浦島太郎

「海底の約束」


浦島太郎は村の誰もが知る好青年だった。彼は海辺で遭遇した子供たちが亀をいじめるのを助け、そのお礼に龍宮城へ招待された。美しい乙姫に歓迎され、絢爛たる宮殿での夢のような時間を過ごす。しかし、楽園のような日々も終わりが来る。浦島太郎は故郷に帰ることを決意した。


別れ際、乙姫は「この玉手箱を決して開けてはなりません」と告げて浦島に渡した。彼は深く礼を言い、元の世界に戻った。しかし、彼を待ち受けていたのは、すっかり変わり果てた村だった。家々は古び、人々は浦島を知らない。浦島は、長い間この村に住んでいたはずの自分の家族や友人たちを必死に探し回ったが、誰一人見つけることができなかった。


絶望し、彼は龍宮城で過ごした日々が、まるで夢のように感じられた。「もしかしたら、俺は永遠に海底に囚われていたのかもしれない……」そう思った瞬間、彼は乙姫から渡された玉手箱を思い出す。手を震わせながら、その箱を見つめた。


「開ければ、何かが分かるかもしれない……」


そして、浦島太郎は禁を破り、玉手箱の蓋をそっと開けた。すると、濃い白煙が箱から吹き出し、彼の身体を包み込んだ。次の瞬間、浦島は急速に老化し始め、体が重くなり、肌はしわだらけになった。彼は叫び声をあげようとしたが、喉からはかすかな声しか出なかった。


だが、そのときだった。彼の耳に誰かの囁き声が聞こえた。


「約束を忘れたのか、浦島太郎……」


振り返ると、そこには乙姫が立っていた。しかし、彼女はもはや美しい女性ではなく、海底の深い闇から現れたかのような、無表情で冷たい存在だった。彼女の眼差しは、まるで深海の冷たさを感じさせるように、暗く澄んでいた。


「永遠の楽園は、永遠にこの世を離れることを意味するのよ。戻ってはいけないのに、どうして戻ってきたの?」


乙姫の声は低く、浦島の心臓を冷たく締めつけるように響いた。


「俺は……俺はただ、元の世界に戻りたかっただけだ……!」


「あなたは戻るべきではなかった。もう人間ではないのよ。龍宮で過ごした時間が、あなたを変えたのだから。」


その瞬間、浦島の足元から黒い水が染み出し始めた。彼は恐怖で逃げ出そうとしたが、身体は動かない。黒い水は彼の足を包み込み、やがて彼の全身を飲み込んでいった。彼の視界は暗くなり、冷たい水が肺に入り込む感覚が広がった。


最後に彼が見たのは、乙姫が無表情で見つめる姿だった。


浦島太郎がその後どうなったのか、誰も知らない。ただ、村の人々は夜になると、波打ち際で彼の名前を呼ぶような不気味な声が聞こえるという。そして、その声に耳を傾けると、まるで遠くから「戻ってはいけない……」という囁きが聞こえるのだという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る