第4話 ただ一つを得るために 3

 ありがとうございます、と頭を下げてくる澪を適当に相手しながら、あたしは考えをめぐらせる。


「ねえ、澪でいいわよね?」

「あ、はい」

「ありがと。あたしもリサでいいからね。普通に話して」


 パチリ、とウインクする。まず友達になろう、という確認の儀式をすませて、改めて澪から情報を引き出すことにする。


「じゃあ仁は発作的に走る、のよね?」

「うん。前は大学の第二グラウンドで走っていて。しばらくおとなしくしていたと思ったんだけど」

「いつの間にか、ここで走っていたのね」


 コクリと頷く。澪の態度や言葉が、砕けたものに変わっている。


「じゃあ、またどこか別の場所で走っているんじゃない? そんなに心配すること?」


 澪はこっくりと頷く。過保護にしか思えなかったが、本人は真剣らしい。


「大学の第1グラウンドは?」

「野球場のあるところには行かないはずです」

「そう」


 なぜ野球場を避けるのか気になったが、あたしは無視した。

 すべての疑問は仁に直接聞けばいい。

 そのためにも仁を見つけないと。

 野球場がなく、走れて、澪が行かないところ。

 とりあえず思いつくのは――


「文化公園」


 あたしはその場所を口に出した。

 文化公園というのは町の東部にある公園で、遊園地を併設した街で一番大きな公園だ。昔の万博だかオリンピックの跡地を利用して作られたもので、デートスポットになっているが、ここからはやや遠い。

 あたしは夜でも人が多いあの公園を使う気はなかったが、仁はどうだろう?

 彼は人目をほとんど気にしていなかったように思う。

 その上、澪の反応を見る限り、彼女の想像の外にある場所だ。

 だとすれば、文化公園にいる確率はそう悪いものじゃない。

 そう、あたしは既に確信していた。

 仁は澪を避けている。

 恐らくは澪も気づいているはずだ。そうでなければ彼女が哀れすぎる。

 二人で公園の出口へ歩いていく。タクシーを探し始める澪に、後ろからあたしは尋ねた。


「それで、どうして避けられてるのにそこまですんの?」


 これは聞いておかなければならなかった。

 あまりに噛みあわないカップル。

 彼氏を過保護なほど心配する彼女。彼女を突き放しもせず、ただ避けようとする彼氏。

 ただの修羅場なら、文化公園に着いた後で澪とは分かれて彼を探す。

 そうでない何かなら、もう少し彼女に付き合う。

 あたしの内心を知ってか知らずか。澪は振り返ってこなかった。


「わたしのせいだから。わたしが、仁の夢を奪ったから」


 走ってきたタクシーを、澪が手を挙げて止める。


「だから、わたしがやらなきゃいけないの」


 そう言った彼女がどんな表情をしていたのか、あたしにはわからない。

 


 ようやく文化公園に着いたときには既に午前1時を回っていた。

 さすがに人影も少なくなった公園で、あたしは澪を連れて遊歩道を歩き始める。

 ジョギングコースのないこの公園では、恐らく遊歩道を走っていると思ったからだ。

 入り口を入ってすぐにある、花畑のエリアを越えて、池のエリアへ。

 いない。

 あたし達は更に奥へと進む。歩く速度が段々と速くなる。 

 公園のほぼ中央まで来ると、そこに彼はいた。

 ――走っている。

 明らかにふらふらと、体力はもう残っていない。

 けれど、走っている。

 公園の中央、背の高いモニュメントをライトアップする光の下を通った仁の顔を見て――


 あたしは背筋が震えるのを自覚した。ようやく、理解した。

 あたしがしていた根本的な勘違いを。


 誰があたしと同類だって?

 走っている仁の瞳は何も見ていない。それは集中しているとかそういうものではなく。


 ――どこまでも、空虚。


 あたしに暇つぶし、と答えたのも。そのときの寂しそうな顔も。

 そして、たぶん澪に向ける、困ったような笑顔も。

 すべて、この空虚を隠すためだけに作られたもの。

 

「こんなところにいたんだ。ダメだよ、あんまり無理しちゃ」

 少しの間呆然としていたのだろう。気がつくと、澪があたしと初めて会った時と同じ言葉で仁を止めている。

 いつの間にか仁も、同じように困ったような顔をしている。

 それはまるで出来の悪い寸劇を繰り返し見ているかのような、酷いデジャヴ。

 あたしは一瞬天を仰ぎ、意を決して二人に近づいていった。仁の視線が澪からあたしに移る。


「リサか、迷惑かけたみたいだな」

「まったくね」


 地面に座らされている仁を見下ろし、あたしは彼を睨みつけた。


「迷惑かけられたんだから、説明してもらうわよ」


 本当は聞きたくない、聞くべきではないとも感じていた。

 でも、あたしは踏み込むことを選んだ。


「何でこんなことしてんの? 澪は激しい運動をしちゃいけない、って言っていたけど?」


 そんなこと言ったのか? と仁が隣に座る澪に問いかける。

 澪はだってそうじゃない、と頷いた。

 仁は彼女におおげさだな、と言ってからあたしに視線を戻してきた。


「運動できないわけじゃない。左手が上手く動かないだけだ」


 なるほど、とあたしは納得した。あたしは詳しくないが、陸上選手なら何とかなるのかもしれない。

 だから走っていた、ってわけ。

 そんなあたしの勝手な推測は、しかし澪に否定される。


「だけって。だからもうどうしようもないじゃない。ちゃんと前を見て、次にやりたいことを探そうよ」


 澪の声が夜の公園によく通る。

 残酷なほどに静寂を消して、別の種類の静寂を作る。


「仁はもう、野球はできないんだよ。絶対に無理なの。だからわたしと次を見つけようよ。こんな無茶はやめたほうがいいよ」

 

 ああ――

そういうことか――



あたしは唐突に理解する。

だから仁の瞳は、空虚なんだ。

あたしは自分の中に彼の空虚さが侵食してきたように感じているのに――

 彼は困った表情を変えることはなかった。

 その事実が、あたしの心を掻き毟る。

 

 

 永遠にも思える空白の後で、最初に動いたのは仁だった。


「帰るか」


 立ち上がり、澪の手を引いて立ち上がらせる。

 あたしは動かなかった。


「ねえ」

「ん?」

「報われないのがわかりきっているのに、あんたは何でこんなことしてるの?」


 それは、聞くべきじゃないことなのだろう。

 でも、聞かずにはいられなかった。

 だって目の前のこの虚ろな姿は。

 ありうるあたしの未来の一つだって、わかってしまったから。

 壊れる寸前で、澪がとどめてくれているけど。

 あたしは支えてくれる人なんていないから。自分で捨てたから。

 こうなったらどこまでも、壊れてしまうだろう。

 それが怖くて、聞かずにはいられなかった。どこまでも足掻き続けていられる理由が欲しかった。

 仁の心が絶叫しているのが、わかっても。


 でも仁は、それを表には出さない。見せてはくれない。


「他にすることもないんだ」


 ただ、寂しく笑うだけ。


「前にも言っただろ、ただの暇つぶしだよ」


 タクシーに3人で乗って、先に家の近くで降りたあたしは、歩きながら白み始めた空に向かって問いかける。


 ねえ、神様――

 いろんなものを諦めて、犠牲にして、日本までやってきました。

 でもまだ諦めきれないもののために、その唯一つのために必死に足掻いているんだから――

 せめてその一つだけは報われたい、って思うのは傲慢かもしれないけど――


 報われないってわかっていて――

 それでも他にどうしようもなくて、もがき続ける彼は――


 ――彼は、愚かなのですか?


 澪なら、頷くのだろう。それが愚かだとわかっているから、彼女は必死に動いている。 

 でもあたしには、それを愚かと否定することは、どうしてもできそうになかった。




 だからあたしは、それからも彼と彼女に関り続けた。

 ゲストのはずが、いつかユニットを組んだ気になっていたんだ。

 でもあたしさえいなければ。

 ちゃんと彼らをゲストでとどめておけば――

 もしかしたら、彼らは幸せになれたのかもしれない。

 あるいは、穏やかに壊れていけたのかもしれない。



 でも彼らを決定的に壊したのは、残念ながらあたしだった。



 それは、もう少し先のことだけど。

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