第2話「機械化心臓」(3)

 1920年5月6日。


 競技会場を多数のトラクターが走る。


 それは完全にレースと呼べるものだ。


 各地の農家──今や小作人を雇う地主よりも、農業機械を導入した農家が成長著しく、多くの土地の開墾と山間部での分割で広く富を生み始めている──が自前の商売道具であるトラクターで賭け事をしていた。


 V型6気筒の過激なエンジン音が響く。


 しかしレースとはいえ、トラクターはトラクター。大出力を生むエンジンは速さよりもトルク、輓馬の重量馬のごとき重々しく桁違いの力でほとんど沈んだ車体を巨大な車輪で泳ぐように走る。泥が散り、およその車両では劣悪極まる事情の道でも彼女らはお構いなしにレースをしていた。


 跳ねた泥が災害予防基金からの知らせである、毎年の9月に全国で同時に実施している防災訓練についての物にかかる。


「ズイバタ! ヨネに500円賭けてるの! 勝てるわよね!? 買ってちょうだいよー!」


「……」


 瑞端の隣では、泥臭いレースに双眼鏡まで用意して賭博に参加しているアナスタシアだ。


「でもほとんど同じようなトラクターばかりで面白味が無いわ。みんな同じに見えるもの。フォードソンとか別のトラクターもいるのにレースには1種類だけ?」


 と、アナスタシアは泥だらけでいよいよ誰がどの車両なのかさえわからないようなまさに泥試合に呆れていた。


「元々、うち……航空宇宙軍が設計したトラクターを民間に発注して航空宇宙軍工廠で組み立て販売したものだ、アナスタシア。道路事情、工場の機械化、食料事情の改善は全て一繋ぎに動いてる」


「国土改造てやつね。ロシアに輸出してる」


「大基本の資源の道も重要だからな。そういう意味ではイギリスとロシアは、日本では同じような大切なパートナーだ」


「ズイバタの構想は遠大だこと」


 トラクターがゴールしていた。


 泥まみれで誰かはわからない。


「5年かけて工場も田園も人材が将来的に飽和するだろうが、まだ伸びる。名古屋では一大自動車産業の運転は始まったばかりだし、東北の一大耕作地は日本の食料を支えるばかりか、その技術と知識を他でも活用している。北海道や樺太だな」


「北は寒いわよ」


「樺太庁が今ひとつ、活用できていない感がある土地がようやっと定着しているんだから一定の成功はあるよ。米の主食が普通なほど現金収入をあげてる。肥料のプラントを現地に置けたことも大きい」


「サハリンね、ズイバタ」


「うん。朝鮮議会や台湾議会にも、提案はしているから輸出も含めて稼げる。航空宇宙軍は陸海の軍縮であぶれるだろう兵隊を再教育するのもあるんだ」


「関係あるの、その話?」


「あるよ。軍隊は特殊だから軍以外でも馴染めるようになる。工場はそういうのを収容できるくらい余裕が欲しいんだけどな」


 優勝者が泥ですっかり汚れきった、顔を覆っていた手拭いを外す。女の子であった。


 工場でも農業でも機械化著しく女子であっても有力だ。その鏑矢は、やはり航空宇宙軍の学校を卒業したものたちだろう。


 最初の卒業生から、日本での急速に女性の社会進出が進んでいる。優勝者はそんな女性の1人だ。


 ふっくらとした肉付きで小柄、化粧など当然にしているわけもないおとなしい茶摘み女、という雰囲気は、裏返した手拭いで泥を雑におとし、そのおとなしさが見た目だけであり、中身は、老婆のごときずっしりと腰が座った乙女であることが見てとれる。


 瑞端は観客席を見た。


 負けた勝ったで騒いでいた。


 だが誰一人として、女子が泥の中から出てきたことに驚きなど見せはしない。ありふれた光景であるのだ。



「いやぁ、見事だった!」


 夕食の席には仏壇で見るような白米が並々盛られた茶碗や油をふんだんに使った揚げ物などエネルギッシュな料理が山のように並ぶ。


 優勝祝いの一席だ。


「誰が誰か全然わからなかったわ」


 瑞端はアナスタシアに拳骨した。


 アナスタシアが「ふぎゃ」と鳴く。


 皇女様の日本暮らしの日常であった。


 瑞端はそのうちロシア帝国から刺客でも送られてくるだろう不敬だが、白軍は赤軍ゲリラの掃討まであと少しの時間がかかりそうな状況だ。


 まだ首は繋がっていた。


「ははは……ありがとうございます、瑞端閣下、アナスタシア様」と言うのは、トラクターレースの優勝者である女子である藤原寅子である。


 航空宇宙軍兵学校の1期卒業生であり現在は20歳。……やや嫁ぎ遅れの妙齢の女性は、泥を落とし、軽い化粧で飾り、レース参加時とはまるで違う印象で畳に座る。


 兵学校の卒業生が全員、航空宇宙軍の正規兵として残るわけではない。寅子のように地元へ帰る者は少なくないのだ。


 瑞端はそれで良いとも考えていた。


 実際、兵学校で育った知識と経験で、全国の機械化に戸惑う農業や工業の最有力の人材が、航空宇宙軍の人間なのだ。


 日露戦争の莫大な借金を返済するための、投資をして更なる労働効率の上昇というのは、財布の紐を固くして節制に努めるよりも反感を買いやすい。


 寅子は未来の人間の1人だ。


「しかし学校を卒業してからは妙な居心地の悪さを感じています、閣下」


 と、寅子ははにかむ。


「居心地の悪さ?」


 瑞端は茶を一口含む。


 アナスタシアは茶菓子を食べる。


「軍にいた、と言うには私は短すぎるのですが……皆、何年も同じように学び、同じ夢を見てきた仲間であり、友でした。今はそれがいない。寂しいことを実感します」


「航空宇宙軍に戻れば良い」


 と、瑞端は意地悪に言った。


 寅子は余裕をもって受け流す。


「揶揄わないでください、閣下。私には私の勤めがあります。ところでニコラエフスクの出征に帯同なされての勝利、おくれながら、おめでとうございます」


 寅子は、アナスタシアが発見されたニコラエフスクでの赤軍ゲリラとの戦いの話を言う。


「閣下の武勇伝は地元まで届いています」


 と、寅子は口を隠しながら続けた。


「みな大喜びで。寅子の恩師が外国で活躍している、というのを、我がこととして自慢しているのです。他人なのにおかしな話ですよね?」


「いや、寅子くん、おかしくはない。心理学を分解すれば、人間や、そして動物には、社会性を維持するために自身の一部を他人に合わせるという現象があるんだ。寅子くんの郷土の人達は、私よりも遥かに社会的に健常だよ」


「そうでしょうか? 寅子はあまり好きではありません。自分のこと、他人のこと、それを分けて考えられないとき、必ず、己の先入観で他人を攻撃してしまいますもの」


 瑞端は苦笑した。


 その通りだった。


 寅子は、帝国航空宇宙軍時代から変わっていない。実直と言うか、素直すぎるのだ。であるからこそ瑞端は、理想の航空宇宙軍に向いていると考えていた。


 従順であり疑問を投げる場所をわきまえて言葉にする。それを題材に否定し、論じ、新しい話を広げることができれば、と思うのが瑞端だ。


 ただし、今回は瑞端の力不足だ。


「気に入りません!」


 プライベートが、瑞端の敗因だ。


「閣下! 笑っている場合ではありませんよ!? 航空宇宙軍の奨学金で海外にも行きました。海外は大きな工場です。知識も、転用できる民間の総合力も高い。日本は閣下の航空宇宙軍がおんぶにだっこと底上げしていますが悠長なことを言っていれば!」


「まあまあ寅子くん。確実に変わっているよ。寅子くんが産まれたくらいの時代なら東北でトラクターレースを、財閥でもない農家が持ち寄って開催することなどありえなかっただろう?」


「その通りです! しかし友幻会とかいう海軍の極翼連中さえいなければもっと上手くできていたでしょう。それが悔しいと卒業生で集まればいつも言っています! あれは故国を憂いてと技術や政治の真似事をしていても軍隊、それも海軍にしか広がらない政策の為に影響力を使っているのですよ!?」


 先程までのお淑やかさや静けさは吹っ飛び、鬼気迫る寅子の圧に瑞端はちょっと背を曲げさせられていた。


「寅子くんも結婚を考えないとなぁ」


 と、瑞端は寅子の矛を逸らす為に、寅子の話題を投げる。寅子は未婚ではあるのだが……。


「……下世話ではありますが閣下こそ、ご結婚などは? それに関してはてんで聞きおよんでいませんので」


 アナスタシアが油で揚げられた魚の肉を口から落とす。彼女は「あわわ」と瑞端の顔を見ていた。


「学校に沢山の子供達がいますので。子持ちの再婚をコブ付きと言うのであれば、私はすっかりボコボコにされた醜男で不良物件でしょう。そうですね……結婚はできないだろうと諦めています」


 寅子が顔をあげた。


 アナスタシアが目を開く。信じられん、と、言わんばかりの戦慄した表情をしていた。


 寅子が壺を取りだした。


「お酒、飲みましょう。優勝祝いに!」


 寅子が、柄杓で壺を掻き回す。


 白濁していて粕が浮いていた。


 酒の匂いのするそれは、ドブロクだ。


 なお日本政府は密造を禁止しているが、普通に密造酒の味認可の酒である。酒税の役人以外で気にするものはいない。


「ふが」


 寅子は杓子で瑞端に飲ませ続けていた。


「酔い潰れても良いですよー? うふふ。親族は喜びます。父のこともありますし。日露戦争で変わった父を、ありがとうございます」と、服の紐を弛める寅子であった。


「え〜と、お父上は健勝で?」


「まだまだ引きずっています。戦争は恐ろしいですね。人を殺すと普通の人には辛い。当たり前ですよね。でも在郷の兵隊さん達は、父と同じ部隊にいても心を開かせる仲間ではありませんでしたから。閣下についていって何故かも知りました」


「皇国の為に忠を果たしてくれたのだから手を差し伸べて当然だ。精神の学問はアメリカが先行している。戦場で体だけでなく、心の傷にも向き合うべきだ」


 瑞端は迫る寅子に押し倒された。


 だが、瑞端は寅子を押し退けた。


 寅子の大きな瞳が瑞端を見下ろす。


「……ですね」


 寅子は納得して服を着直す。と、見せかけて、油断した瑞端に噛みついて爪を立てていた。獣のように瑞端へと襲いかかって押し倒す。


 部屋の片隅では、襖を開けてどこかへ行こうとするアナスタシアがいた。手には大皿に載せられるだけの料理を山盛りしたものを後生大事に抱えていた。



「ムスコがおさまらんぞ……」


「……最低……下品……」


「うッ。アナスタシアと一緒に暮らしていたせいで忘れていたな。気をつけないと」


 瑞端は寅子の父親が槍を持って乱入してきたことでほぼ裸で追い出されていた。服を着ながら、同じように逃げてきたアナスタシアがついてきているか確認する。


「生きてるか? アナスタシア」


 瑞端は座り込んだ。


 足腰が不自由する男が走るのは、無茶をすると言うことと同じなのだ。普通よりも力を入れても、普通よりも走れない。槍の錆にならなかったのは、寅子が父君を占め落としていたからだ。


「大丈夫?」


 アナスタシアは息も乱さず続けた。


「ちょっと楽しかったわね」


「そりゃアナスタシアは狙われてなかったからな……俺は尻が真っ二つになったぞ」


「え!? ほんと? 見せない!」


「冗談だよ、捲るな、捲るな!!」


 悪女に服を剥かれかける男の悲鳴が響き、遠目に目にあった住民がそそくさと逃げていった。


 変態だと思われたのだろう。


「は〜あ……」


 アナスタシアが落ち着く。


 彼女は……座らなかった。


 立ったままに声を掛ける。


「手紙が来ているに。ロシアに帰ってこい、て。サンクトペテルブルクね」


「日本からだと長旅だな。送っていくぞ」


「サンクトペテルブルクに?」


「当たり前だろ。シベリア鉄道まで行けば、あとは列車の旅だ。船も車もあるし行動範囲だよ。それとも飛行船か?」


「いいえ、貴方に任せるわ」


 瑞端は「そうか」と、だけ、返した。

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