第3話 ただ一つを得るために 2

「じゃあな」


 そう言って走りだす彼に、またね、と声をかけて見送った。

 時刻は午後10時になろうとしている。

 あたしは荷物をまとめて、駅に向かって歩き始める。

 公園の出口で一度中を振り返ると――

 彼はまだ、走っていた。

 

 あたしと同類で、黙々と走ることで足掻いている男。

 天原仁の第一印象は、そんな程度のものだった。




 彼は、毎日公園に来るわけではなかった。

 あたしはあれからほぼ毎晩、公園で踊っているのだから間違いない。

 彼は毎日来るわけではない。むしろ来ない日が多い。しかし来た日は例外なくあたしが声をかけて止めるまで、走り続ける。

 これもまた、間違いない。

 来るたびに黙々と走り続ける彼に、あたしは頃合いを見計らって何くれとなく彼に話しかけ、無理矢理休憩を取らせた。

 単なるお節介だが、この国で初めて同類に会えて嬉しかったのだ。

 そうして、実は同じ大学で同い年だということを知った。

 一応携帯番号も交換したが、ここで会う以外に連絡を取り合うことはなかった。

 一通り喋り終えると、あたしは帰り、彼はまた走り始める。

 そんなことが1ヶ月ほど続いた。

 あたしのことも名前で呼ぶように要求して、お互いを名前で呼び合うのにようやく慣れてきた頃。

 2007年6月11日月曜日。日付まではっきりと覚えている。

 あたしは、彼女と出会った。

 仁の彼女――秦野澪と。


 


 街灯のせいで星はほとんど見えないが、よく晴れていた。

 あたしはいつも通りダンスの練習をして、5週目に向かおうとする仁を呼び止めた。

 休憩を取りがてら、だらだらと他愛のないことを喋る。これはいつも通り。

 いつもと違ったのは、二人で喋っているところに小走りに一人の女性がやってきたことだ。

 長めの黒髪を頭の左右でそれぞれ結んでたらした、可愛らしい女の子だ。繊細な感じがいかにも日本人だと思った。

 彼女は、仁の眼の前まで来ると言った。


「こんなところにいたんだ。ダメだよ、あんまり無茶しちゃ」

「よくここがわかったな」


 困ったように、呆れたように仁が答えた。彼女はそれには返事をせず、ニッコリと笑うと仁の腕を取った。女のあたしから見ても、可憐な笑顔だった。


「さ、帰ろう?」


 仁は抵抗しない。視線であたしに帰る、と言ってきた。

 しかし女性の方があたしに気づいてペコリ、と挨拶してきた。


「こんばんは。わたしは秦野澪、といいます。あなたは?」


 何か疑われているのだろうか。無理もないけど、はっきりと誤解なのであたしは堂々と返事を返す。やましいことなど何もない。


「あたしは日野リサ。仁とはここで知り合った友達」


 そして、続けて仁に声をかける。


「仁の彼女?」

「はい」


 しかしあたしの言葉に頷いたのは澪だった。仁はといえば、ずっと黙っている。


「仁がご迷惑をおかけしました」


 澪はそう言ってまたペコリ、と頭を下げた。 

 澪は仁のことが本当に大切なんだろう。腕を組みながら仁に楽しそうに話しかける彼女の姿が見えなくなるまで見送って、あたしはうらやましいな、と思った。



 ――足掻きながらも大切な人がちゃんとそばにいる、仁が。

 ――足掻いている彼を支える、澪が。

 だってあたしは、全部放り捨ててきたから。


 

 あたしはケースに入れたCDをもう一度取り出してかけた。

 そして、いつもの音楽に乗せて再び身体を動かし始める。

 あたしの身体がいつもより長い練習時間、いつもより激しい動きに悲鳴をあげる。


 けれどあたしはそれを意識して無視した。

 身体を動かしたまま、心の中で問いかける。


 ねえ、神様――

 いろんなものを諦めて、犠牲にして、日本までやってきました。

 でもまだ諦めきれないもののために、その唯一つのために必死で足掻いてるんだから――


 ――せめてその一つだけは報われたい、って思うのは、傲慢でしょうか?




 もちろん、答えは返ってこなかった。




 秦野澪という少女と出会ってから1ヶ月が過ぎた。

 その間彼女も、それから彼もこの公園に姿を現すことはなく、あたしはまた一人で踊るようになった。

 それは二人と知り合う以前と同じ日常。以前と変わったことといえば、練習時間を1時間増やしたことだけだ。

 その1時間は、セオリーで言えば明らかなオーバーワーク。長すぎる練習時間は、効果に対する効率を落とす。

 でもその効率を、捨てた。

 非効率な、限界を超えて身体を酷使するその動きの長さ、多さ、激しさ。

 黙々、黙々と走る男の姿が脳裏に浮かぶ。



 しかしあたしはそれをすぐに消し去る。

 これは彼に触発された結果なのは間違いない。

 けれど選んだのは、決めたのは自分。他でもない、このあたし自身。

 この身体の苦しみも、報われない絶望感も――

 いつか掴むはずの夢も――

 すべてあたしのものだ。

 誰かのせいなはずはなく。

 誰かのおかげであってはならない。

 何もかも捨ててここにいるのに、今更誰かは必要ない。



 ダン!とドラムが音を立て曲が終わる。

 心の叫びに身体は悲鳴を上げながら応え、あたしは昨日までの限界の一歩先へ辿り着く。

 荒くなった呼吸を整えていると不意にペットボトルが差し出された。


「お疲れ様です」


 いつからいたのか、彼女はそう言って微笑んだ。




「秦野澪さん、だっけ?こんな時間にどうしたの?」


 最後の曲を踊り終えた今はもう夜11時になろうとしている。偶然通りかかるには無理のある時間だ。

 澪は困ったように首を傾げると、あたりをキョロキョロと見回して、またあたしに視線を戻した。


「仁、来てませんか?」

「は? 来てないわよ」

「仁が電話に出ないんです。部屋にもいないし」


 澪の口調はゆっくりとしたものだったが、内心では相当焦っているようだった。

 けどあたしに言われても困る。

 仁とは友達になったつもりではあるし、日本で初めて見つけた同類ではあるが――

 あたしにとってはゲストに過ぎない。

 言うなれば一曲コラボした、という程度のものだ。

 だが澪はそう思っていないらしい。あちこち探したが残りの心当たりはここしかないと言ってくる。


「仁は発作的に走りに出るんです」

「ああ、それでたまにここに来てたのね」


 発作なわけはないとは思ったが、頷く。


「でも最近は見てないわね。前にあなたが来たときが最後だと思うわ」


 さて、ゲストに退場を願おうと、微笑みながら最後の言葉を言おうとする。

 でもそれは遮られてしまった。


「仁は、激しい運動はしちゃいけないんです」


 澪が口にした、その一言で。


 ――激しい運動をしちゃいけない?


 そんな、バカな。

 そんな人間が、あんな眼をして走ることができるはずがない。

 自分が動揺しているのがはっきりとわかった。

 じゃああの男は何をしていたっていうの?


 ――暇つぶし。


 寂しい笑顔とともに、その言葉が蘇る。

 気になって、仕方がない。消していたはずの興味が、押えきれない。


「わかった。あたしも探してあげる」


 結局、口をついてでた言葉は、ゲストの再訪を歓迎する言葉だった。

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