天秤
武村真/キール
プロローグ
2007年11月3日 土曜日、文化の日。
その日が、わたしがかすかな希望を掴もうとした日。
奇跡を信じて迎えた日。
そして――
その日は、朝から曇り空だった。
11月にしては少し暖かかったけど、それ以外は特に何もない普通の日。
いつもどおり、朝7時に起きた。
いつもどおり、天気予報を見た。やっぱり暖かかった。
いつもどおり、友達とメールをした。
一通りメールを打ち終わって、わたしは部屋着から着替え始めた。
少し毛先が痛んでいるけど、しっかりと黒髪にブラシを入れて、頭の左右でそれぞれ結んで横に垂らす。
ボーダーのTシャツの上に、薄手の紫のジャケットを羽織り、下はデニムのスカートで合わせる。それから、左腕に彼がくれた腕時計。
薄く化粧をして、その腕時計を見た。
友達とランチの約束をしていたので、バッグを持って家を出た。
待ち合わせの時間に少し遅れたけれど、友達はいつも通り笑って許してくれた。
ランチは友達が新しく見つけたカフェで食べた。おいしかった。
その後友達と別れて、一人で待ち合わせ場所へ向かった。
――大事な用事があったから。
何もかもいつもどおりの日の中で、たった一つ、いつもと違う、大事な用事。
歩きながら左腕の時計を見た。午後1時55分。
少し早く着いたけど、その人はもう待っていた。
軽くお辞儀して、歩き始めたその人について行った。
しばらく歩くと、その人がやっている喫茶店に着いた。
わたしは勧められるまま席に着き、その人の説明を聞いた。
1ヶ月前に聞いたのとまったく同じ説明だった。
この人はわたしの彼氏の左手を治せること。
でもそれには、必要なものがあること。
――それは、わたしの命。
この人はわたしの命を使って奇跡を起こせると言った。
そして、ほとんどの場合は死んでしまうが、ごくたまに生き残れるとも、言った。
わたしは、もちろん悩んだ。だって、死んでしまうのだ。
周りの人が聞いたら危ない人の話だと思うだろう。
でもわたしは必死だった。
わたしのせいで怪我をした彼のために必死だった。
その人は1ヶ月考えなさいと言った。
わたしは考えた。
全部嘘かもしれないし、もちろん死ぬのは怖かった。
でも、治るという希望にすがった。それはわたしの命よりも大切なことだから。
そして、時間がたつにつれ、ごくたまに生き残れる、という言葉にもすがった。
今のわたしは、彼の腕は治る。わたしは生き残れると信じている。
だからわたしは頷いた。
その人は何も言わず、ただわたしに手を向けた。
わたしの身体から力が抜けた。イスから落ちそうになった。
何か大事なものが抜けていっているのがわかった。
でも彼の腕は治る。わたしは死なない。
――死にたくない。
力がどんどん抜けていく。
わたしはイスごと仰向けに倒れた。
痛みも感じない。
彼の腕は治るかもしれない。でも死にたくない。
眼を開けていられない。
――――死にたくない!
思わず左手を何もない場所へと伸ばす。
彼からもらった時計がうっすらと見えた。
午後2時15分。
頭がぐるぐるまわっている。
腕は治る。
わたしの命で。
――――――死にたく、ない……
何で腕は治るし、わたしは死なないと思ったのだろう。
そんな都合のいいことばかり、起きるわけないって。
ちゃんと、知っていたのに。
2007年11月3日土曜日、文化の日。
その日が、わたしがかすかな希望を掴もうとした日。
奇跡を信じて迎えた日。
そして――
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