第一章 lost csts 第二話 おじさんみたいな黒猫
その黒猫はスーツの上にコートを着て小さな皮のカバンをリュックのように背負いながら夜の繁華街を歩いていた。人々の波を器用に避けながら、人通りの少ない路地に入った。古びた木の扉に猫用の小さな扉がついた酒場、看板には「LOST CATS」と書かれている。
中に入ると昭和のバーのようなレトロなインテリアのバーなのだがカウンター席、テーブル席も猫だらけだ。
黒猫はカウンター席、一番奥の高い椅子に一息で飛びのるとカバンを背中からおろし、コート脱ぎながら言った。
「マスター、いつもの頼むよ」
パリッとした黒のバーテンダーベストとネクタイを着こなしショートカットで切れ長の目をした人間の女性のマスターはグラスを磨きながら黒猫を見下ろし無表情で答える。
「係長さん。大丈夫なんですか? ツケ、かなり貯まってますけど」
係長と呼ばれた黒猫は目をつむって両の前足を顔の前で器用に合わせた。
「大丈夫。来週給料日だからその時!キャッシュで払います! 今日も所長にこき使われちゃってさー。へとへとなんだ、たのむよ一杯だけ! このとおり!」
「今時、キャッシュって」
マスターはため息をついてマタタビウイスキーを猫用に傾けられる仕掛けのグラスに少し注ぎいれ水割りにして係長の前に置いた。係長は目の前に置かれた水割りの表面をちびっと舐める。
「かー美味い! 染みるねー」
マスターは片手で目を覆いため息をつきながら呟いた。
「オヤジか」
「ん?なにか言った?」
「いいえ」
いきなりピコンというお知らせ音と共に係長の目の前に小さなスクリーンが現れる。係長は無視しているとまたピコンピコンとスクリーンが重なって現れる。
「いいんですか? メッセージですよね」
「いいの、いいのキリないから」
「係長さん。最近いい噂聞かないですよ。なんでもそこらじゅうで借金作ってるとか、女猫に入れ込んでるとか、ギャンブルに狂ってるとか……あれこれあれこれ」
「すごい。全部本当だよ。さすがマスターは情報通だね」
「悪いことは言いません。まともに働いてるんだから遊びはそこそこにした方がいいですよ。あとで泣くのは自分ですから」
係長はグラスの水滴が流れるのを見ながら口を歪めるように苦笑いし天井から釣り下がる照明を見て宝石のような黄色い瞳の中の瞳孔を閉めた。
「はーあ。昔はよかったよな。可愛く鳴いてりゃ。人間様がゴハンくれてたあの時代はさ」
「また、詮無き話を……時代が変わったんですよ。自由が欲しいって言ったのは猫さんたちの方です」
係長はまたグラスの水割りの表面を二口舐め、ふーっと一息つくと、ゴチンとカウンターに額を付けた。
「あーあ。最後にニャーって鳴いたの、いつだったっけなぁ」
「あたしだって。猫好きでこの店はじめたのに。想像と全然違いましたよ。近頃は猫も人も変わらない。まさか猫から仕事の愚痴を聞く毎日が来るなんて思ってもみなかったですよ」
「「はぁ~」」
係長とマスターは肩を落とし同時にため息をついた。
カランカラン。来店を知らせるドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。あら……」
入り口から顔を出したのはこの店には珍しい人間の男だった。それも年配、六十歳は超えているように見える。恰幅がよくボサボサで白髪まじり、口髭と顎髭を生やしていて唇が見えない。ぎょろっとした眼をカモフラージュするように大きな黒縁の眼鏡をしている。高そうだが古いデザインのカシミヤのコートを着ていてレインボーのマフラーがひと際派手に見える。
「おや。ここは猫さん限定の店かね?」
猫だらけの店内を見て男は一歩引いた。
「いえいえ、人様も大歓迎ですよ。猫のお客様が多いだけです」
「いやぁ知らない街でね。少し温まりたいだけなのだが、かまわないかな?」
「こちらへどうぞ」
マスターは手前の空いているカウンダ―席を案内したが、男は黒猫の係長が目に入ると目を丸くした。マスターに案内された席の前で片合掌をして通り過ぎ係長の隣で空いている席を触った。
「ここ、いいかね? ダンディな黒猫さんの隣で飲んでみたくなった」
係長はちらっと男を見てすぐそっぽを向いた
「いいですが、からみ酒ならお断りですよ。私も一杯で帰るつもりでしたので」
「おお。うれしいね。猫と飲めるなんてこの歳で初めてのことだ」
男は大きな尻をどかっと椅子にのせると、マスター越しに並ぶ沢山の酒を見渡した。
「お、山崎があるじゃないか、それをダブルで」
「かしこまりました」
マスターは会釈をすると山崎を取り出し美しい所作でグラスに注ぐ。青色の陶器に肉球イラストのコースターを男の前に敷くと宝石のような琥珀色の液体の入ったグラスを静かに置いた。
「山崎の12年でございます」
係長は目を丸くした。
「へー。そんな高級な酒頼む人、初めて見ましたよ。まぁここは猫ばっかりだけど」
男はグラスを見つめて微笑んだ。
「この歳だ。金を惜しんでも仕方ない。飲みたいものを飲むさ」
「フッ」
係長は微かに笑いゴロンと椅子の上で横になった。くつろぎ、ぺろぺろと前足を舐めた。
「そうですね。やりたい事はした方がいい」
男は吹き出して笑った。
「猫っぽいな。そういうの久々に見たよ」
「猫ですから」
その姿を見てマスターも少し微笑んだ。
「そういえば猫ってのは人間の年齢より猫年齢を重んじるって聞いたが、君は何歳位なんだい? どうも見た目では判別できなくてね」
係長は前足で耳をかいた。
「人の生まれ年でいえば六年。人間で言えば四十歳超えたところですよ」
「ほう若いんだね。私の方がはるかに先輩というわけだ」
係長は目を丸くして座りなおした。
「そうですね。後輩です」
「いやそのままで構わないよ。一般的な質問をしたまでだ。すまんがよかったら少し撫でても構わないかね?」
眼をつむって即座に前足を挙げるようにして係長は言った。
「それは、ネコハラになりますのでご勘弁を。でもあなた位の年齢の方々は勝手に触る輩も多い。一言断ってくれる紳士な態度に免じてしっぽだけならいいですよ」
「おおっすまんね」
係長は長いしっぽをくねらせて男の方に向けた。男は大きな手を広げてを近づけたが、しっぽの手前で躊躇し人差し指だけですぅっと毛並みにそって撫でた。
「おお。すばらしい触り心地だ」
ふふん。と係長は誇らしげに鼻を高く上げた。
マスターが羨ましそうに見ているの感じてキッと係長は睨む。
男はニッコリするとグラスを鼻先に近づけ香りを楽しんでから、おそるおそる味わうように一口飲んだ。目を閉じ無言でしびれるように首を振った。両手でグラスを包み、たゆらせた琥珀色の液体を大きな瞳を開けうっとりと見つめた。
「この街はね、妻の育った街なんだ。昔からよくこの街の話を聞いていてね。無数のイチョウ並木の通りと団地だらけの街でなんにもないけど、冬になるとイチョウの葉で街が黄色くなるってさ。妻の思い出の街をなんだか歩いてみたくなってね」
「そうですか、奥さんの……」
係長は察したように自分のグラスを見つめ言葉が見つからず黙りこんだ。マスターは無言でグラスを磨いていた。
店内で流れる静かなジャズがしばし場を支配した。
「でね、この街に行こうかなって言ったら妻の奴。メンド―だから勝手に行けって言うんだよ。ついでに昔行ってた和菓子屋で大福買ってこいってさ。それが場所がわからくてさ、いやぁ迷った迷った。」
男は大きくため息をつく。
マスターは思わず振り返り係長と眼があった。
「奥さん生きてるの?」
「あぁ? 当たり前だ。ピンピンしてるよ。年上だからって未だに先輩ヅラさ。まったく団塊ジュニアは手におえん」
係長とマスターはまた目をあわせて微笑みあった。
「マスター。このへんの“うさぎののれん”って和菓子屋知らないか?大福が有名なんだそうだが」
「うさぎののれん、ですか? うーんちょっと……」
マスターはスクリーンを開きネット検索をかけるが、見当たらない様子だ。
「だよなぁ。見当たらんよなぁ」
係長は猫用のグラスを傾け少なくなってきたマタタビウイスキーの水割りを大事そうに飲む。
「その店は、もう何年も前に畳みましたよ。残念でしたね」
「えー、やっぱりそうか! 妻の奴め」
そういうと男は高級なグラスの酒を一気にぐびぐびとあおった。
「マスター、もう一杯」
「大丈夫ですか? 強いお酒をそんなに」
心配そうにマスターが声をかけるも男は急に立ち上がり笑顔で両腕をあげた。
「なに大丈夫だいじょうぶ。これでも昔は一升瓶を何本も空けたもんさ」
首をかしげて軽く微笑むとマスターは素早い手つきで山崎を新しいグラスに注ぎ男の前に出す。
それを見て係長はゴクリと喉を鳴らす。
「ところで、見知らぬ紳士のお兄さん」
係長の台詞に思わず男は吹き出す。
「お兄さんときたか。なんだいネコ君」
「ここで会ったのも何かの縁。今宵はカードでもして楽しみませんか?」
「カード?」
「そうです。ポーカーなどいかがですか? そうですね。私が勝ったら私にその高価なお酒を一さじで結構。もしお兄さんが勝ったら私を好きなだけ撫でていい」
「ははは、なんとも面白いな君は。ネコ君と酒を酌み交わせるだけでなく、ポーカー勝負とは妻に自慢話がまたひとつできる。いいよ。やろうやろう」
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