その13
「——だははっ! 言うじゃねぇか! お前がやる気だとおれも嬉しいぜ…!」
嬉しそうな声が暗い広場に響いた。
「…」
長井さんがやってきて、わたしは彼が過去に出会ったあの無礼な若造…松田ハルトだということに気が付いた。
しかし気付くや否や、松田ハルトはすぐさまトルスケイルの人たちに囲まれて、謎に秋鷹さんと殴り合いを始め出したのだった。
秋鷹さんに松田ハルトが殴られる様には胸がすいた。
なんならもっとやれ、と秋鷹さんを応援したいぐらいだったけど、松田ハルトの顔を見たらそんな気も失せてしまう。
殴られ、口からは血を垂らしているというのに、どことなく彼が嬉しそうだったからだ。
…やっぱり、あいつは頭がどこかおかしいんじゃないかと思う。
そして今は、秋鷹さんと立ち上がった彼…松田ハルトは再度向き合っていた。
だいぶ痛そうなことをやっているのに、二人とも楽しそうだ。
まるで、子供のじゃれ合い。正直、馬鹿馬鹿しくて見てられない。
なのに…何故かわたしは逃げもせずに二人を眺めていた。
しかしその時、
「——こんばんは」
突然というにはあまりに自然に、暗闇から声がささやく。
「…え?」
ゆっくり顔を声の方へ向けると、影から音もなく現れる姿がある。
わたしの左手にある炎の光がちらついて、徐々にその姿を露わにしていく。
「夜分遅くに失礼します。真尋さんですよね」
そんな挨拶と共に、男の人がわたしの隣に並び立った。横顔にもわかる、柔らかく整った顔立ち。
その顔はこちらではなく、未だじゃれ合いを続けている二人の方へ向けられている。
少年…いや、青年。たぶん、同年代だろうか。
その顔つきが、なんとなく誰かに似ていると思ったが、その誰かがどうも思い出せない。
「あの、あなたは…?」
「…ええと。そうですね、私は…」
聞くと彼は言いよどむ。眉根が少し動いた気がする。
「…私は陽人君の友達です。ですから、ご安心ください」
友達って、アレと…?
顔を横に向けて見ると、松田ハルトがまたもや秋鷹さんに殴られている。飽きもせずによくもまあ…。
「ここを離れましょう。乱闘になるかもしれませんし、この場所は危険です」
「離れるって…アレは放っておいていいんですか? 友達なんじゃ…」
怨敵と勘違いされ、トルスケイルの人達に囲まれている松田ハルトを指さす。
…いや、秋鷹さんは彼を知っていたようだし、あながち勘違いではないのかもしれないけど。
「御心配には及びません。彼なら無事にこの場を切り抜けることが出来るでしょう」
そう言い切った彼の横顔は、少しほほ笑んだように見えた。
やっぱり、誰かに似ている。最近会った人な気がする…誰だったっけ…。
「…そろそろ行きましょうか」
「あ…」
記憶からその人を思い出そうと隣に立つ青年の横顔をじっくり見ていたら、やにわに彼が翻る。
そして、その背は離れ、炎が照らす領域の際で止まった。わたしを待っているのだろう。
けれど、何故かわたしは動けなかった。この人が信頼できないとか、そういう話じゃない。
や、それもちょっとあるかもだけど…それとは別に、所以もわからず後ろ髪を引かれた。
ここにはあの二人が戯れているだけで、留まる意味なんてないというのに…どうしてだろう。
「…さあ、こちらです」
迷うわたしを見かねて、誰かに似た青年が言う。
声色は穏やかなのに有無を言わさぬものがある。
数秒迷ってから、わたしは闇に浮かんだおぼろげな背中を追った。
暗闇から現れ出た彼は暗い広場を抜け、街灯が立てられた公園内の道を悠然と進んでいく。
そして、会話もなくその背中を追うことしばらく。ようやく公園の出入り口が見える。
とその時、出入り口に人が一人、待ち構えるように立っているのに気が付いた。
「…もういいのか?」
「ええ、お疲れ様です溝口君」
青年はその人物に臆することなく歩を進め、やがて二人は言葉を交わした。
「…あ」
この人、さっき秋鷹さんたちと一緒にいた人じゃ…。
確か、秋鷹さんたちにも溝口と呼ばれていた…。
「大丈夫です。彼…溝口君も陽人君の友達ですから」
わたしの動揺を如何様にして読み取ったのか。前に立つ彼は振り向きもせずに言った。
「友達だ…?」
そう紹介された溝口という人は顔を顰め、何か言いたげに口をもごつかせるが、少しして吞み込むように一呼吸つく。
「…それで、アイツは? もう終わったのか?」
「いえ、まだ最中でしたが、一応逃げるようには合図をしておきました」
「そうか…。アイツが一人で片を付けちまったら、お前の努力も水の泡になるところだったな」
「その心配はご無用でしょう。ヒロ君ならいざ知らず、陽人君はそんな見境ない人ではありませんから…」
二人は二言三言、言葉を交わし終えると、溝口さんは用は済んだと言わんばかりに振り返る。
しかし、それを青年が引き止めた。
「あ、すみません溝口くん。懸念がありました。やはり、もう一つ仕事を頼まれてはくれませんか」
「…ハァ。今度はなんだ…?」
「陽人君の様子を見てきてくれませんか…。彼に合図はしましたが、もしかしたら逃げ遅れているかもしれません。そうなると、コウ君に一任した子たちとかち合ってしまう可能性があります」
「…放っておけよ。別にそうなったとしても、アイツならしれっと逃げ切るだろ」
「そういう問題ではなく…これ以上、陽人君を巻き込むわけにはいきません。ですから…」
内容はよく掴めないけど長井さん…じゃなくて、あの松田ハルトに関係した話をしているのは分かる。
溝口さんはヤツの名前が上がる度に眉根を寄せ、不機嫌な顔つきになっていった。
…思った通り、友達にもあまり好かれていないらしい。
「…知ったことか。アイツを巻き込むことに何の問題がある? なんなら昔のようにお前の手下に引き込んだらどうだ。そしたら俺もお役御免でwin-winなんだがな…」
「では溝口君。お願いしますね」
「逃げんな。オイ…!」
「真尋さんすみません。お時間を取らせてしまいました。行きましょう」
抗議の声を受け、青年は逃げるように公園を出て道を行く。
その背に文句をぶつける溝口さんをしり目に、わたしはそろりと先導する彼へついていった。
「良いんですか? まだなんか言ってますけど…」
「ええ、大丈夫です。ああ見えて根はやさしい人ですから…」
公園を出て、前を歩く彼についていく。もう夜も遅い。
後方から聞こえていた溝口さんの声がなくなると、途端に辺りが静まり返ったように感じる。
わたしの足音。遠くから聞こえる車の音。そしてたまに、前の青年が喋る。
「そういえば、陽人君とはどの様にして知り合ったのですか?」
「…えっと…」
どう説明したものか…。少し込み入った話なので全て説明するのは難しいだろう。
「その、わたしは用があって数日前この街に来たんです。でもちょっとしたトラブルに見舞われて…、その時にあの人と会いました」
「トラブルに…」
「突然怖い人たちに追いかけられたり…なんか、色々あって」
「追いかけられ……? いや——なるほど。それで事務所へ宿ることに…」
…? 言っていないのに、どうしてあの事務所に泊まっている事を知っているんだろう…。
まあ、長井さん……松田ハルトの友達らしいし、聞いていてもおかしくないのか。
「…どうでしょう。この数日、陽人君は良くしてくれましたか? なにか、困ったこと等ありませんでしたか」
彼は相変わらずこちらを見ないまま、しかしいきなり客人に対するような態度で聞いて来た。
「…さあ。どうなんでしょ…」
客観的に見たらまあ、親切だったと言えるかもしれないが…ヤツの過去の言動を思うと、それを差し引いてもちょっとムカつく…。
「あはは。少し、思うところがあるようですね。確かに彼は少しぶっきらぼうな部分がありますから、初めは悪い印象を抱いてしまうかもしれません。ですけど本当は純粋で、心優しい人なのですよ」
「なんか、そんな人ばっかりですね…」
さっきは溝口という人に似たことを言っていたので、つい諷するように答えた。
この慇懃な物言いのせいでもあるだろう。彼の発する言葉は上辺だけの作り物っぽく、何処か白々しい。本気でそう思って言っている気もすれば、誰に対してもそんな評価をしている気もするし、正直判別がつかない。
「ええ、そうですね…。陽人君と溝口君…昔はいがみ合うことの多かった二人ですが、案外あの二人は似ているように思います。これを溝口君に聞かせたら嫌がるのでしょうけれど…」
当て付けたところで軽く流されるのだろうと思っていたのに、意外と彼は神妙な声色で返事をした。
不意に、掴みどころのなかった言葉が真実味を帯びた気がする。
「しかし、溝口君が私の頼みを聞き入れてくださるのは、彼の持つ負い目がゆえなのでしょうね…」
彼はそう呟くと、途端に口をきかなくなった。
「…負い目、ですか?」
音の少ない夜道。沈黙に堪えかねて、彼の呟きに訊ねる。
正直な所、彼らの人間関係のあれこれにさほど興味は湧かないけど…無視するのは流石に気まずい…。
「あ、いえ…。その昔、溝口君とは対立することが多くてですね…彼のグループと私がいたグループでは日常的に小競り合いをしていました。今思えば子供同士の…可愛い諍いです」
少し照れくさそうに彼は語り始めた。
懐かしむ声色に今度は子供っぽいところが見え隠れする。だけどやっぱり、それすらも演技のような不自然さを持っている。
「されど子供の諍いと言えども…いいえ、子供だから猶更ですかね。その諍いは暴力的な争いに発展することが多々ありました」
そこで少し、話を続けるか迷うような素振りを見せてから、彼は続ける。
「…私はそういった荒事が苦手ですので、当時は主に私の友達がそれを受け持ってくれていたのですが、しかしある時、諸事情により私は一人で溝口君らのグループと争うことになったのです…。多勢に無勢、逃げることも叶わず、私はその一件で大きな怪我を負いました。そして、後になり溝口君もやりすぎたと思ったのか、以来彼はどうも気に病んでいるようで…。
子供の頃の話ですし、私は気にしていないのですけどね…」
つまりリンチにあったということだろうか。
この人の物腰とは似合わず、やんちゃというか治安が悪いというか…そういう過去があったらしい。
…まあ、輩である松田ハルトの友達だしそんなものなのだろう。
「…ですが」
ゆっくりと歩きながら、ぽつりと彼は付け加える。
「ですが、あんなことが無ければ、誰も不幸にはならなかったのかもしれません…」
「気にしてないとか言って、すっごい気にしてる…!」
おもむろにそんなことを言いだすので、思わず突っ込んでしまった。
「あっ、いえ、これは…その、溝口君を非難しているわけではなくてですね…」
「別に…嫌なことをされたのなら恨んでたっていいんじゃないですか。子供の頃の話だからと言ってましたけど、わたしは子供の頃の方が…嫌なことでも、なんでも、心に残る気がします」
「それは…そうかもしれません。しかし、私は本当に遺恨はなく…」
やたらと抵抗を続けてくるな…。
リンチにされて怪我を負わされたのなら、恨んでいても普通のことだと思うのだけど…。
「じゃあ、さっきは溝口さんに何か頼みごとをしていたようですけど、あのやり取りは、恨みもないのに溝口さんの負い目につけ込んで使い走りをさせてた…ってことですか? 結構、悪い人なんですね…」
なんだか焦れてきて、意地の悪い事を言った。
いや、焦れてというより…ただの八つ当たりかも…。
困らせてしまったと思ったけど、前方の青年からはひそやかな笑い声が返って来る。
「はい、そうなんです。先だっての成人年齢引き下げで溝口君は既に成人年齢…おかげで大変重宝しています。そこに恨みを晴らすといった動機は無く、彼の負い目を解消させようという意図もありません。それゆえ、彼もまた…被害者の一人なのでしょう」
「は、はあ…」
彼はよく分からないことをすらすらと淀みなく言い放つ。
彼の言葉の意味を理解できたとは言い難いが、それ切りわたしは黙することにした。
これ以上話したくないという気配をかすかに感じ取ったからだった。
それから、わたしたちはただただ歩き続けた。
気まずいと感じていた沈黙もいつの間にか気にならなくなり、ひたすらその背を追った。
「…」
それにしても…この人は何処に向かっているんだ。もうかなり歩いたよね…。
土地勘さっぱりだからアレだけれど…事務所へ向かっているようには思えない。
「…あれ? ここは…」
彼の後を追って角を曲がると突如、見覚えのある景色が見えた。
以前来たのは日中だった。でも間違いない。ここ——あの霊園の近くだ。
わたしがそのことに気付くと同時に、前を歩く青年が再び口を開いた。
「それにしても…不思議ですね。人が抱く負い目というものは一体、どういった働きなのでしょう」
わたしが声を漏らすのと呼応するように、黙っていた彼が話し始める。
他愛もない雑談といった口調の声が響き、見覚えのある景色はわたしの思った通りに進んでいく。
「何を求め、どうすれば満たされ、解消されるのでしょう…? いえ、そもそも解消されるべきものなのか、抱えていくべきものなのか。それすら覚束ないですが…」
遠くに、霊園の入り口が見えた。
「負い目を抱く対象から許しを得たら、それは満たされるのでしょうか。
ですが不思議なことに、負い目を抱いているということを対象に知らしめたいとは思いません。
それとも解消に向かってなどなく、単なる戒めとして残っているのでしょうか。
しかし、それもなんだか…違う気がしませんか」
…あれ? これ、誰の話をしているんだろ…。
てっきり溝口さんについて話しているのだと思っていたけど、語り口がおかしい。
「自己否定の一種なのでしょうか。過去の自己を否定することで、現在の自己からそれを切り離そうとする動きなのでしょうか。だとしたら…あまりに無責任に思います」
彼は霊園の入り口で足を止める。閉ざされた背の高い門を見上げるように、彼は顔を上げた。
「ただ…肯定されたいだけ。自身を自ら肯定して、その生を認めたいだけなのだとしたら…」
そこで青年が珍しくもこちらを向く。そして朗らかな笑みを浮かべ一言、
「入ってみましょうか」
え、どうやって? というかなんで…?
彼は入り口を回り込み、せりあがるような道を先導する。
少し高くなったところで、彼は仕切りのちょっとしたフェンスを乗り越えて向こう側へ行った。
「こちらです」
ちょっとしたフェンスとはいえ、わたしが乗り越えるには少し高い。
それに勝手に侵入するわけだし気が引けるのもあって、もたついていると、先に立つ青年が手を差し伸ばしてきた。
「あ…いえ」
しかし、それはすぐに引っ込められる。
「…失礼しました」
なんだこの人…。や、別にいいんだけど…。
フェンスを乗り越え、腰ほどの段差を下りるとそこはもう霊園の中だ。
中は消灯していて暗いが、外の歩道に立つ街灯が遠巻きに光を与えている。
光の届かない前方には階段状に続く墓地が見える。
そして暗闇と光の…輪郭を持たない、うすぼんやりとした境界線。そんな狭間にわたしたちはいた。
「…覚えていますか?」
「?」
「以前、ここでお会いしましたね」
頑なにこちらを向かなかった彼は、突然わたしと向き合いそう言った。
その相貌から読み取れる感情はない。
「以前…?」
全く覚えがない。
何を言っているんだと、彼を見つめて——そこで、表情をなくした彼の顔にようやくとある人の面影を思い出した。
なんて言ったっけ…長井さんと、あの姉弟の父親…。
長井、道……なんとか。名前は忘れてしまったけど、そうだ。
面と向かう青年の顔つきはあの人にそっくりだった。
この青年のほうが幾分か幼く、中性的な印象が強い。
それでも目鼻の造詣はかなり似通った所がある。
…親戚かなにかだろうか。他人の空似と言うには、少し似すぎだとも思う。
良く分からない引っ掛かりを感じながら、彼を見ていた。
「…」
目と目が合い、しばらくして彼はその目を伏せるように細める。
「私の時計を拾われたと推考しますが、いかかでしょう」
「…え?」
そこでようやく——彼の言葉の意味が繋がった。
そうだ…。
ここで会った人なんて一人しか存在しない…!
数日前、姉の命日にここですれ違ったあの人物…。
わたしの家族の墓前にあった…腕時計の持ち主…。
わたしはその後を追いかけ、あの松田ハルトと再び会うことになり、怖い人たちに詰め寄られたりすることになった。
つまり…今、わたしがここにいる…その端緒となった人物…。
「———長井、仁…?」
そんなことがあり得るのだろうか…?
一度、手が届くところに現れたと思ったそれは、見せかけの虚像だった。
やがて虚像は消え、そこにあったのは思い出したくもない過去…。
しかしそんな時。踵を返すわたしの前に、実物が自ら姿を現すなんて…。
「おや、私の名までご存じだったのですね」
「…っ」
この霊園ですれ違ったあの時…。
もしかしたらわたしの姉と飛び降りたその人なんじゃないかと、こじつけにも似た考えでその後を追いかけたけれど、どうやらその考えは当たっていたらしい。
彼がその名を自分のものだと認めるというのは、そういうことだ…。
彼の言動が物語っている…。
松田ハルトとかいう偽物とは違う。本物だ…。
どういう訳か分からないが…本物の長井仁が目の前にいる……。
「…どういう、つもりですか…?」
かろうじて絞り出した一言。しかし彼は答えず、真意を問うように見つめてくる。
「どうして…っ」
言葉を付け足そうとしたけれど、なんだか呼吸が上手く出来なくて、言葉が続かない。
だから、思い切って無理矢理に息を吸う。
浅い呼吸でも数度繰り返せば、それなりに落ち着きを取り戻せた。
「…どうして。一度逃げたのに…わざわざわたしの前に姿を現したんですか…?」
半グレに追われるようなことをしていた人だ。
彼が何をしてそうなったのか、詳細ははっきりと分かっていないけれど、もしかしたら口封じ的な意図があってもおかしくはない。
「……」
けど…そんな理由じゃないのは、この人の振る舞いからして分かっていた。
慇懃で不自然な物言いの裏にはなにか後ろ暗いものが潜んでいる気がするが、そこにわたしへの敵意は欠片も感じられない。まるで…戸田さん。数時間前、事務所に訪問してきたあの人を思い出した。
「私が貴女の前に姿を現した理由、ですか」
…それでも。
敵意は全く感じられなくても…長井仁の言葉の続きを待つ時間、わたしの心臓は激しい伸縮を繰り返している。
「それはおそらく、私が貴女に持つ、負い目がゆえ…なのでしょうね」
公園を出た時にした会話と、同じような口調で彼は言った。
自分の事なのに、他人事のような口ぶりで…。
「…負い目というのは、それは…何に対してですか」
形容しがたい、得体の知れない感情が湧き上がってくる。
それを必死に抑え込んで返事をしたら、自分でも驚くほど平坦な声になった。
だが、答える彼の言葉も、それ以上に…。
「一つは、先日働いた御無礼に…」
長井仁の言葉に合わせて、生暖かい夜風が吹いた。
前髪が視界にちらつく。
「そして、ひとえに…」
しかし、彼はただ、わたしを見据えて…
「貴女のお姉さんを——死に至らしめたことに」
淡々と、そう言い放った。
彼の言葉には何もこもっていない。
だからこそ、嘘やごまかしのつもりで言っていないのが、直観的に分かってしまう。
そこにはひたすらの事実だけ。そう、主張しているかのようだった…。
「…ぅ」
自分から、なにか軋むような音がした。
…歯だ。割れそうなほど、歯が軋んでいる。
言語に出来なかった感情は、あっさりとその立ち位置を明らかにしている…。
そんなわたしを見て、長井仁は心配げな顔をした。
自分は当たり前のことを言っただけで、わたしがこんな反応をするのは晴天の霹靂だったと言わんばかりの表情…。
「…大丈夫ですか」
——ああ、何なんだよ。この男は…。
…いけ好かない。
どうしようもなく、虫が好かない。
わたしを差し置いて選ばれたくせして、他人事のように負い目だの、なんだの言い出して…。
挙句、“死に至らしめた”って、さ…。
まるで、お姉ちゃんが身を捧げたみたいじゃないか。
お前なんかのために、お姉ちゃんが死んだのだと…言っているみたいじゃないか…。
「ッ…」
ムカつく…。
どうしようもない、後ろ向きで、みっともない感情なのはわかっている。
それでも退行が止められない。
まるで松田ハルトと初めて出会った時のような、眩暈がするほどの…無限後退。
「…家族を亡くした貴女の悲愴なる心中、察するに余りあります。そして、その惨事は帰するところ、私の所業が事由です。 弁解の余地もございません」
歯噛みするわたしに対し、長井仁は深々と頭を下げた。
わたしはどうして、この人を探していたんだ…?
少なくとも、こんな謝罪を聞きたくて探していたんじゃない。
こんな上辺だけの言葉なんか、何の足しにも…っ。
「…っ」
…しかし、胸中とは裏腹に、わたしはこうべを垂れる彼の前で何も返せずに立ち尽くした。
どれぐらいそうしていたか。
やがて彼はおもむろに顔を上げると、またもやこちらを見据えてくる。
そしてやはり、彼の表情から読み取れるものはなかった。
「…私に、なにか言いたいことはありますか」
「え…」
たったの一言。射すくめられたように、身が硬直した。
腸は煮えくり返っているはずなのに、言葉が喉に突っかかる。
彼に言いたいことは沢山ある。あるはず、なのに…何故だろう。
聞かれた途端、何も出てこなくなってしまった…。
言いたいことを忘れてしまったのか。抑え込んでいるのか。
それとも、それに対する…彼の答えがなんとなく、分かってしまったからなのだろうか…。
「——あなたはッ! わたしにどうして欲しいんですかっ!?
なにか望むことがあって、わたしをここに連れてきたんでしょッ…!?」
それすら分からないから、代わりに彼へと問いかけた。
自分のものとは思えない響きの、調子はずれで聞くに堪えない声が響く。
「…いいえ。貴女をこちらへ連れてきた理由は先に述べた通りです。
私の非と、それに伴う謝罪を述べさせて頂いた以上、私が貴女に望むことはありません。
そして、貴女が私の謝罪を受け入れる必要も…全く以て、ございません」
「…な、んで……っ、」
なんで、あなたはそうなのだ…。
そんなのなら…許しを乞われる方がずっと良かったよ…。
一方的で無慈悲な。そして、予想通りの…彼の返答。
やっぱり…彼はどこまでも自己完結している。そこに入り込む余地なんてない。
それは、過去を…彼の存在を象徴していた。
…四年前のあの日。
わたしの世界を砕いた事実は、円環のように内で循環し、剛体の如く外からの干渉を受け付けない…。
分かっていた…。分かり切っていたことだけど——
あの時からわたしは…何時までも、何処までも…置いてけぼりなんだ…。
「…しかし、反して、貴女が私に望むことがあるのでしたら、私は及ぶ限りそれに応じたいと思います。
ですから、なにか…私に申し付けたいことはございますか」
…単なる同情なのだろう。長井仁はそう付け足した。
正直…どうでもよかった。
別にこの人が何をしてくれようが、どうだっていいんだ。
そんな、どうでもいい奴だというのに…。
…お姉ちゃんの死は、紛れもなく彼に付き纏っている。
さながら…彼がそれを引き受け、所有しているかのように——。
もし、わたしが…それを奪い返せるとしたら…
「…だったら…」
我慢できなくなったのは、そんな考えがよぎったせいだった。
「だったら…じゃあ、わたしが…。わたしが…ッ」
胸に詰まったものをすべて乗せるように、息を吸ってから数秒、息を止め…そして、吐き出した。
「わたしが———死ねって言ったら、あなたは死んでくれますか…?」
わからない。自分でも、何を考えてこんなことを言ったのか。
ただ、なんとなく。
わたしが過去に触れるには、こういった形でしか成り立たない気がした。
耳にする価値すらない妄言。口にした自分でさえそう思う。しかし、彼は——
「…ええ。貴女がそれを望むのなら」
あろうことか顔色一つ変えず。それどころか微笑みまでも浮かべて…そう答えた。
「ですが、少しばかり時宜を計らせてもらうことは可能でしょうか? 今すぐともなれば、方々へご迷惑を掛けることになります。それに、準備も必要ですから…」
「…けんなよ…っ」
こいつ…どこまで他人事の…。
「——ふざけるなッ!! お前とわたしは関係ない! お前だって、そう思っているくせに…ッ」
溢れた…。
「だってわたしは置いて行かれたんだからっ! 見限られたのだから! そんなっ…わたしの言うことを…っ、聞くなよ…!」
だから、溢れるがまま、垂れ流した。
「そんな奴の言うことをッ——死んでくれ、って戯言を聞き入れるだなんて…っ、ふざけているとしか思えないッ!!」
ひたすら怒声をぶつける。声だけで、それを壊せないものかと試すみたいに。
「わたしを差し置いて、お前が選ばれたんだろっ…。なのに…、なのにさ…っ」
そこで、なにかが引っ掛かったように声が上擦った。
「なのに…、どうしてあなたは、まだ…生きているの…?」
あれ…何、言ってんだろ…。
「わたしだったら、わたしだったらさぁ…。ちゃんと、一緒に…」
いや…そうか。わたしは結局、これを…。
それ以上、言葉が出なくなる。言ってはいけないことを言ってしまった気がする…。
でも、これがわたしの本心なのだろう…。そんな確信があった…。
「…くっ、ぅ…」
音が無くなった。
わたしは俯いて視界を閉じる。
無性に、耳を塞ぎたい。
「———この私が選ばれた…とは一体、どういった意味ですか」
しかし、わたしが耳を塞ぐよりも早く、彼の声が返ってきた。
「貴女が、見限られたとは…何を意味していますか」
やたらと真に迫った声。なにかがおかしい。
わたしは恐る恐る、覗き込むように顔を上げた。
「…ぇ…?」
なんだよ…今になって、そんな真剣な顔をして…。
「…お願いします。お答えください」
わたしは何を、言ってしまったのだろう…?
彼は一歩、こちらに近づいてくる。
途端に恐ろしくなって、わたしは駆けだした。
「待っ…!」
彼に背を向け、消えた電灯が等間隔に並ぶ霊園の道を走る。
このまま、ここから何処かへと立ち去ってしまいたかった。
…暗い。
けれど、目は暗闇にすっかり慣れているし、日中の記憶を引き出せば以前のように転ぶこともない。
なのに、わたしの行方には立ちはだかる門があった。
「なんで…!」
門が閉まっている理由なんて分かり切っている。霧がかかったみたいに頭が働いていない。
どこか、他に出られるところを探さないと…!
急いで振り返る。
しかしその先、暗闇の中から追いすがる足音と声が響いた。
「はぁっ…はぁッ…。すっ、すみません…。お話、お聞かせ願えませんか…っ」
わたしを追い詰めるように、暗闇から長井仁が現れ出た。
その顔は苦しそうに歪んでいる…。さっきまでの彼とは別人のように思えた。
「先ほどの——ッ」
彼は言いかけて、むせたのか凄い勢いで咳き込んでいる。
頭や体に葉っぱが付いているのをみるに、ここに来る最中、灌木へと突っ込んだのかもしれない。
というか、今にも死んでしまいそうなのだけれども…。
「…先ほどの貴女の言葉っ…。私の認識と齟齬があるようにっ…、感ぜられました…っ」
さっきまであんなに、他人事のように語っていたくせに。
なぜ…今になって彼は、こんな必死なのだろう。
「貴女はなにか、思い違いをなされていませんか…! 貴女はお姉さんに…大野晴香さんに見限られてなどおりません! 彼女は——」
今更、何を言い出すかと思ったらっ…。
「思い違いなものかよ…っ。だったらどうして、あの人は…!」
わたしとずっと一緒だって…そう約束していたのに…。
それなのに…、お姉ちゃんはあなたと…。
「どうしてお前と…っ! 心中…っ、しようとしたんだよッ…!」
「——いいえ! そのような事実はありません…!」
な、にを…。
「…彼女が亡くなったのはこの私の過失であり、事故です。決して、この私と大野晴香さんが心中を図った、などという事実はありません…」
なにを、言っているんだ…こいつは…。
「貴女のお姉さん…大野晴香さんは、ずっと貴女のことを想っておりました。私が彼女と出会ってから…その最期の日まで、彼女は私に幾度も家族への想いを…そして、貴女のことを話してくれました。
ですから…真尋さん。貴女は見限られてなどおりません」
…嘘。
「嘘だ…」
今更…。
本当に、今更…。そんなこと言われても、信じられない…。
「申し訳ございません。貴女が私の名前を知っていたことから、当時のことを知られているものだと早合点していました…」
信じられるはずもない。そんなこと、あるわけがない…。
そう思っているのに…動悸が凄い。心臓が激しく揺れ動いている。自己規定と共に…。
「…私の口からしかとお話するべきなのでしょうね…」
物憂げに長井仁が言った。
「大野真尋さん、今からお時間頂けないでしょうか…。
確か、あちらの方に座れるところがあったはずです。そこで、私に話をさせてください」
彼はわたしの返事を聞く前にそう残し、来た道を戻っていく。
選択を委ねられた気もするし、どうせ付いてくるのだろう、と言っているようにも受け取れる。
彼の言動を恣意的に、悪意に取りすぎている自覚はあるが、どうも癇に障る。
…しかし、わたしは迷うことなく彼を追っていた。
目先に好物をちらつかされた幼児のように。一心不乱に…。
長井仁の言った座れるところとやらは、墓地群から少し外れた場所にあった。
園内の道脇にぽつんと、二つ並んだベンチ。彼に勧められるがまま、その片方にわたしは腰かける。
暗闇の中で周りに目を配れば、片面には離れて墓地の並びが見え、もう一方にはトイレや休憩所が薄く見えた。
さっきいたところより奥まった場所のせいか、闇が深い。
しかし暗順応が働き、もう暗さは気にならなくなっていた。
「すみません。このような所で…。やはり、場所を変えましょうか…?」
「…」
「あっ、何かお飲み物でも買ってきま…」
「そんなことどうでもいいから…、早く話してください」
彼を信じたわけじゃない…それでも、抑えが効かない。
僅かな時間さえ惜しく感じた。
「…わかりました」
なにか諦念のような、踏ん切りをつけたようなものを声に滲ませて、彼はもう一つのベンチに座った。
「過去における私の浅慮な振る舞いは、人に聞かせるには…とりわけ貴女にお話するには、余りにも憚られるものですが…。しかし、そのような保身の為に過去を…事実を秘匿するなど、それこそ何より忌むべき振る舞いなのでしょうね…」
長い前置きを終え、彼は深く息をつく。
「…さて。どこからお話するべきでしょうか…」
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