二章

その1

「ふぅ…」


軽く昼食を終えて一息…といったところなのに、どうも肩が重い。慣れない受業に疲れたからだろう。

肩をほぐすようゆっくりと首を回せば、昼下がりの教室が目に映る。

集まって会話に勤しむクラスメイト達。窓から差し込む陽光を受ける無人の机。

中途半端に消され、白い粒が吹き付けられたように引き伸ばされた、黒板の板書…その頭上の備え付け時計は昼休みがちょうど半分をきったところを指している。


寝るにも微妙な時間だ。昼食は既に済ませていて、やることもない。

所在なく、ただあくびをかみ殺しながら時が流れるのを待つしかない。

ということで、頬杖をついてぼんやりと時計の進みを眺めていた。


…けど、そう過ごしているうちに漠然とした不安に包まれてくる。


時間ってのはもう少し有効活用すべきなのではないだろうか、と。

周りに置いていかれてしまったのは、こんな風にぼんやりと生きてきたせいかも知れないな、と。

そんな考えが過った折、頬杖ついた腕の方向からふっと風が吹いた。


誘われるようにそちらを見ると、つい先日から開け放たれるようになった窓から青が覗き、折り重なった一枚のカーテンが心地の良い風にその端っこを揺らめかせている。

そんな窓辺には見切れた青空を背に、楽しそうに談笑するクラスメイト達の姿があった。

まさにいつもの日常。いつもの風景…なのだろうな。


深夜のバイトを減らし睡眠に少し気を遣うようになってから、こういった景色をまた見るようになった。以前は何も思わないくらいありふれた景色に見えていたが、こうして時間を空けて見ると違った風情をもって映る。貴重で、微笑ましいもののような。

そして微かに、焦燥感を掻き立てるような…そんな景色に感じた。


衣替えが待ち遠しいのだろう、袖をまくった男女を横目にぼんやりと物思いに耽る。

そのうち窓からのぞく空の青さに倦怠感を覚え、天井の蛍光灯の光に却って眠気がぶり返して——だから、小さく伸びをした。


「はー…」


時の流れは早いもので、五月もそろそろ終わりそうだ。

目まぐるしい日々が今は懐かしいくらい。

嵐のような問題児が去ってからというもの、今や月初めにあった事は俺が見た夢だったんじゃないかと思うほど…起伏のない、平穏な日々が続いていた。


やかましいバイクもすっかりいなくなったし…俺の頭に蟠りだけを残して、時間が巻き戻ったようにも感じる。


「そいえばさ、知ってる? あの暴走族をシメた沈澱党ってチームがさ——」


ささやかな喧騒の中に、そんな会話を拾う。


「…」


夢であって欲しかったあの騒動はしかし…やはり夢ではなかったらしい。

暴走族の騒音はこの街から消えた。だけど、立ち代わって流れ始めた噂がある。


それはあの夜についての噂だった。


『沈澱党を名乗る中学生集団が暴走族トルスケイルを襲撃し、再び解散へ追いやった』という内容をベースに、いくつか有ること無いこと足し引きされたものが若者たちの間で囁かれているみたいだった。


…困った話である。

その噂の一端を聞かされるたび、もしや自分のことが話されていんじゃないかと生きた心地がしない。

幸い、俺があの場にいたことを示すような噂は今のところ聞いたこと無いけれど…それでもしばらくは安心できなそうだ。


「はあ~あぁ…」


煩悶の末、自分でも気づかぬうちに頭を抱えて大きな溜め息をついていた。

すると明らかに教室の喧騒が小さくなる。

視界は目と鼻の先に現れた机の上面に覆われるが、周りから胡乱な目で見られているのが分かった。


…それにしてもなぜ、何もしていないはずの現状でもこんな評判が悪いのだろう?

警戒というかなんというか、とりあえずまともな人間と見做されていないのは確かだ…。


おかしい。絶対おかしい。なんでだ?

…いや、そうだ。おそらく吉矢だ。あいつは学校でも有名な不良。

そんなあいつと会話しているのを見られたとかで、風評被害を受けているんだ。

たぶんそうだ。間違いねぇ…。


諸悪の根源に思い至りスッキリするが、居心地の悪さは変わらない。

堪えきれずに席を立つ。あくまで音を立てないようにこっそりと。

しかし、クラスメイト数人は会話を続けつつもそれとなくこちらを見ていた。


全く…。

これに加えて変な噂が蔓延したら一体どうなることか。


…ああ、本当にばつが悪い。


何が一番ばつが悪いって…今現在、噂に怯えているこの状況は完全に自業自得な所だ。

元々評判悪いのは吉矢のせいだとしても、噂については己の不徳が招いたこと。それも昔と同じ失敗を繰り返した結果、こうなっている。元々評判悪いのは吉矢のせいだとしても…。


「はぁ…」


後悔の念を抱きながら、教室の出入り口に向かう。


俺が秋鷹の相手なんかせず、すぐ逃げていれば…。

いや、そもそも真尋を見つけた時点で警察とかに任せておけば…こんなビクビクせずには済んだろうに。


…あの夜に俺は、迷惑を掛ける相手はもういないだなんて…無責任なことを考えていたのをなんとなく覚えている。だが、それは大間違いというものだ。

むしろ、昔より迷惑が掛かる人は増えたはずで——


「あっ、お兄さん!」


そのまま教室を出ようとしたら、覚えのある声が響く。


「…みどり?」


驚いて顔を上げれば、そこには廊下から覗き込むように立つみどりの姿があった。


「めずらしー、ちゃんと教室にいる」


笑みを浮かべ、何気なく話しかけてくるみどり。

しかし、いきなりのみどりの出現に俺の頭は真っ白になっていた。


「あ、あー…そ、そうか…?」


そして呆けたように、そのまま足を止めて返事をする自分がいる。

由来のわからない何かに背をせっつかれながら、ただただ立ち尽くす。


「…あれ…あの子、前も来てたよな…」

「なんか…長井と話してるぞ…」


「…!」


突如、背後から聞こえた冷たい声々に、ようやくこの状況の不味さを理解した。

なに呆けてるんだ! 早くここを離れないと…!


「ち、ちょっとあっちへ行かない…?」


なるたけ教室からみどりの顔が見えないように、俺は体を広げ視線を遮りながら提案する。


「え? どうして?」


「や、何でかというと…そのぅ…」


理由は明白。だからこそ、尻すぼみになる。


俺と関わりがあると思われたら…それも義理の妹だと知られたら、みどりまで謂れのないことを噂されるかもしれないのだ。まあ、現在の俺は多少疎まれてる程度だから気にしすぎかもしれないが…先日の失敗を顧みるとそうも言ってられなかった。


「と、とにかくあっちでさ…!」


「ふーん…。へぇ〜…」


そんな不甲斐なく申し訳ない事情を上手く説明できずにおたおたしていると、やがてみどりは呆れたような視線を送ってくる。だが、


「いいですよ、行こっ」


すぐにみどりは翻り、移動を始める。ほっと胸を撫でおろし、それとなく距離を空けつつも一緒に廊下を進んだ。


「それにしても、妹が教室に来るってそんなに恥ずかしいことかなぁ」


「恥ずかしいというか——まあ、そうだな…ちょっとだけな。俺、クラスでの存在感ないから、クラスメイトからの印象が『妹が訪ねてくる奴』になっちゃいそうだし…」


「存在感ないのはサボってるせいでしょ? 授業に出るのは勿論、ちゃんとクラスメイトとコミュニケーション取らないと!」


「…うん、そうなんだよな。これはそれを後回しにしてきたツケなんだろうなぁ…」


「え、なんかマジ凹み…?」


芯を食った意見に思わず内省したりしながらも、みどりとの会話は続いていく。

なんだかんだみどりとは小学生時代からの長い付き合いだ。当然のことだけど、会話に困ったりはしない。

この調子でクラスメイトとも良好な関係を築けたらいいのだが…どうも今まで機会に恵まれなかった。


などと言い訳染みた思考に意識をやっている内に、いつの間にか周りからは人気が無くなっている。

差し掛かったここは実習棟に繋がる廊下の手前。実習棟なんて授業でしか使わないし、昼休みも後半だしで、人の姿はほとんど見えない。


「それでどうしたんだ、みどり。わざわざ教室まで訪ねてきて」


ここまで来たらみどりと話し込んでも問題ないだろうと、俺は用件を聞いた。


「わざと? とぼけてる?」


歩いたまま、俺の言葉に振り向くみどり。だが、何故だが訝しむような表情。


「? なにを」


「家に来るって話! お兄さんから言い出したのに、日程についてチャットしても既読無視ばっかり…」


「あー、そういえばメール来てたな…」


以前みどりに、家へ顔を出しに行くという話をした。

家というのはみどりや成哉の実家…つまり長井道則…オヤジの家のことだ。

1年ほど前にオヤジの養子になった俺だが、事務所という住居を与えて貰ったこともあり、そちらへ顔を出したことは数少ない…というより、ちょっと苦手意識があって意図的に避けていた部分もあった。だが、最近になってその態度を改めるべきだと反省し、家に顔を出す旨をみどりに伝えたのだけれど…少し考えることとかあってその後の連絡をおざなりにしちゃってたみたいだ。


「もしかして、時間を置いたら家に来るのが億劫になったとか…」


「うっ…!」


ギクッとしたところを、みどりに白い目で見られる。


「い、いや! そんなことは…っ」


「…ある、って感じですけど」


まあちょっとは…。

いやでもちょっとだけだ!


「その…連絡返せなかったのは悪い。けど、それはゴタゴタしてたからで…落ち着いたらこっちから連絡するからさ…」


嘘とも真とも言えない曖昧な表現で濁した。つもりだったが、それすら見透かしたようにみどりは俺の顔をじっと見上げ…それからふっと笑った。


「わかった。お母さんにはそれとなく言っておきます。

 正直どうしてそんなに嫌がるのか、私には全然わからないけれど…まってますから、ね」


「…ああ、ありがとう」


寛大な返事に感謝して頷き返す。


「…ん?」


後ろめたい話題も終わり、安心感に浸っていたところで、前を歩いていたみどりが不意に足を止めた。

なぜだか、そのままじっと顔を見られる。


「顔色、良くなったね」


「あ、そうか?」


「うん。そっちのほうが好きです」


自分自身ではあまり分からないが、それが本当なら嬉しい。

生活習慣を改めた結果がこうも早く出たのだとしたら、継続する気も出るもんだ。


「前はなんか非難轟々だったからなぁ。どれだけ酷い顔つきに見えていたのか気になるくらい……な、なんだ…?」


見られていた理由も分かり、みどりに返事するが何故かその間も未だ凝視が続いていて戸惑う。

やはり俺の振る舞いに文句があるのかとやや逃げ腰に見返せば、当然見つめ合うこととなる。


「ぅ、…」


…そして数秒経ったぐらいだろうか、ぷいっとみどりが逃げるように顔を背けた。


「っ、お、おっかしいなぁ…」


顔を背けたままなにか言っている。


「お兄さんはイケメンでもなんでもないって、みんな言ってるのに…な、なんでだろ…」


…なんか貶されてない?


いやまあそうだけど…。そうなんだけど、改めて言わんでもいいじゃんね。

というかどこのどいつらだ! みんなって!


「…そういえば、真尋さんはどうしているんですか?」


「え? あいつ?」


唐突にそんなことを聞かれた。


「さあ…。みどりたちとスーパーで顔を合わせた次の日ぐらいに帰ってって、それからは知らん」


「…連絡とかは?」


「いや、特には。連絡するような用件も別に無いしなー」


てか、よくよく考えたらあいつの連絡先知らねーわ。


「……うーん、もしかして成哉が言ってたことって本当…?」


ようやくこちらに向き直したと思ったら、今度は考え込むよう顎に手を当てて下を向くみどり。

その呟きになんのことかと尋ねようとした矢先、いきなり腕を掴まれた。


「あの、場所を変えませんか…。ちょっと話したい事が…」


「話? ここじゃ駄目なのか? ここでも誰かに聞かれることは無さそうだけど…」


「その、もっと人気が無いところ…体育館の方…とかに」


「いやでもあんまり教室から離れると授業に遅れるんじゃ…わっ」


突然腕を引かれ、返事をする間もなく実習棟を歩くことになる。為すがまま階段を下りて一階に降り立つとみどりは体育館に繋がる外廊下へと足を向けた。

そして二人で実習棟を抜けて…目に飛び込んで来た外の明るさについ目を細めた。


「うお…」


日増しに強くなる陽射しは窓越しよりも一層強烈に、外の世界を照らしていた。

外廊下の屋根は正午の光を見事に防いでいるが、それでも鮮やかに照りかえる世界が眩しい。

それはみどりも同じなのか、腕を引く彼女の足がそこで止まった。


「…どこまで行くんだ?」


もしやみどりの目的地はここなのかとも思い、一応そう訊いてみる。

なんか通路だし、流石に違うか。


「えっと、どうしよ…。そ、そうだ…体育館の裏…とか? どう…?」


正直、どうと訊かれても困るが。

みどりが周りを気にするほど言いにくい話というのがまず想像できないし…。

一体どんな話をされるのだろう…。


そんなことを考えているうちに、また腕を強く引かれる。そうして俺は太陽の下へ引きずり出された。



「それで…話があるんだよな」


「そ、そうですね…」


体育館の裏にたどり着くと、何故かみどりは俺から少し距離を取った。

だから少し距離を開け、みどりと向かい合う形になっている。

てっきり話をすると言っても体育館の外壁に背をもたれる感じでの会話を想像していたせいか、こう改まった空気はなんだか落ち着かない。


「う…」


落ち着かないのはみどりも同じなようだ。けど、その理由は俺と同じではないだろう。

さきほどから、みどりは周りを気にしていた。

別に、体育館裏に屯する不良がいるだとか、そういった理由ではない。

学力はともかくここは健全な学校だし、見るからの不良は吉矢ぐらいでそうそういないから、そんな心配は無用だ。


「な、なんか、思ったより人通りありますね…」


「そうだなぁ」


もちろん生徒の人通りではない。

体育館の背の方には学校の外周を区切る大きな柵があり、その向こうは普通の生活道路となっていて、さっきから買い物帰りの主婦やら散歩中のご老人やらと通りかかる人がちらほらいるのだ。

その度に、そんなところで何をやっているのだろう、といった視線もいただく。


とはいえ話を聞かれるような距離感じゃないし、そこまで気にすることではないと思うのだけれど、みどりはその事実にもじもじと話を切り出しづらそうにしていた。

…それほど言い出しづらい話とは、一体何なのだろう。不安になってきた。


「…!」


いやそうか! ひょっとしたら悩み相談かもしれん! それも大分機密性の高いやつ…!


肩書だけとは言え、俺はみどりの兄なのだ。相談を持ちかけられても不思議じゃない。

みどりがオヤジを頼るとは考えづらい。成哉は弟だから相談しにくいだろうし、半分血のつながった兄の仁は……今何処でなにをしているのかもわからん。ということで、俺にお鉢が回ってきたのだろう。

まあ、一番適任なのは母親のゆかりさんだと思うが、それができない事情があるのかもしれない。


うう~む。是非力になりたい。なりたいところだが……うら若き女性の悩み相談に俺なんかが太刀打ちできるとは到底思えないというのも正直なところである。いけるか…? 俺の貧相な人生経験で…。


「……」


——いや弱気になるな。

長井家との関係を上手くこなしていこうと、先日心に決めたばかりだろ。

くよくよ悩んでいても状況は何も変わらない。それは学校の評判だって同じだ。

俺が。俺自身が変わらないといけないんだ!


暖かい陽気のおかげか、自分でも不思議なほど唐突にやる気が溢れてくる。

よーし、なるぞっ。良い兄に、良い人間に!


そうと決まればまず行動だ。

よほど相談しづらいことなのか、俺と対面するみどりは心なし顔を赤くしてまごついている。

どうやってその心を解かそうか…。人通りを気にしているので、もっと静かな場所へ移動するってのも手だが、これ以上手順を重ねても一層重々しくなってより緊張させてしまうだけかもな。


「あ! そういえばこの前、吉矢が俺のことを探していたって教えてくれただろ。おかげさまであの後アイツと会えたんだが」


雑談だ。雑談で空気を変えよう。

軽い話をしていれば、みどりも話を切り出し易くなるはずだ。


「え、あー…屋上に行った時ですよね。吉矢さんが校内でお兄さんを探してた時の」


「そうそう。その日の夜、急に降り出してさ。仕方ないから駅で雨宿りしてたところに、大雨のなか傘もささずに街をほっつき歩いてた吉矢と会ったんだ。どうも俺を探しに街をうろついてたらしいんだが、肝心の用件を聞いたら、忘れた…ってよ。なんだったんだろうな。結局あいつの用件は…」


「あはは、吉谷さんらしい!」


うーん…なんかもっと面白い話すればよかったか。といっても特に思いつかないんだけど。

愛想笑いっぽいが、まあ笑ってくれたから良しとして…次だ。次の話を畳みかけろっ。


「それで…んと…あのさぁ」


「はい?」


やばい思いつかない。


「そ、そういや…みどりは最近、仁と会ったか…?」


あ、やっちゃった。反応によっては盛り下がりそうな話題にしちゃった。


「仁くん? ううん、最近全然あっていないし…何してるんだろ。あ、でも成哉はちょくちょく会ってるみたいだよ」


「そうかぁ…」


…どうやら、みどりは知らないようだな。あの夜、俺が見た光景…。

あの仁が不良少年とつるんで怪しげな集まりに参加しているという、なんとも信じがたい事実を。


「…はぁ~」


失言のせいで話題が変な方向に行かなくて良かった、と安堵の息を吐きたくなったところ、先んじるように溜め息が聞こえた。その抑揚はどう聞いても安堵じゃない。


「なーんか、全然変わらないなぁ。お兄さんは子供のころからさぁ…」


「え」


呆れを滲ませた溜め息の後に、少し口角を上げてみどりはそう言う。


「だからもーいいや…。戻りましょっ」


「ええ!?」


「ほらっ、昼休み終わっちゃうよ!」


「ちょ、待っ、相談は…ッ!?」


「そうだん~?」


首を傾げながらみどりは行ってしまった。


「な、なんでだ…」


何か失言をしてしまったのか…?


「そっ、そのぅ…なにか失礼なことを申し上げてしまったのでしょうか…」


「んーん。同じ轍を踏みたくないので止めとく、ってだけ」


慌ててみどりの後を追い、お伺い立てるがよくわからない返答を貰う。


「…お兄さんがもっと変わったら、言いますよ」


「変わる…? どの辺が…?」


「会話のバリエーションとか! 昔からあの2人の事ばっかりだし…なーんも変わらない」


うぅっ。会話のバリエーションが子供のころから変わっていない薄っぺらな人間だと看破されたからか…そんな奴は相談するに値しないと…。


くっ…違うのに。

確かに昔は交友関係の少なさゆえ、あの二人の話ばかりしていたかもしれない。それは認めよう。

だがさっきのは、あいつらが変なことしてるからついその話をしちゃっただけなのにっ…。


意気消沈しつつ、体育館の壁を沿うようにみどりを追う。


「お兄さんはどうですか? 学校」


「…えっ?」


「楽しいこと、ありました? ほら、同年代ばっかりだし…楽しいものでしょ? 学校って。お兄さんが感じた魅力を新入生に教えてよ」


不意にそんなことを聞かれる。


「魅力…。魅力…?? え、えーと…購買があること…とか? 昼からだけど…。そんな美味しくないけど…」


思い浮かぶものが無くて絞り出すように答えるが、また溜め息を吐かれる。


「…そういうのじゃなくて。そうだなあ…学校に気になる女の子とかいないんですか?」


「女の子…」


「ほら…その、真尋さんとか…」


「なんで真尋? というか、あいつ学校違うしな…」


「ふーん…じゃ、他にいないんですか」


「う、うーん。どうだろう…」


そもそも女子生徒と関わることほとんどないからなぁ…。


「ふふっ」


うんうん悩んでいると、少し前を歩くみどりが笑みを浮かべこちらを見た。 

馬鹿にされてる気がする…ちくしょう…。


「おるわい! 気になる人ぐらい!」


「え、誰…?」


「そうだ副会長! 副会長が良いと思うなぁ」


「えー…ほんとう? お兄さんあの人と接点あるの…? というか、あの人が人気だから言ってるだけじゃ…」


「い、いいだろ別に…接点なくても憧れるぐらいさ。それにちょっとぐらいは話した事が——」


喋ってる間に体育館の表へ戻って来た俺たちは、体育館の入り口から伸びる外廊下へ上がる。

そしてそのまま、実習棟へ向かおうとするが、


「——あたし?」


そこで、背の方から声が上がった。


「ってあれれ…松田くん? だよね? それにみどりちゃんも」


声に振り向いた先には背の高い女生徒が目を丸くしている。

見紛う訳もない。我が校の生徒会、副会長がそこにいた。


「え、あっ! ど、どうも…っ」


突然噂の主が目の前に現れ、慌てふためく。


「先輩お久しぶりです…!」


「そのキャラ何…」


後ろから小突かれた。


「いやっ、だって先輩だし…」


「…男性の先輩だったらそんな畏まらないくせに」


そうかもだけど…。緊張しちゃうんだからしょうがない。


「…お。やあ、長井君。奇遇だね」


みどりと小声でやり取りしていると、先輩…副会長の背後から声がした。

そこには体育館の入り口がある。今、そちらから出てきたのだろう、

生徒会長が三段だけのコンクリート階段を降りて、俺たちのいる外廊下に向かってきていた。


「長井くんじゃないよ。松田くんだよ。拗らせすぎて幻覚みてんの?」


「…彼は苗字が変わって、今は長井君なんだよ。何も知らないのなら黙っていてくれ…」


「はあ~? 松田くんのことは知ってるよ。中学校同じだし」


唐突に言い合いを始めた二人を前に面食らっていると、後ろから袖を引かれる。


「え、あの人と中学校一緒だったの…」


「うん、まあ…二、三回話したことがあるぐらいだけど…」


「へえ~…」


思えば彼女は当時から人気者で、別世界の住人って感じだったな。


「おっと、長井さんもいたんだね。こんにちわ」


俺の影に隠れていて気付かなかったのだろう。生徒会長はみどりを見て軽く会釈する。


「みどりちゃんも長井呼びって紛らわしいなぁ…昔馴染みなんでしょ? 松田くんのこと名前で呼べばいいのに」


「……」


「ね、松田くんもそれでいいよね」


「…勝手に話を進めないでくれないか。その保護者面うんざりなんだよ」


静かに言い放つ生徒会長の額には、心なしか青筋が浮いている気がした。


「な、なんか険悪じゃないか…?」


「…菜津美に会いに何回か生徒会室に行ったことありますけど、結構あんな感じですよ…」


「えぇ…」


気まず過ぎるだろ…。

校内で噂される二人がまさかそんな空気感だとは…あいつは上手くやっているのだろうか…。


「あ、そうだ」


ぽつりと、生徒会長のことはまるで気にしていないといった風に副会長が呟く。

そして、こう続いた。


「あたしも松田くんのこと名前で呼んでいいかな?」


「先輩が俺を…?!」


いきなりの提案に飛び上がりそうになる。

そ、それってつまり先輩が俺のことを「陽人くん…」って呼んでくるという事だよな!?

それはいけない…なんだかわからないがいけない事な気がする…。するけれど…ぜ、ぜひっ。


「…松田くん、のままでいいでしょ」


「えー、それじゃ松菜ちゃんと被るじゃん」


「なんですかそのあだ名…というかそんなに被ってないし…」


色々考えていたら、先輩とみどりがそんなやり取りをしている。


「…というか、お二人はこんなところで何をしているんですか」


「ん? ああほら、六月に体育祭があるでしょ? まあ、もうそろ梅雨入りそうでまだ日程も決まってないんだけど、それで体育館の備品をチェックしたりしてたの。そんぐらい昴一人でやれよって感じだよね」


先輩が言った昴、というのは生徒会長のことである。

最近、会長と呼ぶことが多いので忘れかけていたが、会長の本名は宇宿 昴と言う。


「元はといえば君が仕事をしないから——いや、もういい…」


その会長は副会長にそう言いかけてから、溜め息を吐いていた。

…って、あれ? 副会長に名前で呼んでもらえる話…凄いナチュラルに無かったことになってる…。


「…長井君。ちょっといいかな」


女性陣の会話に耳を傾けていると、不意に会長が肩に手を置いてきた。

会長は副会長たちに背を向けて、話を続けている二人から離れるように促してくるが…それを知ってか知らずか、副会長もこちら寄って来る。


「松田くんはとても本とか読みそうにない子なのに、よく昴なんかと仲良くなれたよね。昔の昴は休み時間に図書室に籠ってるような子供だったのに」


俺が本とか読みそうにない、というのは…どういう意味だろう。


「こんなのだけど、昔は長井君も時折図書室に来たりしていたんだよ。…仁君を探してか」


こんなの、とはどういう意味だ…! 


「それで君は人体図鑑を熱心に読み込んでいた…懐かしいね」


「そ、そうだっけかな…」


反応に困る話題になった。昔の自分の話はなんだかむず痒い。


「なんで人体図鑑?」


と、みどりが小さく疑問を呟く。その耳元に副会長が顔を寄せている。


「ほらあれだよ…女性の…とかが…から、だよ…」

「な、なるほど…それは、えろですね…」

「えろだね…」


こそこそと囁き合う二人が交わした言葉の断片に、聞き捨てならないものを拾った。


「ち、違う! 人体の構造っ…骨とか関節に興味があって…っ!」


必死に弁明を図る。だが、声は空しく響き渡るだけで儚い。


「骨…関節…。高度だ…」

「変態だ…」


くっ…どうしてこんなことを言われなくちゃならないんだ…。

酷い仕打ちに思わず顔を覆う。そこで肩を叩かれた。


「…長井君、行こうか。あの二人は置いておいて」


「うん…。しくしく…」


「あ、逃げちゃった」

「あらら、イジりすぎちゃったかなぁ」


イジメっこ二人のそんな言葉を背中越しに聞きながら、俺たちは実習棟へと逃げ込んだ。

そうして少し、肩を並べて歩いたところで、会長に顔を向ける。


「…んで、なんか用か?」


先ほどから何か、用がありげにしていたからな…。


「ああ、ちょっとお願いがあって…。彼女たちから離れたかったのは…賑やかになったら嫌だなと思ってさ」


ちらりと後ろを振り返りながら、会長は続けた。


「不思議なことに君は人気者なようだからね…相変わらず。それも今となっては女性にまで。まあ反面、羨むこともなくなったが…」


「…、そっか…」


また変なことを言いだした会長に、真に受けずテキトーな返事をする。

時々こいつはよくわからない…本当に俺と同じ世界を見ているのか疑ってしまうような事を言い出す。


そういや、こいつは小学生の時からこんな感じの所があったっけなぁ…。

頻繁に絡むような関係性じゃなかったけど、時折話すとこんな調子だから困ることが結構あった記憶。


「そろそろ昼休みも終わってしまうね…だから用件だけ言うよ。今日の放課後、仕事を手伝ってくれないか?」


半ばまくし立てるように会長が言う。


「仕事…?」


「校庭にある用具倉庫を整頓するだけの、なんてことない力仕事だよ。君、そういうの得意だろ」


「いや、なんで俺…? 生徒会の仕事なんだろ? 部外者がいたらおかしいんじゃ…」


「あの怠惰な副会長は使えそうにないからさ。僕一人だと時間がかかるだろうし…頼むよ」


「う、うーん…」


まあそのぐらいなら…と言いたいところだが、ついこの前すっぽかされたばかりだからなぁ…。連続でそれされたら引きずる自信がある。


「返事は後で良いよ。放課後に校庭で待っているから、五時前には来てくれ」


それだけ言い残すと会長は足早に去っていく。その背中はすぐさま見えなくなった。


「…さて。どうしよっかなぁ…」


その場で悩むこと少し。

後方からみどり達の声が聞こえて来てほどなく、予鈴がなる。




痛いほど強かった正午の陽射しは見る影もなく、日はすっかりと傾いた。

偶然にも以前と同じ…生徒会室に呼び出された時と同じ時間に、放課後の校庭を歩いている。

けど、広がる夕空は前より格段に明るい。

茜色からはまだ遠いようで近い山吹色の空の下、走っている運動部が向こうに見える。


「——やあ、長井君。嫌そうにしていたのに、よく来てくれたね」


校庭の隅。用具庫の前で待っていた生徒会長がそう声を掛けてきた。


「嫌というか…この前、お前にすっぽかされたからな」


とはいえ、こういった活動を地道にしていくことで俺の評判も改善されるのではないかという打算もあって結局ここまで来たが…。


「つか、何だったんだよあの時の呼び出し。しかもその夜にナイトクラブで会うし…」


なんというか、こいつの行動が読めなさすぎる…。


「ああ、あれは…君が松田さんと仲違いしていると聞いたから…。まあ、老婆心だよ」


「え?」


紛らわしいが、松田さん…って菜津美のことだよな。


「あの後、松田さんとは会えたんだろ? 彼女はあの日遅くまで会計の仕事をすると言っていたから…」


「うん、まあ、会ったけれど…」


「そうか、会えたなら良かったよ」


にこりと笑う会長。


「いや待て! そもそも菜津美と仲違いなんてした覚え無いぞ…!」


「あれ、そうなのかい? おかしいな…彼女は君と長いこと話していないって言っていたのに…」


そうだっけ?

この前話したばかりな気が…あー、いや、それは会長に呼び出された後のことか。その前は…


「…や、前にもアイツがみどりと一緒にいた時とかに何度か顔合せたりしてたけどな。まあ、会話はしばらくしていなかったかもだが…」


「それはどのくらい?」


「…一年…プラス少しぐらい?」


会長がはあ…と項垂れ、


「よくわからない人だね君は…」


続けたその声は明らかに呆れている。


「君は他者に依存しているのだと…享受したものの為に生きているのだと思い做していたけれど…」


そして小さな声で何かぶつぶつ言い始めた。


「…いや、自我が薄いのか。そこに自分が居ても居なくても関係無いのか…。そこは僕とは明確に違うのだろうね…」


「……」


こいつが珍紛漢なことを言い出すのはもう慣れた。

慣れたけど…それが自分に対する評価となると妙に嫌な気分だ。

文句があるのか無いのか、それすら分からん。


「…長井君。君は将来の夢とか…やりたいことはあるのかな。些細なことでもいいのだけど」


なんだよその質問…。

知らず知らずのうちにカウンセリングか何かされている…? いや進路相談か…?

そりゃ人からみりゃ、お先真っ暗かもしれんけど、そんなあからさまに心配されてもさぁ…。


「——そういや! 生徒会の仕事って何すんだ!? 早く始めないと日が暮れちまうぞっ」


とにかく急かすことで雑に逃げてみる。


「ああ、仕事と言ってもちょっとした棚卸しのようなものだよ。あと、部活とかで使う器具はそっちに…」


そこまで興味があるわけじゃなかったのだろう。会長はあっさりと逃がしてくれた。

元の木阿弥にならないよう、説明を受けた俺はせっせと手伝いを始める…



…20分ほどだろうか。思いのほかそれはすぐに終わった。

俺が仕事を頑張ったから、というわけではない。生徒会長の指示通りに器具を運んでいたらあっという間だった。


「それじゃあ帰ろうか」


後片付けを終えるとすぐさま校門へ向かう生徒会長。

出遅れた俺はその背中を少しの間、眺めることになる。


「…なんだよ。僕と一緒に帰るのは嫌か?」


「いや、なんか記録してたし…まだ仕事があるんだと思って…」


「ああ、あとは写すだけだし別に今日やる必要はないんだ」


ということなので会長の横に並ぶ。

思えば高校で再会してから宇宿と一緒に帰るのは初めてかもしれない。

だから何だという話だが…。


「えっ、あれ宇宿くんじゃない?」

「あ、ほんとだ。今帰りなのかな」


校門に差し掛かったところ、後方から聞こえたそんな声。

ふと足を止めた振り向きざま、半身になった俺の横を風が通った。


「宇宿くーん、今帰るのー?」

「この時間に会うの珍しい」


「…? おや、峰岸さんと河合さん。そうなんだ。丁度生徒会の仕事が終わってね」


俺の横を抜け、群がった二人の女子生徒に、気さくに答える会長。

当然のように会話はどんどん盛り上がっていく。それを、少し離れたところから眺める俺。


「……」


会長が羨ましい、というわけじゃない。ほったかされているのが気になるわけでもない。

ただ…ただなんというか…。やることねぇなぁ…この時間。

仕方がないから夕日に染まる校舎でも眺めることにするが、窓の反射で目がチカチカする。


「ね、暇なら今からどっか行こうよ」

「ごめん、今日は彼と帰るんだ」

「あー…そうなんだ」

「だからまた…」

「うん、またねー」


ここの校舎、なかなか小綺麗だよなぁ。小中は地味に古かったが、確かこっちは最近改修したんだっけ。


「おーい、長井君」


「ん…、あぁ…」


呆けていたのでどんな会話があったのか全然聞いてなかったけど、なんか終わったらしい。

足を動かして校門の先にいる会長の元へ向かう。すると、会長とは別方向に行く女生徒二人とすれ違うように入れ替わることになる。


「誰だろー、あの人。宇宿くんの友達?」

「知らない。でも、なんか変だね」


え…変…? 喋ってもいないのに…変?!


「うッ…!」


待て…傷つくな! 変というのは俺自身を形容する言葉じゃなくて、俺みたいなのが宇宿と付き合いがあることに関してだ! それは自他共に認めているところだろ…。


「…ふう」


危ない所だった…。


「長井君? どうしたんだい、いきなり膝をついて…大丈夫?」


「…あぁ、大丈夫。もう少しでダメージ負う所だったが…なんとかな」


「その様子で受けてないんだ…」


立ち上がり、何事もなかったかのように帰路に就く。


「…にしても、モテモテだなぁお前。こうなるとは昔からは全然予想もつかなかったな」


「モテモテって…ただのクラスメイトだよ。会話聞けば分かるだろ?」


「そうなの? なんか、あの子たちにはその気があるように見えたけど…」


そう返すと、はぁ…と今日何度目なのか分からないほど聞いた溜め息を頂いた。


「君は本質的に…そういったものに無理解、無頓着だから判別がつかないんだろうな…」


突き放すみたいな物言いに何も返せなくなる。

ったく、自分はモテるからってそんな見下したような言い方しなくてもいいじゃんねぇ…。


俺たちはしばし無言のままで帰り道を行く。

五時を過ぎてもまだまだ明るい五月の終わり。

蝉の声が聞こえないのが不思議なほど、この静かな通りはどこまでも真夏の景色だった。


「とはいえ…君がそう決めつけたくなる気持ちもわかるよ。若者と話していると何というか、彼らの価値基準は…性別を前提とした性的な価値に依拠していることが多いように思えるからね…。いや…価値だけじゃない。認識自体に根ざしているような…。それこそが本能の象る社会性の一部だと言ってしまったらそれまでかもしれないけど…少し、フロイトがあんなことを言いだしたのも理解できてしまう…」


黙っていたと思ったらいきなり凄い喋り出す…。

そして会長は一息つき、物憂い声色でぽつりと続けた。


「でも、そんな彼らとは違う僕たちは…一体何なのだろうね」


ん…? 僕たち…って、俺も入ってる?


「僕らのこれは停滞なのだろうか。未発達だからこう考えるのだろうか? 

 …僕にはそう思えなくてさ」


「そ、そうかぁ…まぁ、なんでもいいと思うけど…」


なんか…なんか気まずいなぁ。どう反応するべきなんだか未だに分からない。

色々と変貌を遂げた会長だが、ここが相変わらずなのは残念だよな…。


「…」


…と考えつつも、この調子が少し心地良いのも事実だった。


どこか懐かしさを感じる静かな帰り道。

子供の頃、宇宿と二人きりで帰り道を共にしたことは片手で数えられるぐらいしか無かったと思うが、それでも当時を思い返す。

沈黙の多い道々、緩やかな歩調でだらだらと帰るこの空気感は嫌いじゃない。


「…昔を思い出すね。覚えているかな? 小学生の頃に一度だけ、珍しく一人になった君と一緒に帰ったことがあったね」


同じことを考えていたのかもしれない。会長がまさに俺が思い返していた過去に言及した。したのだけれど、その記憶には齟齬があった。


「ああ、うん…あったな…あったけど、それって一度だけじゃなくて二、三回ぐらい無かったっけ…」


「あれ、そうだったかな…ごめん」


指摘に本気で怪訝そうな顔をしやがる。


「たぶん、昔の僕は君に興味がなかったから細かい所を忘れてしまったんだろう…」


「んなこと、事実でもいちいち言わんでくださいよ…」


「というかむしろ嫌いだったから…」


「え!? 俺なんかしたっけ…?」


嫌われるようなことしたか…?

親切に接していたと思っていたのに…烏滸がましくも。


「ほら、君は低学年の時すごく…評判が悪かっただろ。君と初めて顔を合わせる前からその悪評を耳にしたことがあったぐらいだ。その印象を長いこと引きずっていてね…」


「それは…っ、まぁ…そうだなぁ…あの時は…俺もちょっとアレだったし…」


「色んな噂を聞いたよ。ペットボトルにドライアイスを入れて作った爆弾を交番前の地面に埋めたとか。はたまたペットボトルにスズメバチを捕らえて、それを教員の車の中に潜ませただとか…」


ペットボトルに異様な拘りがあるテロリスト…?


「やってない…。そんなことしてないのに…」


「みたいだね。でもそれを真に受けてたこともあって僕の中で君は完全に悪者だった。

 …君の名前を消しゴムに書いて、それに火で熱した釘を突き立てるのが、当時僕の中で密かに流行していたぐらいに」


オリジナル呪術を執り行うほどまでに?!


「そ、その…過去の振る舞いは反省しているので、どうかもう呪わないでね…?」


「あはは、半分冗談。そこまで憎んでいないよ。ただ、少し君が羨ましかっただけなんだろう」


「羨ましい? どこが…?」


自慢じゃないが今も昔も羨まれるような人間ではないのだけれど。


「僕と何も変わらないはずの君が、僕の欲しいものを持っていたからさ。…けど、それも今や失くしてしまったようだ。だからか、今の君は好きだよ」


「なんじゃそら…」


褒めているのか貶してるのか…いや絶対褒めてはいないな。


そうこうしている内に、帰路をだいぶ辿った。家の方向を考えるとそろそろ会長は別れる頃合いだろう。

街路樹に影を引かれ、二色に染まった道路沿いを歩きながらちらりと会長の顔を見た。


「…繁華街まで行こうか」


声にせずとも答えが返ってくる。


「なんだ不良会長は今日も朝帰りか? さっきの子たちはどう思うんだろーな。あの品行方正な生徒会長がナイトクラブに入り浸ってるなんて知ったら」


「なんだよ…。君だって、クラブに来たじゃないか」


「いや、あれは吉矢に連れられただけで…真面目な俺は普段あんなとこには行かないね」


「僕だって同じさ。あの日はたまたま街中で仁君と吉矢君に出会ったから一緒させて貰っただけだよ。

 吉矢君はコンビニに行くと言ってすぐにいなくなってしまったし、彼が君を連れて戻るまで、僕は僕で不慣れな場所に右往左往してたんだ」


「ん…? 仁もいたのか…?」


ちょっとした意趣返しに茶化してみたら驚きの新事実を知った。


「気付いていなかったのかい…? まあ、君はナイトクラブに入ってくるなり眠り込んでしまったからおかしくないのか。あの時はちょうど彼の姿も見えなかったし…」


そういやあの日、吉矢がナイトクラブに誘ってきた時にそのようなことを言っていたような…。


「あ…」


そうだ。オヤジからの仕送りのことだとか、仁に聞いておきたいことがあったんだった…。

それでわざわざナイトクラブまでついていったというのに、すっかり忘れてた…。


「そうか、あいつもいたんだな…。大方、俺と同じように吉矢たちに引きずられあの店に連れてかれたんだろうが…」


「…それはどうだろう。仁君も今は色々とやりたいことがあるようだ。人の遊びに付き合ってる暇なんか無いだろう」


「……」


なにやら意味深なことを言う会長。その声は少し嬉しそうに聞こえる。


「僕らは昔のままでも…どうやら彼は変わってしまったようだ」


「…それは、沈澱党のことを言ってんのか?」


変わってしまったという言葉に、脳裏に浮んだのは…あの夜、目撃した光景。

倉庫に集う不良少年たち。そして、その輪の中心には…仁がいるように見えた。


「なんだ…。てんで無知という訳じゃないのか…」


俺の答えに会長は一度驚いたような表情をみせ、それから心底つまらなさそうに言い捨てた。


「…君はそれをどのような経緯で知ったんだ? あの子…大野真尋からかな」


「んん…? いや、あいつは関係なくたまたま…」


それを知ったのは暴走族に俺が長井仁だと勘違いされたのがきっかけだった。

結果的になんか真尋も巻き込まれてたけども…。


「では、何も知らないも同然か…」


なんだこいつ…さっきからやたらと仁の情報でマウント取ってくるぞ。

それでマウントを取れる界隈、随分狭いと思うがどうしてそこまで…。


「…」


そういや生徒会長は…宇宿は昔から仁に並々ならぬ執着心を見せていたっけ。

宇宿は溝口たちにイジメられていたところを仁に何度も助けられているからなぁ。恩義のようなものを感じているのも当然か。

でも、少しとはいえその手伝いをしたはずの俺が嫌われていたのはどうしてだろう…。


「…意外だな。僕が仁君についてなにを知っているか、聞かないんだね」


「聞いてどうすんだよ…」


「さあね。ただ君なら何かしら介入するのかなと思っていたものだから」


「介入って…そんな権利ないだろ。あいつがなにをしていようがあいつの自由だ。その邪魔をしようなんて思わない。あいつとはただの友達——…なんだし…」


いや、客観的に見たらただの古い知人…そんぐらいか。

一応は事務所の同居人でもあるが、一年以上あいつが帰っているところに出くわしていない。

それ以前も、小学校卒業後はほとんど会わなかったし…その程度の関係だ。


「なるほど…」


それだけ呟いて会長は考え込むように俯く。


「…」


また言葉が無くなり暇になる。だから、対照的に空を見上げた。

落陽を受けるまばらな綿雲と、頭上高く浮ぶひつじ雲…。

やがて赤みを帯びていく夕空の中で、湿った風が吹いた気がした。



それから、街並みが変わり始めたのはすぐだった。

店や駐車場の看板が目に付き始め、背の高い建物に空が窮屈そうに赤らむ。

耳を過ぎるものが風の音か遠い車の音かよく分からなくなって…すっかり慣れ親しんだごちゃごちゃした感じ。

そんな街並みを少し歩いたところで、ふと会長が足を止め「寄っていかないか」とファストフード店を指さした。そういう訳で、俺たちはファストフード店へ立ち寄ったのだが…。


「長井君はどうする?」


店内のテーブル席に着くなりスマホを弄りだした会長を現代っ子だなぁ…と眺めているとそう聞かれる。


「えーと……水」


「奢ってあげるから、好きな物頼んでいいよ」


「えっマジ! ありがとうっ、んじゃこのセット」


「ああ…わかった…」


スマホの画面からこちらを窺う会長の瞳に何とも言えない感情が浮んでいた気がするけど、そんなことは気にならなかった。思えば何年ぶりだろう、こういったジャンクフードを食べるの。


「あの…注文しないの?」


浮き立つ心を抑えて待っていたが、会長はいくら待てど注文しに行く気配がない。


「もう注文したよ」


「え? どうやって…」


「スマホで出来るんだよ。知らなかったのかい」


「す、すごい…」


「……うん」


知らぬ間にそんな進化を…。

本音を言うと最近の社会の変化には不安を覚えるところもある。

近所のスーパーのセルフレジも最初かなり手こずったし…。


「…できたみたいだ。受け取ってくるね」


頭に埋め込まれたマイクロチップで電波を受信したのか知らんけど、会長にはそれがわかったらしい。

そういう訳で俺はテーブル席に一人取り残された。

することも無いのでそれとなく店内を眺めて暇を潰す。

俺たちと同じように立ち寄っただろう学生が数人に、子供を連れた女性…スーツ姿の人も見える。


この光景を見て何か思う所があるわけじゃない。

ただ繁華街の大通りを歩く人々からは感じられないような、人々の身近な生活を感じたりする。

今入って来た茶髪の若者は大学生だろうか、カジュアルな服装だと判断つかないな…。


「よー、待った?」


…?

店内の人々から目線を切り、テーブルのメニュー表を眺め始めてちょっと。やけに近い所から声が聞こえた。


「しょ、っと」


「?!」


な、なんだ?

突然、俺の隣に男が座って来た。

どぎまぎしながらその男を窺うと先ほど店に入って来た大学生ぐらいの年頃の男だと分かる。

たぶん知らない人なんだけど、真横に座られているのでまじまじ観察するのも気まずい。


「お、どした? 何縮こまってんのさ」


そして男は肘でこちらを小突いてきた…。ど、どうしよう。人違いだよな…?

というか、テーブル席なのに対面じゃなくてわざわざ隣に座ってくるのも変な気がするんだが…。


「長井君ごめん。少し遅くなったね」


か、会長! 丁度いいところに…!


「……」


トレイを持った会長は至って自然に席に着いた。あれ…


「お、ポテト揚げたてっぽい。ラッキーじゃん」


そして隣に座った男も依然と自然。

…え、なにこの人。俺にだけ見えるとかそんな感じ…? こ、こわい…


「会長ぉ…助けてぇ…呪術使っていいからぁ…」


「…なにを言っているんだ、君は」


小声でSOSを発するがすげない返事で切られた。


「こいつどうしたの? さっきからこんな調子なんだけど」


「…ああ、知らない人がいきなり横に座って来たからびっくりしたんだろう」


ドリンクに口をつけていた会長は少し遅れて、男の言葉に答えた。


「薄情だなー。ちょっと前に会ったじゃん。ん…いやもう一か月くらい経ったかなぁ?」


「え…?」


人間らしくてホッとしていたのだけれど、そんなことを言われたので再び冷や汗をかかされる。

やべぇわかんねぇ…どちら様だ…。


「藤…。…藤君だよ。小学生の時に居ただろ…こんな奴」


「なに宇宿ぃ、その言い方。調子乗ってんねー」


目で助けを求めたところ、会長から答えを貰った。だが、どうもしっくりこない。


「藤って…あの藤?」


「ああ、実は彼が君と会いたいと言っていたからこの店で待ち合わせる事になっていたんだ。それを言い忘れてたよ。ごめんね」


いや、そんなことより…なんで会長と藤につながりがあるんだ…?

この前会った溝口を筆頭に、当時の会長をイジメていた一人だし…違和感がある。


「白々しいねー。絶対わざと言わなかったんだよこいつ。昔から性根が腐ってんだよなぁ」


隣の茶髪男が頭の後ろで手を組んでニヤニヤと笑っている。

藤か…確かに面影があるが…。


「それじゃあその、藤…は何で俺と会おうと…?」


「いやぁ、以前のことを謝ろうと思ってたんだけどさ。ボクに気付いていなかったんなら必要無かったね」


「以前?」


以前と聞くに、俺が気づいていなかっただけで最近会っていたらしいが…何か謝られるような出来事あっただろうか。


「ほらぁ、松田が女の子を助けに入ったときさ、ボクもいたんだよ。怖いお兄さんたちと一緒に」


…? 女の子を助けた時って…


「あー!! お前ッ、あの時っ、裏路地にいた!」


「ごめんねー。頑張って逃がしてあげようとしたんだけど、上手くいかなくてさ~」


そうか!

女の子を助けたってのは真尋と初対面の時、半グレが揉めていたところに割って入った時の事か!

あの時は、真尋と一人の男が揉めていて…その後ろに男が二人控えていた。確かその片方がこんな茶髪だった。


「…お前、あの時芋臭いだとか…散々言ってくれたよな…!」


「え? それボクじゃないよ。確か隣にいたスキンヘッドのおじさんが言ってたんじゃないかなぁ」


「嘘つけ…忘れてないからな」


あの後一週間ぐらい引きずったんだ…そうそう忘れるものか。


「いや~ごめん。アレはなんか凄い剣呑な雰囲気だったから和ませようと思ってふざけただけなんだよ」


凄いシームレスに別の言い訳へ移行するぞコイツ…。


「…ってかお前今、半グレと付き合いがあんの…?」


「そうなんだよ~。元々準構成員以下の軽いお付き合いだったのに…戸田さんに気に入られちゃってさぁ、困っちゃうよね。メンバーになったらお薬とか使い放題なのかと思ったらなんかあの人厳しいし…つまんないの」


うわ、どっぷりじゃねぇか…えんがちょえんがちょ…。


「んでさ~宇宿。どうだった? 松田は協力してくれそう?」


「…いや、期待はしない方が良い。特に知っていることもなさそうだ」


「あら、そうなの」


「だから言っただろ。僕は反対だって…」


「それはお前のキモい対抗心からじゃん。んなのに配慮したくないねー」


「……」


突然目の前で預かり知らぬ会話が繰り広げられ、そのうち会長が小さく息を吐いてそれが終わる。

副会長の時と言い、どうも今日は会長の顰め面をよく見る。


「…俺が協力するとかしないとか、何の話なんだよ」


「ん、いやボクたち仁君について調べててさ。松田がなにか知っているなら教えて欲しいなぁ~って思って」


仁について…?


「だってさぁ、久しぶりに会ったらあの様子だよ? 口調もおかしいし、得体が知れないっていうか、彼、変じゃん」


…確かに藤の言う通り、仁はだいぶ変わってしまったように見える。

その変化も、成長というにはあまりに不自然な…。


「仁君が何をしようとしているかとか、何でああなったのかとか、色々気になるんだよねー。

 最近暇してたからさ、宇宿弄りも兼ねて調べてるんだ」


「…なんか…相変わらずだなお前…」


「だからさぁ、松田が知ってることあったらなんか教えてよ」


…そう言われても、俺はアイツが何をしようとしているかなんて知らない。

でももし…仁がああなったのに何か理由があるのだとしたら、その時期には心当たりがあった。

それはたぶん——


「——彼に変化があったのは、小学6年生の二月…少なくともそれ以降だ」


まさに、今考えていたことを会長が口にした。


「あの年…彼は二月に入院して…それからは中学校にもほとんど出席していなかった…。僕は彼とは違う中学校だったから、それは君の方が詳しいはずだよ。長井君」


「まあ…そうだな。一応仁とは同じ中学だったけど…見かけなかったな」


中学時代に一度だけ、アイツと顔を合わせた事があったが…それは学校じゃなかった。


「たぶん、入院後に何かあったんだろーなーとは思うけど。どうなんだろね」


そんな藤の呑気な声に、会長が不満げな声を漏らした。


「…君ほどの厚顔は見たことがないよ」


「睾丸? 別に普通サイズだと思うけどなぁ」


「…あの時、仁君が入院したのは君たちのせいだろ。僕には、そのせいで彼がおかしくなってしまったように思えてならない」


え…あの入院に、藤が関わっていたのか…?


「本気で言ってんの? アレはあんなんじゃ変わんないよ…もっと、根幹にあるものが揺らがないとさ。そんぐらい盲目的な生き方してたから、あの変化が地味に気になるわけで…まあ、遠巻きから眺めてただけのストーカーには分からないだろうけどさぁ」


「ち、ちょっと待て…藤たちのせいって…お前、何したの…?」


聞いても藤はにやにやと笑みを浮かべるだけで答えずに、会長の方へ顎をしゃくる。

受ける会長は少し躊躇ってから、おもむろに口を開いた。


「…リンチにかけたんだよ。仁君を、藤と溝口達が…」


溝口達が、仁をリンチに…。

そうか…。あの入院にはそんな事情があったのか…。

それがどれほどのものだったかは知らない。でも、藤の言う通り…そんなんじゃアイツは——いや、こんなことを考えても仕方がないけど…。


「宇宿くんさぁ、一番大事な情報が抜けてるよ。仁君がそうなったのは、馬鹿な宇宿を助けようとしたせい、ってことが。まあ実際それでおかしくなっちゃったのなら、実質宇宿のせいだよね」


「っ…」


歯噛みする会長。

…なるほど。この二人が手を組んでいるという状況はかなり不可解だったが、大体わかった。


話してみた感じ、藤は相変わらずのモラルゼロ快楽主義者のようだし…仁を追っているのも野次馬根性というか、物見が目的なんだろう。


んで、会長の方は仁の変貌に責任を感じていると…。

どうも会長を助けようとした結果…仁は入院することになったみたいだからな。

自分のせいかもと考えるのはわからなくもない。でも…


「…それじゃあ、力になれそうもないし、俺は帰るわ」


俺は椅子を引いて席を立った。


「えー! ちょっと待ってよ。仁君のこと以外にも松田には訊きたいことがあったのに…」


「悪いけど…変な不良少年軍団とか、半グレ集団に関わる気はないんでな」


俺はそれに協力できない。

もう、無責任な行動は慎むと決めたんだ。


「はぁ~冷たい男だねー」


藤の批難を聞き流し、そのまま学生鞄を持ち上げて出口に向かおうとする。

そこで、忘れ物に気が付いた。


「あ、会長。ハンバーガーごちそうさまです」


「…ああ」


包装されたそれをトレイの上から掴み上げる。

地味に楽しみだったんだよ。久しぶりに食べるの。


「ハハ、ケチくさー」


「うるせ」


背を向けて肩越しに返す。


「…陽人くん」


「ん?」


そして立ち去ろうとしたら、声に引き止められた。

振り向くと、会長が上目に俺を見ている。


「あ…いや、なんでもない…」


「? そっか」


よくわからんが、そのまま帰ることにした。


「んじゃあ、会長はまた学校で。藤は悪趣味もほどほどにな」


言い残し店を出たら、いつの間にか外は暗い青みを帯びている。

時計を見たらもう18時を回っていた。それを加味すると、大分日が長くなったのが分かる。


歩き出せば道々、人とすれ違う。

前を向いているとたまに目が合って気まずいので、なんとなく上を向いて歩いた。

瑠璃色の空にはまだ夕色の光がおぼろげに見える。残照に過ぎなくても、こんなに明るいのならそれでいい気がした。


「みんな、やりたいことがあるんだなあ…」


揃いも揃って変なことばかりしているのはどうかと思うが、まあ、外野がとやかく言うことじゃないか…。

ハンバーガーの包みを剥がして控えめに食んでみる。歩き食いの経験値を少しでも積もうとして。


「あれ…」


こんなに味濃かったっけ…。

味付けが変わったのか、自分の味覚が変わったのか…

立ち止まり首を傾げても、答えは出なかった。


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