第2話 ただ一つを得るために 1
グラウンドから何か音が聞こえた気がして、あたし、日野リサは部室の扉を開けた。
携帯のライトをつけると、時間は午前2時半を回っている。
こんな時間に気のせいかとも思ったが、妙に気になったあたしは、部室棟の廊下からグラウンドへと向かった。
日野さんも参加してよ。わたし達は女の子ばっかりで結構真面目にやってるからさあ――なんていっていた割には合宿初日から宴会した連中は放っておくことにした。
あたしがグラウンドに降りると、気のせいではなかったらしいことがわかった。
道路からわずかに差し込む街灯の明かりの下で、ピッチャーマウンドに誰かが立っている。
一体誰なのかを確認するために、あたしもマウンドへ歩いていく。
後で考えると、多少無用心だった。
酔っ払ってはいない。あたしはアルコールを一口も飲んでいない。
それでもあたしは何かに背中を押されるように、迷わずマウンドに立つ人間の前まで歩いていき、顔を見た。
そして、思わず声を漏らした。
「仁……?」
そこに、ありえない人物が立っていた。
だって仁は――
そこに呆然と立っている仁は――
もう、野球ができないはずだから。
ボールが投げられない、そう言って寂しそうに笑った仁が一人、ピッチャーマウンドに立っている。
「リサ、か?」
あたしの名前を呼んでくるが、あたしは返事をしなかった。代わりに、ファール避けの側に転がっているボールに視線を送る。
ああ、と仁は納得したように頷いて――
「俺が投げたんだ」
無表情で、それなのに泣きそうな声で言ってくる仁に、あたしは信じられない思いで言葉を返す。
「治った、の?」
「……みたいだな」
本人もまだ実感がないのか、あたしと同じ方向に視線をやって、言う。
あたしは返事もできずに黙り込んだ。
「今更だけど。まだ間に合うのかな」
彼がポツリとつぶやいた言葉にははっきりと頷く。何かをするために、もう間に合わないなんて事はない。
それを否定することはあたし自身を否定することだから。
ふと見上げれば、頭上に広がる秋の夜空は深く。あたし達を飲み込んでいくかのようだった。
あたしと仁の出会いは半年ほど前のことだ。そのころのあたしは大学に進み、でもダンスを続けていた。
ダンスといっても色々あるが、あたしがやっているのはストリートダンスと呼ばれてるものだ。
祖国アメリカで3年間続けていたが、向こうでは結局上手くいかなかった。
父親が日本人なせいか、日本の音楽に興味があったあたしは、日本の大学に進むことにした。
でもそれは友人達への言い訳で――
本当は、日本に来たのはダンスを忘れるためだった。
そうあたしは、逃げた。自分の才能のなさを認めなくてすむように、体のいい理由をつけて。
でも結局、ダンスを忘れるために来たはずの日本で、あたしはまだダンスをやっている。
諦めようとして諦めきれずに、足掻いている。
ただあたしは日本では目立ち過ぎる。そしてストリートダンスへの理解はなさ過ぎる。
公園でCDをかけ、踊っているあたしに注がれるのは迷惑そうな、抗議の視線、あるいはナンパ目的の、ねっとりとした視線だけ。
もっと面とむかって声をかけてくる人もいた。そのどちらかを表明するために。
でも、あたしのダンスを見てくれる人はいなかった。
だから自然と、あたしは夜の公園で踊ることが多くなった。
だから仁と出会ったのも、夜の公園でだった。
その日も、あたしは一人で踊っていた。それなりに広い公園で、近くに住宅はほとんどない。
あたしは野球のキャップを被ったまま、動きやすいように上着を脱いでグリーンのタンクトップ姿になった。下は七分丈のジーンズに、白のライン入りスニーカー。
CDをかけ、音楽にあわせて踊り始める。
公園の中のジョギングコースはライトが多いので、夜でも動きが確認しやすい。コース脇の芝生が、あたしのフロアだ。
伸び、回り、跳ねて、沈む。
ステップを踏んでいるとあたしと同じくらいの歳の男が目の前をジョギングコースを走って通り過ぎた。
当然、ジョギングしているのだろう。特に気にもとめなかった。
しばらくして、また同じ男が通った。コースを正確になぞって、走っているのだろう。曇り空のせいか、他にジョギングしている人はいない。
またしばらくしてあたしが休憩を取っているとき、また同じ男が通った。
ちょっと待って。このジョギングコースは一周5キロある。
一体、何キロ走ってんの?
そう思ったが声をかけそびれ、男はこちらをチラリとも見ずに走っていった。
またしばらくしてあたしが曲を変えて踊っていると、また走ってくる男の姿が見えた。
当然のように近づき、また去っていこうとする男を見て、
「ちょっと待って!」
今度こそあたしは声をかけていた。
男が、少し通り過ぎたところで息を弾ませて止まる。全身から汗が滴っていた。
「何だ?」
そしてあたしを振り返った。その時、思ったのだ。
ああ、似ているな、って。
だって眼が――
鏡で見たあたしにそっくりだったから。
それは大きな間違いだったけど、
そのときのあたしにはそう見えたんだ。
「何だ?」
男が重ねてあたしに尋ねてくる。
声をかけたものの、好奇心以外の理由はもちろん、ない。その好奇心に押されるまま、あたしは口を開いた。
「何周してんの?」
男は一度大きく瞬きした。変な質問と思われたのかもしれない。少し思い出す間を空けてj答えが返ってくる。
「6周目、かな、確か」
「30キロも走ってるの? 休憩も入れずに?」
「そうなるな」
驚くあたしに対して、男は平然としたものだった。
「あんたはこんなところで何してんだ?」
「あたしはダンスの練習」
やはりというか、あたしの姿は眼に入っていなかったらしい。けれど男はダンスという言葉に興味をもったのか、意外にも会話を続けてくる。
「ダンス? こんな時間に一人でか?」
「そうよ。昼間に大音量で踊ってるわけにいかないでしょ?」
男はまあな、と頷いて、CDを手に取った。練習用のヒップホップだ。
「洋楽か?」
「まあね。ってあたしはハーフだしね。洋楽の方が練習しやすいの」
「ハーフなのか?」
「髪見たらわかるでしょ」
野球キャップの後ろから尻尾のように出ているあたしの髪は、金色だ。
それに男は気づいていなかったようだ。
「ああすまん、見てなかった」
「そう」
特に気にせず、スポーツドリンクを一口飲む。男にもまだ開けていない一本を投げた。
「悪いな」
「いいわよ、別に。けどちゃんと水分取らないと非効率よ」
男はあたしの指摘に答えなかった。代わりに別のことを言ってくる。
「日本語上手いな」
「当然でしょ。父親は日本人だもの」
あたしはすぐに頷いた。男がまた驚いた顔をするのが面白かった。
「あ、そうなのか」
「じゃないとなかなか来ないわよ。日本なんて。ステイツに住む六割は、海外旅行なんてしないんだから」
あたしは役に立たない雑学を披露して、会話を一旦止めた。
「で、あんたは何で三十キロも走ってんの? 陸上選手かなんか?」
会話の主導権をあたしに戻して、改めて尋ねた。けど返ってきた答えは予想もしないものだった。
「何でって言われてもなあ。ただの暇つぶし」
あまりと言えばあまりなその言葉を、あたしはすぐに否定する。
「そんなわけないでしょ。暇つぶしで夜中に三十キロも走る奴がどこにいるのよ」
――そして、そのまま口にした。
彼の傷口を抉る言葉を。その時は、傷だなんて知らなかったから。
「何か掴みたいから、走ってるんでしょ?あんたみたいな眼をした奴はいっぱい知ってるから、わかるわよ」
無邪気に、得意げに続け、
「あたしも同類だから」
そう言いきって、あたしは笑った。
殴られても文句は言えなかったと思う。でも――
「あんたみたいに熱い奴と一緒にすんなって。俺のは本当にただの暇つぶしだっての」
その時の彼は、寂しそうに笑みを浮かべただけだった。
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