その15
暖かくなってきた夜気。暗く、光の届かない霊園の中で。
「——こうして、その事故は起きました。そして、大野晴香さんは…」
今もなお、ありありと思い起こる。
質感を持った過去を言葉に変換して、淡々と真尋さんに語りました。
「…それが四年前に…お姉ちゃんにあったことのすべて、ですか…?」
恐る恐ると尋ねる声。声の元をみれば、そこには私の返答を待つ真尋さんがおりました。
この方が望む、私の答えは分かり切っています。
そして、それをお答えしようとしたその時、
「ええ…。これが当時起きた…」
…頭痛が走る。
「っ…?」
これが…。
当時の…本当にあったこと…。
真尋さんにお聞かせしたこれが…
彼女の…大野晴香さんの身に起きたことのすべて———だっただろうか…?
「これがっ…私の、覚えている一切です」
なにか…なにかおかしい気がする。なにか大事なことを欠いている…気がする。
「…ッう…」
何だ…? 何を欠いた…?
——考えるな。
これは余計だ。私は覚えていることだけを話せばいい。
「あの…?」
…真尋さんの、声。
そうだ。私はこの人に事実を語ったんだ。だから、これでいい。
その仕事は終わった。これ以上、すべきことは無いはずだ…。
「あのっ——」
繰り返されたその声に。さっきよりも近しく聞こえた声に。唐突に靄が晴れるよう現在が拓けて行く。
眼前には一面の闇。居場所さえ覚束ない。
「……?」
ええと…、私は一体、何をしていたのだっけ…?
「どうかしました…?」
ああ、そうか…。
…そうでした。
この方…真尋さんにあの時の事をお聞かせしていたのでしたね。
何か無しながら、お聞かせしたその様子を思い出してきます。
しかし、上手く話せていたのかは怪しいところです。
真尋さんが不快感をあらわにしていないことから、過去の己が抱いた烏滸がましく恥ずべき情緒などは取り去り、かいつまんで話したのだと判断できますが…。
「…すみません。少し呆けていたようです。なにも問題ありません」
いえ、きっと上手く聞かせることが出来たのでしょう…。
だってほら…、この人を見なよ。
困惑の裏に、隠しきれていない感情が見える。
…安心しているんだ。喜んでいるんだ。
それは私が誠実に向き合ったからだろう。嘘を吐かなかったからだろう。
事実を取りこぼさなかったからだろう…。
だから、これでいいのだと——そう、思った。
◇
それから、真尋さんと少し言葉を交わし…日が昇り始めた頃、私たちは共に霊園を後にしました。
そして霊園を出て、数分。
道が分かたれたところで、真尋さんと挨拶を済ませると、彼女は背を向けました。
しかし、私はそれを引き止めます。
それは彼女に過去のことをお話した後、私の脳裏に浮かんだ僅かな疑念…その精査をする為でした。
「その、不躾な質問で恐縮なのですが———貴女はなにゆえ私と…大野晴香さんが心中を図ったと思い違いをなさったのでしょう」
私の言葉に、彼女は顔を赤らめ、
「な、なんですか…。男と飛び降りたなんて、普通に心中だと思うでしょ…」
早とちりを非難されたと思われたのでしょうか。真尋さんは狼狽えます。
失敬…もっと丁寧に話を進めるべきでしたね…。
「あ、いえ…そういう意味では…。少しく、思うところがありまして…。
当時、どういった形でその情報を耳にしたか覚えはありませんか?」
「どういった形で…って、そんなこと言われても…」
彼女は私の質問戸惑いながらも、考え込みます。
「…直接的に聞かされた訳じゃ無かったとは思います。
というより、遺族でしかも子供にそんなことを伝えるわけがないだろう、って推量ですけど…」
当時を辿るようにぽつぽつと、彼女は語り始めました。
「…お姉ちゃんが飛び降りた時、病院に呼び出されて…。その時、感じた雰囲気というか…人々の言葉や会話の節々から断片的に得た情報で、そう思ったんだと…。そしてそれは、わたしを引き取った叔母さんからも…同じものを感じていました…」
「なるほど…」
真尋さんが感じたものを疑うつもりはありません。この場合、疑うべきは…。
「やはり私には、病院関係者…大人が、状況証拠だけでそのような浅慮な判断を下すとは思えません」
「…なんですか。わたしが浅慮だっていいたいんですか…」
「ち、違います」
またもや、誤解を招いてしまいました。物言いには気を付けなければ…。
「…当時の私は、大人たちに何があったのかを訊かれても、上手く事実を伝えることが出来なかったのだと思います。では、何処で食い違いが生まれたのか…。次点で、事情を訊かれているだろう人物はおそらく…」
「?」
真尋さんが不思議そうに首を傾げました。
「…真尋さん、 ありがとうございました。お話は以上です」
「はあ…そうですか」
疑念を共有する意味はないでしょう…。彼女がこれ以上知る必要はありません。
「えーと、じゃあ…さようなら?」
「…はい、さようなら。お気をつけて——」
そうして、私は真尋さんを見送った。その背が見えなくなり、私も歩を進める。
それにしても、何故だろう———頭が痛い。
…いや、これはいつものことだ。気にするようなことではない…はず、だが…。
なにか、違和感がある…。
彼女と話していた時に…なにかがあったような…。
◇
快晴続きの空はまたしても青く広がり、かつての大雨の名残など、露ほど感じさせぬ昼時分。
私はとある人と落ち合うため、日向の中を歩いていました。
自動車の行き交う橋梁を渡り、繁華街と郊外を区切るように流れる川を越えます。
このまま真っ直ぐ道行けば、幹線道路沿いに並みいるロードサイド店舗が目に収められましょう。
しかし、目的地はそちらではありません。私は幹線道路から外れ、宅地の合間を縫うように生活道路へ足を踏み入れました。
「それにしても…結構歩きますね…」
平日とはいえ、本日は連休にできた少しばかりの穿孔。
念を入れて、人気の無さそうなファミレスで落ち合うことにしたのですが、もう少し近場を指定したほうが良かったかもしれません。
最近どうも調子が悪く、こればかりの運動でも軽く眩暈がしてきます。
「ふぅ…」
…今回の暴走族の一件。
想定外のことばかりで、予期せぬところまで被害が及びかけた時は肝を冷やしましたが、どうにか収まりがついたのは僥倖でした。
私が北里公園から真尋さんを避難させた後、コウ君たちは手筈通り沈殿党の子たちを秋鷹さんらにけしかけたようです。その結果、秋鷹さん方は蜘蛛の子を散らすよう、散り散りに逃げ出したと聞きました。
まるで二年前の、彼らを解散せしめた悪評を再現するかのような結末…これを利用しない手はないでしょう。
此度の一件を多少脚色し、巷に流布すれば我ら沈殿党の知名度も上がり、あの子たちの連帯感も高まること間違いなしです。
とはいっても、集まりが問題にならぬよう、程々にしなければですけどね…。
これは難しい問題で、箔をつけるには知名度が必須ですが、それにはリスクが伴います。
最悪、場がなくなってしまっても集まることは出来ますが、所詮沈澱党は弱みにつけ込む形で急ごしらえしたチーム。アジトが無くては求心力は墜ち、あの子たちをまとめることは難しくなるでしょう。
他の場所を借りる伝手はありませんし、金銭的にも余裕があるとは言えません。
悩ましい問題です…。
しかしまあ一先ずは、これにて一件落着…でしょうか。
「…ですが」
されど今回の一件で、新たな懸念に…疑念も生まれました。
特に後者…。
目下の関心事はこちらです。
それはまさに、私自らが噂を流布する側となり行き当たった疑念。
二年前、先代トルスケイルが解散に至った理由である…あの噂について。
当時の私も、彼らが解散したという噂を耳にした覚えがあります。
ですがそれは、トルスケイルという暴走族がとある中学生一人に負けて解散した…と、簡略化されたものでしたから、当時はその中学生というのが誰を指しているのか全く見当がついておりませんでした。
まさかその中学生が、陽人君のことだったとは…。
コウ君に教えていただくまで、全く気が付きませんでした。
しかしそうなると、その噂がとても異なものに聞こえてきます。
いえ、元々荒唐無稽な噂でしたが、その中学生が陽人君を指しているとなると一入です。
吉矢ヒロ君ならいざ知らず、彼はそのような無節操な行いはしないと思います。
とはいえ、秋鷹さんが陽人君に執着していた以上、何かしらの接点はあったのでしょうけど…。
…おそらく、あの噂は尾ひれのついたものなのだと考えます。
先代のトルスケイルが解散に至ったのは、尾ひれがついた噂…その悪評のせいなのでしょうね。
得てして噂はそういった性質を持ちますから、その内容が誇張され、歪んでいるのはむしろ当然のことかもしれません。
コウ君から噂の詳細を知った私はそこまで考え…そして一つ疑念が湧きあがったのでした。
「すみません。待ち合わせているのですが…」
目的地の飲食店に到着いたしました。
ざっと店内を見回し、私はその人を見つけます。
…私が抱いた疑念の一つ。
それは…もしやその噂は、意図的に脚色されたものなのではないか、という疑念です。
まるで私が現在、それを目論んでいるように…。
考えすぎかもしれませんが…しかし、どうも気になりました。
…どうにも、事実とは違う噂を流布し得をする人物に、一人…思い当たる節があるものですから…。
「お久しぶりです——父さん」
目の先には、テーブルの上に体重をかけるよう、腕を組んで座る男性が一人。
…長井道則が、だるそうに私を見上げました。
「ん、やっと来たか。注文すっけど、お前もなんか頼むか?」
「…いえ、結構です」
私は彼と対する形で、席に座ります。
「…そんで、どうした? 話があるから呼び出したんだろ?」
注文をし終え、運ばれたコーヒーに口を付けると、彼はせかすように言いました。
「そうですね。少し、聞きたいことがあって貴方を呼びました」
「そっか。まあ、急いでるわけじゃないし、別にすぐ本題に入れってわけじゃないけどさ」
「いいえ、単刀直入に訊かせてもらいます」
遠回しに切り崩そうとしても、煙に巻かれるだけでしょう。
この方と腹の探り合いをするのは、得策ではありません。
出来うる限り、考える猶予を与えないよう私は言いました。
「私が貴方から借りている倉庫のことですが…。
二年ほど前、あの倉庫を暴走族が占拠していた事があったと思います。覚えていますか」
「ああ、覚えてるよ。もう二年も前になんのか。早いなぁ~」
「その時、貴方はどのような対処をしましたか。
もしや、貴方はその処理を…陽人君に頼んだのではありませんか」
あの倉庫は長井道則の所有です。
詳細は知りませんが、当時その倉庫をたまり場にしていた暴走族と陽人君の間になにかあったのならば、その合間に彼の関与を疑うのは自然な成り行きだと思います。
「ん~…?」
彼は気の抜けた声を上げ、されどその眼だけはじっと観察するように私の顔に合わせられます。
「あ~そうそう。そういや、アイツに頼んだなぁ」
「暴走族を追い出したいのなら、警察にでも相談すれば良かったでしょう。どうして、警察ではなく彼に…?」
「別にぃ。自分で警察行くの面倒だし、適当にアイツに丸投げしただけだけど…それがどうかした?」
そう答えた彼に、後ろめたさは見えません。
「…2年前と言えば、貴方が陽人君に養子縁組を持ちかけていた時期と聞きます。
貴方は何か意図をもって、彼にその仕事を頼んだのはありませんか」
「意図って?」
「貴方が陽人君に暴走族のことを任せたのは、彼を悪目立ちさせる事が目的だったのではないですか。当時、彼が暴走族とどのように関わったのか存じませんが、おそらく喧嘩か何かなさったのでしょう。
そこで貴方は、暴走族を壊滅させたという脚色を加えた風説を流布し、暴走族に悪評を…ひいては陽人君に悪評を立てた…」
顔色を窺いながらそう言い切りましたが、父の顔に変化はありません。
「…彼は自分せいで菜津美さんに迷惑が掛かることを嫌います。
ゆえに彼は悪評を気にして、貴方が持ちかけた養子縁組を呑んだのではありませんか」
「ふーん…どうしてそう考えたんだ? かなり飛躍している気がするんだが…」
彼は冷めた目をしたまま、こちらを見つめて、
「…言いたくないなら、まあいいよ」
私が答えずにいると彼は呆れたように息を吐きました。
「えーと、一つ聞きたいことがあんだけど。オレが流したとされてる噂って、なに? どんな内容?」
「第三中学校の松田という生徒が、トルスケイルを名乗る暴走族を一人で壊滅させた。といった内容だったと、同じ中学校に在籍していた方に聞きました」
「あー、あったね。そんな噂…」
彼は思い返すように首を傾げてから、あのさ…、と続けます。
「お前は全部オレの仕込みなんじゃないかって考えてんのかもしれねーけど、たまたまだよ。
暴走族の件をアイツに丸投げしたのは、将来的に色々雑用を頼みたかったからで、慣らし目的。この街で生きるならああいった手合いと少なからず関わることになるだろ? 社会勉強も兼ねて、な。
思ってた以上に不器用だった結果、アイツは暴走族と揉めちまったわけで…」
そこで一度切り、彼は小さく笑う。
「ほんと何なんだろうな。アイツの巻き込まれ体質というか…わざとやってんのか、ってぐらい揉め事に首突っ込んで…。陽人は陽人でそういったものを忌避しているくせにそうなるのが、またおもろいけど…」
そして、彼は立ち返るように、言葉を重ねました。
「そんでまあ———丁度いいからその噂をバラまいただけだよ。人を雇ってちょいちょいっとな」
悪びれもせず、自白の言葉を。
「…隠さないのですね」
「隠したところで、なぁ? 別に陽人に伝えてもいいぞ。オレは困らんからさ」
「後ろめたく、思わないのですか」
「オレとしてはちょっとした思い付きを試しただけだもん。
お前も知っての通り、アイツは自分のせいで妹に迷惑がかかるのを極端に避けようとする。
だから、そんな悪評が立ったら自分と妹の繋がりを隠そうとするんじゃねぇかな~ってね。
そのおかげか分からんけど、晴れてアイツは松田陽人から長井陽人になってくれたな」
そこで乾いた喉を潤すためか、彼はコーヒーを一息に飲み干した。
「そもそも、アイツだって乗り気だったんだぞ。
暴走族の件だって、養子縁組を交わす前条件として振ったんだ。偶然、あんな結末になったから念押しに噂をバラまいただけで、頭から尻まで仕込み…なんてことはない」
「…どうして、そこまでして陽人君を欲しがるのですか」
「ん、アイツみたいなガキが欲しかったんだよ。なんだかんだ順応性高いしさ。
成哉も出来は良いが…もう中三だってのに甘ったれた所がある。マザコンの気もあるし。そんで、お前はいきなり人生捨てゲーしだして…そりゃ、ちゃんとした息子が欲しくなるもんだろ」
言い終えて、彼は私ににっこりと笑顔を向けます。
「…私と貴方の関係は血縁だけでしょう。私がどう生きようが、貴方には関係ありません」
「んだよ怒ってる? 冷たいこというなって、お前みたいなガキに物件使わせてやってるだろ」
彼は楽し気にそう言ってから、
「…あ、そういや、物件といえばだけど…お前、あの倉庫でなんかやってるみたいだな」
「…」
「まあ、ごっこ遊び程度にな。問題になるまでは放っといてやるが…。んでも、警察が介入して来たりでもしたら、オレはそっちに全面協力するから。勿論、不法占有の被害者としてね」
「…はい、分かっています」
そこでこの話はもう終わりとでも言いたげに、父はメニューに目を通し始めました。
「腹減ってきたし、なんか食おっかなぁ…。お前ほんとになにもいらないの?」
喉が渇いてくる。
店内は空調が効いている。だが、頭痛のせいかまだ汗が引かない。
「…最後にもう一つ。貴方にお聞きしたいことがあります」
メニューを吟味する彼を目に収めながら、私はいただいた水で口を湿らせ、心を決めた。
「なに?」
「4年前の、私に関わる一つの事柄についてです」
「4年前…? なんかあったっけ」
そう返す彼の表情は、とてもとぼけているようには見えなかった。
「4年前、私が入院した時のことです。あの時、私は病院である方と…」
「あー、思い出した…! マセガキにも程があったなあれは。
なんの文豪に影響されたのか知らんが、まさか情死を図るなんてな。影響されるにしてもほどほどにしとけ、って思ったよ」
「違います! 4年前の事は事故でした…!」
「え、そうなの?」
彼は、今まさにそれを知ったという表情を見せる。
「だというのに…4年前のあれは事故だったというのに…。どういうことか、当時の病院関係者や遺族の方を含めて、あれが心中だったと見なされている…」
事実が歪められているんだ…。
「当事者の私は事情を説明できる状態ではなかった…。次点で、証言を求められるのは当事者の関係者…つまり、私の場合は親の証言が参考にされるはずです…」
それは母ではない。母があの場に来る予定はなかった。だからまず、話を聞かれたであろう人は…。
「…あの時、貴方は私を迎えに病院へと来ていましたよね。
そうして貴方は事情を知る人として…私たちが心中を図ったという虚実をバラまいた。もしくは、あたかもそうだと思わせるような情報を出し、誘導したのではありませんか」
「ふうん…」
困ったように、呆れたように、彼は小さく笑みを浮かべて…それから大きなため息を吐く。
「…なに言ってんだお前? なんかすげー薄いとこ突いてきたなぁ」
「今まさに貴方は、暴走族の件で脚色した噂を流布したと認めたばかりではないですか。
私が認識している矛盾…それが生じた原因として貴方による同質の作為があったのだとすれば、全て辻褄が合います。貴方に疑惑の目が向けられるのは当然のことです」
「…いんやなるほど…やけに推理力が爆発してんなと思ったら、妄想発症してたわけね…。
さっきのは前座で、こっちが本命だったわけだ」
彼は小声で何か呟いてから、気を取り直すように一拍おいて、
「なんでオレがそんなことすんだよ。動機がないだろ」
聞き返してくる。まるで珍しい動物を観察するような視線と共に。
「貴方の動機は…私の母への当て付け…そのようなものではないでしょうか。
母の行いが私を自殺未遂に至らせたとこじつけることで、彼女に罪の意識を負わせる…。
それこそが貴方の目的だったのだと、私は推測します」
「あー…まあ実際、アレの性格はお前のやんちゃ以来かなり大人しくなったみたいだな。
大切に育ててきた息子が突然自殺を図ったんだ。よっぽどのショックだったんだろうが…」
そこで彼は私の目を見た。
「…お前のその主張こそまさにこじつけだろ。結論ありきなのはしょうがないが、もうちょっと説得力のある筋道を立てて欲しいもんだ」
そのまま、彼は続ける。
「オレはあん時からお前の母親とは顔を合わせる機会ほぼ無かったし、正直あの女にそんな執着ねーよ。というか、オレとしては円満離婚だと思ってたぐらいさ」
「…今や、貴方の言葉は信用に足りません」
「まいったなぁ…。偶々あの日、お前を迎えに行っただけでそんな疑いを掛けられるとは…どうしたもんかね」
彼は顎に手を置き、考え込むように目を閉じる。
しかし、数秒も経たぬうちに彼は目を開き、私を見た。
「つーかさ。そもそも、オレの証言がそんな影響力を持つかね」
「それは手段によるでしょう。先ほど貴方が暴走族の件で自白したように、人を扱って膾炙させることも可能なはずです」
「違う違う。そういうことが言いたいんじゃなくて、病院の件と、暴走族の件とは決定的に状況が違うだろ。オレの証言なんかより、参考にされる根拠がある」
「…?」
「なんだ、マジで気付いてないのか? 無意識的に回避してんのかもなぁ…」
状況が違う…? 何の話だ…わからない。
何故か、頭が痛む。
「死人が出たんだ。死亡診断書も書かれるし、よく知らねーけど検視とかそういうのがあるはずだろ。んで、何があったか調査されたはずだ。その結果が一番重要視されるってのはわかりきっているよな」
確かにそうだ…。
普通に考えれば、そういった手続きがあって、死因が調査されるはず——
「——ッ」
頭痛が一層強くなる…。
…いや、そのうえで、だ。
私は長井道則がそのうえで、何かしらの操作を加えたのではないかと疑っているんだ…。
「お前の事故だって主張が正しいなら、当然出てくるものがあるよな? 言わずもがな…事故だったのならその形跡が発見されるはずだ。そして、余程のことがない限り、死因や経緯は判明するだろ?」
そう…形跡があるはずだ。痕跡が…。
あの時、フェンスは確かに…。
「だってのに、オレは事故だったなんて聞いたことがない。今初めて聞いたさ」
「…」
「まあ、さっきお前が言ったように、オレは当事者のお前と血縁関係があるだけだからな。
事故だって知らされてなくても当然かもしれない」
彼は身を乗り出すように、テーブルに置いた腕を前に出す。
「だからさ、まずはお前の母親に聞いてみたらどうだ。そんで、その答えに納得がいかないのなら……お相手の遺族に聞いてみるしかないだろうな。遺族なら流石に死因やその経緯を知らされているだろ。紛れはない」
遺族…。
『——そしてそれは、わたしを引き取った叔母さんからも…同じものを感じていました…』
記憶に新しい声が頭の中で反復する。それは脳髄を突き刺す。
「ここまで異論はないな? 何が言いたいかというと、オレに疑いを向けるのは自由だが、その前に調べるべきものがあるだろ…ってこと。お前が前提にしている事故だった、ってのが事実である確証が何処にある?」
…それは違う。確証がある。私は見たはずだ…。
あの時、私はその場にいたのだから…これ以上の証拠があるものか。
「ぁれ…?」
なら、どうして矛盾が生じているんだっけ…?
…いや、思い出せ。この不出来な脳はすぐにものを忘れる。
私はそれが長井道則の作為なのではないかと疑って彼を呼び出したはずだろ…。
だが、そんなことが可能なのか?
改めて考えれば、第三者の証言がそんな力を持つはずが…ない?
ない……無い? 無いのなら、この矛盾はどうして生まれた…?
「っ…」
脳が脈打つ。
顔を顰めると視界が歪む。
その中で、相対する口が動く。
「正味、思うのはさ——」
音に合わせ、内側から圧迫されるような痛みが脈動した。
たのむ…酷く頭に響くから、少しだけ黙っててく、れ…
「四年前の心中未遂。あれが事故だって主張はお前の嘘…もしくは妄想なんじゃね?」
「…え…?」
…嘘? 妄想?
私が覚えているあの過去が?
鮮烈に思い起こる、あの情景が…?
「そんな…わけが…ッ」
立ち上がる。
「ぐ、っぅ…」
途端、立ち眩みに似たノイズが走る。
咄嗟にテーブルに手を支う。おそらく、大きな音が立ったのだと思う。
「あーあ…水、零すなって…」
目の前の人がテーブル脇に備えられた紙ナプキンを取り、テーブルを拭く。
痛みを堪えながら、所有感の薄い四肢を操り私はその前をよぎった。
まずい…。このままだと不味い…。
世界がおかしくなる。
はやく、ここを離れなければ…。
「ちょ、おーい…どこ行くんだ? 帰んの?」
どこへ…?
私はこの矛盾を晴らさなきゃいけない…。
しかし、その為にどこへ行けばいいのか…。
そして、晴らすことが出来たとしても…その先で、この矛盾は何処に行き着くのか…。
「なんか言えよ……ま、いいや」
声に似た音が霧のように、脳内に広がる。
「…じゃあな、仁。久しぶりに話せて良かったよ。お大事になー」
かすかにそんな声が聞こえ——そして、気が付くと、ぼんやりとした陽光の下を歩いている。
…不思議だ。やけに世界が紛々としている。
車の音に、風の音、混ざりあって消えていったかと思えば、遅れて同じ音が耳元で反響する。
青い空は杳然と捉えどころがなく、地面は荒々しくざらざらで、足の踏み場が分からない。
(間違いない…)
こんな景色になってしまったのは、現実が矛盾しているせいだ。
そしてそれは、過去の矛盾が禍根となっている…。
矛盾がすべてを呑み込むように、世界の意味を欠いてしまったんだ…。
ならば、それを解消せねば…晴らさねばならぬはず…。
だが、それを考えると…何故だ。なぜこんなにも…頭が痛む。
都合が悪いのだろうか…? 何かの警告のようなものか…。
…だとしても、そんな保身のために目を逸らすわけにはいかない…。
最初から…。最初からだ…。
なにか私の記憶におかしなところはないか…?
幼い頃、母と過ごした記憶…。小学生になり、出会った人たち…。彼らとの出来事…日々…。
大丈夫だ。これらに破綻は見られない…。頭痛も感じない。
やはり、この先だ…。この先を考えると酷く、頭が痛む…。
それから僕は、入院して…彼女と出会った。
そうして彼女と語らった日々…これは、間違いない。
私のせいで彼女の身に降りかかった不幸。地表の光景……これも、間違いない…。
(…?)
…しかし、この二つの継ぎ目がおかしくないだろうか…。
事故が起きたあの事象…。
彼女が亡くなったあの事象は…本当に…
あんな降って湧いたような…偶発的なものだったろうか…?
『——ねえ、仁はわたしと…一緒に死んでくれるよね…?』
だとしたら、これは…誰の言葉だ…。
声が。音が思い出せない。誰の言葉か判別がつかない。
彼女の言葉なわけがないだろう。彼女がそんなことを言うなんて…。
…でも、もし…彼女の言葉だとしたら…
僕はそれを受け入れた…?
いや、そんなわけがない。これ以上ないくらい、僕は満たされていた。
受け入れるはずがないんだ…。
…受け入れなかったから、彼女は独りで…僕の目の前で…
違う。
そんなことを、させるはずがない。僕が見逃すわけがない。
彼女の手を取るときはいつだって、意思を越える。
…なのに、それでも、僕が動けなかったのは…
恐れたんじゃないのか。変貌した彼女を。
母のように…人が変わってしまった彼女を…
それこそありえない———ッ!
…絶対にありえない。それだけは、在ってはならない…。
だって。
だってさ、僕は彼女が変わってしまったとしても、生きてさえいてくれたのならそれで良かったんだ。
だから、彼女の変貌に恐怖なんて抱くわけが…ッ、
…いや。
これじゃ、駄目だ。順序がおかしい。
その想いを認識したのは事故の後だ。矛盾が生じてしまった。考え直しだ…。
(違う…)
…違うんだ。
これこそが妄想なんだ。
仮象はこちらだとはっきりしている…。だが…。
この妄想のうちに、忘れてはならないものが取り残されてはいないか…。
空っぽの僕に残された本物が…
忘れてはならない大きな罪が、あったような…
『あなたが語ったことが…四年前の…お姉ちゃんにあった事実なんだよね…?』
声を思い出す。
…そうだ。そうなんだ。
私はあの方に、晴香さんが亡くなったのは事故だったのだと言った。
私に、事実を秘匿することは許されていない。
ゆえに、あの人に語ったのは嘘じゃない。妄想じゃない。語ったことこそが…事実なんだ。
(あれ…?)
待て…。
駄目だ。この論法も不味い。循環が生じている。
これでは、虚構と事実が入り混じる…。
(やり直さなければ…)
構築しなおさなければならない…。
もっと。もっと…道理の通ったものを…。事実を…。
あの日から…。
◇
「———兄ちゃん? 寝てんの?」
…?
揺れる…。揺さぶられている…?
「こんなところで寝てたら、風邪引くよー」
「…成哉、くん…?」
薄目にぼやけた世界が移りこむ。やがて、焦点が合い、私の弟…成哉君の顔が映し出されました。
「ここは…アジト、ですか…」
「そりゃあ、そうだけど…」
周りを見ると、そこは勝手知ったる我らの隠れ家。その隅っこに私たちはいるようでした。
遠目に見える子供たちの集まり具合と、窓から覗ける外の様子からして、時間帯は夜…でしょうか。
「…いつ、私はここに…?」
「…兄ちゃんも酔っ払ってる?」
私がどうしてここで寝ていたのか、全く思い出せません。
思い起こせる最後の記憶は——
「——じゃんか!」 「お前馬鹿だな~」 「ぎゃははっ!!」
ふと、アジトの中央の方から、賑々しい声がこちらまで届く。
そこには沈澱党の子たちが密集しています。
「…彼ら、やけに盛り上がっていますが、何かあったのでしょうか」
それに、彼らがあんなに密集しているのは珍しいです。
彼らは普段、3~4人からなるグループで別れていることが多いですから…。
「あれ、参加してたんじゃないの? 宴会してんだよ。おれはさっき来たとこだから、どんな話してんのかは知らないけど」
「宴会…? なぜ…?」
「なぜって、兄ちゃん主導じゃ…」
そのような催しを立案した覚えはありませんが…。
「…じゃ、ないんだ。ほら、三日前に沈澱党で暴走族を成敗したじゃん。おれは見てただけだけど、あれは凄かった……んで、そのお祝いの宴会らしいよ」
三日前…? それはつい昨日のことでは…。
「成哉君…本日は何曜日ですか」
「8日の日曜日。そろそろ、日付変わりそうなとこ」
「…っ」
およそ二日半ほどの記憶が飛んでいる…。
私の記憶は真尋さんをお見送りした時を最後に破綻していました。
また何かを失ってしまった。そんな感覚だけを残して…。
「コウたちが戻ってきたぞー!!」「来た! 酒が来た!」
そこで再び、彼らが喚声が上げます。それも、一際大きな歓呼の声でした。
「酒…? もしや彼らはお酒を…」
「飲んでるみたいだねぇ」
入り口のほうに、今しがた中に入って来た数人の少年たちが見えました。
その一人は段ボールを抱えたシン君。
その段ボールには、有名な缶チューハイのロゴがプリントされております。
「な、なぜ彼らは突然そんな非行に走ろうと…!?」
「突然って…元々そうでしょ、あいつらは」
「いけません…彼らを止めなくては…」
「え、ちょっと兄ちゃん…っ」
真偽はわかりませんが、その飲みやすさが故、缶チューハイの台頭が飲酒人口の低年齢化を促したと聞いた覚えがあります。さらに、彼らが持ってきたのは度数が強めなことで有名な商品。
そのようなものを口にしていたらそのうち、アルコール依存症になってしまうかもしれません…!
「アルコール依存症は恐ろしいものです…。認知症や脳卒中のリスクを高め、脳の萎縮が見られたりもします。それに、アルコール依存症の方は食事を軽視し、栄養不良などに陥りやすいとの意見も…。とにかく、年若い彼らの将来を思うと、そんなリスクを負わせるわけには…」
それに、酒が入り乱痴気騒ぎが起きると、この場が露見するリスクもあります。
辺りに民家は在りませんが、そう離れていない所に土手道があるため、しばしば歩行者が通りがかるでしょう。
まあ、この倉庫は以前、車両に関する工場だったためか音の漏れにくい造りになっていますから、考え過ぎかもしれませんが…。
「や、まあ、言ってることはごもっともなんだけど…今更そんなこと言い出しても反感買うだけ思うけどなぁ…」
「いえ、彼らも言えば分かってくれるはずです」
「いやぁ、難しいと思う…」
彼らのもとへ歩み寄ろうとした私を、成哉君が引き止めました。
「だって兄ちゃん、沈澱党を結成した時に演説してたじゃん。金とか、酒やドラッグも、我らが手にする…ってさ。それで今更、酒は飲んじゃダメなんてさ、そりゃ反感買うでしょ」
私がそんなことを…?
『…彼らを下し、金も、場所も、酒や煙草、ドラッグも、我らが手にするのです。そのために私は…』
…言ったような。言っていないような…。
「た、確かに…約束を反故にするわけには…。いや…しかし…」
「放っときなって。アイツらのお守りをするためにこのアジトを作ったわけじゃないでしょ?
兄ちゃんはなんでここを開いたのさ。他になにか目的があるんじゃないの」
「それは…」
続く成哉君の質問は何気なく発せられたものでしたが、どこか重みを持っていました。
おそらく、成哉君も私の行動に疑問を抱いているのでしょう。それは無理もないことですが…。
「…」
私がこの場を開き、沈澱党を結成した理由…。
それを答えようにも頭に過るものがいくつもあって、どれが本物なのか、自身でもはっきりとは掴みきれません。いえ…恐らく、この全てが偽物なのでしょう。
それらは脳の底で蠢くように入り混じり、分節すら不可能に思えました…。
「…成哉君は、心の安全基地という言葉を知っていますか」
「なにそれ?」
そのせいか…気づけば、考えてもなかったことを語っていた。
単なる誤魔化し…偽物だというのに、淀みなく言葉があふれてきます。
「心の安全基地というのは、心のよりどころです。
幼児は親に肯定され、存在を承認されることによって、親を拠り所と感じ、その関係こそが心の安全基地と相成ります。そんな安全基地があるからこそ、幼児は親から離れた外界で自由に活動でき…そして、迎え入れられることを確信し親の許へと帰ることが出来ると聞きました」
幼児にとって親の存在は、まるで太陽のように世界を照らす…。
「それが故かわかりませんが、子供というのは得てして親に認められることに…愛されることに執着します。彼らはそんな少年期をとうに過ぎているでしょう。しかし、心の拠り所が必要なことに年齢は関係ありません。人は安全基地が…存在を認められる場所が必要なのだと思います」
帰るべき場所があるからこそ、人は夜道を歩ける。
寄る辺ない世界など、暗くて、冷たくて…歩くことすらままならない…。
「兄ちゃんはこのアジトがその役目を果たすと思ってここを作ったってこと? もしかして、更生施設でも目指してる…とか?」
「はは…まさか」
こんな社会に反したコミュニティを拠り所にしたところで、更生なんか望むべくも無いでしょう。
…この集まりは長続きしません。
むしろこの場が引き取られた後にも、似た肯定を求め反社会的な世界に身を落としてしまってもおかしくない…。
ですが、それでも…
「一時のまやかしでも、その肯定が無くては…すべてが立ち行かなくなってしまうのではないかと、思っただけです…」
まやかしでも…人は肯定されてようやく歩けるのだとしたらそれは…。
「…」
…しかし、そんなものを必要としない人も存在します。
肯定を必要としない、そのような人はまさに…
「…超人なのかもしれませんね…」
ニーチェの語る超人は、最上の肯定の中にいるからこそ超人足り得る。
そしてそこには、他者に拠る肯定など必要ないのでしょう…。
「…超人?」
「そうですね…。成哉君のよく知る、長井道則のように…その人には迷いも後悔もない…。そんな気がいたします。これは、皮相な解釈なのでしょうけど…」
そう…まさに、超人。
それも、どこまでも皮相な解釈のもとに生まれる…超人。
「あのように生きれたら…と、良く思います。
矛盾も破綻も無い世界は、どれほど明瞭なものなのかと…」
「え…? あ! ちょっと、兄ちゃん!」
私は成哉君から離れ、アジトの入り口に集う彼らへと近づきました。
彼らは缶チューハイの入った段ボールをせっせとこじ開け、我先にとその中身を手にしています。
「———皆さん! そこまでです! 手に持ったアルコール飲料をこちらに渡してください! この国では20歳未満の飲酒は法律で禁止されています!!」
「うお、仁さん…ッ?」 「なんかいきなりスイッチ入ってるぞ!?」
「ちょ、何だこの人っ、昨日と言ってることが…! 仁さん、昨日は賛成してたじゃないっすか…っ」
段ボール脇にいるコウ君が抗議の声を上げますが、そんなことはお構いなしです。
私は子供たちをかき分け、缶チューハイの入った段ボールを奪取しようと突撃しました。
「やべっ、逃げろ!」 「シン、これ運んで!」 「仁さんを行かせるなッ」
「あ、こら! お待ちください!」
コウ君たちが床に並べていた缶チューハイを。そして、シン君が段ボールを持ち上げて、外の暗闇へと逃げ出します。
私はその後を追いますがしかし、周りの子たちが進路に立ちはだかり、妨害をなしてきました。
「すみません! どいてください!」
妨害をどうにか振り切り、私もシン君たちの後を追って外に出ます。
そして辺りを探し回りますが、彼らの姿は見えません。
「彼らは一体どこへ…」
この暗闇では埒が明きません。
「どなたか! 逃げた彼らを見つけるお手伝いをお願いします!」
私は開け放たれた入り口に向かい、倉庫に残った子たちへそう呼びかけました。
「…え? なんで俺たちが?」
「いいじゃん、いいじゃん、おもろそうだし」
「っし、シンから酒を奪い返すぞ!」
アジトから数人の子たちが友軍として出てくる。
そして彼らは散開すると手分けしてシン君たちの捜索を始めました。
「…あ、おい! こっちにいるぞ!」
「酒を奪い返せ!」
「なっ、なんでお前らそっちについてんだよ!」
「めちゃくちゃだぁ…」
アジトの周辺から上がるそんな声々を背に、私は河川敷の方へと進み、土手にあがります。
すると、アジト周辺を多少とはいえ上から見下ろす形となり、追いかけっこをする彼らの姿が見えました。
「ふふ…」
そんな彼らの表情は楽し気で、なんだか小学生の頃を思い出します。
普段は背伸びした態度の子も多いのですが、この頃彼らはこういった童心を見せてくれる事が増えました。思い上がりかもしれません…けれど、つい笑みがこぼれます。
「馬鹿っ、缶投げんな! あぶねえだろ!」
「やっべ! 酒が噴いてるぞっ!」
それにしても、乱痴気騒ぎを起こさないためでもあったのですが、予期せぬ形でちょっとした騒動を起こしてしまいましたね…。
念のため、左右を見て人が来ないか注意します。
土手道の後前に人影はありませんし、収拾をつけるのはもう少しばかり後でも大丈夫でしょうか。
「すっかり…虫の鳴く季節ですね」
そのまま夜の土手道に立ち、少年たちの声に耳を傾けていると、重なるように川のせせらぎと虫の鳴き声が聞こえた。
私は河川の方へ耳を欹てるように、顔を横に向く。
すると、広がる夜空の下で伸びる河川敷が目に入る。
郊外と繁華街を区切るように流れる川が続いている。
そして、遠くに小さく架かる橋梁。そのうえでひっそりと、半分になった月が浮んでいた。
綺麗に、二つに分かたれたその月は、今にも沈みそうに見える。
それを目にした時、脳が疼き、ふと思い起こる声がある。
『…兄ちゃんはなんでここを開いたのさ。 他になにか目的があるんじゃないの…』
私がこの場を開いた理由…やはりそれは種々なるものが混在していて、判別がつかないまま…。
しかし、なかには表層で顕在するものも在った。
それは、彼に語るようなことではないけれど…。
「私は…」
…私はただ、理由を知りたかった。
あの時、なぜ私は…晴香さんと出会ってしまったのか…。ただ、その理由を…。
それを知りたがる意味も、知り得た果てに求めるものも、わからない。
手段とともに支離滅裂で、荒唐無稽…。恃むところなく、手探りで暗闇を歩くようなものだ…。
これは結局、逃避に過ぎないのだろう…。
何かから目を逸らすように、私は彼女を辿っていた。
あの輝きの残滓に目を眩ませて…ようやく、世界が成り立ってくれている…。
なんとなく、そんな気がした…。
「…私はとても、超人なんてものには成れませんね…」
超人は最上の肯定の中にいるからこそ、超人足り得る。
自ら溢れる光で暗闇を見通す、認識の世界に生きることが出来る…。
しかし…
「…しかし、たとえ最上じゃなくても。
か細く、遠く、離れてしまったものだとしても…」
月のように儚く…冷たい…嘘の光だったとしても——
「それだけを胸に、何処までも行ける。
もし、そんな人がいたとしたら…それを何と称せばいいのでしょうか…」
迷いながら、悔いながら…
「それでも、いつしか…辿り着けることを、信じ続けられたのなら…」
底なき底…また、更にその先…。
可能無限にも等しい後退。
その果てを…問い続けることが出来るのなら…。
…さながらそれは、
「月の、超人…」
…もし。
もし…、そんな人がいたとしたら…。
きっとその人は、矛盾も…破綻すらも…。
見せかけの超人、月の超人 @buchichibu
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