抱きしめ、黒猫にいきなりキスをした。
チュッチュッチュッ!
何度も何度も。
黒猫はしっぽを電気が走ったように大きく膨らませた。
抱き着かれた黒猫は、あまりに突然のネコハラに怒りが頂点に達した。
作業用の五本指手袋をつけた前足で思い切り、美里へ目つぶし攻撃。
「あうっ! 目がぁ! くろ。目はちょっと」
思わず目を覆って座り込み、黒猫を離してしまう美里。
黒猫は華麗に着地した。
「ちょっとじゃない! 何するんだ君は!今時!完全な痴漢行為だぞ。ネコハラって言葉を知らないのか。警察呼んでもいいんだぞ!」
黒猫はあまりに怒りが収まらず、まだ全身の毛が逆立っている。
「だって、くろって読んだら振り向いたから……」
「いいかい。君は世界のこれまでの歴史で黒猫のクロが何万匹、いや何億匹いたと思うんだ! なんだか知らんが猫違いだよ。私は君の“くろ”じゃない」
美里は目をこすりながら、今の今まで黒猫に触っていた自分の手を見つめた。
「いや、この手触り、その金色の瞳、その声、しっぽの艶やかさ。絶っ対、くろ!」
美里が真剣に黒猫の目を見つめる。
あまりの眼差しに黒猫は一歩後ずさりをした。
「じゃぁ、そのくろって方はどうしたんだい。家出でもしたの?」
「六年前に天国に行ったけど」
黒猫は美里の言葉に、一瞬絶句して固まった。
「し、死んでんじゃん。じゃあ解るでしょ? 私がくろじゃないって。私今年六歳だから計算合わないよね?」
「六歳なの?! じゃあやっぱり生まれ変わったんだね」
「いや、何言ってんだ! 目が怖いし!」
美里は突然ボロボロと涙を流し泣き出した。
「よかった……くろが生き返った。良かったよぉぉ。うわぁぁぁぁん」
「えぇ~……」
泣き出した美里に黒猫は困り、一歩後ずさりした。
近所の人が何事かと窓や玄関から覗きはじめる。歩行中の人々もこちらを見始めた。黒猫はたじろぎ、まわりを見渡す。
「あっ! ネズミが空飛んでる!」
「え?」
黒猫が美里の背後を5本指手袋の指をさす。すると美里はつられて振り返った。美里が辺りを見回していると、車のドアの閉まる音がした。
「あ!」
黒猫は一瞬で車に乗り込み走り去っていた。
「くろー!」
追いかける間もなく、美里が立ち上がっているだけでもずいぶん距離があく。
もう追いつくのは難しい。
だが、車にプリントしてある事業所の名前と電話番号が美里の目に入る。
「介護のねこや……」
立ち上がって脛の土を払うと、突然美里はブランコまで走った。
カバンとタブレットを拾うと公園の出口にむかう。
自転車避けのポールを飛び越え、アスファルトを全力疾走、イチョウ並木を通りすぎ、曲がり角も体を斜めにして走り抜ける。
さっきまでの陰鬱な空気が嘘のようだった。
走りながら冷たい空気が肺に入るのが気持ちいい。
嬉しい。
美里は、一度も立ち止まらず家に帰った。
玄関を開けて靴を脱ぎはらい、どたどた走って居間に向かう。
美里の家族は長兄以外全員揃っていた。
美里は肩で息をし、膝に手をかけて息を整えていて、まだ声が出せない。
「どうしたの美里。ずいぶん制服汚して……」
フライパンで炒め物をしていたエプロン姿の母は美里の顔を見ると目を丸くした。父も祖父も、次兄も美里の表情を見て動きを止めた。
その満面の笑みに。
母は美里の隣に来ると、肩を抱き寄せた。
「聞かせておらおうじゃん」
美里は更に太陽のような眩しい笑顔で返した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます