その14



「…こうして、その事故は起きました。そして、大野晴香さんは…」


 淡々と、長井仁は語った。

 過去にあったことを…。四年前、わたしの姉がどう亡くなったのかを…。


「……」


 不思議だ。

 不思議なことが、起きている…。


 姉がどうやって亡くなったのか。

 そんな目を覆いたくなるような話を聞いていたはずなのに、わたしは…一切の不快感を感じていない。


 この話を疑う余地はある。彼の話は虫食いの本のように、繋がりが曖昧な所が多かった。

 だから、本来は疑ってしかるべきだとも思う…。


 しかし…わたしは既に受け入れる準備をしていた。


 この話が事実だったとしても、姉の死が無くなることはない。

 それで、救われるのはわたしだけ…。


 それなのに、彼の話を聞いたわたしは…自分は置いてかれた訳じゃなかったのだと思いたがっている。

 お姉ちゃんはわたしを愛していたのだと…何よりも、それを信じたがっている…。

 さっきまでは信じられるはずがないだとか、あり得るはずがないだとか、のたまっていたくせにだよ…。


 …なんて恥知らずなのだろうと思う。何処までも俗悪な自分を思い知らされる。


 けれど…そんなこと、全く気にならないほど———彼の言葉が、事実であってくれたらと願っていた。


「…それが四年前に…お姉ちゃんに…あったことのすべて、ですか…?」


 決して傷つけてはならないもの触るように、二度とひび割れないように。

 本物である担保を積み上げようと、彼に聞く。


「…ええ」


 その意図を読み取られているのかもしれない。

 暗闇の中、彼は幼子をあやしつけるような薄い笑みを見せて、


「これが当時起きた——っ」


 …言いかけて一瞬、言葉が止まった。


「っ…これが…私の、覚えている一切です」


 …?

 なんだろう…今のは。


「…ッう…」


 昼の雲間に鳥が過ったほどの、一瞬の陰り。

 再び表れたそれはたちまち彼の表情を覆い、彼は隠すよう額に手を置く。


「あの…?」


 かざされた手指の隙間から眉根を寄せているのが見える。

 暗くて良く見えないが、脂汗までも滲ませているような…。


「あのっ! どうかしましたッ…?」


 なにか病気の発作だとか、大変なことが起きたのではないかと、わたしは慌てて確認した。

 その声に応じたのだろう。彼はおもむろに、かざしていた手指を取り下げる。


 そして…まるで今、目を覚ましたばかりみたいに彼は左右へ目を振ってから、


「…すみません。少し呆けていたようです。なにも問題ありません」


 元通りに…しかし、少し疲労が見える笑みを浮かべた。


「…本当に、大丈夫ですか…?」


「ここのところ、昼夜逆転した生活をしている為か体調が優れなくて…申し訳ございません。お話の途中……でしたよね」


 ちょっとした生活習慣の乱れだけで不調をきたすような年齢じゃないだろうし、体型にもみえない。

 だから、なにか他の要因があったのではないかと思った。


 …もしかしたら、昔のことを思い出させたからかも。


 彼は過去を語ることに消極的な様子を見せていたし…四年前のことは、彼にとって思い出したくもない過去なのだろう。


 きっと、そうだ———


「…それにしても、数日前のあれは…本当に失礼しました」


 不自然に話が変わる。


「数日前のというと…すれ違ったあと、わたしから逃げ出したことですよね」


 彼の体調を気遣い、わたしも話題を変える。

 他に違う理由がある気もしたけれど、自身の動機を余さず捉えることは難しい。


「あの時はとんだご無礼を…。全く予期していなかったことでしたので気が動転し、あのような愚行に及びました。重ね重ね、お詫び申し上げます」


「気が動転したからって割に、すごい持続時間でしたね。ここから広場まで、かなりありますよ」


「…それは、まさか追いかけてくるとは思ってもいなくて、更に動転してしまい…。私の腕時計を拾ったがゆえだったのですね」


 そもそも命日なんだから、その家族が来る可能性は十分考えられる気もするが…。

 でもよくよく考えてみると、わたしが姉の命日当日にここへ来たのは初めてかもしれない。


 お墓掃除に来るときは、もっとちゃんとした休みがある時だったもんな。

 叔母さんと予定を合わせなくちゃだったし…連休の初っ端から来れることは中々なかった。


 …彼は例年、姉の命日に来ていたのだろうか。


「そういえば真尋さんは、どのようにして私の名前を知ったのですか?」


 唐突にそんなことを聞かれて、答えに窮する。


「名前…?」


「…仮に、四年前のあの事故が何かしらの記事になっていたとしても、私の名前までは報道されていないでしょう。ですから、当時のことを知る人から詳細を聞き及んだのだと早合点していましたが、貴女は事故であることもご存じなかったので…どちらから私の名を漏れ聞いたのだろうかと…」


 どのように、って…戸田さんから聞いたのだけれど、これは言って良いのか駄目なのか……ま、いっか。


「戸田さんに聞いたんです。ドラジットの」


「ド、ドラジットの戸田さんに…!?」


 珍しく、彼は狼狽える。


「それは、どういった経緯で…?」


「…前に怖い人たちに追いかけられた、って言ったじゃないですか。その人たちがドラジットって集まりだったらしいんですけど、その人たちはどうもあなたが落とした腕時計を探していたみたいだったので…。追いかけられた後日に、その、腕時計を落とした人について教えてもらおうと会いに行って…」


「…貴女から接触したのですか? なぜそのような軽率な真似を……いえ、端を発したのは私の行いですか…」


 危ない危ない。説教されるかと思ったけれど、自責に舵を切ってくれて助かった。


「それで、彼らと情報交換したんです。わたしは、もしかしたら腕時計の持ち主は姉と飛び降りた人なんじゃないかって思っていたから…それを言ったら戸田さんが当時のことを調べてきてくれて…」


「なるほど、そういったルートで戸田さんが私のことを…。それは…」


 彼は口元に手をあて考え込む。顔にはうっすらと焦りが見えた。


 そういえば、この人は戸田さんの仲間から大事なものを強奪した結果、追われているんだっけ…。

 そんな状況で名前が知られているとなったら、焦るのも無理はないのかもしれない。


「でも大丈夫ですよ。戸田さんはもういい、って言ってましたもん。もう長井仁を追いかけるつもりは無いって」


「…な…」


 今度は絶句する。

 あれ。喜ぶと思ったのに。


 彼はしばらく考え込んで、


「参りましたね…息の長い組織ですから、面子を気にするタイプだと思っていましたのに…なぜ…」


 小さくそんな言葉を漏らした。


「なんか、わたしのせいで不味いことになりました…?」


「あ…いえ、それもすべて私の愚かな振る舞いが招いたことです。ですからお気になさらずに…」


 …不味いことにはなっちゃってるみたいだな。


 というか、本当にこの人がやったんだなぁ。

 戸田さんの仲間を襲って、なにか大事なものを強奪したらしいけど…正直この人の人柄からは考えられない。それに、噂では暴走族の人たちと対立してるチームのリーダーでもあると聞くし…。


 どっちかというと、それはこの人より柄の悪い長井さんの方が似合う。あれ…


「…そういえば、長井さんはどうして長井なんだろ…?」


「と、言いますと…?」


 ちょっとした疑問が浮かび、それを口にすると長井仁が不思議そうにする。


「あ、その…松田ハルトのことです」


「ああ…長井さん、というのは陽人君のことですか…。

 彼が長井と名乗っているのは…まあ、やむを得ず、そう名乗っているのでしょうね」


 やむを得ずに違う苗字を名乗る、ってどんな状況…?


「そのせいもあり、今回の件では彼に迷惑を掛けてしまったようです。

 まさか暴走族の方たちが陽人君を私だと間違えるとは…似ても似つかぬと言いますのに」


「…そうですか? あなたとあの人は…少し、似たところがあると思います」


「私と彼が似ている…? 

 そのように感じたことも、評されたこともありませんが…それは、一体どういったところに?」


 改めて聞かれるとはっきりとは答えられない。感覚というか何というか…。


「なんか…む、ムカつくところ…?」


 言うに事欠いて、そんなことを言い放った。

 とはいえ、わたしの人生で最もムカついたのはこの二人によるものなので、嘘ではないな。


「なるほど…家族的類似と言ったところでしょうか。

 人の認識は、およそそういった物を見出すのかもしれません」


「家族的…? あの人と血、繋がってるんですか?」


 だとしたら、あの人が長井と名乗る理由もなんとなく掴めてくる気がするけど…。


「いいえ、私と陽人君の間にそういった繋がりは血縁的にも戸籍的にもありません」


 …どっちだよ…。


「人の認識は混合物だというお話です。ほら、先ほど貴女が申した長井さんという言葉に、私ははじめそれが誰を指示しているのか分かりませんでした。こういったことは日常言語の多義性、内包と外延の不均等がゆえに起こりますが、しかし…そのような特性を以てこそ、意味を欠く外延…捉えられないものを問えるのではないかと考える人は少なくありません。転倒させ、有意味なものが捉えられないものを呑み込むイメージでしょうか。ですが私にはそれすらも…いえ、これ以上は野暮ですね…」


 まじで何言ってんだこいつ。


「ふ…っ」


 なんだか笑えてきた。

 本当に、この街は変な人ばっかりだ…。


 ◇


「…おや、もうこんな時間ですか…」


 いつの間にか、辺りを覆っていた暗闇が青みを帯びて白けている。


「すみません。長いことお付き合いさせて…そろそろ戻らねば、陽人君も心配するでしょう。

 貴女は現在事務所に寄食しているのでしたよね。そちらまで送りましょうか」


 そう言って、彼はベンチから腰を上げた。


「大丈夫です。ここからなら事務所への道も分かりますもん」


 わたしも彼に続いて立ち上がり、薄明の空を見上げた。


 これから陽が昇り、街は明るく照らされるはずだ。

 暗い中を歩くわけじゃないし、道に迷う可能性は低いだろう。


「…そうですか。分かりました。お気をつけてお帰り下さい」


 少し間を開けてから、彼は莞爾と笑い頷いた。


 そして、わたしたちは霊園の中を歩く。

 どこから入って来たんだったかな…。分からないから、彼の後を追う形になる。

 やがて霊園を出たところ、彼の向かう方向も途中まで同じなのか、後を追う形のまま少し歩いた。


「…あの、最後にもう一度…聞いていいですか?」


 途中で足を止めて、長井仁の背中に問いかける。


「…なんでしょう」


「本当に…」


 最後に、一番大事なことを確認したかった。


「本当に、あなたが語ったことが…」


 何故か、それを尋ねるのが少し恐ろしいけれど…。


「四年前の…お姉ちゃんにあった事実なんだよね…?」


 振り返った長井仁と向き合う。薄明るさの中で、彼の顔がはっきりと映る。


「——ええ。そうです。私が貴女に語ったのは、あの時の一切です。

 私は彼女と語らった日々を鮮明に覚えております。そして、彼女が事故に遭い、亡くなったことも…」


 今度はよどみなく、彼は言い切った。小さくわたしは息を吐く。


「それは私の過失でした。私が彼女と出会わなければ…あのようなことは起きなかったでしょう…。

 その責任は全て…私にあります」


 …話に聞いた限りでは、一概に彼の過失だとは言えないだろう。

 それでも彼がここまで自分自身に責任を感じているのは…他に理由があるのではないかとわたしは思った。


 この人はこの人で、欲しがっているように見えたんだ。

 自分のせいで、大野晴香が死んだという事実を…。


 穿ちすぎかもしれないし、そうしたがる理由も分からない。

 だけど、彼が語ったことと態度との齟齬は、そこから生まれているんじゃないか、って…

 ある意味それは…彼を必死に探し回っていたわたしと同じなんじゃないかって…少し、思った。


「…こちらからも改めてお尋ねします。なにか、私に申し付けたいことは御座いますか。

 繰り返しになりますが…貴女が私に望むことがあるのでしたら、及ぶ限りそれに応じたいと思います」


 そう訊かれて、ようやく。

 いつの間にか、わたしの中にあった執着心が消え失せていることに気が付く。


 言いたいことを言った。

 聞きたいことを聞いて…知りたかったことを知った。

 だから、もうわたしが望むものはないのだろうか。


「…また」


「また?」


 濃紺と朝の光が入り混じる空の下。彼が聞き返し、わたしは続ける。


「いつか、またこの街に…話を聞きに来てもいいですか。あなたとお姉ちゃんの話を…」


「…お安い御用です。いつでもお待ちしております」


 目を細めてゆっくりと首肯した彼に軽く頭を下げて、わたしは背を向けた。

 彼とは別の方角へ。事務所に向かうように。ここで、わたしは現実に立ち返ることになる。


「あっ…すみません。大野真尋さん、私から貴女に一つだけ…質問がありました」


 …と思っていたら、長井仁が引き止めて来た。


「何ですか…?」


「その、不躾な質問で恐縮なのですが——」


 ◇


 大きな坂道を下り切り、ひとり平坦な道を歩く。


 すっかり夜は明けている。

 早くも太陽が照り付けるが、生ぬるい風がどうしてか清々しかった。


 昨日の夕方に仮眠を取ったおかげだろう、不思議と眠気を感じず足取りは軽い。

 その足で事務所へ向かう。進めば更に日は昇る。街が近づき、人の姿が見えてくる。


「……」


 歩きながら、ふと考えた。

 この街でわたしが探していた人は、長井仁ではなかったのかもしれない、と。

 わたしが本当に見つけたかったのはもしかして…。


 …ううん、それこそ野暮というものだ。本当なんてものは知らない。

 単にわたしは過去を認めたくて…ここへ来た。それだけなのだろう…。


「あ——」


 そこで、見慣れた後ろ姿を見つける。


「松田ぁ…!」


 駆け寄って、その背を強く叩いた。


「あ…? 真尋…? んで、こんなとこに…」


 彼が振り向く。

 凄い隈だ。しかも頬が青黒く変色している。


 確かに、長井さん——松田ハルトは、長井仁と似ても似つかない。


「お前よぉ~。どうして松田のくせに、長井って名乗ってんだよ~」


 歩きながら尋ねる。行先は同じだろう。自然と隣で歩くことになる。


「くせに、ってなんだよ…。つうか、お前……ま、いいや…」


 いろいろと飲み込むように、疲れの見えるため息を吐く。

 それでも彼は、ぽつぽつとわたしの疑問に答えた。


「俺が長井を名乗ってるのは…ほら、会ったことあるだろ…みどりと成哉の親父、長井道則…お前がミッチーって呼んでたおっさん。まあ、あのおっさんは仁の父親でもあるんだが…それはともかく」


 ミッチ―と長井仁はやけに目鼻立ちが似ていた。だから、血が繋がっていても不思議はない。


「一年ぐらい前に、俺はあのおっさんと養子縁組を交わしたんだ。働かせてくれたりと、色々便利だったからな…」


 そうか…そういえばこの人は親がいないのだったっけ。昔、施設でもそんなことを言っていたな…。


 …しかしそうなると、この人は長井仁と兄弟ってことにならないか…?


 あれ? でも当の長井仁は戸籍的にも繋がりは無いって言っていた気が…んんん…???


「それより…仁はどうしたんだ。一緒にいたはずだろ?」


「途中まで一緒だったんですけど、明るくなったので別れました。わたしの知っている道だったし」


「そっか…」


「そんなことより! あなたと長井仁って、どういう関係なんです?」


 聞くと、彼は困ったような表情を見せる。


「…古い友達だよ。お前も前にあった吉矢…あのデカブツと仁と俺で…小学生の時、よく一緒にいたんだ。たった、それだけの関係だ…」


 そういうことを聞きたかったわけじゃないのだけれど…まあ、いっか。


「……」


「なんですか?」


 言い終えた長井さんが眠り目のまま、じっとこちらを見る。そして息を吐くような笑いを見せた。


「——なんだ。さっきからお前、嬉しそうだな。良いことでもあったのか」


 不意にそんなことを言われる。

 図星を突かれたかもしれない。なんだか顔が熱くなった。


「と、というか…わたしのこと、お前お前って呼ばないでください! なんか気持ち悪い…」


「えぇ…? す、すみません…」


 とにかく話を逸らしたくてそんなことを言うと、やたら素直に謝る彼がいる。


「でもさっき、俺もそう呼ばれなかった…?」


 と思ったら反抗してきやがった。


「いーーーや! 長井さんのそれはなんか距離感が気持ち悪い!」


「そうなの…? ごめんなさい…気を付けます…」


 ま、正直どうでもいいのだけれど。


「…俺はその、吉矢みたいなのとつるんでたから、ちょっと常識がおかしくなっているところがあるかもしれない。態度とか言葉遣いも、出来れば普通にしたいのだが…」


「…ふっ」


 今度は弁解に見せかけてさりげなく人のせいにしてるし…。

 子供っぽいのはわたしだけじゃない。彼だって同じだろう。



 そのままわたしたちは帰路を行く。

 まだ朝が早いからか、繁華街近くに差し掛かっても、人通りはそこまで多くない。

 とはいえ、車は相変わらずだ。


「なんだか、白バイ多いですねぇ」


「春の交通安全運動はとっくに終わってるはずだけど…。もしかしたらアイツらのせいかもなぁ…」


 信号待ちに何気ない会話する。事務所が近づいてきていた。


「…こどもの日。終わりましたね」


「ん、ああ…昨日はそうなんだっけ。なんの祝日で休みかなんて完全に忘れてた」


「わたしの学校、今日登校日なんですよ。そっちはどうですか」


 明日明後日は土日だけど、今日は確か学校があった。


「俺のとこは振替休日だった気がする…。もし学校あっても行きたくねぇ…流石に疲れた…」


 彼はため息をついて、


「というか、真尋はそろそろ帰らなきゃ不味いんじゃないか…? 学校までサボっちゃ、叔母さんもおかしいと思うだろ」


「そうなんですよね~…」


 信号を渡る。


「今からでも急げば、授業にも間に合うと思います。だから今日——帰りますね」


「…そうか。そうだな…それが良い」


 この街に来て、わたしは知りたかったことを聞くことが出来た。


 しかし、長井仁の語った話が本当なのか、今のわたしには判断がつかない。

 それが正しい保証なんかない。長井仁は都合の良い幻想を騙っていたに過ぎないのかもしれない。


 …ただ。

 彼がお姉ちゃんのことを語ったあの時……霧に包まれていた彼の姿がはっきりと見えた気がしたんだ。


 だから、少しぐらいは信じていいのだろうか。

 ちょっとだけなら、良かった…って…。


 お姉ちゃんは、わたしを見限った訳じゃなかったんだ、って…思っても…


「良いのかなぁ…」


 …わからない。

 死者に問うても、答えはない。


 それでも…何故だろう。

 例え、虚実だったとしてもわたしは…長井仁の言葉を信じたかった。


 それは案外、こんな奴が存在するせいなのかもしれない。


「その、事務所に泊めてくれてありがとうございました。他にもいろいろと…」


「まあ、なんというか…頑張れよ。叔母さんと上手くいくと良いな」


「叔母さんと上手く…? なんの話…?」


「え!? いや、家出してきたんだろ…!?」


「あはは」


 相も変わらず、この人は何も知らない。きっと、この人はあの時から、何も変わっていない。

 わたしと昔会ったことも覚えていないし。それにたぶん、友達だっていう長井仁とお姉ちゃんのことも…。


 なんとなくだけれど…この人はずっと変わらないじゃないかと思う。

 さっきは喧嘩をしながら、楽しそうにしていたし…いい歳してさ。


 …わたしはこの人に、姉を重ねた。長井仁を重ねた。

 しかし、そんな見せかけが取り払われ、ついに姿を現したのは、むかし出会った…無知な子供だった。


 あの時、彼は言った。


『——その繋がりは…決して消えないと思う。お前と、姉の繋がりも…』


 その言葉が正しいのかは分からない。いや…おそらく、間違っているのだとも思う…。


 でも、でもさ…。

 愚昧だろうと、無知だろうと…それゆえに、見えるものもあるんじゃないかと思うんだ。

 たとえそれが幻想と呼ばれるようなものだとしても、無意味だろうと…きっと…。


 ◇


 荷物をまとめて、わたしは事務所を出た。そして、階段を下りる足音が二つ。

 ビルを出たところで、わたしは言う。


「んじゃ、さいなら~」


「うむ…。じゃあな」


 別れはあっさり済ませよう。惜しむほどのものはない。

 わたしはたった数日前、この街に来たばかり。欲しいものがあってここを尋ねたのだ。


 …それで得たのは、真偽を欠いた彼らの言葉。


 いつかまた、分からなくなる時が来るだろう。

 信ずるに値しないと、気付く時があるだろう。


 だから、わからなくなったら、何度でも問おうと思う。

 きっとわたしは、そうして生きていくのだろう。


 世界を疑い、それでも認めようとあがいて…やがて束の間の肯定を得る。

 それで、いつかまた…。


 ずっと…。

 たぶんずっと、繰り返していくんだ。


「——バイバイ、陽人さん…じゃあね!」


 限りなく手を伸ばした。捉えられないものを掴むように。

 大きく手を振った。伝えられないものを伝えるように。


 いつしか、この途方もない歩みの果てに——彼岸へ届くことを祈って…


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