その13-2



「…さて。どこからお話するべきでしょうか…」


 森閑なる霊園の外れ。並んだベンチの一方に腰をかけ、私は真尋さんに言いました。


 あの時のことを彼女にお話するのは、とても忍びなく思います。

 ですが、出来得る限り鮮明に、事実を取りこぼさないように、事実を羅列する…

 それこそが、私が行うべき誠実な態度というものなのでしょう…。


「真尋さん、宇宿うすき君は知っていますよね」


「だ、誰…?」


 おや…。 

 顔を合わせたと、彼自身から聞いていたのですが…。


宇宿うすき君というのは、私の学校の生徒会長であり、私の小学校時代の級友でもあります。事務所のあるビルで一度、貴女と顔を合わせたと聞きました」


「…」


 どうしてそんな話を今になってするのか全く見当がつかない、とでも言いたげに私を睨んでいる彼女の相貌が、暗闇に慣れた私の眼に映じられます。


「ふう…」


 前準備を終え、私はゆっくり、深く息を吸いました。

 そして、意識を過去に馳せ、それだけに徹します。


 記憶されたものを吐き出すだけの機械へと、身体を変貌させるように…。


「…あれは、今から4年前の事です。もう少し正確に言えば、4年と3か月ほど前でしょうか」


 それは4年前の事実。


「当時、私は小学六年生でした。季節は冬。かねてより目標としていた、中学校の入試の日のことです」


 私は12歳になったばかり…。

 冬休みが明けてひと月が経とうとしていた…そんな、二月のある日のこと。


「…私はその日、朝早くに目覚め、試験に向けて復習を行っていました」


 そうしていると、私を起こそうと母が部屋に来たのでした。

 そこでなにか話をしたはずなのですが、内容がどうも思い出せません。


「そして時間になり、身支度を終えた私は家を後にして、試験会場に向かいます」


 会場はそこまで離れたところにあるわけではありませんでしたので、私は一人で家を出ました。

 母は激励をくれ、笑顔と共に見送ってくれました。思えば、あの方は良く笑う人でしたね…。


「…その道中、私はとある人たちを見つけました。溝口君とそのお友達…」


 溝口君と、藤君に…あとは…。

 …いけません。他のお三方の名前を失念してしまいました。

 あの三名とはもう長いこと顔を合わせていませんから…というのは言い訳でしょうか。


「その以前、彼らとは同じ小学校に通っていました。ですが、私より年上である彼らは既に中学校に上がっており…それゆえ、珍しい方々を見つけたと思ったものです」


 中学校に上がった彼らが以前にも増して非行に明け暮れているとの噂を耳にしたことはありましたが、彼らを…とりわけ、私より二つ年上の溝口君の姿を目にしたのは実に久しぶりでした。


「しかし、その驚きはすぐさま異なる驚きへと変質します。それは、彼らの中に宇宿君の姿を見つけた為でした。先ほどお話した通り、宇宿君は私と同級の少年です。溝口君たちがまだ同じ小学校に通っていたころ、宇宿君は彼らに…恐喝、ひいてはいじめの対象とされていました」


 溝口君たちのその行いを止めさせようとして、幼き私は幾度か友達と共に奔走した覚えがあります。

 しかし…今にして考えれば、もっと上手いやりようがあったのではないかと…却ってそれを激化させた可能性もあるのではないかと、昔の行いに厳しい目を向けたくなることがしばしば…。


「宇宿君も私と同じ中学校を目指していると聞き及んでいました。その試験は遠からず始まろうとしています。ゆえに彼らと遊んでいるだけだとは、とても考えられませんでした」


 私は胸騒ぎがして、彼らの後を追いかけます。


「そして——」


 捉えられるはずのない、過去の実感をも掴み取ろうと更にもう一層深く。記憶に潜る。


「…そして、懸念は現実のものとなりました」


 曇り空。冷たい空気。溝口君たちの声。

 目の先には宇宿君を囲み、人目のつかぬ方へと移動する彼ら。

 やがて、路地の影に至った彼らは脅しの言葉を口々に、宇宿君へ暴行を加え始めた。


「どうにかしなければと案じましたが…」


 周りに人はいない。

 しかし、私一人ではとても敵わない。


「仕方ありませんので、近辺の交番に駆け込もうと…」


 彼らに背を向けた。焦りのせいか火照った頬に風が流れ、涼しく感じる。

 そのまま、足に力を入れて…


 でも、その時…音を伴うしるべが響いたんだ。


『あなたが正しいと思ったことをしなさい』


 それは肯定の音色だ。

 それをちらつかされたら…子供はいとも容易く追ってしまう。



 悠長に警官を呼んでいたら、彼も私も試験に間に合わないかもしれない。

 宇宿君を連れ、どうにか彼らから逃げることが出来ないかと…。

 いつも陽人君とヒロ君に守られていた私が…一人でできることなんか限られているのに…。

 …無謀にも、私は彼らに向かったのだ。


 それで…

 宇宿君を逃がすことには成功しましたが、私は彼らに捕まり…それで私は…



 ———そして、どうなったんですか…?


 何処かから声が聞こえる。


 そして…。

 そして…どうしたのでしょう…。

 それから、どうして、私は…彼女と…。


 …少々、お待ちください。委細を思い出します…。



 ああ、そうです…。

 目を覚ますと、そこは見慣れぬ病室でした。


 どうやらあの後、私はすぐさま市内の総合病院へと運ばれたようです。

 寝起きということもあり、私はしばらく状況が呑み込めずぼんやりと部屋を眺めていました。

 しかし、ふと目に付いた窓に掛けられた白いカーテンの隙間から、薄闇の曇り空を目にしたところで、私は途端に現実へと戻されます。慌てて部屋の時計を探してみると夜の八時を回っていて、私はあれから十時間以上眠っていたと悟り、激しく動揺しました。

 もうどうしようもないと分かってはいたのですが、私は跳ねるように飛び起きます。その瞬間、体中の筋肉と内臓が今まで味わったことのない凄まじい苦痛を訴えました。私はそれ以上体を動かす事ができず、そのまま床に倒れ伏しました。

 とてつもない叫喚が響きます。それが自分のものだと気づくのに、数秒ほど要しました。

 ほどなくして、騒ぎを聞きつけた看護師が来ましたが、それをしり目に、私の意識はそこで一度途切れました。

 再びぼんやりと目を開くと、私はベッドに寝ており、その前に男性が腰かけています。

 どうやら意識を失ってから時間はそれほど経っていないようでしたが、鎮痛剤が投与されたのか、それとも安静にしていたからか、体の痛みはだいぶ引いていました。

 その男はどうやら医師のようで、いろいろと話をされましたが、熱があるのか意識がはっきりとしていなかったのでよく理解できません。ただ、どうやら私は十時間どころか三日近く眠っていたようでした。

 話を聞き終え、そのままぼんやりしていると、母が来ました。彼女は何も言いません。

 次の日、再び母が来ました。彼女はなにか言っていたようですが、よく聞き取れません。

 それから、そこから…ですね——


 ◇


 …そこからの記憶は曖昧だ…。


 意識が途切れ途切れで、時間間隔がつかめない。前後がぐちゃぐちゃと撹拌されている。


 だれかが見舞いに来た気がする。でも、よく覚えていない。


 また母さんが来た。どうやら怒っていたみたいだ。あんな顔は初めてみた。


 母さんが来る。

 話したくなかった。いや、会話なんてない。一方的に声を聞く。聞かされる。

 その時間はとても苦痛で、無限のように思えた。


 毎日のように母さんが来る。

 ただ言葉をぶつけられる。体の痛みなんかよりずっと痛かったが、でも、仕方がないことだと思った。僕は試験に行けなかった。それは正しくなかったとおもったから。

 だから、罰なのだと思った。罰は何日も続く。いつまでも続く。



 耐えかねて…いつの日か、つい口をだしてしまった。


 友達を助けた結果だと。それが正しいことだと思ったと。

 言い訳がましい気がして今まで黙っていたが、あまりにも苦しくて。苦しみから逃げたくて。

 母さんなら認めてくれると甘えて、つい口からこぼれた。


 …しかし、母さんは…あの人は…


『————』


 それは…

 それは違うはずだ…。


『あなたが正しいと思ったことをしなさい』


 昔、そう言ってくれたじゃないか。

 そうしたら、報われるはずじゃないのか。僕を愛してくれるはずじゃないのか。


 ただ、それだけのために、生きてきたのに…。


 …だったら僕は、あの時、どうすれば良かったんだよ…?


 どうしていたら、母さんは…僕を——




 入院してどれほど経ったかも定かじゃない。ただ、体の痛みがだいぶ引いてきていた頃だった。

 ある日、鍵がかかっているはずの屋上への扉が開いているのを見つけてから、僕は毎日のように病院の屋上で空を眺めていた。

 そしてその日も、陸屋根の屋上でパラペットに腰をかけ、ただ一人空を仰いでいた。


 目が痛いほど青い空。

 そよと吹く風に揺蕩う雲は薄く、太陽は緩やかな時を奏でる。


 僕はそれを目の痛みも気にせずただ見つめていた。ここは暖かいはずなのに、どこか寒々しい。

 目線を下げて道路を挟んだ先の公園を見れば、その内周には花芽を付けた低木が居並び、低木の向こうでは、幼い子を導くように母親がその手を取っていた。


 母はもう来ない。悪態をつくのにも飽きたのだろう。

 母はもう、いない。まるで違う人間に変わってしまった…。


 …いや、本当は、何も変わってなんかいなかったのだろう。


 変わってしまったのは、胸に抱いていた偶像だけ。

 母への幻想。自身への幻想。それが崩れてしまった。ただ、それだけのことなのだろう。

 でも、その幻想は、それまで生きてきた理由だった。なによりも大事なものだった。

 だから、僕はそれを見ないようにしていた。気づかぬふりをした。幻想を抱いたままでいたかった。


 そのためには——


「ねえ、あぶないよ」


 突然、後ろから声がした。振り向く気も起きなかったけど、仕方なしに振り向く。

 すると、僕が座る屋上のふちからネットフェンスを介した先に、少女がいた。


 僕より一個か二個ぐらい上だろうか。杖をついている。どうやら足が悪いようだ。

 その子は杖をつきながら、ゆっくりとこちらへ来る。フェンス越しに視線が交差した。


「なにしてるの?」


 純粋な瞳に、いたたまれなくなり、つい、逃げるように視線を落としたくなった。


「…景色が、綺麗だから。フェンスの外だったら遮るものが無くて、よく見えるんだ」


 いつもそうしていたように、微笑んで答える。それが上手く出来ていたか、確かめる術はない。


「へぇ、そうなんだ」


 少女はそういうと杖を置き、僕の背丈ほどのネットフェンスに体重を預ける。


「ち、ちょっと…」


 そして彼女がフェンスに右足をかけたところで、僕は慌てて止めた。足が悪いのにフェンスを越えようなんて、正気じゃない。


「…危ないよ」


「別に大丈夫だよ。それに足だけじゃなくて肝臓も悪いし」


 なにが大丈夫なのかさっぱりだったが、その荒唐無稽さにあてられたのか、気づけば僕は彼女がフェンスを越える手伝いをしていた。


「…うーん、そこまで綺麗でもないね」


 せりあがった屋上の縁に座り、眼下に広がる景色を見て彼女は言う。さっき綺麗だと僕が言ったのは咄嗟の出まかせだったので、別に気を悪くはしない。


「怖くない…の?」


 少し重心を前に出せば、体は空に投げ出されるだろう。彼女は足が悪いのに、よく平気でいられるなと思った。


「わかんないけど、たぶん怖くない。なんか、感覚が麻痺してるのかも」


「…そっか」


 その感覚はなんだか共感できて、妙な親近感を覚える。

 それから、僕らはそこで小一時間ほど話した。

 僕も彼女も少し上の空で、会話は決して弾んだとは言えず、内容も取り留めのないものだった。


 …でも僕は、その会話がどことなく心地よかった。

 口から言葉を発して、それに対して返答がくる。そして、僕もそれにこたえる。

 たったそれだけのことが、やけに懐かしく、尊いものに感じた…。


「…そうだ。もう戻らないと」


 ふいに、彼女はそういって屋上の縁から腰を上げる。フェンスに手をかけていたとはいえ、突然のその所作に僕はぎょっとした。案の定、彼女は足を悪くしていたのを忘れていたように、痛みに顔をしかめる。驚きつつも僕は彼女の手を取り、支えになるようそろりと引っ張り上げた。


「ちょっと待って。僕が向こうから引っ張るから」


 やがて彼女が立ち上がることに成功したら、僕は先にフェンスを越えて、彼女を手助けする。

 フェンスを越えさせるのには中々苦労したけど、僕はそれを少し楽しんでいた。

 ずっと何をするのも億劫だったのに、なぜだろう、と思った。


 後から考えてみたら僕は、彼女から類する匂いをかぎ取ったのだと思う。僕と同じ、暗闇の匂い。

 なにも見えない何処までも続く暗闇の中、すぐそばで人の温もりを感じた。そんな気分だったんだ…。



 それから彼女は毎日のように屋上に来た。

 屋上のふちで他愛のない話をしたり、オセロなどを持ち込み二人で遊んだり、言葉なく別々に本を読んだりと、様々なことをして日中を過ごし、そして陽が傾いてきたら彼女は病室に戻る。それを来る日、来る日と繰り返す。

 いつの間にかそれは、僕にとってかけがえのない時間になっていた。


 彼女がいなくなると、矢先に稜々と世界が冷え込む。世界が僕に突き刺さり、震えるしかなくなる。

 だから僕は毎日彼女を待ったし、彼女はそれに応えてくれた。

 なにも変わらない毎日。それは紛れもなく、幸せな日々だった。


 …しかし、ある時。二人して本を読んでいた時だ。


 僕は自分が読んでいた本にすっかり退屈して、横に座る彼女を横目で見ていた。

 彼女は僕の視線に気づかず、ただその手元に目線を落としている。

 穏やかな気候と、ほぼ等間隔で奏でられる紙面のめくれる音に、やたらと眠気を誘われる。


 僕はぼんやりとしてきた頭で、なんとなく彼女の本を盗み見た。

 だけど、穏やかな光に照らされた紙面は遠目にも活字をくっきりと表しているのに、僕の頭は理解を拒む。

 代わりに、彼女の本からはみ出していた栞がなんだか気になった。

 それは手作りなのか、少し形の悪い四片の花弁からなる花が敷衍されている。

 押し花というやつだろう。


「…それは、なんの花?」


 考えもなく、気づけばそう尋ねていた。


「これ? たぶん、ジンチョウゲってやつだけど…」


 彼女は手元から視線を上げ、おそらく間抜け面をしていたであろう僕をみると、本から栞を抜き出した。

 その栞の全貌が露わになる。四片の花弁から出来た淡い桜色をした花が、四つ並んでいた。

 四つの花は大小様々で、大きめのが二つ、小さめのが二つとある。


 もしかしたらそれは、家族を象ったものか。…なんとなく、そんな気がした。


「昔、妹と一緒に作ったんだ。出来るだけ同じくらいの花を探して、二人でお揃いにしようって…」


 姉妹で同じものを作ろうとするとは、余程仲がいいのだろう。

 そしてその考えは、彼女が湛えた笑みからして疑いようもない。

 まるで尊いものに思いを馳せるように、大切なものを抱くように、彼女は笑う。

 それを目にした瞬間、僕は寂寞とした虚しさに満たされ、思わず顔を背けた。


 …その理由が、今なら良くわかる。

 僕は性懲りもなく、彼女に幻想を抱き、そして、勝手に幻滅したのだろう。


 彼女も僕と同じ、暗闇の住人だと。

 見えるものはなく、当てもなく、漫ろと冷たい世界を彷徨する人ならざるものであると。

 だからこそ、僕らは温もりを与えあうことができるのだと。そんな、実のない幻想…。


 だが、彼女はそうではなかった。

 決して明るくはない、薄暗い世界かもしれないが、彼女の世界には光がある。

 彼女の笑顔はそう物語る。


 …途端に、青い空が目に痛くてたまらなくなった。

 まぶしくて、見ていられなくなって、まばたきを繰り返す。

 それでも僕は…毎日彼女を待ち続けた。


 以来、彼女と話していると時折、まぶしさに顔をしかめたくなる。

 だというのに…だからこそだろうか、ここは暖かい。

 胸に渦巻いた虚しさが消えることはなかったが、僕はごまかす様に熱を求めた…。



 そして、そんな毎日が当たり前になった頃。

 いつものように僕が屋上へ行くと、いつもの場所には既に彼女がいた。

 普段は僕の後に来るというのにどうしたのだろう、と思うと同時に、足の悪い彼女が一人でフェンスを乗り越えたのかと、寒気がしたのを覚えている。

 いつもどおりフェンスを越えたへりに腰かけるその姿は、変わらないはずなのになんだか小さく見えて、僕は本当に彼女なのかと思い直し、訝しんでこっそりと近づいたんだ。


「…どうして、泣いているの」


 フェンス越しの彼女の肩が震えていることに気づいた時、僕は無意識にそう尋ねていた。

 声に彼女が振り向く。ひし形の白線を通して見えるその瞳は充血して赤らんでいた。

 ギシギシと弛むフェンスを乗り越えて、いつもの場所へ座る。

 僕が来たからだろう、彼女は声を押し殺そうと、しゃくりあげるような声をあげていた。

 その様子を見ても、僕は彼女を一人にする気にはならなかった。心配だったわけじゃない。

 ただただ、泣いている理由を知りたかった。独善的に、彼女を知りたかったのだ。


「…お母さんが、死んじゃった」


 しばらくして、彼女はようやく口を開いた。

 屋上のふちに座りながら、その先に広がる下界へと視線を落としぽつぽつと、起きた事実を並べる。それはまるで、その日あったことを親に話す幼児のように。


「私と、妹と、お父さん、お母さんで、出かけようって——」


 家族で出かけるさなか、それは起こったらしい。

 父親の運転する車が対向車と衝突。妹は対した怪我もなかったが父親は即死。母親は意識不明の重体。

 彼女は右足と肝機能に障害が残る怪我を負い、そして、入院していた母親が昨夜、亡くなった。

 彼女が言い終えると、沈黙が漂う。

 彼女はもう声を上げていなかった。しかし、涙を湛えたその目は相も変わらず下界に注がれている。

 その様子はなんだか僕の反応を待っているように見えて、僕もそれに答えようと口を開いた。

 けれど、


「そう、なんだ…」


 僕はそうとしか言えなかった。彼女にかける言葉が見つからなかった…そんな理由ではない。

 僕の胸中は一つの感情に支配されていた。ただ、それを表に出さないように、必死だった。

 僕は。僕は…


 僕はそれを——うらやましいな、と思った。


 愛する者が、そのまま死んでいてくれたら。愛する者を愛せるまま、いなくなっていてくれたら。

 大切なものを残して。幸せな想いを残して。

 悲しくても、それに向き合うことができるのなら。

 それはどんなに幸せな事なのだろう、と——愚かにも僕は思った。


 …なんだか、坂口安吾の堕落論を思い出す。


『美しいものを、美しいまま終わらせたい』

 僕が抱いているこの想いは、それと同じものなのだろうか…?


「…いや」


 …そんなものじゃない。


 僕の愛した人は、亡くなるだけじゃ飽き足らず、その遺体を見ず知らずのものに奪われた。

 僕の愛した顔で、愛した声で、僕を否定する。僕をすり潰す。

 殺すのなら、愛しているうちに殺してくれ。気づかぬうちに殺してくれ。

 このままでは消えてしまう。大切なものが、消えてしまう…。

 どれだけ悲しくてもいい、苦しくてもいい。でも、それだけは、させてはならない。


 させては、ならないんだ…。


 …誰かが言った。『死ぬと花になるんだ』と。

 もしその種がこの身に宿っているのだとしたら、それは…“これ”なのだと思う。


 そして、今にも“これ”は消え入りそうになっている…。

 だったらさ、僕がすべきことは決まっているんだ…。


「大切なものを失った僕らに許されているのは、殉ずることだけだろう…」


 羨望からか、僕は言った。

 それともそれは、彼女の笑顔を見たあのときからほのかに燻る、裏切られたという身勝手な想いがさせた意趣返しだったのか。

 あるいは、余りにもまばゆい彼女を遠ざけようと、出た言葉だったのか…。


 …何にしても、その言葉は僕がずっと抱いていた想いで、偽らざる本心だった。


「——それって、どういう意味…?」


 愕然と、彼女は問う。

 その様子が僕はなんだかおかしくて、口角が上がっているのが悟られないよう、顔を伏せた。


「あぁ…いや、君が羨ましいと思ったんだ。悲しいだけで、涙を流すだけで済んで…」


 顔を伏せたまま答える。意図して出したものじゃなかったが、その声色はまるで嘲るようで…自分にこんな一面があったのかと驚くと同時に、得も言われぬ滑稽さに吹き出しそうになった。


 そうだ。大切なものが没したのなら、すぐさまその後を追うべきなんだ。

 君がそんな気も見せていないということは、君の喪失は所詮…そんなものってことなんだろ…。


「…帰る」


 涙を浮かべたままで、しかし、截然としたものを滲ませ彼女は呟く。

 僕はそれを聞き入れ、黙したまま、いつもの手順を踏み彼女をフェンスから引っ張り上げた。

 白い網目に立てかけられた杖を手にして、彼女はようやく一人で立つ。杖がなければ彼女は立つこともままならないと、僕はそれすら愉快に思う。


「いてっ…」


 いつのまにか翳った空を仰いで、笑みをかみ殺したその時、彼女が自身の体を支えていた杖をもって僕の顔をはたいた。

 そしてバカ、と僕を怒鳴りつけたかと思うと、彼女は急ぎ、されど緩やかな速度で院内へ戻っていく。

 彼女はずっと怒っていたのだろう。しかし、一人でフェンスを越えるのは危ないので僕にそれを手伝わせ、そしてそれが済んだので感情を発露させたのだろう。


「はは」


 結構したたかだな、と僕はわらった。

 それにもう、杖がなくてもちょっと立つぐらいならできるらしい。



 明くる日、僕はいつものように屋上に行く。彼女は来なかった。

 次の日も、その次の日も、僕は毎日屋上で時を過ごす。彼女はあの日から、その姿を見せなかった。


 当然だ。

 そして、それで良いんだ…。


 覆水盆に返らず…いや、むしろ盆に返った思いか、まるで、彼女と出会う前のような日々が続く。

 方寸を満たすのは、ある種の清々しさと…諦観のようなもの。

 その時、僕という人間の価値が、ようやく分かった気がしたんだ。


 はじめから灯りなどなければ、恐れる必要などない。

 はじめから暗闇の中にいるのならば、暗がりに怯える必要はない。

 だって、一番恐ろしいのは灯りが消えるその瞬間なのだから…ならば、自分で消してしまえばよい。


 僕は臆病だから、そうしたのだろ…?


 顔を上げて、空を見た。

 鈍色の雨雲はまるで白浪を打つように、暗灰色と灰白色が入り混じっている。

 黒白まだらに広がり、青を、天を、どこまでも、埋めつくさんばかり…。


 泣き出すのもそう遠くないだろう。僕は早めに病室へ戻ることにした。



 その夜は降り続ける雨が五月蠅くて、上手く寝付けなかった。

 灯りが消えた病室で、ベッドのなか目を閉じて、ただじっと身を縮こまらせていた。

 夢に落ちることもかなわないので、瞼に覆われた空を見上げ、いままでとこれからを宙に描く。

 外界の雨音も忘れて、時間も忘れて、凝然とそれに没頭していた。

 そしていつしか雨が止んでいることに気づき、ゆっくりと目を開く。


 …僕は、今までずっと正しいことを為してきたと思っていた。


 そこに正しさ以外の理由などなく、混じりっ気のないものだと、途方もない幻想を抱いていた。

 でも、そんなものあるわけがない…。当たり前のことに、今更になって気づいた。


 本当は…。僕は…

 ただ、母さんに愛されたかっただけだったんだ。


 そうしていれば、僕の存在を肯定してくれると…

 それが保証されているのだと…浅ましく、縋りついただけだったんだよ。


 だから、こうなって当然だったのだろう…。


 偽物だったのだから。

 今までの人生全て、始めから嘘だったんだから…愛されるどころか、なにも残るわけがない…。


 そんな僕に…もし、僕の生に本物があるとしたら、それは…。


「…死は、それが死である限り、その本質からして、つねにその都度私のものです…」


 誰の言葉だったのか。

 それすら忘れてしまったけれど、せめてこの言葉だけでも…。



 夜が明けると、僕は朝早くから病室を抜け出す。

 一晩立って心は決まり、だが想いは固まったまま。


 屋上に続く階段を上る。朝に行くのは初めてだ。眠気は一周回って少したりとも感じない。

 あるいは、もう眠気を訴える必要などないと、自分の体が理解していたのか。


「うわぁ…っ」


 塔屋の扉を開け、屋上へ出ると僕を出迎えたのは銀世界ならぬ、金世界。

 呆然と眩い黄金の輝きに目をくらませながら、僕は一歩踏み出ると、足元でちゃぽんと水が跳ねる。

 屋上の床には夜雨の名残だろう、薄く水が張られていて、それはまるで魔法の蜂蜜酒のように、鬱金色うこんいろとも飴色とも取れる色彩の水光を放つ。

 その光があまりにも鮮やかなものだから、まるで祝福しているようだから、僕は空を見上げた。


 空色、群青、層を成し、合間に生まれた青が透かすような淡さで境を引く。

 境に追われる群青の中にはまだ薄く白い月が浮かび、対する空色の根を見ればこの金世界を作り出した根源を見つけた。


 東の空に顔を出す太陽がさながらいつも見る夕日のごとく、しかし位置を変えて空を焼き、金色の素で空を呑み込まんとしている。

 その輝きをもって空に繋ぎ止められた白き月はぽつんと、いかにも消えた星々に取り残されたかのよう。


 …だが、いずれこの月も消えゆくのだろう。


 灯りを与えたはずの太陽が、斯くして空から追い立てる。

 薄れゆく月明かりは、縋るように見苦しくて…だというのに、なおも気高く美しい。


 その美しさに、僕は為すべきことを思い出した。最後はせめて、幸福に思いを馳せて。


 ぴちゃぴちゃと。朝焼けの水溜まりを僕は歩く。

 スリッパに水が染み、上げる足は重たい。でも、いつもの場所はもうすぐだ。


 …その先で、僕は信じられないものを目にした。


「どう、して…」


 あがるように縁取られた屋上の胸壁、そこを隔てるように立てられたフェンスの手前で、その姿を見た。

 振り向いたその顔は、いつもとなにも変わらずに、無邪気にほほ笑む。


 意味が、わからなかった。

 僕に憤り、幻滅して、軽蔑したはずなのに、なぜ彼女は、ここにいるのか。

 疑問が尽きない。もっとも、自分がしたことを考えれば、声をかけれるはずもない。

 そして、今から自分が果たすべきことを思えば、逃げることも…。

 僕はその板挟みに途方に暮れて、ひとえに立ち尽くした。


「ここからじゃ、景色がよくないんだ。君、手伝ってよ」


 硬化のただなか、無慈悲に彼女は言う。その時、戦慄に似たものがよぎった。

 機械仕掛けの体は僕の意思を必要とせず、巻かれたゼンマイは決まった役割を全うさせる。

 それを阻むように、煌めく雨水が足先に絡みつくが、全く持って意味をなさない。

 そして彼女は、近づく僕を迎え入れるように、その手を差し伸ばした。


 ——ああ、やめてくれ。


 恐ろしいんだ。

 君が持つその輝きが、僕の世界を彩るのが、とても恐ろしいのだ。

 光が消えるのは何よりもおぞましいから、僕の全てが消え去るようで堪えられないから。

 母さんが変わってしまった時のような、あんなおもいは、もうしたくないから…。


 だから…もう、歩み寄らないでくれ。僕を一人にしてくれ。

 そしたら一人で、始末をつけられるからさ…。


 …震えている。

 全てがかすむほど震えているはずなのに、僕の手は澱みなく彼女の手を取っていた。

 意思を介さず、ただ、そのために生まれてきたかのように。この子のためだけに…体は動く。



 いつもの場所。濡れた笠木に二人して腰を下ろす。

 染みてきた雨水を気にする余裕もなく、僕は果てなき迷宮の中にいた。


 彼女はなぜ、ここに来たのか。何故、僕は彼女の手を取ったのか。

 僕は決心して、為すべきことを見定めた。それは超然と、阻むものなどあってはならない。


 …にもかかわらず、彼女はそれをいとも容易くそれを吹き飛ばしてしまう。

 それは何度も味わった感覚で、そのたび僕は恐怖するんだ。


 眼下に見える遠い地表。

 僕はあそこに行かなければいけないのに、心は未だ手に残る温もりに寄せられて、変わりに空へ馳せたのは、かろうじて形を保った想いだけだった。


「…そうだ。君のお父さんにあったよ」


「え…?」


 不意にかけられた彼女の一声に、僕の意識は思考の迷宮から浮かび上がる。

 そしてその言葉を反芻すると、僕は再び謎に包まれた。


 …母が来なくなって僕が屋上に行くようになってから、度々父が来ているというのは聞いたことがある。


 おそらくだが後妻のゆかりさんを伴い、週に一度は来ているみたいだ。

 ある看護師さんが両親そろって来ていたと言っていたから、たぶんゆかりさんを僕の母だと勘違いしたのだろう。

 しかし、僕はほぼ毎日、彼が来る時間帯は屋上で過ごしていた為、今まで顔を合わせることはなかった。


 正直、会う気もしない。

 それは父も察しているのか、病室にいない僕を探そうとはせず、ただ見舞いの品を残して去っているようだった。


 そんな父と、彼女が会ったというのは、どういうことなのだろうか。

 父は彼女のことなどつゆほども知らないだろうし、それは彼女も同じだろう。


「君の病室に行ったんだ。そしたら君のお父さんがいて…」


 僕の思索を読み取ったように、彼女は僕の疑問に答える。


「それでね。ちょっとだけ、君の話をしたよ…」


 漠然と、嫌な予感がした。

 身構えるように拳を握る。しかし、彼女はそこで言葉を止めて、空を仰いだ。

 視線を追ってみれば、群青は既に呑まれ夜の残滓は消え去りつつある。

 その中に、白い月はもういない。


 その後を追うべきだと思った。だが、僕はまだ影を縫い付けられたままで…


「君はこの前、言ったよね…」


「…なに、を…?」


 …逃げることも叶わない。

 強すぎる光は影を縫い、やがて、その輝きをもって全てを透かす。明け透けにする。


『——大切なものを失った僕らに許されているのは、殉ずることだけだろう…』


 空を仰いだまま、彼女が誦する。


 ああ、確かにいった。そう、言ってしまった。

 あれは僕の本心で、そして…。


「あれは…」


 なにかに気づいてしまったように、空に投げられていた視線を、ゆっくりと僕へ向ける。

 あの時と違い、涙はない。でも、その瞳は揺れている気がした。


「あれは、さ…」


「…なんだったっけ。昔、友達に教えてもらった詩に、そんな感じのものがあったんだ」


 そんな彼女の反応に、なんだか言ってはいけない秘密をさらけ出してしまった気がして、僕の本心であることを隠すよう、意味のない情報で塗りたくった。


「だから、君は…」


「…」


 だというのに、なにも聞こえなかったように、彼女は言葉を紡ごうとする。

 彼女が何を言わんとしているのか、不思議とそれが分かってしまって、僕は何も言えず、あられもなく、立ち尽くすように俯くことしかできなかった。


「だから君は、初めて会ったとき、死のうとしてたの…?」


「…違うよ」


 そんなことはない。

 死のうとなんてしていない。あの時は、いつものように、ただ空を眺めていただけ。


 あるとすれば、ただ一つの想い。大事なものを失いたくないという、一つの想いだけで。

 そして、それは今もこの胸に…あるはずなんだ。


「——っ」


 ふと違和感に、俯いた顔を上げる。

 隣に座る彼女の方へ顔を向ければ、体を支えるよう縁に置かれた僕の手に、彼女の手が重なっていた。


 あの時、彼女は泣いていたというのに…。あの時、僕は彼女を怒らせたというのに…。

 すでにそれは僕を慮るように優しく、じわりと温かいものが巡る。


 彼女は父となにを話したのだろうか。

 彼女は僕の言葉から、何を読み取ったのだろうか。

 僕はこの子に、何をさらけ出してしまったのだろうか。


 …わからない。


 ただ、その手の温かさは巡り、やがて大きな熱となって僕を取り巻く。

 そのせいだろうか…。

 いつのまにか、僕の頬の上を熱いものが流れ出ていた。


「…ぼく、は…っ」


「うん…」


 なぜか赤みがかった瞳で、彼女はそっと、悲し気にほほ笑んだ。

 重ねられた手のひらを握ればとめどなく何かがこみ上げ、それが押し寄せる波及か、喉からは咽ぶような声がもれる。


「僕、はっ…、…母さん、を…っ」


 堰が切れ、僕は全てを吐き出す。

 今まで信じていたもの、愛していたものが、幻想だったと。何より大切だったものが、偽りだったと。

 抱く想いを全て、彼女の前にさらけ出す。


 そう…。

 僕は、本当は彼女に…この子に…僕を知って欲しかったんだ…。


 全てを出し切ると、僕らの間に声は途切れ、風の音がやけに耳をついた。


「…ぁ」


 少しして彼女の手を強く握っていることに気づき、慌ててその力を緩める。

 すると、今度は彼女がまるで引き留めるように、その手を握り返してきた。


「わたしの家族はさ…」


 そして今度は、彼女が自らの想いを打ち明ける。さらけ出す。

 死んだ父への想い、母への想い。

 そして両親から取り残された二人に残ったひとかけら、たった一人の肉親である妹への想い。

 それらすべてに、心をのせて、彼女は僕に語り聞かせる。

 やがてそれが終わると…はたからみたら滑稽だったろう、僕らは二人して泣き声を上げた。


 声を重ね、手を重ねて。

 そしてそれは、想いを重ねるように……時が過ぎる。



 えてして、日月かくあるもの。あっという間に日数ひかずは過ぎ、いよいよ退院する日が来た。


 体が訴えていた痛みは既に跡形もなくなっていて、調子も悪くない。

 入院している内に僕は市内の中学校に進学したらしく、退院したら立ち替わりそこへ通うことになっているのだけれど、これなら心配なさそうだと思った。


 母とは退院するに当たり、少し話した。

 特に何事もなかったが、母との会話はなんだか他人事みたいで、その感覚がちょっと不思議だったな。

 今日は来ないらしい。僕は一人で準備することになったけど、正直このほうが楽だと思った。

 そして、どういう風の吹き回しか、今日は代わりに父が迎えに来てくれると聞いた。


 …それに、かさんだ入院費はどうやら父が出してくれたようだった。

 その際、母とどのようなやり取りがあったのかは、考える気も起きない。


 とりあえず、僕は退院の準備として身支度を始める。

 とはいっても、やることはそう多くない。着替えて、私物をまとめるだけ。

 そんな時、ふと一つの腕時計が目に付いた。

 それは入院してからずっと外していて、いままで存在すら忘れていたもの。

 以前、僕の誕生日に母が買ってくれた大事な物だった。


 正直、あの人のことを考えたくもなかった。しかし、気づけば僕はそれを身に着けていた。

 僕は身支度を済ませると時計を見る。予定の時刻までまだ余裕がありそうだ。

 これが見納めになるだろう。僕の足は惜しむように、ゆっくりと屋上へ向かう。

 階段を上りいつものように扉を押せば、負圧からか押す手に重さが伝わる。それはまるで、何者かが扉を開かせまいとしているようでもあった。

 はねのけるように一息力を入れれば、開く隙間からは空気が流動し、風が僕の体を打ち付ける。

 伸びた前髪が靡いて、僕は目を細めた。風を遮るようひたいの前に手をかざし、恐る恐ると目を開く。すると目に入ったのは、地平まで広がる蒼穹に、たなびく薄い雲。

 その空模様は、初めて出会った時のよう。


 だからだろう、僕は懐かしむみたいに屋上のへりに向かう。

 そして、前を遮るフェンスを乗り越えた。


 …広い。

 撫でるような風が僕を迎える。

 7階建ての頂上から見る景色は、まだ子供の僕には果てしない。


 以前はこの空の広がりがどこまでも冷たいものに思えた。

 しかし、すでに春は深まり、寒々しさを感じることはない。


「——仁、来てたんだ」


 …ここは暖かい。


「うん、見納めにと思って」


 声に振り向けば彼女が見える。

 出会った時のように彼女の視線が僕を射抜き、視界から隔てが消えた。


 春光にあてられた屋上の床は陽炎を立ち昇らせる。ゆらめくそれをさらうように風が光れば、僕と彼女の間に満ちるのは柔らかく、暖かい空気だけとなった。



 僕らは二人、屋上のへりに並ぶ。言葉もなく、ただ同じ景色を眺めた。

 視線を落として病院前の公園を見れば、その内周には色鮮やかなミツバツツジが花開いている。

 首を徐々に上げていくと家々が広がり、建物が並び、街が続く。その果てに薄靄がかった山々が連なる影の合間から、一際大きな山の峰が見えた。


「ねえ…」


 ゆくりなくかけられた声に振り向くと、彼女は真っ直ぐに僕の方を向いている。


「…仁は、退院したらどうするの?」


「どうするの、って? 学校には行かなきゃいけないけど…」


 退院したら普通に中学校に通うようになるだけで、他には特にやりたいことも…いや、一つだけあった。

 彼らと会って、話がしたいな。入院している間に出会った、女の子の話を…。


 彼女も退院したら、なにかやりたいことがあるのだろうか。

 だとしても、彼女の入院はまだ長引きそうなので、残念ながらそれが叶うのはだいぶ先のこととなりそうだった。


「そうじゃなくて…仁は、お見舞いに来ないの…?」


「お見舞い、って…」


 彼女は僕から目線を切り、斜め下を向く。


「その、私のお見舞いに、来てよ」


「え…」


 願ってもない言葉に、声が漏れた。

 僕は退院しても、彼女と会いたかった。

 でも僕なんかが会いに行っていいのかと、尋ねたくとも答えを聞くのが恐ろしくてずっと避けていた話柄だった。


「も、もちろんっ、毎日でも行くよ!」


 なのに聞きたかった答えが、尋ねてもいないのに彼女の方から飛び出して、僕は頭が真っ白になる。


「それは多すぎ」


「えっ!? じ、じゃあ週二ぐらいかな…?」


 慌てふためく僕を見て、彼女が笑う。

 それはこの青い空に浮かぶ僕らを照らす太陽よりも、何よりも眩い笑顔で…。

 僕がずっと感じていた眩さが一種の警告だったのだとしたら…なるほど眩しいはずさ。

 こんなものを見てしまっては、目が離せなくなる。一つのことしか考えられなくなる。

 盲目になってしまうだろうから…。



 幸福な時間も終わる。

 そろそろ、行かなくてはならない。それでも、後ろ髪を引かれはしなかった。

 数日経てば、再び彼女と会える。それだけで、心が幸せに満ちていた。


「行くの?」


「うん」


 僕が立ち上がったのを見て、彼女が言う。肯定して手を差し出せば、彼女は僕の手を取った。

 杖はフェンスの内側に立てかけてある。彼女の足の具合を思えば、手を取るのは当然のことだ。

 右手は僕の手を支えに、左手はフェンスの網目を支えに、彼女は立ち上がろうと腰を上げる。

 そして、時間をかけて立ち上がった彼女は、何故か僕の手を放さず、こちらを見つめていた。


「あの、これ、貸してあげる…」


 温もりが離れる。

 僕がその名残惜しさに支配されていると、いつのまにか僕の前には彼女の自由になった手が差し出されている。その手にはあの栞が薫風に吹かれ揺れていた。


「貸すって、この栞を?」


 この栞は彼女にとって大事な物のはずだ。家族との大切の思い出が詰まった物のはずなのに、どうして僕に貸すなんて言い出したのか、全く見当つかなかった。


「だからさ、ちゃんと返しに来てね…」


 気恥ずかしそうに、彼女がはにかむ。

 その表情はまるで彼女が…僕が来ないことを恐れているようにも見えて、そんなはずはないのに僕は胸に締め付けられるような痛みを覚えた。とんでもない思い上がりだと思う。

 …それでも、僕は応えるように笑った。


 たぶん、この時こそが僕の至上だったのだと思う。


 これから僕の身に何が起ころうと、釣り合うものはないくらい満たされていた。

 たとえこの身が朽ち果てようと…この時、この生は揺ぎ無い意味を持った。

 そう、信じることができた…。


 そんな…度しがたいほどの思い上がりを、迷妄を、嘲笑うかの如く…それは起きる。


 こちらに手を差し伸べる彼女。穏やかな風が僕の背を押した。


『————』


 そして…ここで、彼女がなにか、口にしたような———いや、これは思い違いだっただろうか。



「あっ…」


 栞を受取ろうと僕が手を伸ばした時、一際強い風が吹く。

 風に煽られた栞がはためいたと思うと、次の瞬間にはそれは風にさらわれた。

 それに追うがごとく、彼女が空へ手を伸ばす。

 一度上方へ巻き上げられたと思った栞は進路を変えて、地をなくした空へと舵を切る。

 それでも、彼女は縋りつく。フェンスに繋がれた左手だけを命綱に、身まで投げ出さんばかりに。


 あまりのことに僕は惚けたままで、呆然とそれを見ていた。


「え…?」


 かけられた体重に支柱から網が剥がれたのか、白いフェンスがまるで膨らむように弛んだ。

 それをしっかりと掴んでいたはずの彼女の手は、梯子を外されるように、むち打ち染みた衝撃に晒されて、あえなく頼りをなくす。

 空へ向かう力の働きは未だ健在で、彼女の足では踏ん張ることも叶わずに、趨勢に流された。

 血の気が引く。突然のことに、思考は全く持って働かない。意思など、ここには存在しない。

 それでも、僕は頼りをなくした彼女の手を、強く、確かに掴んだ。

 惚けていても、血の気が引いていても、意思がなくとも、その手を取り逃すことなどあるまい。

 迷いなく、渾身の力で引き込む。パラペットを踏みしめて、僕とフェンスとの隙間に引き入れた。

 自分でも驚くほどの勢いで、彼女と僕が交差する。手を取って、まるで踊っているようだと思った。

 フェンスに縁取られた足場は人一人が立つのがやっと。当然、僕がいたところに彼女を引き込めば、それは入れ替わるように、今度は僕の体が宙へ向かう。

 何とか引き込んだ時に生まれた勢いを殺そうと、とっさに屋上の方へ翻りつつ、踏ん張ろうと試みたが、それも上手くいかずに僕は足裏を滑らせた。

 先ほどまで僕が立っていたところに、押し込まれた彼女と目が合う。

 その瞬間、まるでスローモーションのように、時間が希釈されたように、時がゆっくりと動く。

 突然の出来事に、思いがけない感覚。

 だけど、自分で不思議になるほど、驚きはしなかった。

 こちらを振り返ろうとしている彼女の表情は驚愕に満ちていて、初めて見る表情だと、悠長なほど。

 むしろ僕が得た幸福を考えれば、当然のことだろう。こうでもなきゃ、帳尻は合わない。

 そして緩慢な時の中、ついに僕は空へ投げ出された。


「——っ!」


 そんな僕に、彼女がなにかを叫び、懸命に手を差し伸ばす。

 あろうことかそれは、栞を掴もうとしていた時より切々としていて。


 暈が——暈が晴れる。

 白虹の幻想は消え、しかし輝きはなおも増す。

 僕はこの空に、輝く太陽を見た。彼女が世界を照らすのなら、それだけで良かった。

 だとしたら、死への恐怖など抱くはずもない。

 恐怖するとすればそれは、灯りを取り戻した僕の世界が再び闇に包まれることにだけで…。


 繰り返される刹那で、彼女はフェンスを支えに、限界まで手を伸ばす。

 それ以上手を伸ばしてしまえば、彼女も僕と運命を共にする。そんな境界線。

 その手を取りたくてたまらない。その熱を感じたくてたまらない。

 遥か上空に仰ぎ見た太陽が、彼女と重なる。故に、目を閉じた。

 彼女の右足は治っていない。踏ん張りなど利くわけもない。その手は取らない。

 恐れもなく、希望もなく、目に映るものもない。

 でも、ここは明るくて、暖かくて…だから、それだけで充分だった。


 閉ざされた視界で足が何か、おそらく病院の壁面を微かに擦ったと思うと、今度は完全に宙に浮く。

 背面から吹きあがる風が、入院してからずいぶん伸びた髪を巻きあがらせた。


「仁っ!」


 遠く。

 近しい声が、遠く聞こえる。

 もう中腹は下ったか。落ち行くさなか、鉛直に働く引力のただ中で、ふと暗闇に手を伸ばした。

 さながら、太陽に手をかざすよう。陽は手を透かし、僕を投射するだろう。

 その光に浮かび上がったものは、僕の生を意味する。不変を表す。完成される。


 そして——


 …かざした手に温もりが重なった時、僕は絶望した。


「——ッ!!」


 想像を絶する衝撃が、身を走った。それは二度続けて、まぶたの裏に火花が散る。

 その衝撃は当然の帰結。なのに、頭は困惑に支配される。違う、困惑はそれに対してじゃない。

 ままならぬ思考。

 腕がついているのかと、足があるのかと、耳が聞こえているのかと、全てが疑わしい。

 徐々に、時間をかけて、ようやく拡散した自己が収束する。

 体はごわごわとした茨のような感触につつかれていて、その茨へ差し込まれた腕の先は冷たい何かに触れる。

 これは、土…か?

 別れ霜でも降っていたのか、水気を帯びた冷たい土の感触。

 やっとのことで、状況を整理した。

 鉛直に落ちたと思っていた僕の体はなだらかな曲線を描いていたようで、おそらく沿道の街路樹に叩きつけられた。そしてそのまま根にある灌木の垣へと突っ込んだのだろう。

 骨が何本か折れたのか、完治したはずの体は懐かしい感覚を取り戻す。

 しかしそんなことは気にもならず、僕は灌木の中から這い出た。

 肺がおかしくなっていて、呼吸もままならない。でも、そんなことはどうでもいい。


 何やら周りが騒がしい気がした。嫌な予感がして、重い体を引きずり、ざわめきの元へ目を向ける。そして、沿道の向こう側の車道で、僕はそれを見た。


 見て、しまった…。


「ぁ…」


 それは放射状に描かれた、まるで太陽の最期。

 弾けた果実は天から堕ちて、地表を焼こうとするがごとく。

 傍らには桜色の沈丁花が舞い落ちる。そしてほどなく紅に沈んだ。


「…おか、しい」


 そんなわけないんだ。

 この光景はありえないだって落ちたのは僕で彼女は屋上にいるはずでここにいるわけはなくて、あるわけはないはずなのに、仰げばそこには彼女が見えるはずなのに、どうして、なぜ、僕は全く動けないのだろう。


 …これは、夢なのか?

 今際の夢。泡沫のように消えゆく定めの短い夢。


 だってそうじゃないとおかしいじゃないか。あべこべじゃないか。

 なぜ? なんで、こんなことが起こりうる…?


 ありえないはずの光景を目の前に、立ち尽くした。


 ——でも。

 でも、本当は…この時の僕は既に知っていた。

 あの時。あの時触れた温もりは彼女のものだと。

 落ち行くさなか、重ねた手は、彼女のもので…その手はもう離れてしまったのだと…。


「…」


 …だというのに、何故…僕はまだ生きているんだ…?


 わからない。何がどうなっているのか、わからない。

 視覚がゆがむ。音とも言えない何かが耳をつんざく。ただ、冷たい。

 四肢が無くなり、冷たい底を這った。


 太陽が没落した世界はまたしても光を失い、闇が熱を奪ったのだ。

 やがて香りが失せ、風は消える。


 …もう二度と、陽が昇ることはない。


 その事実に喉元に何かがせりあがる。

 みぞおちから胸にかけて鋭い痛みが走り、僕はたまらず逃れる様に嘔吐いた。

 そして粘り気のある液体を少し吐くと、痛みはまだ健在なのに、それっきり吐き出せるものは無くなる。何かを吐き出したいのに、全てを吐き出したいのに。僕はなにも出来ずうずくまった。


 …ああ、そうか。僕は既に空っぽなんだ。

 光が無ければ生きていけない存在だから、光が無ければ存在しないも同然なのだから、これは当然の末路。当然の罰。いや、それすら生ぬるい…。


 だってこれはすべて僕のせいだ。

 疑いようもなく、僕のせいなのに…。


「…な、にが…」


 なにが、愛する者がそのまま死んでくれたら、だ。

 愛せるままいなくなってくれたら、だ…。

 何も知らないくせに、知ったような口を利く愚か者が、何故、今も、のうのうと生き延びている…。


「なぜ…」


 僕は死んでいい。

 大切なものを、失ってもいい。

 これまで生きてきた理由も。幸せも。全てを、無かったことにしていい。

 嘘で…いい。


 それでも…それでも、君が生きてくれていたら。

 君が、僕の知る君じゃなくなってしまったとしても…ただ、生きてさえいてくれたら。

 本当はそれだけでよかった。それだけで、よかったんだ…。



 そして…



 …その後のことはよく覚えていない。


 推測するに、いろんな人に何があったのか聞かれただろうし、僕の入院は少し延びることになったのだろう。

 しかし、それにどう答えたのかも、延びた入院生活についても、記憶がすっぽりと抜けている。



 ただただ、頭に渦巻くものだけが見えていて、後悔とも懺悔ともつかない思考が繰り返された。


 何故僕はまだ、生を偸んでいるのか。不思議でならない。

 約束を果たすために、栞を返すために、自らその生を断とうとも考えたが、彼女が差し伸ばした手を思うと、それすらも許されないことのような気がした。



 …だから、ただ彷徨っている。何を探しているのかもわからずに。


 その果てに私は沈澱党なんてものを立ち上げ、子供たちを巻き込み、無意味かもしれないことを起こそうとしている。


 いや、たぶん無意味なのだろう…と思う。

 私は、決して手に入らないものを求めて…のたうっているに過ぎないのだろうと思う…。


 しかし、今の私にはその善悪も、真偽も、是非すらもわからない…。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る