第1話 遅れてきた奇跡
2007年11月4日、日曜日
俺はいつもと同じく、昼前に目を覚ました。
さっとシャワーを浴びてから、さっきまで寝ていたベッドに腰かけ、テレビのスイッチを入れる。
日曜日の昼であるため、見たいと思うほどの番組はやっていない。
ワンルームの部屋に他にたいしたものが置いてあるはずもなく、俺はテレビを消して音楽をかける。
ゆったりとしながらも力強い曲が部屋に満ちていく。
このアーティストは彼女に勧められて聞き始めたものだ。
前向きな、希望に満ちた歌詞。
去年まではこの曲に励まされ、頑張ってきた。
しかし今では鈍い痛みすら感じることもない。
じゃあどうしてこの曲を今も聴いているのか、それは、考えないことにしている。
俺は耳に残るメロディーを聴き流しながら、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
去年の夏、俺は高校生活の目標だった甲子園出場を果たせなかった。
しかし俺個人はそれなりに活躍し、スカウトの名刺も貰っていた。
彼女は俺を励ますように大学でも頑張ろう、と微笑みかけてくれた。
もちろん俺もそのつもりでいた。
だが、夏の終わりのある日――
俺は信号無視の乗用車に撥ねられ、永遠に野球ができなくなった。
それを理由に、俺は全てから逃げ出した。
俺をいつもの物思いから現実に引き戻したのは携帯の着信音だった。
はっとして、テーブルにあった携帯を取る。相手は大学のサークルの友人だった。
だらだらと中身のない会話をしばらく交わして、俺が暇であることを確認すると、そいつはコンパの誘いを持ちかけてきた。
俺は二つ返事で、集合場所と時間を確認すると、携帯を切る。特に興味がある訳ではないが、暇つぶしにはちょうどいい。
こういった感じで、俺の大学生活は悪いわけではなかった。
勉強はそれほど得意ではないが、自分のレベルに合った授業を受けるのはそれほど苦にならない。変に熱く踏み込んでこないサークルの連中も、その空気も気に入っている。
だから俺はいつもの通り、それでも満たされない気持ちをあえて無視した。
何をしていたわけではないが、時計はいつの間にか家を出る時間を指していた。
のろのろと、着替えを始める。
いつものブラックジーンズに、カーキ色のTシャツの上から茶色のブルゾンを羽織り、ショートブーツを履く。
ドアに鍵をかけ、携帯を見る。このままだと電車に間に合わないが、多少待ち合わせに遅れても問題ない、とやる気のないことを思い、俺は急ぐことなくゆっくりと歩き始めた。
予定していた電車が遅れたため、俺は幸運にも待ち合わせの時間に間に合った。
だが、コンパ自体は特に感想も浮かばないものだった。
3次会の誘いを断り、俺は多少酒の残った状態で終電に乗るべく、少し急いで駅に向かっていた。
携帯の時間を見ると、終電には何とか間に合いそうだった。
天原仁(あまはらじん)さん、ですね。
少し早足で駅前の広場に着いたとき、不意に俺の名前を呼ぶ声がした。
声に振り向くと、一人の人間が立っていた。
そいつは男にも女にも見えた。
街灯の下に立っているのに、顔はよく見えない。
俺が無視して駅へ改めて向かおうとしたとき、そいつは口を開いた。
あなたは、左腕を治したいですか?
それはずっと望んでいたこと。だがもう望みはないと言われていたこと。
俺は肯定することも、否定することも忘れ、そいつをただ見つめた。
日付が変わり、運行がすべて終了した放送が流れても俺はその場を微動だにしなかった。
――より正確には、できなかった。
あなたは、左腕を治したいですか?
その言葉に、俺は囚われていた。
鍵をして箱にしまいこんだ想いを、無理矢理ぶちまけられた気分だった。
激昂して殴りかからなかったのは、俺自身がその想いを受け止めきれていなかったのだろう。
ゆっくりと侵蝕してくるそれにさらされながら、俺はそいつを睨みつけていた。
背はかなり高い。街灯の下でなければ、闇に溶けていきそうなほど、着ている物は黒一色。
眼深にかぶったフードの中の顔が見えないせいか、男にも女にも見える。
顔が見えないのに、フードの奥の視線は俺を捉えて離さない。
俺も、一瞬も逸らさない。
「あんた、なんなんだ?」
搾り出すような俺の言葉にも、特に反応せず、眼前のそいつは同じ言葉を繰り返した。
あなたは左腕を治したいですか?
同じことを繰り返すそいつに、冗談を言っている様子はなかった。俺が頷けば、治してくれるようにすら思えてくる。
治したいか、と問われれば治したいに決まっている。
事故で絶たれた選手生命。
掴みかけていた、でもこぼれてしまった夢の切れ端。
完治することはない、と言われた絶望。
見つからなかった夢の切れ端。
その時は納得したはずだった。
夢と同じくらいかけがえのない彼女を守った事故の代償。
俺の誇りでもあるはずの怪我。
だが――
彼女が見せるようになった自責の顔。
それに心が痛まなかった俺。
心の底に確かにある、後悔。
何故彼女のために俺の夢が絶たれなければならなかったのかという後悔。
そのあまりに醜悪な感情を自覚してしまい、俺は彼女から逃げるように街を出た。
同じ大学に進学し、追いかけてきた彼女から俺は逃げ続けた。
いつからか彼女も追いかけてこなくなった。
そうして、俺の心は後悔だけになり、ごまかすように居心地のいい、傷に触れない場所にいる。
それでも、触れられてしまった。再びその想いに向き合わされてしまった。
向き合えば、俺は否定できない。
それは、確かに今もある。ああそうだ。俺は、物分りのいい振りをしているだけだ。
こぼれていった夢の切れ端を、俺は今も探している。
だから、俺は頷いた。
契約は成立しました。
訳のわからないことを言って男は俺の左腕に触れた。
いつの間に近づいてきたのかわからないほど、あっさりと。
秦野澪(はたのみお)の依頼を完了しました。
そいつの口から出た名前は、よく知った名前だった。だが、俺は何も訊けなかった。
いや、尋ねる余裕もなかった。
「あああああああ!」
左腕が、燃えるように熱くなったからだ。
深夜に叫び声をあげているのだから周りの注目を集めないはずがないのだが、俺はそんなことを気にかけられる状態ではなく、みっともなく叫びながら地面に転がった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
深夜の駅に響く俺の声。
人に声をかけられ、揺さぶられて、どうにか熱さが落ち着いた頃には、そいつの姿はなかった。
2007年11月5日、月曜日。
俺が再びの苦悩と絶望と後悔とともに、僅かに夢の切れ端を掴んだ、始まりの日だった。
終電の終わった駅前でのた打ち回る俺を見て、誰かが救急車を呼んでくれたらしい。ようやく痛みが治まってきた頃には、俺は病院の待合室にいた。
今更帰るわけにもいかないのでオフにした携帯電話を右手で遊ばせながら診察室に呼ばれるのをぼうっと待っているとふと気づく。
痺れがない。
リハビリが終わっても僅かに残っていた痺れが。
俺の絶望の象徴が――ない。
これは真実か。
これは夢ではないのか。
自問し、自答できずにいる俺に、受付から声がかかった。
午前2時を少し回った頃、俺は病院を出た。
幸いにも運ばれた病院は大学の近くの病院であり、タクシーに乗るほどの金もない俺は学生棟のソファーで仮眠して始発を待つつもりでいた。
歩きながら医者の言葉を思い出す。問診、触診、レントゲンと以前入院したときと同じことを一通り受けた後の診察結果だ。
左腕はどこも悪くない。
去年怪我をした形跡すらない。
筋力も右腕と変わらない。いや、右腕よりもやや強い。
それはつまり――
俄かには信じられないが、怪我がなかったことになっている、ということなのだろう。
喜びよりも、戸惑いが先にくる。
あの男とも女ともつかない奴が何かしたのは間違いない。だが何を、どうやって?
それに気になることも言っていた。
秦野澪の依頼を完了しました。
何故あいつの口から澪の名前が出てくる?
澪が俺の前に現れなくなってからもう二ヶ月がたつ。
何故今頃あいつの名前を聞くことになる?
澪はいったい――何をしていた?
疑問が次々と頭に浮かんでは答えの出ないまま消えていく。
それでも足は意識せずとも大学への坂を上っていく。
ふと意識して、左腕に力を入れてみる。
不自然なくらい、自然に力を入れることができた。やはりいつもの痺れはまったくない。
手のひらを握って、開く。握力も落ちているように思えない。
ずっと使っていなかったにも、関らず。
携帯電話の電源をオンにすることを忘れたまま、俺は大学の門をくぐった。街灯がうっすらと差し込むキャンパスを一人歩いていく。
夜間入り口近くの部室棟にはいくつか明かりがともっているが、騒ぎは聞こえない。
部室棟の入り口にかけられた時計は2時半を指している。飲み会でもしていた連中が、騒ぎ終えて電気をつけたまま眠っているのだろう。
俺のサークルは部室を持っていないが、誰かの家で夜通し飲むこともある。部活の連中だからといって、そう変わりもないのだろう。
部室棟の下からグラウンドを横切ろうと足を踏み入れる。野球のコートが二面とサッカーコートが二面取れる割と大きなグラウンドだ。入学してから、初めて通る。
今まで見たくもなかったグラウンドを通るのは、俺が治っている、ということを受け入れようとしている証拠なのだろうか。
自分で自分の行動に確信が持てないまま、グラウンドの端にあるホームベースを通り過ぎようとすると、硬式のボールが一つ落ちているのを見つけた。
野球部が忘れることはないだろうから、昨日使っていた野球サークルが片づけ忘れたのだろう。
右手で拾い、立ち止まってボールを見つめる。
思い出す、過去の栄光。
思い出してもどうにもならないことはわかっているが、それでも。
叶わぬ願いだとわかっているのに、それでも。
――もう一度
――――もう一度!
野球がしたい。この白球をキャッチャーミットに思いっきり投げ込みたい。
自分でも気づかないうちに俺はピッチャーマウンドに立っていた。
左手に持ち替えてボールを握る。違和感なく力が入る。
夢か。それとも現実か。
今この瞬間には大して重要ではない。
頭の中にぐるぐると回っていた疑問も、今この瞬間には完全に消えていた。
重要なのは――
俺は左手にボールを持ち替えた。
重要なのは!
俺の左手にボールがあること!
俺がそれをしっかりと握っていること!
1年以上ぶりのその感覚に身震いすらしながら、俺は大きく振りかぶり――。
「おおおおおおお!」
渾身の力を込めて、投げた。
誰もいないグラウンドに俺の叫び声が響き――
――少し遅れて白球が、ファールよけに当たって落ちた。
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