その12


「——おいっ! 外に変な奴らがいるぞッ!!」


 呼びかけるようなそれに、思わず振り返る。


 即座に大勢の視線が集中したその出入り口は大きく開け放たれていて、数人の少年が詰め寄せるように壁を作っていた。

 外に向かってなにかを叫ぶ彼らの頭上からは暗い闇に包まれた駐車場がなんとなく見える。

 その闇には人影のようなものがいくつか蠢いている。


 人影の正体は暗くて全然見えないが、外に漏れ出る倉庫の光に照らされかろうじて見える顔もあった。

 一人はひげを生やした男。そしてその近くに居るのは…。


「あれ、兄貴の彼女じゃん」

「真尋…!?」


 隣の成哉と声が重なった。

 どうして真尋がこんなところに…。


「おい単車があるぞっ、こいつらトルスケイルだ!!」


 出入り口からそんな声が上がると、周りが途端に騒がしくなった。

 トルスケイル? 昼に俺を追ってきたあの暴走族と、真尋が一緒にいるのか…?


「カチコミ? トルスケイルが来たってよ」

「おいなんか武器っぽい物あったっけ!? 持って見に行こうぜ!」


 俺が外に向かい足を動かそうとすると、少年たちが口々にそんなことを言いながら、先んじて出入り口の方に押しかける。

 大挙して押しかけた彼らはたちまち芋を洗うような混雑を作り出し、その人だかりは外に向かって、こぞって何かを叫ぶ。


「——おう沈澱党の奴らよッ!! お前たちは何故チンケなイタズラを繰り返す!? おれらに恨みでもあるのかッ!?」


 そんなさなか、複数のバイクのエンジン音のようなものが唸り、少年たちの騒めきを塗りつぶす。

 更に上からかぶせるように、野太い、やたら響く大声が外からここまで通った。

 まるで教師の一喝があった教室のように、倉庫が静まり返る。


 今の声は…トルスケイルだよな? 不思議と聞き覚えがあるような…。


 しかし、その静寂はほんの一瞬のことだった。

 すぐさま元気を取り戻した少年たちがバイクのエンジン音と張り合うみたいに、またもや外に向かってぎゃあぎゃあと騒ぎ立て、外の奴となにか言い合いをしているように感じる。


 よくわからないが…この状況、ひょっとしたら不味いんじゃないか。

 このままトルスケイルと沈澱党が争い始めでもしたら、さっき見えた真尋が巻き込まれてもおかしくない。

 あいつはまだそこにいるのか。そもそも何ゆえ、あそこにいたのかも分からないけど…。


 とにかく急いで、俺も出入り口に向かった。しかし近づけば近づくほど、人の壁が行く手を阻む。


 この人垣はせいぜい三、四十人ほどだろう。体格差もあるし割って入るのはそう大儀じゃない。


 …そのはずなのに、みんながみんな押し合っているのか、全然進まない。


「ちょっと通してー!」


 成哉が後ろからそう声を上げてくれる。

 そのおかげか、ちょっとずつだが前に進んだ。


 覆い隠されていた外の駐車場が、前方に溜まる少年たちの頭の隙間から覗き見える。

 ちらつくように揺れ動く、限られた視界の中で、駐車場を走るヘッドライトのような明かりと、それに照らされる一人のひげ面の男を捉えた。


 それはさっき真尋の隣にいた男だ。

 しかし、駐車場を照らす明かりの中に真尋の姿は見えない。


「——おれは秋鷹と言うッ! 新生トルスケイルのヘッドだ! いるかァ!? 長井仁ッ! 

 おれとお前のタイマンでケリをつけっぞッ! 場所はおれらトルスケイルのアジトで行うッ! 夜明けまでに来いッ!!」


 その男が口を開き、再度蛮声を響かせる。

 な、なんだあいつ…。いきなり果たし合いを申し込むような啖呵を切り出したぞ…。


「…あ。いや、あいつは…!」


 そうだ。思い出した!


 この声。この、やたらと時代錯誤な物言い。ひげのせいで分かりづらいが、その顔つき。

 加えて、秋鷹という名前。


 今になって思い出したが、そういえば昔のトルスケイルもそんなやつがリーダーをやっていた。


 …というか、再結成したトルスケイルもあいつがリーダーなのかよ…。


「……」


 しかし、その秋鷹が長井仁を指名して決着を付けようしているってことは、やはり…この沈澱党とやらの中心人物は——


「んなところ誰が行くかっ! 頭おかしいんじゃねぇのか!?」

「一人でアジトに来いなんて、フクロにする気満々じゃねぇか!」


 秋鷹の啖呵へ反対する少年たちの当然すぎる反応に、思考が断ち切られる。

 そりゃそういう反応になるよな…。


「むしろコイツらをいまここでフクロにしちまおーぜ!」


 いきり立つ少年が数人、外に飛び出して、人の団子が少しだけ前に進む。

 目の前に飛び出てきた少年を前にして、外の秋鷹は薄く笑った。


 奴の手下だろう。暗闇のなか、複数のバイクのヘッドライトが交差するように秋鷹を囲んでいる。

 笑みを浮かべた秋鷹はその明かりの切れ目に腕を突っ込んでから、引いた手を光に晒す。


「長井仁っ! 見えているか!? ここにお前の女がいるぞッ!」


「…っ!?」


 思わず息をのむ。

 その手に引かれて明かりの下へ出てきたのは…真尋だった。


「え、あの子…仁さんの彼女なの…?」

「さあ、知らね…誰か知ってるか?」

「まあ、あの人なら彼女の一人や二人いるとは思うけど…」


 少年たちの間に困惑が漂い出す。

 更に追い打ちをかけるよう、秋鷹は叫んだ。


「この子はおれたちが預かるッ! 長井仁ッ! 一人でおれたちのアジトに来いッ! 男、見せてみろ!!」 


 なに言い出してるんだアイツ!? 頭おかしいのか…!?


「ち、ちょっと通してくれッ!」


 少年たちを押しのけて前に進む。

 かなり力任せに前へ出たので、周りからは困惑だけじゃなく俺への怒りの声も聞こえてくる。

 しかしまだ、外に到達することが出来ない。それでも近づいたことで、まさに今秋鷹に車へ押し込まれそうになっている真尋の姿が見えた。


「真尋! お前ッ、なにして——ぐふッ」


 出入り口の手前に真尋に向かって叫ぼうとしたその時、両脇から肘鉄を思いっきり叩きこまれた。

 肝臓のいいところに当たったのもあって、つい身を引いてしまう。


「さっきから痛ぇんだよ、誰だよお前!」

「どけッ!」

「なんだこの変な奴!?」


「痛だだだだッ…!」


 下がったところでも他の少年から更に追い打ちの肘が来た。

 流れ作業のようなそれは止まることを知らず、たまらず倒れこんだら次は少年たちの足が牙を剥く。


「た、たすけて…っ」


 声を上げようと誰の耳にも届かない。

 蹴られているのか、踏まれているのか、それすら判別がつかないほど…人込みのなかで足蹴にされまくった。


「兄貴、大丈夫…?」


 逃げ帰る敗残兵の如く、少年たちの足元からやっとのこと抜け出したところで成哉が心配そうに寄ってくる。

 みすぼらしい姿を誤魔化す様に、咳ばらいをしながら立ち上がった。


「ああ…。それより、真尋は…!?」


「遠目に見えたけど、あのひげ親父に車へ乗せられてもう行っちゃったみたい…」


 クソっ…どんな状況だよ。もう訳が分からん。


「…あのひげ面。アジトに来いって言っていたよな」


「うん。なんか兄ちゃん一人でアジトに来いって叫んでたけど…でも、なんでそれで真尋さんを人質にしたんだろ?」


 あいつらは昼間に俺を追いかけまわしてきた。

 あの時真尋は俺と共にいる所を奴らに見られていたから、女だのなんだの…変な勘違いをされたのだと思うが…。


「…行くの?」


 土足で踏まれたからだろう。体にまとわりつく土を落としながら、ようやく人の掃けてきた出入り口を眺めてると、隣の成哉がそう訊ねてくる。


「ああ。成哉はあいつらのアジトが何処か聞いたか?」


「いや…聞いてない。てか、あのひげの人言ってないと思う…」


「…言ってないのなら…元々有名とかなのか?」


「有名ではないんじゃないかな…ここの奴らもトルスケイルのアジトに悪戯する作戦練ってたけど、結局みつからなかったらしいし」


 …え、どうしよう。

 あいつらのアジトが分からないとどうしようもないじゃん…。


「成哉、トルスケイルのアジト探してるのか?」


 不意に、後ろの方から声が掛かる。

 倉庫の奥側に振り向くと、壁を背にした少年たちがまばらに目に入った。

 さっきの騒動も静観していたのだろう。出入り口側に集まる少年とは裏腹に、彼らは気だるげで無関心に見える。


 しかし、そちら側から歩いてきたその声の主は対照的な印象を持っていた。


「お、コウ」


 眼鏡をかけたその少年の瞳は理知的ながらも、年相応の好奇心が顔を覗かせている。

 その瞳に俺が映ると、なぜか彼は目を見開いた。


「あなたは、吉谷広と一緒にいた…インと呼ばれていた人ですよね?」


「俺…?」


 …あ、あの時の子か。

 そうだ。先日吉谷と喧嘩してた子を介抱してた、あの眼鏡の少年だ。


「ああ、あの背が高い子の友達か」

「はい、そうです。あの、もしかして三中ですか?」


 さ、山中? なにが…?


「第三中学校のことです。一年の時、あなたを見たことがある気がして…」

「あ、中学校ね…。たしかに俺も三中に行ってたよ。二年…いや、一年ちょっと前までか」

「そっか、コウ三中だから兄貴のこと知ってたんだ…」


 中学時代は今と比べてもだいぶ真面目にしていたし、別に有名人という訳じゃないのだけれど…。

 むしろ顔を見たことがあるだけでよく覚えているなと感心する。


「成哉は…この人のこと兄貴、って呼んでるのか?」


「うん。兄貴分なんだ。昔っから」


 兄貴分というか…子供の頃にやたら懐かれて、以来成哉には兄貴と呼ばれている。

 だが、それがまさか戸籍上とはいえ本当に兄弟になるとは…当時はそんなことになるとは思ってもみなかった。時がなにを移り変わらせるかってのは、分からないもんだ…。


「へぇ、この人も同じ呼び方なんだ…紛らわしいな」


 コウと呼ばれた眼鏡の少年がそんなことを言う。

 紛らわしいというと…もしかして成哉、他に兄貴って呼んでいる奴がいるのか? 俺以外の男を…。

 別に成哉にそう呼ばれるのが嬉しいという訳じゃない…なんなら最近はちょっと恥ずかしくもあったのに、なんだろう…この気持ち。なんか悔しい…。


「で!! コウお前、トルスケイルのアジト知ってんの?」


 俺が疑いの視線を向けると、成哉は話を逸らす。

 いや逸らすどころか、おもっきし本題なんだけども…。


「ああ…うん。あの人なら知ってる…と思うよ」


 コウというその少年は俺をちらりと見て一度言葉を詰まらせたが、すぐさま迷いを振り切るようにそう言い終えた。


「あの人?」


 思わず聞き返したその時、それを邪魔するざわめきが響く。

 そのざわめきは徐々に勢いを増し、倉庫の中を失地回復するが如く息を吹き返す。


「…来た」


 それは出入り口の方から聞こえた。

 少年たちはまたしても出入り口の方に人だかりを作っているが、さっきの騒動とは少し様子が違う。

 彼らは先ほどのようには密集はせず、しかし何かを取り囲むように彼らの体が向く中心点があった。


 言葉が飛び交う。少年たちの顔が見える。

 親しい友達に語りかけるようにも、愛する親になにかを報告するようにも見える声色。

 同時に、集まる彼らの雰囲気は何処かいじられキャラの後輩に絡むようでもあり、人気な教師に集まる生徒たちのようでもあった。そこには言葉に出来ない空気がある。


 ちょっとすると、中心が動いたからか人波も緩やかにまばらになっていった。

 やがて、その人波が割れるように風通しが良くなると、少年たちの隙間から中心が見える。


 そこには一人の男がいる。

 状況を理解できていないのか、その男は困ったように少し首を傾げながらまわりに耳を傾けていた。


 なんなら頼りない立ち振る舞い。

 それなのに、この状況を好転させてくれるのだろうと、そんな予感をもたらす不思議な挙措。

 いや、そう感じるのは俺だけかもしれない。でも、たぶん…その予感は間違っていない。


「——仁…」


 聞こえるはずがないけれど、あたかも反応したかのようにその男がこちらを見た。


「陽人君…? 何故…」


 そして、そいつは呆けた様子で小さく口を動かす。


 距離があって、なにを言ったかなんて聞こえっこない。時折、少年たちの背がその姿を覆い隠す。

 それでも、その姿を見紛うことなんてないだろう。


 ——長井仁。


 俺の幼馴染。

 俺の…友達が、そこにいる。



「…人気者だな」


 周りに頭を下げて、こちらに歩み寄ってきた仁にそう声をかける。


 …遠回しにもほどがある。

 なぜお前がここにいるのか、この集まりは何なのか、どうしてトルスケイルの奴らがお前を付けまわしていたのか…。

 他にも沢山聞くべきことがあるはずなのに、何がそうさせているのか、俺にはそれしか言えなかった。


「あはは」


「…何、笑ってんだよ」


 俺の前に立って、仁が笑う。


「いやぁ…靴跡だらけ、ですね。陽人君」


「…そうだな。しかも土足で踏まれたから、土だらけだ」


 言われて、仁も同じことを思い出しているのかもしれないと考えたら、つい口角が上がった。


「踏まれた…。それは災難でしたね…何があったのですか?」


「そうそう! 大変なんだよ兄ちゃん!」


「…兄ちゃん? 成哉、仁さんのことも兄貴って呼んでいなかったっけ…?」


 コウという子が不可思議そうに首を傾げるが、成哉はまるで聞こえていない風で仁に事情を説明し始めた——。


 ◇


「こっちだよな…」


 記憶を頼りに沿道を走る。夜も深まり、日付が変わろうかという時間帯。

 それでもこの辺りまで来るとちらほら人の姿が見えて来た。


 駆け足だと人とすれ違う時かなり気まずいが、そうも言ってられないだろう。

 はやく真尋のとこに向かわないと不味い。


 …心配し過ぎだろうか。

 秋鷹という男とは過去にちょっと話したことがあるが、その時は吉谷に似たバイブスを感じた。

 群れてイキりながらも、馬鹿なだけでそこまで悪さに手を染めそうな感じではなかった…はず。


「…んなもん、当てになんないよな」


 …昔の話だ。人は変わる。

 そもそも、過去に俺が抱いた印象だって当たっているかすらわからない。


 溝口が上手くやってくれているのなら御の字だが、成哉からそれらしい連絡はないし…やっぱり、急ぐに越したことはない。


 更に歩調を上げつつ、倉庫でのやり取りを思い出す——。


 ◇


「——なるほど。私がいない間にそんな御難があったのですね。まさか陽人君の彼女さんが連れ去られてしまうとは…」


 倉庫であった一騒動の顛末を成哉が語り終えると、そう仁が息をついた。


「…なんか成哉は勘違いしてるみたいだが、彼女じゃなくてただの知り合いだよ」


「えー、本当? まあ…流石の兄貴もこんな時にまで照れ隠ししないかぁ」


 どんな奴だと思われているんだ俺は…。


「それでも、大変な事態ということに変わりはありません…。とりあえず、警察につうほ——」


「ち、ちょ、ちょっと仁さんっ!!」


 なにかを言いかけた仁を引き下げるようにコウって子が後ろから引っ張る。

 そのまま少し離れて、二人は控えめに言い合いを始めた。


「余計なこと言い出さないで…! そんなんで連鎖的に沈澱党が解散することにでもなったら、くそつまんないですよ…」


「で、ですが…」


「…んなことしたら、あなたが送り込んだ溝口って人も捕まっちゃうかもしれないでしょう?」


「あっ——そうです! 溝口君も一緒かもしれません。彼に連絡すれば…!」


 ほとんど聞き取れないやり取りののち、仁は何かに気付いた素振りを見せるとスマホを弄りだす。


「…なんとか話逸らせたか」


 その後ろでは眼鏡の少年が胸を撫でおろすように息をついていた。


 やがてスマホを弄っていた仁は顔を上げると、周りに聞かれたくないのか、声を潜めて語りかけてくる。


「今、溝口君に…トルスケイルに入っている方に連絡を取っています。もし彼が攫われた彼女の近くにいるのならば、上手いこと彼女を逃がしてくれるかもしれません」


「それは助かるけど…。その溝口ってのはもしかして…あの、小学生の時に生徒会長をイジメていた溝口か?」


 眼鏡の少年とのやり取りから断片的に聞こえてきていた溝口という名前。

 その名に、昼間会ったアイツのことを思い出しながら俺は仁へ近づいた。


「ええ、実のところ彼は今、トルスケイルに入っているのです」


「いや、アイツがあの暴走族に入っているってのは知っている…。

 今日の昼、奴らに追われた時…溝口に助けて貰ったから」


 …しかし、まさか仁と溝口に繋がりがあるとはな。

 小学時代の仁とあいつは水と油というか…特にあっちが一方的に嫌っていた感じだったから、仁があいつの連絡先を知っているというのはかなり意外だ。


「トルスケイルに追われた…? 一体何をして、そんなことに…?」


 それはこっちの台詞なんだが…。


「…人違いで追われたんだよ。長井仁って奴と間違われて」


 こうして言葉を交わしていると、この変な言葉遣い以外は昔と変わっていないように感じる。

 だが、暴走族に恨みを買っていることと不良少年たちとの打ち解けた雰囲気からして、この沈澱党とかいう集まりと仁はなにかしらの関わりを持っているのだろう…。

 それは昔の仁を知っている身からすると考え難いことだった。


 俺の言葉に対する仁の反応を待たずして、仁のスマホから通知音がなる。


「…返信が来ました。やはり溝口君は彼らのアジトで件の彼女と一緒にいるみたいです。どうにかその場から逃がすことが出来ないか、お願いしてみますね」


「そっか、頼む。あと、そのアジトの場所を聞いてほしいんだけど」


 仁が不安げにこっちを見る。


「…彼らの居場所なら、聞かなくてもわかります。しかし、まさか…今から向かうつもりですか?」


「ああ、念のため。溝口が上手くやってくれればそれに越した事はないけど、一応近くに行っておく。それで溝口が駄目なようなら…俺が話を付けに行くよ」


「ですが、彼らは私ひとりを呼び出していたのですよね。それで陽人君が行ってしまったら…色々と不味いかもしれません」


「…言ったろ。長井仁に間違われて追いかけられたって。

 理由は分からないけど、ヤツらは俺のことを仁だと勘違いしているみたいなんだ」


 …とはいえ、リーダーらしい秋鷹までもがそう思っているのかは分からない。

 あっちは覚えていないのかもしれないが、一応あの秋鷹という男とは過去に面識がある。


「お前はそのまま溝口とやり取りして、真尋の安全を確保するように動いといてくれ。

 ……仁?」


「…連れ去られたその方は、真尋さんというのですか…?」


「そうだけど…どうかしたか?」


「…いえ、何でもありません」


 一瞬、仁の表情が強張った気がしたが、それはすぐ見えなくなった。


「トルスケイルのアジトでしたよね。彼らはここ数日、方々を転々としていましたが、最近はここから北にある北里公園。あの大きな公園をたまり場にしていています。今も…そこにいるようですね」


 こ、公園? 公園がアジト…?

 それはなんというか…近いうちに解散しそうだな。トルスケイル…。


「え、兄貴一人で行かせるの? 流石に、兄貴でもそれは…」


 俺と仁が話している所に、成哉が窺うような所作で近づいて来た。


「大丈夫、別に喧嘩しに行く訳じゃない。それに…なんかあっても話術でどうにかするよ」


「無理でしょ…兄貴口下手だもん」


 …そうかな。


「あのさ、おれたちも一緒に行った方がいいんじゃない…?」


 成哉が心配そうな顔を見せる。


「いや、それこそ危ないだろ。一人で来いって言われてるんだ。トルスケイルに見つかったら面倒なことになる」


「だったらせめて、兄ちゃんだけでもさ」


「…私ですか?」


 成哉の声に仁が顔を上げた。


「ほら、昔みたいに二人一緒なら安心じゃん。連絡なんて公園に向かいながらでも取れるし、もしトルスケイルと揉めても兄ちゃんなら言いくるめることが出来そうだしさ。ここで更にヒロ兄もいれば文句なしなんだけど…」


 昔のように俺たちが一緒にいれば安心だと成哉が口走り、俺はまったく根拠のないそれに笑いそうになる。

 笑みを抑え、しかし思わず期待するように仁の方を見ると、そこには表情の消えた仁の顔があった。


「それは出来ません。私にはここでやることがあります」


 …そりゃそうだ。昔と今は違う。

 こいつはこいつで、色々とやることがあるのだろう。それはたぶん、俺とは関係がない。


「えー、冷たいなぁ…」


 成哉はそう言うが、皆…そういうものなんだと思う。


 時が経つにつれ環境は移り変わり、やるべきことは増えていく。

 昔を振り返る暇もないほど忙しなく、新たな世界に適応していって…やがては自ら変化を求めるようにまでなるのかもしれない。


 そのうち過去は記憶の奥底に仕舞いこまれる…でも、それは普通のことで…。


「…」


 過去を手放さないよう、後生大事に抱え込んでいる奴なんか皆無だ。

 そういった変化を積み重ねて、人は大人になっていくのだとしたら…俺はせめて、それを邪魔しないように立ち回るべきなのだろう…。


「溝口君が上手くやれそうでしたら、こちらから連絡します。…お気をつけて」


「…ああ、ありがとう。じゃあ、行ってくる」


 仁に答えて、俺は倉庫を出た。

 そして、仁に聞いた北の公園を目指し——今に至る。


 ◇


「本当にこっちでいいんだよな…」


 北にある大きな公園と大雑把な説明だけで来たものだから、今更不安になってくる。

 いや、公園自体は頭に思い描いている公園で間違いないとは思うけど、あそこまでのルートが不安だ。


 この辺りに来たのもだいぶ久しぶりだからなぁ…。

 歓楽街からは外れているが、先ほどいた河川敷辺りと比べるとここらは光が多い。

 交通量も比較的多く、建ってる建物もマンションや住宅が主なこともあり、俺は小さい時から好んでこの辺りに来ることはなかった。


 なんなら、当時は河川敷近くの小さな公園をたまり場にしていたのもあって、今向かっている大きな公園を目の敵…と言ったらおかしいが、ちょっと対抗意識のようなものを抱いていた気がする。


 それでもこの町で一番大きいと言われているあの公園ではしばしば祭りやフリマなどのイベント事が催されていたので何度か物見に行ったことはある。とはいえ、その時々の記憶はかなり頼りない。


 一度足を止めてスマホで地図を見るべきかと考え出した時、ようやくそれらしき影が見えてきた。

 夜の暗い影をひっそりと纏い、歩道の内側に立つ柵の後ろでケヤキの樹木が並んでいる。


 そのまま入り口のある方に回り、公園内に足を踏み入れた。

 ここに、真尋とトルスケイルの連中がいるはずだ…。



「はぁ…っ、ふぅ…」


 そうして公園内を駆けまわること幾ばくか。

 あてどなく彷徨っている内に息は切れてきて、ふと足が止まった。

 途端に辺りが静まり返ったように感じる。はやくなった鼓動だけが、耳底に響く。


「…」


 やばい…なんかこわくなってきたぞ。


 やたらと木々が多いし、無駄に広いし…。

 それに、思いのほか充実している公園の街灯が逆に不気味だ。


 街灯には虫が集まるばかりで、それに照らされる人間は俺を除けば一人たりともいない。

 明かりはあるのに人が全くいないというこの状況が、なんだかそういう舞台に迷い込んでしまったような気にさせてくる。


 くそ、何処にいるんだよアイツら…。


 真尋も真尋だ。半グレの時といい、どうしたらこんな面倒事に巻き込まれる。

 なんなら半グレの時なんて自分から行ったらしいからな…。

 焦燥感につられ、真尋に対するイラつきのようなものも浮かび出す。


 だが…出来の悪い兄妹がいるって、こんな感じなのかもな。


 先日、菜津美に似たようなことを言われたのを思い出す。

 なんとなく、昔の俺自身も菜津美からはそんな風に思われていたのかもしれないなと、少し自省的な事を思った。

 たった数日間の付き合いの真尋相手に、こんなことを考えるなんて我ながらかなり気持ち悪いが…。


「…? なんだ…?」


 酸欠気味なのか震える足を無理矢理動かしたその時、視界の端に見慣れぬ光が見えた気がした。

 手前に灌木がふちを取る、植え込みの奥。木々の隙間に、街灯とは違う暖色の光がちらついている。


 植え込みに入って木の陰から光の方を覗くと、その先にはやけにひらけたスペースがあった。

 打って変わってその空間に街灯はなく、黒々とした闇が広がる。


 …そうだ。広場だ。

 今まで忘れていたが、そういえばこの公園には広漠な広場があった。


 そして広場の闇の中に、歪な円を描き波及する光がある。

 その中央に据えられた炎が揺らめき、さながら鼓動のように闇を照らす波を伸縮させている。

 しかし、その波に浮き上がる影は不自然な形をしていた。


 少しして、人とバイクの影だと気づく。…トルスケイルだ。

 連なるバイクが…十台無いぐらいか。炎を囲んで並び、その近くには数人ばかりの人の影。


 数が合わないのは、バイクの奥に隠れていて見えない奴らがいるからか…?

 角度を変えて、奥を見ようとした。


「真尋…」


 すると炎を囲む壁の隙間から、バイクの奥にあるベンチに座った真尋の姿が見える。

 遠目だからはっきりと見えるわけじゃないが、真尋はベンチに座ったままただ炎を見つめている。

 その隣には、遠目にも判別がつくひげ面がいた。


 真尋は…案外平気そうだな。その居様に萎縮した様子はなさそうに見える。

 あいつは変に肝が太い。それどころか、他人をなめ腐ってる節があるからな…。


 しかしそれにしても…まだ真尋がいるってことは、溝口は失敗したのだろう…。

 一度身を隠して、念のためスマホを確認するがやっぱり連絡は来てないままだ。


「ふう…」


 さて、ここからどうするか…。

 結局のところ、あの集まりに近づいて話をつけに行くしかないのだろうけど…成哉に口下手と言われたばかりだからな。話の進め方は予め考えてから行った方が良いかもしれない。

 そんな考えを巡らせながら一行を見張る。


「…?」


 ふいに、炎を見つめていた真尋が顔を上にあげた。

 つられて空を見上げるが、特別なものは見えない。ただ月のない夜空がそこには広がる。


 うっすらと星だけが光る空。星月夜と呼ぶには、あまりにもか細く光る星々。月のない、暗い空。

 それでも俺は…月の光が砕け散り、それが星々になったようだと、こんな空にも月の残映を見る。


「考えてても仕方がないか…」


 どうせ良い考えなんて浮かばない。

 視線を戻し、歩き出す。植え込みから出て、炎に向かう。

 ただただ、何かに導かれるように歩く。


 近づいていくと、わいわいと賑やかな声が聞こえてくる。

 トルスケイルの奴らは思っていたより穏やかな雰囲気だ。これなら話もしやすいだろう。


「…誰だ?」


 まだ距離はあるが、俺の気配に気づいたのか秋鷹が立ち上がり辺りを見回す。

 しかし、俺の姿はまだ闇に紛れているのだろう。捉えられることはない。


「え…マジで来た?」

「誰? 長井仁? 暗くてわかんねーよ」

「お前らライトで照らせッ!!」


 その秋鷹の様子を受け、周りの奴らも声を上げると車座を崩す。

 そして、バイクにまたがり、そのヘッドライトで闇を切り裂いた。


「…長井仁だ! 間違いねぇ!」


 ライトが俺の体を照らし、バイクにまたがった奴らがエンジンをかけてこちらに殺到した。


「囲め囲め!」

「テメェ長井仁! オレの愛車の修理代弁償しろ!」

「くそ…顔見るとガキどもにペンキ引っかけられたの思い出してムカついてきた…。俺にも塗装代返せッ!」


 …変だな。さっきまで和やかだったのに…。


 俺の姿を見た途端に連中は豹変して、瞬く間にヘッドライトが群がり俺を取り囲む。

 まさかここまで敵意をむき出しにされるとは思ってなかったから内心焦っているが、同時になんだか大捕り物みたいだなと呑気なことも考える。


 そのままざっと周りをまわりを見て、状況を確認した。

 眩しくてあまり見えないけど、光源の数からして今俺を取り囲むバイクは8台ほどか。

 秋鷹は何処だ…? 話をつけるならアレと話すのが一番だろうとその姿を探す。


「——ンァ?」


 投げかけられる罵声のなか、気の抜けた声が聞こえてきた。

 俺を照らすライトの外で、いつの間にかバイクとは違う影が少し離れたところに立っている。

 二つの人影。その背後の炎がかすかにシルエットを教えた。片方はガタイのいい、男に見える。

 もう一人は…。


「…真尋、か…?」


 一瞬、俺の視界を覆うライトの一筋がぶれて、代わりにその影を照らした。

 僅かばかり見えた影の正体。思った通りそこには真尋がいて…隣に秋鷹が立っている。


「まひ…」


「長井仁ッ、土下座して詫びろッ」

「沈澱党解散しねぇとどうなるか分かってんだろうなァ!? 長井仁ッ!!」


 クソ…。周りがうるさすぎて喋れない。

 とりあえず人違いだってことを説明しないと収まりがつきそうにないか。


「ちょっと待ってくれ。俺は…」


「——松田陽人ォ…! 二年ぶりだなあァッ!!」


 また喋りかけたところで、ライトの外から大声が被せられた。

 四方八方から投げかけられていた罵声よりも、その声は無類で良く通る。


「誰だぁ? こいつを長井仁だと言ったやつは…!?」


 その大声の主。秋鷹が周りのバイクを見ながら交差するライトの中、俺の前に立ちふさがる。

 俺は何も言わず、秋鷹の様子を見た。これは…俺たちに都合のいい流れな気がする。


「え…そいつが長井仁で間違いないっすよ! 今日長井成哉を尾行してたらそいつが来て…長井成哉がこの男を兄貴と呼んでいたし…それにあの長井道則とも仲良さげで、息子と呼ばれてましたもん」


 バイクに乗った一人が言う。なるほど…そういう経緯で仁と間違われたんだな。

 ひょっとしたら今日、成哉たちとスーパーで出会った時から見られていたのかも知れない。


「いんや違う! こいつは長井仁じゃねぇ!」


 この秋鷹とは過去に面識があるのに、なぜその手下が俺を長井仁と勘違いして追いかけてきたのか…。

 リーダーが秋鷹と知ったときからおかしいと思っていたが、おそらく昼の追走劇に秋鷹は関与していなかったのだろう。聞いた話によるとメンバーを一新したらしいしな…。

 俺のことを知っているような奴は、もう秋鷹しか残っていないというわけだ。


「…知っての通り、俺は長井仁じゃない。人違いだ」


 秋鷹の言葉に周りの罵声が止んで、ようやく弁明が出来る。

 とりあえずこれに乗じて、真尋と俺が、彼らの争いとは無関係だってことを主張しよう。

 少しだけ、仁に押し付けるみたいで気が引けるが…あいつもそれを勧めると思う。

 事実…俺たちは関係ないからな。


「俺もそっちの子も沈澱党とは関係ないんだ…解放してくれるか?」


 真尋の姿は良く見えないので、適当に秋鷹の後方へ指をさしてそう言い切る。

 だが秋鷹からの返事はなく、ただ漏れるような笑い声が返ってきた。


「くく…かははっ、とんだ人違いだが…褒めて遣わす。長井仁なんかよりずっと大物が引っ掛かった」


 あの…こいつ俺の話聞いてる?


「ハルトォ…お前とおれは再び相まみえる運命だったんだろうな…。まあ、そりゃそうだ。トルスケイルを再結成したところで、まずはお前と決着を付けなきゃ何も始まらねぇよなぁ」


 若干スピリチュアルなことを言いながら更に一歩近づいてくる。

 顔には笑みを浮かべているが、何処となくぴりついた空気を纏っている気がする。

 避けるように後ずさるも、周りを取り囲むバイクが壁となって追い詰められた。


「今でも鮮明に思い出すぜ…二年前のあの日。あの時もよハルト、おめえがいきなりアジトに殴りこんできたんだったな。繰り返しみたいに、今とそっくりな状況だ…」


「ええ…?」


 おかしい…俺の記憶と全然違う。今も昔も殴りこみなんてした覚えはない。

 二年前に秋鷹と会ったのは…倉庫に暴走族が住み着いて困っているから追い出してくれ、とオヤジに頼まれて、それで話をしに行っただけだったんだけど…。


 暴走族を追い出せと頼まれても、もちろん最初は警察に相談した。

 でも権利者の知り合いだと警察に言おうが、その人を連れてきてだの、そんな感じのことを延々と言われ話が進まなくて、面倒臭くなった俺は直接倉庫に出向いて暴走族…つまりトルスケイルと話を付けに行ったのだ。

 その後は…まあ、成哉の言を借りれば…口下手が祟ったとでも言うのか、結果的にちょっと揉めはしたが…。


「お前に解散へと追いやられたんだ。お前を乗り越えてようやくおれたちは再始動出来るってことなんだろうなァ」


「解散は俺のせいじゃないだろ…」


 俺が出向いた時も五人しかいなかったし…。

 普段はどのくらい集まっていたのか知らないが、音に聞く暴走族にしては大分冷えてる印象だった。

 ただでさえ時代に逆行しているんだ。放っておいても自然消滅した気がする。


「なにを言い出す! お前がアジトで暴れたから、あのろくでもねぇ噂が流れ出したんだろうがっ!

 あの噂におれら評判だだ下がり。メンバー減るばかりでやがては解散。そうしておれは地方くんだり。お前へのリベンジ誓ったあの夜に、牙を研いだ毎日…」


 妙な語り口でまくしたててきた。


「噂…?」


 ああ…あの噂か。三中の生徒が暴走族を壊滅させたっていう…。

 あの尾ひれのついた噂が流れだしたのには俺も困った。

 しかも何故か、名乗ったわけでもないのにその生徒が松田って苗字だとも知られていて、それに本気で焦ったのを覚えている。


 どうにか吉谷のせいに出来ないかと考え込んだものだが…あいつは全く学校に来ないし、そもそもなすりつけようにも無理があって、中学三年目にしてビクビクしながら学校生活を送ることになったのだけれど、当時は俺も大分真面目な生徒だったおかげか結局バレずに済んだという事があった。


「しかしそれは、おれがお前に負けたから解散することになっちまったとも言える…。だからこそ、おれはこの二年間鍛えに鍛えて帰ってきたんだ。なぁハルト、受けてくれるだろうよ」


 更に秋鷹がにじり寄って来た。


 どうしよう…。思っていた流れと違う…。

 人違いかぁ、ごめんごめん、バイバイ…って流れになるはずじゃ…。


「う、受けるって…?」


「そりゃあお前、タイマンだろうが! 二年前のお前はリベンジ受け入れてくれただろッ!?」


 んなこと言われても…。


 気炎を吐く秋鷹を前にして、この状況をどうしたものかと周りを見る。

 バイクに乗った奴らに取り囲まれているとはいえ、この輪から抜け出すだけならばそう難しくはないだろう。

 その後はこの大きな広場でバイクと追いかけっこすることにはなりそうだけど…なんとか植え込みや柵を跨いでしまえば逃げ切れるとは思う。


 問題は…真尋を連れていかないといけない事だよな…。


 俺と秋鷹を覆ういくつかのヘッドライト。その光の効力で秋鷹の姿や、そこに転がる石すらも見える。だが、ライトの外は明暗差でかなり見えづらい。

 秋鷹の後方…その視認性の悪い暗闇のなか、かろうじて見える炎の近くには一つ佇む人影があった。


 …真尋だ。

 なにを呆けているのか。

 近くに人がいるという訳でもなさそうなのに、その影は動かない。


 こうなると逃げ出そうにも大分困った状況だ。

 この輪から抜け出したうえ、真尋を連れて逃げるというのは中々難しそうに思う。

 かといって、真尋を置いていく訳にもいかないし…。


「…悪いけど、それには付き合えない。お前の考えを否定するわけじゃないが、俺はもう…そういうことはやりたくないんだ」


「なに腑抜けたことを言ってやがる…」


「いい加減、そういった行いが周りに迷惑を掛けると学んだ。俺ももう十七だし…」


「おれは二十九だ!!」


 どういう反論だよ…。

 逃げる選択肢が無くなり、説得を試みるが反応は良くない。


「歳なんて関係ねぇ。世間がどう言おうと知らねぇさ。おれは筋を通すべきだと思ったらそうする。

 おれが大事だと思ったことを、守り通すことの何が悪い!」


 こいつは本当に…バカだな。話の通じなさにため息が出る。


「……」


 …でも、こういうバカなやつはそこまで嫌いではなかった。

 それはたぶん…根っこは俺だって同じだからなんじゃないかと思う。


 二年前の事や、当時のトルスケイルがこいつにとってどう映っているかは知らないけど…それでも、過去に執着するその気持ちはよくわかる気がした。

 それは、まともな人間なら「そんなこともあったな」と一言で済ませてしまうようなことなのかもしれない。


 だが、俺たちは…。

 いや、少なくとも俺は…過ぎ去っていったその時を、そう簡単に自分から切り離すことができない。

 …それを俺という存在から、切り離したくないんだ。


「…俺がお前の邪魔をすることはもうない。だから、俺たちの事は放っておいてくれ」


 しかし、それでも喧嘩を受ける理由にはならないだろう。

 そう言い残して、真尋のいる方へ向かうため秋鷹の横を抜けようとした。


「——ッっ」


 まさにすれ違おうという時、視界が一瞬ぶれる。

 すぐさま訪れるのは、ちょっとした痛みと鼻に走る独特の不快感。


 …すれ違いざま、小鼻の辺りを軽く小突かれたのか。

 間を置かず、温かいのか冷たいのかよくわからない感触の鼻血が垂れてくる。


「なんだよ…いきなり」


 首を横に反らせたまま、秋鷹を横目で見る。


「…頼む。こればっかりはどうしてもけじめをつけてぇんだ」


 行動とは裏腹に、懇願するように秋鷹は言った。

 そこで何も答えなかったのが良くなかったのかもしれない。


「うわ…っと!」


 秋鷹の太い腕に掴まれ、流れるようにバイクに囲まれた土俵の中央へと押しやられた。

 距離を離して、秋鷹と相対する。それを合図と了解したのか、奴は構えをとった。


「お前らぁ!! こいつが逃げようとしたらぜってぇ捕まえろよ!」


 秋鷹が周りのメンバーにそう一喝した。


 説得失敗か…。しかも、逃げ道が更に険しくなった気がする。

 なにかしら秋鷹の相手をしてやらないといけないみたいだ…。


「え、どうする秋鷹さんが瞬殺されたら」

「それ結構堅いよな…。ま、そうなったら適当に囲んでタコにするか」


「でもこいつ長井仁じゃないんだろ? あんまモチベねーよ。前のトルスケイルとかどうでもいいし」

「たしかに。てかねみ~…」


 俺たちを取り囲む、他のトルスケイルメンバーのそんな話し声が聞こえた。

 俺が仁じゃないとわかってから、テンションの下がりようが凄いな…。

 こちらとしては好都合だが、仁の嫌われっぷりには目を見張る。


「松田陽人ォ!! やろうぜッ!!」 


 一人やる気満々な秋鷹を前に、唇まで垂れてきていた鼻血を拭った。

 久しぶりの痛みがむず痒い。靄のかかっていた頭が、徐々に冴えてくる感覚がある。


 過去の過ちに足を引っ張られるようなこの状況。

 なのに、どうしてだろう。そこまで悪い気がしていない。


 …あの時とも、そして二年前とも状況は違う。

 今の俺は松田じゃない。迷惑がかかる相手はもういない。

 だから、ちょっとぐらいなら付き合ってやっても良いのかもな…。


「はぁ…」


 構えたままじりじりとこちらに向かってくる秋鷹を観察した。

 奴の身長は180センチくらい。まあ、問題になるほどの差はない。

 リーチ差は考慮しなくていいか。

 でもおそらく…体重差は最低でも10キロはある。秋鷹はだいぶガタイがいい。85キロ…いや、90キロ以上あるのかもしれない。


 二年前の秋鷹は、なにかを殴ったことが無いんじゃないかというほど、ずぶの素人だったけど…口ぶりからなにかしらの格闘技を齧ったのだろう。

 開いたスタンスとあの構えを見るに…まあ、ボクシング系だろうか。とりあえず少し相手をしながら落としどころを探そう。願わくば、俺がこうして視線を集めている内に真尋が逃げてくれますように…。


 そうこう考えているうちに、そろそろ近づいてくる秋鷹の射程に入りそうだ。

 こちらから手を出す気はない。ヘッドライトを一身に浴びた秋鷹の一挙手一投足を見張り、受けに集中する。


 …来る。


 秋鷹が踏み込み、射程に入ると構えた手がぶれた。

 いくらジャブとはいえ、この距離なら少し身を引けばすかせる…。

 想定通りの攻撃。俺はそれを、想定していたように受けようと体を動かした。


「——ッ!?」


 なのに、予想と反して衝撃が顔面で弾ける。


 躱せなかった…!? なんで…!?


 まさかの事態に戸惑う俺を追い立てるよう、すぐに秋鷹のワンツーのツー。ストレートが襲い掛かって来た。


 出鼻をくじかれた今の俺に、その右ストレートにどう対応すべきなのか、正常な判断はつきっこない。

 それでも、条件反射だけで身をよじり、体勢を崩しつつもかろうじて回避に成功する。


「…!」


 しかし、それで体勢が崩れたところで、今度は秋鷹の三の矢。大ぶりの左フックが続く。


 …だが、それは見えている。体勢を崩していても十分躱せる…!


 想定外の被弾への戸惑いを抑え込みながら、この猛攻を止めるため、左フックを躱しての反撃を狙う。

 即座に組み立てたプランに則り、反撃に向かって足を動かしたその時——頭の中で違和感が首をもたげた。

 それはすぐに頭の中から振り払われる。

 しかし、それをもたらしたのは俺の意思ではなく、外から訪れたものだった。


「——が…ッ」


 視界がぐりんと回る。地が傾く。

 頬を打つ衝撃はさながら雷のように、思考と肉体に一瞬の硬直を与える。


 なんでだよ——!?


 硬直から戻れば、深い困惑と痛み。

 そして、想定が焼き直しのように崩れ去ったという事実だけが残った。


「おー」

「良いの入ったなぁ~」


 打撃と困惑の二重の衝撃にたまらず地に片手と膝をつき、秋鷹の目の前で無防備な姿をさらす。

 しかし、グラウンドに引き込まれるのを警戒してか、戦果に満足したからなのか知らないが、秋鷹は生意気にも後ろに下がって俺と距離を取った。


「あれ、弱くねぇ…?」

「前のトルスケイルこんなのにやられたんかぁー…」


 膝をつく俺の背後からそんな声が聞こえる。

 …大丈夫。聞こえる声などの感覚からして、頭にダメージはなさそうだ。


 運良く頬の先に当たってくれたからだろう。

 殴られた時の衝撃は首の回転で結構吸収できた。

 だが、それでも口の中には血なまぐさいものが溢れてくる。


 くそ…歯が折れなくて良かったとはいえ、右頬の内側がズタズタだ。

 飯食う時、しばらく右側で噛めないじゃねぇかよ…。


 頭の中で恨み言を並べながら、秋鷹に視線を向けて二本の足で立ち上がった。


「…っ」


 しかしなぜ、秋鷹の攻撃をあんなモロに食らったのか…。

 秋鷹のパンチが速すぎるってことでは無さそうだが…。


 目か…?

 この暗闇とライトのコントラストのせいで、俺の目がおかしくなっている…。


 …いや、起こりも軌道もなんとなくだが見えた。それでも反応、そして体の動きが間に合っていない。

 まるで、脳の回路に遅延が生じているような感覚…ブランクだけでは片づけられない、違和感が残る。


「…どうしたハルト。調子悪ぃのか?」


 先ほどの俺がよほど無様だったのだろう。

 距離を取ったまま動かない俺を見て、秋鷹が声をかけてきた。


 どうしたのかなんて俺が聞きたいぐらい…と言いたいが、思い当たる節がないわけじゃなかった。


 そういえば、ここ数日まともに寝た日を覚えていない。

 そもそも、今年に入ってからは忙しくて睡眠を軽視していた所がある。

 普通に生活する分には慢性的な眠気ぐらいしかその影響は感じていなかったけど、この場面にしてそのツケが表に出てきたのかもしれないな…。


「…いいからこいよ。想定より二回りぐらい遅くて驚いただけだ」


 気勢を殺がれている様子の秋鷹を見るに、俺の返答次第ではこの場を収められる可能性もあった。

 だのに俺は、つい挑発するようなことを口から滑らせる。

 マズい、こんなことに付き合っても良いことなんて無いだろうに…不思議と、楽しくなってきていた。


「だははっ! 言うじゃねぇか! お前がやる気だとおれも嬉しいぜ…!」


 距離をとった俺に、秋鷹が嬉しそうに近づいてきた。

 そして、過去に取り残された男が二人、現実から目を逸らす様に向かい合う。


「…」


 俺の反応速度が落ちていて、見てから対応ができないのなら…どうするか。


 …受け続けることはできない。さっきの二の舞になる。

 本当はこちらから手を出すつもりはなかったんだけどな…こうなってしまっては撤回せざるを得ないだろう。


 しかし、反応速度がこれだと攻めるにも支障が出る。

 相手の体勢や重心を見て、瞬時に攻め手を決めたりと、そういうことも難しそうだ。


 だったら…決め打ちだな。


 まずは秋鷹の動きを想定する。

 それはさっきもしていたことだが、あんなことになってしまったのは俺がある程度秋鷹の動きを見てから対応を決めようとしていたせいだ。


 秋鷹の動きを想定し…今度はそれに対する俺の動きも全て予め決めておく。

 想定が外れたら目も当てられないことになるけど…たぶん、こうするしかない。


 一応、判断材料は得られた。殴られたことで分かったこともある。

 殴られた感じ、秋鷹は素手で殴ることに慣れていないようだった。つまり、喧嘩の経験は多くない。

 たぶん、格闘技を齧って身に付けた教科書的な動きがメインで、動きの引き出し自体はそう多くないはず…。


 となると…狙うべき秋鷹の動きは、ワンツーのツー。ジャブを嚆矢としたコンビネーションの二の矢、その右ストレート…かな。

 さっきの俺でも避けれたんだ。おそらく、その練度は高くないだろう。

 まあ、その前に打ったジャブが変にクリーンヒットしたものだから驚いて繋ぎが遅くなっただけかもだが…。


「…よし」


 とりあえず、また射程に入ったらさっき見たワンツーを仕掛けてくるとヤマを張り、今度はこちらからも距離を詰めていく。そして、俺より少しばかり広いだろう秋鷹の射程距離。

 俺はガードを上げて、図々しくそこに踏み込んだ。


 空を切り裂く拳の音。

 誘われているのを知ってか知らずか、迎え撃って来た秋鷹のパンチを俺は身を引きながら前腕で受ける。

 そして続けざまに打たれる右ストレート。待ち望んでいた先ほどと同じワンツー。

 想定通りのそれを、予め決めていた通りに動いてすかせば、その右拳は眼前で空を切った。


 力が入りすぎで、戻りも遅い。伸びきった秋鷹の腕。

 その右手首を取り、そのまま手の甲まで自分の手を滑らせる。

 そして、掴んだそれを片手だけで捻りながら秋鷹の右側に回った。


 狙いは肝臓。このままがら空きになったわき腹に左でレバーブローを叩きこもうと左足を踏み込ませた。

 秋鷹の右手は取っているので、ガードは出来ない。しかし、身をよじってミートポイントをずらしたり、右足を使った反撃はありうる。だからこそ下手なりに一工夫入れた。


 秋鷹の右拳を俺の右手で掴んでいるのはガードをさせない為だけじゃない。

 痛みを与えることに注力し、手首の可動域を超えるように捻っている。俺にリストロックの技術は無いのでその効力は疑わしい所もあるが、実戦経験が少なそうな秋鷹だ。これだけでも痛んだ部位を庇うように重心を移動させるだろう。


 捻られた右拳を庇って重心が前に出れば右足での反撃は間に合わない。反撃するには前に出た重心を一度戻す必要があるからだ。つまり、俺のレバーブローを躱すすべはもう…秋鷹にはない。


 当たる…!

 そう確信し、秋鷹のわき腹に向かって左の拳を振るった。


 …確信の裏でよぎった微かな違和感。

 俺の拳が当たるよりも早く、その正体は顔を出す。


「ぐ…っ!」


 腹部への衝撃に声が漏れた。

 俺の腹に秋鷹の右足が突き刺さり、踏み込む体を押しとどめるばかりか突き放そうとしてくる。


 ——読まれていた!? 追撃が来る…!


 瞬時に掴んだ手を離し、衝撃に逆らわず、却って利用するように後ろに飛び退いた。


「…?」


 しかし、警戒していた秋鷹の追撃が来る様子はない。


 …今食らったのは足裏全体で押すような、距離を離すことが目的の蹴りだった。

 みぞおちは外れてるし、俺にダメージはないけど…


 そもそも秋鷹はどうやって、蹴りを出した…?


 俺の小細工を見抜いて、重心を前に出さなかったのだろうか。

 いや、追撃が無いこととあの蹴りの性質からして、今のは読まれていたって感じじゃない…。

 どちらかと言えば、苦し紛れの反撃という感じの…。


「惜しかったなァ、ハルト! 二年前のおれとは違ぇだろ…!」


 距離を取った俺に向かって、秋鷹はそう言い放ちながらファイティングポーズをとりなおす。

 俺は何も答えずに、拳を握りなおすその所作を注視していた。


 …あれだけ強く捻ったというのに、手首に痛みや違和感を持っているようには見えない、極めて自然な所作だ。

 俺の小細工を見抜いていたのではなく、単純に、手を捻られたこと自体に気付いていなかったのだとしたら…。


「…くそ…っ」


 こいつ…この見た目と反して二重関節。もしくは関節弛緩症か。

 関節の可動域が常人より広いんだ…。


 少し不味いな…。

 そこまで珍しい身体的特徴というわけじゃないし、普段ならそんなに困るような要素でもない。

 …でも、この状況だとちょっと厄介かもしれない。


 可動域が広いということは、可動域を利用し痛みで動きを制しつつ抑え込むような技は効果的じゃない…。つまり、俺でも使えるような簡単な関節技が有効じゃないってことだ。


 絞め技や、腕十字のように腱を引き伸ばすタイプは極まるだろうけど…俺が持ち合わせている技量と、反応速度が落ちている今の状態を考えたら仕掛けるのは難しい。


「ちっ…」


 困った…。新しい手を考えなければ…。

 お決まりのワンツーを咎められたんだ。流石の秋鷹と言えども工夫を凝らすだろう。

 そうなると、さっきのような決め打ちはもうできない…情報が足りなさすぎる。


 …打たれる覚悟の捨て身で捕まえに行くって手もある。

 だが、さっき言ったように、俺でも使えるような関節技じゃ効果が薄い…。


 だからといって関節技ではなく、捨て身の打撃で攻めるとしてもこの反応速度じゃ有効打は望めない。

 有効打を狙わず無暗に打ち込んでゴリ押しするってのも可能だけど…体重差があるので秋鷹のガードを崩すのには相当骨が折れるだろうな…。


「うお…っ!」


 思案に余っていると、いつの間にかすぐ目の先に秋鷹の姿があった。

 息を吐く暇もなくパンチが撃たれ、それは反射的に屈んだ俺の頭——その額で弾ける。


 たかがジャブ。それに当たったのも額だったが、今の俺では全くといって捉えることが出来なかったそれは死角からの攻撃のような威力を持っていて、俺の頭は後ろに跳ねた。


 まずい——重心が浮く!


 崩れかけた体勢で咄嗟に身を守ろうとガードを上げる。

 しかし、そんな抵抗も空しく、畳みかける秋鷹の拳はガードをすり抜け、正面から頬骨を打たれた。


「…っ」


 たたらを踏みつつ、下がりながら体勢を立て直す。


 駄目だ…! モーションの少ないパンチにほとんど反応できない…。


 秋鷹はそれ以上攻めて来ないで、下がる俺を静観している。

 そのまま距離は離れて、再びにらみ合いに戻った。


 しかし…ジャブのダブルだけか。

 やはり、さっきの決め打ちで癖を読まれたと強く意識させてしまったのだろう。

 攻め手をコンパクトにしてきただけじゃなく、消極的と感じる程、大分慎重になっている。


 今のはそのおかげで命拾いしたようなもんだな…。

 奴にとってはかなりのチャンスだったのに、かなり容易く逃がしてくれた。

 …とはいってもまあ、このジャブのちくちく攻撃を続けられても普通に負けそうなのですけど…。


「…っ」


 何か他の手を考えないと…。

 それも勝負を有利に進めるための方針みたいなものではなく、それだけで勝負の趨勢が決まるような…大きな一手を用意しないといけない。


 一手…一撃…。

 ガードを崩す…いや、武器を壊すべきか…?


 関節弛緩症は可動域が広い代わりに関節を固定させる力が弱いと聞いたことがある。

 奴のパンチが当たるインパクトの瞬間、敢えて自ら前に出て手首の捻挫とかを狙う手もあるが…このガタイだ。筋肉があるから、それを引き起こそうとするのは賭けにしても分が悪そうだ。


 それとも、どうにか投げたり、寝技に引き込んだりして立体的な攻防を…。

 …いや、駄目だ。グラウンドだと周りの奴らが横やりを入れてきたときに対応できない。

 てか、言わずもがな寝技苦手だし…。


 まいったな…。全く、良い手が思い浮かばない。


「…逃げるか…?」


 誰にも聞こえない声量で、そう呟く。


 囲まれているこの状況。

 秋鷹一人だったらまだしも、こんなに取り巻きがいるとなると流石に負けるわけにはいかないよな…。

 周りの奴らはやる気がなさそうに見えるが、ひょっとしたら集団リンチされる可能性だってある。

 これだけの人数がいれば、一人二人は加減のわからない奴がいるものだ。

 そんなリスクを背負うのだけは避けたい…。


 …よし。やはり安全策をとってどうにか逃げよう。問題の真尋は…。


「…」


 そろそろ真尋も逃げてくれたんじゃないかと、その姿を探した。

 秋鷹とのやり取りで土俵の中を縦横動き回っていたが、巡り巡って元の位置辺りに戻っていたらしい。

 秋鷹から視線は外さないようにしながらそれとなく姿を探せば、秋鷹の後方には変わらず野焼きの炎が揺らめいている。こんなに離れていても赤外線がここまで届いているのだろう、心なしか肌に熱を感じた。


 そして、炎の傍らには依然影がある。

 しかもそれは居なくなるどころか数を増やし、二つになった人の影がそこにはあった。


「あ…」


 熱を持つ光に照らされて、ふと二つの姿が露わになる。

 そこに立つ真尋はこちらから目を背けるように、その顔を横に向けている。

 横には一人の男。トルスケイルの誰にも気取られず、ひっそりと男が立っている。

 その男は俺と目が合うと、うっすらほほ笑んだ気がした。


「——仁…」


 なんだよ。来てたのか…。


 俺に視線を合わせたまま、仁は小さく手を振った。

 もちろん挨拶じゃない。あれは合図だ。


 子供の頃、俺たちの間にそういった符丁があったのを思い出す。


 何かを俺に伝えようとしている…。

 時間を稼げってことか。それとも、もう逃げて良いってことなのか…。


 …さっぱりわからん。

 昔、ああやってやり取りをした事があるのは覚えているんだが…。


「…ははっ」


 なんだか——突然、愉快に感じた。

 昔と変わったのは周りだけじゃない。俺だって…同じか。

 当たり前すぎることだ…。


 その手振りを終えた仁は真尋を促して背を向ける。

 そして、奥の暗闇へと消えていく二人の背を見送った俺は、今度はしっかりと秋鷹を見据えた。


 以心伝心とは程遠い。それでも、分かったことが一つある。


 …真尋の心配はもういらない。

 仁に任せておけば、すぐさま安全な所まで案内してくれるだろう。


 これで、俺も心置きなく逃げることが出来る。一人だったらこいつらを撒くのもそう苦労しない。


「…秋鷹」


「んぁ? なんだ…?」


 だけど——逃げるのはやっぱりヤメだ。


 十分殴られてやった。

 ただの遺恨晴らしなら、これ以上付き合う理由なんてない。

 でも、秋鷹…お前は、そんなんじゃ満足しないだろ。


 ここで退くのは不義理だ。

 義理なんてない。それどころか何も知らないに等しい。そんな間柄なのに強くそう思った。


 自分でも不思議なほどの心変わり。

 これが、仁が来てくれたことに起因するのだとしたら…たぶん俺は、俺が思っている以上に単純で子供っぽいのだろう…。


「…怪我しても、文句言うなよな」


 俺の言葉に笑みで答えた秋鷹を睨む。


 逃げないとなると、残されるのは打つ手のないこの窮状。

 だが、打つ手がないからといって黙ってやられるつもりはなかった。


 手段を択ばなければ…一応打開策はある。

 後先考えない。そのうえ運任せの、策とは呼べないようなものだけど…。


 外したらリンチで、上手くいっても禍根が残る可能性は高い…。

 どっちに転んでも良いことなんてないし、どう考えたって逃げた方が良い。


 …けど、何故だろうか。

 たとえ望まぬ結果に終わろうと、今ならそれを受け入れられる気がするんだ。


 構えて一歩踏み出す。

 秋鷹も応えるように、距離を置きながらもじりじりと足を進めだした。

 その様子は消極的だが、受け身ってわけじゃない…このまま突っ込んでも迎え撃たれるだけか。


 不意打ちでもなんでもいい。

 優位に攻め入ることが出来る状況を作ることが第一関門だ。

 しかし、先ほどの俺の一言にやる気を出したのか、秋鷹は真面目な顔して目を光らせている。


 余計なこと言うんじゃなかったな。奴の注意を逸らすのに何か利用できるものは…。


 今日何度目になるだろう。この状況を打破するために策を講じていたその時——異変が起きた。


「——なんだこいつらっ!?」


 突如として、狼狽えた声が俺の思考を止める。


「うわッ」

「ちょおっ、ヤベェ!!」


 土俵をつくる秋鷹の仲間の一人が上げたその声に、今度は別の声が続く。

 子供の時に川辺でやった水切りを思わせる、並んで重なる声の波紋。

 まるで数珠つなぎのように連なり、途切れることを知らずその大きさは増していく。


 一体、何が起きている…!?


「囲まれてるぞッ!!」

「何人いるんだ…!?」


 それはただの騒ぎに収まらない。やがて揉めるような声が四方八方上がり、更には出所のわからない声と音。総じてそれらは地が震えるようなどよめきと化していった。


 見えなくても異常事態だとわかる。

 それなのに、俺も秋鷹もお互いから目を離さない。離すべきじゃない。


 周りの状況は確実に変化している。現在が移ろう。

 その渦中で俺たち二人だけが口を噤み、互いを見据えたまま、土俵の中に取り残されていた。


 …しかし、そんな聖域にもいつかは異変が及ぶ。


「こいつら沈澱党だっ!!」

「逃げっ、逃げろ! 数が多すぎるッて!!」

「鷹さん! 喧嘩なんかしてる場合じゃ——」


 それを天助と呼ぶべきなのかも分からない。ただ、願ってもないタイミングにそれは訪れる。

 悲鳴にも似た声と共に、四囲から土俵と俺たちを照らす光。そのいくつかが失われた。


「ッ!」


 ——その瞬間、俺は秋鷹に向かって飛び出す。

 周りのことは後でいい。今はただ、一点を見つめて…足に力を込めた。


 失われたヘッドライトは俺からみて土俵の左側に偏っている。

 つまり、俺の左半身が闇に包まれ、秋鷹の右半身が陰った。

 だからだろう。俺の左ジャブは簡単に秋鷹の鼻尖を撃ち抜く。


 当たりは浅い。だが、怯んだ秋鷹が後ろに退く。待ち望んでいた状況が実現される。

 このチャンスを逃すわけにはいかない…!


 前足を右足にスイッチし、そのまま流れるように踏み込むその刹那、為そうとしていることに図らずも吉谷のことを思い出した。


 子供時代、あいつとは何度も喧嘩の真似事をやった。

 あいつは当時から成育が良くて身長差も体重差もあったが、子供のそれは大人同士の体格差ほど筋力に差が出ないおかげというのもあっただろう。子供の俺はそれを覆す術をいくつか持っていた。


 そのうちの一つは痛みだった。


 昔の俺は局部鍛錬に似たことをしていたから痛みには耐性があった。でも、子供というのは大抵痛みに弱いものだ。

 それは子供時代の吉谷も例外ではなく、当たりがよければ一時的に殴った部位を痛みで使えなくさせたりできた。


 しかし、今回は俺も相手も子供ではない。

 むしろ成長した今、吉谷や秋鷹みたいなナチュラルハイなタイプは痛みに強いイメージがある。

 一手で趨勢を決するのなら痛みだけでは不十分。


 骨だ。骨を折る。


 関節技は使えない。警戒されている今、懐には潜り込めない。

 ゆえに、狙いは俺でも辿り着ける部位に絞られる。

 それは秋鷹の一番前に出ている部位。武器であり、盾である——構えた秋鷹の腕。


 あの左前腕を…折る。


「くっ…」


 息を漏らしながら後退した秋鷹に、畳みかけるため踏み込む。

 それに対し、奴は重心を落とし追撃に備えた。


 …そうだよな。

 お前は咄嗟に受けるときに回避ではなくガードで対処する。そういった癖がついていると予想していた。


 おそらく秋鷹の対人経験はジムとかで行うスパーリングに終始していて、そこでの相手に自分と同程度体重がある相手は中々いないのだろう。だからこそガードに頼る癖がついている。

 たしかに、ボクシングルールで体重差があるのならそれに頼るのは正しいとも言える。


 でも、これは喧嘩だ。

 グローブなんてない。使えるのも、拳だけじゃないんだ。


 踏み込んだ右足を深く沈ませる。

 そして意識は自身の右肘に——腕を折りたたみ脇を締めるよう引き絞った。

 打撃で前腕を折るなんて運に任せるところが多い。だからそれは、その確率を上げる工夫だった。


 折るなら、ここで殴るのが一番だろ——!


 合わせて秋鷹のガードが上がった。

 残るヘッドライトに照らされた奴の左半身を隠す様に、前腕が立ちふさがる。


 照準はその左前腕、尺骨。

 前腕手首から、肘にかけての長さを線分して6:4の肘側。

 なおかつ尺側手根伸筋と尺側手根屈筋の合間にある、筋肉の薄い溝から叩くのが理想…!


 そこに狙いをすましながら、深く沈めた足を伸ばそうとするが…


「!?」


 世界が完全に暗転する。

 残っていた光すらも失せたのか、秋鷹の姿はおろか目に映る全てが闇に紛れた。


 何も見えない。何も聞こえない。

 炎の光すら届かない目前の闇には、網膜に焼き付いた幻像だけが浮かぶ。


 …どのみち、この目じゃ大した見当もつけられない。

 だから、見えなくとも俺のすべきことは変わらなかった。


 この光明はまやかしなのかもしれない。

 それでも俺は祈るように…幻像に向かって右肘を振り抜く——


 「————」


 肉を介して骨と骨がぶつかる感触。

 硬質かつ、弾力のある音。

 裂かれた空気が流れる。


 有利に働いていた秋鷹の体重が却って固定の役割を果たしたのだろう。

 重さを感じない…しかし、髄まで走る確かな手応えが残響を置いて過ぎ去った。


「ぐ、…っう」


 少し遅れて、呻き声のようなものが聞こえる。

 それを余所に少し下がって距離を取る。

 さなか、かすかながら暗闇に目が慣れてくると、周りの騒がしい音も聞こえだした。


「っ、はぁっ…ふう」


 気付かず息を止めていたのか途端に苦しくなって息を吐き、深く吸った。

 だが、視線は秋鷹がいるだろう位置に固定する。

 そのうち暗闇のなか、やや及び腰に左腕を下げている秋鷹の姿が見えてくる。


 ぱっと見、その前腕に変形や大きな腫れは見えない…。

 しかし——手応えからしてヒビは入った。


 オヤジに何度も指と拳の骨を折られたことがあるからわかるが、いくら興奮状態でも、なんなら気付いていなくても、折れたら多少は動きが鈍る。

 それだけで勝負が決まる程ではないとしても体の末端である指や拳とは違い、前腕だったら動きへの影響も一入だろう。

 綺麗に折れなくてもいい。ある程度のヒビでも入れることが出来れば、ほぼ決着は付く…そう信じて賭けてみたけど、予想以上に上手くいった。やばい折れ方もしていないようだし、最良の結果だ。


「ん…」


 秋鷹の方も目が慣れてきたのだろう。

 下げていた腕を戻してこちらに向かってくる。


 まだやる気なのか…。

 強がりっぽいし左から入ってきそうだなと思っていると、やっぱり左の拳が動く。


「お…」


 しかしそれは途中で止まる。

 フェイントか。入れ替わるように右が襲い掛かってくるが、その切り替えはやや精彩を欠く。

 今の俺でも十分反応が間に合う。秋鷹の右を捌き、加減したカウンターを痛めた左腕に叩きこんだ。


「ぬ、う…っ!」


「もう…終わりでいいだろ」


「いんやあ、まだだ…!」


「ちょ…」


 再びこちらに歩いてくる秋鷹を前に、どうしたもんかと後退りする。


「——いてっ」


 その時、後頭部に衝撃があった。


「…?」


 訝しんで後ろを見ると、俺たちを取り囲んでいたバイクはいつの間にかなくなっていた。

 ほんの数台バイクが残っているが、それらはみな地に伏せて、無様な姿で横たわっている。

 しかし、その近くには…


「え…」


 黒い影、影、影。その影はただの影じゃない…人影だ。

 俺たちがバカなことをやっている間に何があったのか。

 三十人はいるだろう。広場中に分布する人影。その一部がバイクに代わって俺たちを取り囲んでいた。

 そして、俺たちを取り囲む人影の手元には馴染みある太さの棒がある。


 鉄パイプ…だよね? これ…。

 つまり、鉄パイプを持った謎の集団に囲まれているって、コト…?


「わァ…」


 突然すぎる危機的状況に声を漏らすことしか出来ない。


「おーいっ、こっちにも二人残ってんぞー!」


 人影の一つが声高な声を響かせる。するとそれを合図とするように人影が数人、逃げ場なく立ち尽くす俺に向かって、無慈悲にも鉄パイプを振り上げ詰め寄って来た。


 こ、殺される…!


「あっ、いてッ!」


 振り降ろされた鉄パイプを避けようとするが、予想以上の振りの速さに直撃を食らう。

 そしてそのまま、たちまち囲まれて袋叩きにあった。


「うわあああっ!」


 痛い! 痛ッ……いや思ったより痛くねぇな…。

 よく見たら鉄パイプじゃなくて塩ビパイプだこれ。どおりでやたら軽々と扱っているわけだ。


 危険度は下がったとはいえ、危ない状況なのは変わりない。

 このまま殴られ続けたら体中痣だらけになること請け合いだ。


「あれ? もしかしてコイツ、仁さんが手ぇ出すなって言ってたやつじゃね?」

「え、そうなん? でも暗くて判別つかねーし、やっちまっていいだろ」

「たしかに」


 ふと攻撃の手が緩んだ気がした。

 その隙に人影の隙間を縫っての脱出を狙う。


「っ…!」


「あ、逃げたぞ!」

「待てーい!」


 きゃいきゃいと追手が押し寄せてくる。

 その様子は楽しそうでなによりだが、追われる方は堪ったものではない…!


「おいッ! 逃げんな陽人ォ! まだ決着は…!」


 やけに楽し気な声の中に、不自然に野太い声があった。

 秋鷹の奴、まだあんなところに…。


「何言ってんだ! お前もはやく——」


 声の方へ顔を向ければ、同じく人影に囲まれた秋鷹の姿がある。

 左腕を抑えた奴は周りの人影に抵抗する様子もなく俺を睨みつけている。


 ああくそ…っ。俺が怪我させちゃったんだった…。

 あいつに何かあったら完全に俺のせいだ…!


 踵を返し、追手を振り切りながら秋鷹の方へ向かった。


 この謎集団…たぶん、沈澱党だよな。

 聞こえる声、影からわかる体格、それにこのタイミングで現れた事と言い、そうとしか考えられない。


「うわっ」

「ってぇな…!」


 吉谷とかとは違って俺には分別があるので、中坊を殴ったりはしない。

 ただ少し乱暴に、秋鷹と沈澱党との間に割って入った。


「おい、逃げるぞ!」


「ああ…!? こんな奴らほっとけ! それより続きを——」


「んなバカなことやってる場合じゃないだろっ。現実見ろ!」


 埒が明かない。適当に秋鷹を掴み、無理矢理引っ立てる。

 そして人影の合間を突き抜け、近くの植え込みに逃げ込もうとした。


「ぬお、お、お…!」


「…あ、すまん。よく見てなかったわ」


 途中、後ろから拷問に耐え忍ぶような声が聞こえてきたので振り向いてみたら、どうやらずっと怪我させた左腕を引っ張っていたらしい。

 口の割に反発してこないなと思ったら、腕を庇って付いて来てただけか。


「走れるだろ? 行くぞ」


「…仲間を置いて逃げられっかよ。それに相棒も残したまんまだ」


「すでにお前の仲間は全員逃げてるっぽいけど…」


 残されたバイクはまあ…ろくな目にあわないだろうな。


「なにより、お前との決着もついてねぇ! あんな連中さっさと蹴散らして続きをやるぞ!」


 もう、めんどくさいな…。

 こうして話している間にも、後方からは雨あられのごとくパイプやらなにやら投げつけられ、パタパタと追手の足音が近づいてきている。


「…わかったわかった。あとで続きをやってやるから、今はとりあえずここを出よう」


 もたもたしてる暇はない。返事を聞かず、植え込みの奥を抜けた。

 正直もう相手してやる気はないけど、逃げてるうちにうやむやになるだろ…。


 ◇


「ほらよ、これ」


 コンビニを出て、駐輪場の脇に腰かけた秋鷹に買ったばかりのタオルと袋入りの氷を渡す。

 あの後、公園から逃げ出した俺たちは少し離れたところにあるコンビニまで来ていた。


「む、う…」


「そこまで腫れてないから大丈夫だと思うけど、ぽっきり折れてる可能性もあるし添木しといた方がいいかもなぁ」


「うう、む」


「…なんだよ。さっきから」


 即席の氷嚢を患部に当てながらも、不満げな唸り声を上げる秋鷹。

 遠回しに批難されている気がしてきた。


 まあ、俺もここに来る道中頭が冷えて、我ながら熱くなり過ぎたというか…やっぱり秋鷹の相手をせずに逃げれば良かったな、と今更になって後悔し始めているのだけれども…。


「しょうがねぇ! 認めてやる…今回はおれの負けだ!」


「うおっ…」


 びっくりした…。

 どうしたんだいきなり…。さっきまであんなに息まいたり、駄々をこねたりしていたのに…。


「…だがなァ、おれはまたリベンジしに来るぞッ」


「え」


「続きをやるって言ったのはお前だからなァ、陽人。約束は守れよな」


「えぇ…」


 言ったのは事実だけどさ…。

 口先だけだったし、いざ面と向かってリベンジの約束と言われても到底色よい返事は出来ない。


「う、うーん…。まあ…次はちゃんと一対一なら…まあ…?」


「あ!? 次は、ってなんだ!? 今回も一対一だったろ!」


「…取り巻き多すぎんだもん。ソワソワするわ」


 潜在リスク凄すぎだし…。また変な噂流されるかもだし…。

 今日のようなシチュエーションは二度とごめんだ。


「うるせぇ奴だなぁ。ギャラリーいた方がぜってぇ盛り上がるだろ。それになにより、おれがお前に勝ったのを見届ける証人が必要だ。二年前につけられた汚名をなぁ、アレしなきゃならん」


「あんな噂、気にしてるのお前だけだろ…」


 や、気になるのは俺だってそうなんだけど…。

 冷静に考えたら、当事者だからこそ必要以上に気に持ってしまうだけで、あんな噂を覚えている奴はほとんどいないような気もする。


「…ち、しょうがねぇな。次はギャラリーなしでやってやるよ……見せる相手も減るだろうしな。いや、最悪もっかい解散しちまうかもな…」


「か、解散? どしたいきなり…」


 不意に哀愁漂わせ、先ほどまでの様子からしたら絶対に言わなさそうなことを言い出す。


「…ほら、さっき得体の知れねぇ連中に闇討ち食らっただろ? 昔と違って今のうちのメンバーは総マンも経験したことねぇやつらだ。ビビって抜ける奴が出てくると思ってな。ただでも最近の若い奴らは腑抜けてるからよ。チームが成り立たないぐらい減っちまってもおかしくねぇなと考えた訳だ」


 本当にどうしたこいつ…。

 やにわに悲観的というか、現実的な推量を口にしだすので耳を疑った。躁鬱なのだろうか…?


 そして、秋鷹は一区切りつけ、改まるように息を吐く。


「ガキの癖に気合入ってる奴なんて…それこそ陽人、お前ぐらいなもんだな」


「やめて…」


 珍走団の首魁にそんなこと言われても空しいだけだ…。


 別に何かしでかしたわけじゃないのに、ただでさえ学校では疎まれ、クスリやってるだのなんだの根も葉もないこと言われているんだ。

 その挙句、こういった手合いにのみ好意的に見られたりすると、あなたは社会の爪弾きものですよと言われているような気になってくる。


 俺は常日頃から真っ当な人間でありたいと心がけているのに、どうも周りの評価が追いついてくれない…どころか、この頃は評価が逆方向に進んでいる…。どうしてこうなったのだろう…。


「気を取り直して、なんか酒でも買ってくるか。陽人ォ! お前も飲むよなぁ」


「飲まない…。んな不摂生してるから骨折しやすくなってるんだろ…」


「うるせー!」


 そのまま、人気のない夜のコンビニの駐輪場で俺たちは取り留めのない話を続けた。

 

 なぜ、さっきまで喧嘩していた相手と話し込んでいるのか、自分でもわからない。

 いろいろなことがありすぎたせいかもしれない。疲れた体を休めるように俺たちは駐輪場で話をした。話している内に頭は働かなくなってきて、時間の感覚が希薄になってくる。


 そして、何を話しているのかも分からなくなってきた頃、秋鷹は腰を上げた。


「っし、そろそろ行くか…」


「…帰るのか…?」


 気付けば、東の空が白み始めている。


「さっきの連中は流石にもうどっか行っただろーし、相棒を取りに行かなきゃならん。バンには鍵をかけておいたから盗まれてねぇと思うが…」


「…お前、その腕で運転すんなよ。あと、念のため病院行けよ」


「はいはい、わーったよ。…んじゃあな」


 駐輪場を出て人通りのない歩道に出る秋鷹を見送りながら、俺も腰を上げ帰路に就こうとした。

 その時、閑静な薄明の世界で声が響く。


「陽人! おれは一から鍛えなおす! そんでもって、お前に勝てると思ったらリベンジを挑む! 今日みたいに突発じゃねぇ、準備万端にしてから行くからなァ! だから、首洗って待ってろよ!」


 言いたいことだけ言って消えて行く、小さくなった背を見つめた。

 苦笑に口角が上がる。


「——ああ、待っている」


 咄嗟に、口を覆い隠す様に手を置いた。


「…?」


 何言ってんだ、俺…? 


 秋鷹の相手なんかもうしたくない…珍走団を肯定する気なんてないのに…。


 …だけど、

 いくら現実に否定されようが、あいつは変わらずに抗い続けるんだなと思ったら、俺だけでもそれを認めてやりたくなった…。


「…いや」


 疲れているのだろう。自分でも何を考えているのかさっぱりだ。

 だから、口から出た言葉に意味なんてないのだろう。

 そういうことにしておこう…。


 帰り道を歩く。夜が明けようとしている。


 そういえば——、仁は真尋をちゃんと送り届けてくれただろうか。

 あの二人に行き違いが無ければ、真尋を事務所に置いてくれるとは思うけど…。

 真尋はかなりの問題児だからな。もしかしたら仁でも手を焼くかもしれない…まあ、それでもアイツならなんとかするか…。


 ぼんやりと。少しうだった足取りで、目を細めながらそんなことを考える。

 眠いからなのか眩しいからなのか、自分でもよくわからない。


 ただ、遅ればせた春は盛り、日長と町が白んでいく。

 河川敷に差し掛かると川風にそよぐ青草が陽に照らされて、水面には光が舞っていた。

 そのまま陽は昇る。薄くすじ雲のかかった空へ。

 日盛りには長き花冷えもどこ吹く風と、急いて暑気を纏い、体を汗ばませるのだろう…。


「…」


 仰ぐように愁眉を開けば、照りつける晴天白日。


 …長い夜が明けた。五月はまだ序幕。けれど、前より空をずっと近くに感じる…。


 穀雨こくうを過ぎて夏が立つ。

 空を行く太陽を阻むものはなく、かかるすじ雲は夏めく風にさらわれ消えた。


「暑くなってきた…」


 小満待たずして夏草青し。映える川辺は一層まばゆい。

 土手道、かすかに立ち上る陽炎が後先を眩まして、横合いからそっと川風が吹く。


 晴天はしばらく続くのだろう。


 梅雨の走りはまだまだ見えず、これから気温はいや増すばかり…。



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