その11


 それはわたしが小学六年生の事。冬休みの、ある日のことだった。


 姉とわたしはもちろんとして、両親も共に休みが取れたらしく、話の流れでその日は家族揃って車で遠出しようという話になったのだ。

 父を運転手に家族四人で車に乗り、母は助手席に、そしてわたしは姉と後部席で肩を並べ往路を進む。

 そんなさなか、それは起こった。確か、その時わたしは姉と談笑していたと思う。


 ちょうど大型の対向車…それがまさに目先に来て、ほどなくすれ違うだろうというところ、突然体が引っ張られ、わたしは危うく左手の窓に頭をぶつけそうになった。


 体を傾かせながら何事かと前方を見れば幸か不幸か。わたしは後部座席の左側を陣取っていたので、座席の合間から右ハンドルの運転席が目に入った。

 そして、父が掴んだハンドルがまるで対向車に向かうがごとく切られているのを尻目に、わたしの記憶は途切れる…。



 …そして、目を覚ますとそこは病室のベッドの上だった。夢でも見ていたのかと思った。

 部屋に来た看護師に話を聞いても、わたしが経過観察中であること以外、状況がわからない。

 あれは現実だったのか、だとしたら皆はどうなったのか、呆然と考えていたところで見知らぬ大人が病室に入ってきたんだ。


 その人はベッドの脇にあった椅子に座り、淡々とした口調でわたしに言った。

 わたし達が事故にあったこと。

 わたしは大した怪我もなかったので、経過観察し、問題が無ければすぐに退院できること。

 そして、その事故で父が死に、母は未だ意識不明。姉は命に別条こそないが、長期の入院は余儀ないことを。



 数日後、その人に連れられてわたしは退院することになった。

 その人はわたしの叔母について何かを言っていた気がするが、内容は聞き取れなかった。

 それからの記憶ははっきりしない。ただ、気づいたらわたしは所謂、児童養護施設にいた。

 施設に来てから見なくなったあの人は、恐らく児童相談所などの児童福祉に携わる人だったのだろう。


 夢でも見てるみたいな感覚のまま、施設で時を過ごす。

 職員に話しかけられても、同年代の子に話しかけられても、小さな子に話しかけられても、わたしは曖昧に聞き、曖昧に返す。いや、返事をしないことのが多かっただろう。

 そんな中でわたしは、どうしてこんなことになってしまったのか、呆然とただそれだけを考えていた。

 事故が起きる直前、わたしが見た最後の視界では、父はまるで自ら対向車に向かいハンドルを切ったように見えた。

 あれは見間違いだったのか、そうじゃないとしたら、何故お父さんはそんなことをしたのか。

 答えが出るはずもなく、ただただ無為に、日々が過ぎる。


 そんなある時、わたしは施設の人に声をかけられた。

 始めはいつも通りに聞き流していたが、わたしの母と姉について話しているのだと気づくと、飛び起きるみたいに意識が鮮明になる。

 彼女はどうやら、母と姉の見舞いに行かないかとわたしに尋ねているようで、わたしはまるで天啓を受けたように、はっと息を洩らした。

 どうしていままで二人に会いに行こうと思わなかったのだろう、と不思議にも思った。


 …それはたぶん、これが現実の出来事であるという確信が無かったからなのかもしれない。

 あるいは、入院している二人の姿を見ることで、これが紛れもない現実であると突きつけられてしまう。それを無意識的におそれていたのか。


 しかし、それに全く無自覚なわたしは二人に会えると考えただけで、胸が熱くなり飛びつくように同意した。


 職員と病院に行ったわたしは、最近歩けるようになったらしい姉と共に、母の病室に出向いた。

 母とは言葉を交わせなかったけれど、それでもわたしは大丈夫だと思った。

 姉がわたしの手を握っていてくれたから…。

 父は死んでしまったのに、また家族が元通りになる気がしていた。


 …そうして間もなく、母が亡くなった。


 わたしは、それから毎週欠かさず姉の見舞いに行った。

 壊れていく何かを繋ぎ止めるように、縋るように。

 わたしたちは取り残されてしまったけれど、彼女が一緒なら大丈夫だと思い込んだ。

 どんな時も一緒だったから、それだけは手放してはならないと、残ったひとかけらに縋っていたのだ。


 姉は毎回笑顔で迎えてくれて、そして、涙を流してもわたしを笑顔で見送った。

 あの太陽みたいな笑顔でわたしを迎えてくれるのなら、施設でも、一人でも大丈夫だと思えた。


 時が経つにつれ、施設でも少しだけだが喋ったりもするようになった。

 よく話しかけてくれる職員の人がいて、その人にだいぶ救われたと思う。


 しかし、ある日。それを聞かされた時、世界は一変した。


 姉が、病院から飛び降り…亡くなったことを。


 …はじめは勿論信じなかった。

 でも、その後姉の遺体と対面して…。そして、彼女が見ず知らずの男と、身を投じたと知って…。


 あろうことか、わたしは突き付けられた姉の死よりも、その事実に茫然とした…。


 何故、わたしと死ななかったのか。

 約束したのに、なんでわたしを置いていったのか…。


 そして…家族みんなに、わたしだけが取り残されたのだと気づいた時、

 未だ微かな光で照らされていた世界は、完全な暗闇に落ちた。


 ◇


 …お姉ちゃんが死んで、どれくらい経ったのだろう。

 わたしはいつものように、園庭のすみで本を開く。目を通すつもりなんてない。

 それはただ、暗い世界から目を逸らし、過去の残映に思いを馳せる為の手段でしかなかった。


 開いたページに挟まれた、一枚の栞が目に付く。

 栞には淡い桜色の花開く花弁が四枚…いや、花弁にみえるけど、正確には違う部位だと教えてもらった。

 沈丁花のその栞は去年、お母さんに教わってお姉ちゃんと一緒に作ったものだった。


 今はずいぶん遠い過去のように思える。お母さんは園芸が趣味で、庭には沢山の花があった。

 お姉ちゃんは良く本を読む人だったから、その花で栞を作ることになったんだ。


 お姉ちゃんとわたしで一つずつ。お姉ちゃんは沈丁花を選んだ。

 芝桜なんかもあって目移りしたが、わたしは散々迷った挙句、同じものを選んだ。

 沈丁花は結構立体的で難しく、わたしのは不格好に潰れてしまった部分がある。


 それを眺めながら、わたしは過去に馳せる。

 現実を見ないように、毎日そうして、思い出の中を過ごしていた。


 ——のに、その日それは断ち切られた。


「あ…」


 園庭から居室に戻り、再び本を開いた時に気づいた。

 開いたページに挟まれているはずの、栞がない。

 本をはためかせ、いたるところを探すが見つからない。


 …屋内に戻るときに、落としたのかもしれない。


 部屋を出て、来た道を辿る。

 小さい子や同年代、指導員らしき人とすれ違うが、わたしは目もあわせず、床に目を落としたまま栞を探す。


 そして、わたしは園庭に戻ってきた。


 すでに日は傾き、下校してきた子供たちが見える。

 その中には、わたしと同じ中学生もいる。よくわからないが、わたしは登校しなくていいらしい。

 そのうち叔母がわたしを引き取りに来るらしいから、行くとしてもその後なのだろう。


 わたしは彼らを避けるように、園庭のすみへ向かう。

 栞を見過ごさないよう、視線を配りながら、ゆっくりと進んだ。


 …あった。


 遠目に見える、わたしがさっき本を読んでいた場所。その近くの地面に栞を見つけた。

 途端、体の芯を蝕むように湧き上がっていた焦燥が引き始める。


 しかし、その栞に歩み寄る人影を認めると、今度は背筋が凍るような予感が走った。


「——あ」


 そして、その子は何気なくわたしの栞を拾う。

 これはなんだろう、と僅かに首を傾げて、やがてその手はズボンのポケットに収まった。



 …声をかけなきゃ。

 それはわたしのものだから、返して…って言わなくちゃ。


 その子がこちらに向かってくる。中に戻るつもりなのだろう。


 その子は小学生高学年ぐらいか。以前のわたしなら、声をかけるなんて訳ない。

 しかし、不思議と緊張で足が震えた。


 その子がわたしの眼前に差し掛かる。声をかける絶好のタイミング。


「…ぁ、…」


 …なんで?

 なんで、声が出ない…。


 声をかけるだけだ。そんなもの、意識なんてせずとも行えるはず。

 …はず、なのに、なぜか訳なく恐ろしい。


 わたしはすれ違うその子に、絶句しながらゆっくりと振り返った。

 今からでも間に合う。声をかけるんだ…。


「ぅ…」


 声を発そうとすればするほど、お姉ちゃんが飛び降りたと聞いた…あの感情が呼び起こされる。


 どうして——


 どうして、今、あの時のことを思い出すんだ…?


 お姉ちゃんは関係ない。

 この子は他人だ。何をされようと、わたしが傷つくことなんてない。

 頭ではそう認識しているのに、得体のしれない恐怖が溢れてやまない。


 どうしてか、繋がってしまう…。

 わたしから人に関わってしまったら、また。

 これ以上ないくらい壊れている世界が、また…。


 そんな、あるわけのない帰結を、脳が導く。



 返して、貰わなきゃ…。

 だってあれは、命よりも大切な物なんだ。

 そうでなくてはならないんだ…。


 声を出そうと、足を踏み出そうと、専心するが、わたしの体は意思に反して応答しない。


 そんなわたしをあざ笑うかのように、その子は建物の中に消えていった。


 その子が消えた途端、四肢が力を取り戻す。安堵すらも携えて…。

 何処までもみっともない自分に、居てもたっても居られなくて…わたしは施設の裏手に逃げ込んだ。


 建物の外壁に背を付けて、膝を抱えて地面に座り込む。


「…っ…」


 栞を取り返せなかったからじゃない。

 余りの恐怖に進むことができなかった自分への失望で、涙が出た。


 拠り所を失った世界は…こうも恐ろしいものなのか。

 由もなく、世界に裏切られたあの感覚がフラッシュバックする。


 しかし…逆説的に、お姉ちゃんはわたしを裏切ってなんかいないのだと思い知った。


 …裏切りじゃない。見限られたんだよ。


 取り残されて当然だ…。

 だってあの栞は、一番大切な物のはずなのに。

 皆がいなくなってしまった後に残った、最後の残映なのに。


 ちんけな恐怖なんかに、それを手放すような奴は、取り残されて当然だ…。


 きっと、わたしは…一緒に死のうとお姉ちゃんに言われていたとしても、同じように足踏みをする。


 お姉ちゃんはそれを見抜いていたのだろう。

 わたしなんかには、家族のために命を投げ出すことなんて出来ないと見抜いていたからこそ…

 わたしの見知らぬ…誰かと飛び降りたのだろう。


 家族失格だ。大切な過去すらも、嘘になる…。


 いや、嘘にしたのは…わたしなんだ——


「…っぅ…ぅ」


 声にならない、声が漏れる。

 どれほどそうしていたのだろう。空に、いつのまにか夕闇が迫っている。


 …その下で鳴る、砂と靴底が擦れる音。その時、わたしは人の気配に気が付いた。


 顔を少しだけ動かして横目でその方を向く。そこには暮れなずむ空を背に、人影が一つ。

 夕日を体半分に受けて、その人はゆっくりと裏手の影に足を踏み入れる。


 残照と陰を纏ったその姿に、わたしは得も言われぬおぞましさを感じた。


 涙で視界が歪んでいたのかもしれない。

 彼岸と此岸が交わる黄昏時。まるで、人ならざるものが闇から這い出てきたような。

 得体の知れない…不気味な姿に見えた。


 …来るな。こっちに来ないでくれ。お願いだから、放っておいて…。


 そう願うも、その影はお構いなしに歩み寄ってくる。

 近づくほど、嫌な気持ちが溢れてくる。


 …他者を自分の世界に入れる恐怖ではない。

 外のものが、無理矢理わたしの世界に押し入ってくる…。そんな、おぞましさだった。


 そうしてようやく、顔が見えた。

 その姿がただの人間のものであると知って、不思議とわたしは…。


「その…」


 …見覚えがある。男の子だ。

 さっき下校してきていた人だ。たぶん、同年代だと思う。


「…落とし物として、届けられてた」


 わたしの近くに立った彼は少し気まずそうにそう言って、こっちに手を突き出した。

 表情から察するに、先ほどのわたしの痴態を始終見られていたのかもしれない。

 その手にはあの栞があって、それはそっとわたしに差し出される。


 …わたしがこの栞を受け取らないと、彼はここから去ってくれない気がする。


 逡巡の後、溢れてくるいやな気持ちを抑え込んで、その差し出された手を見て見ぬふりをした。


 だって、それはわたしに相応しくない…。

 手遅れなのに…今更、殉ずるように、わたしは彼を無視した。


「大事な物…なんだろ」


 声変わりしたての声。

 わたしが返す言葉はない。

 声が出なかったんじゃない。出そうともしなかっただけだ。


 何も答えないわたしに、彼も言葉を失う。無為に時間が流れる。

 はやくどこかに行ってくれればいいのにと思いながら、わたしは冷えてきた空気に、熱を逃がさないよういっそう膝を強く抱えた。


 彼は立ち去らず…かといって壁に背を預けるでもなく、ただ、その場に立ち続けている。

 夕日が沈みかけて、空に星すら瞬こうという時、ようやく彼は口を開いた。


「…風邪を引いたら困るし、戻ろう。お前の姉だって…そんなこと望んでないと思う」


 ———何で、この人がお姉ちゃんのことを知っている…?


 …いや、そうだ。

 わたしによく話しかけてきた職員と、この人が何度か話しているのを見かけたことがある。


 彼女が教えたのかもしれない。

 別に信頼していた訳じゃないが、そう考えるとかなり…不快だった。


「知りも、しないのに…お姉ちゃんを…語らないでよ…」


 だからだろう。

 あの職員と、知りもしないくせにお姉ちゃんを語る彼にわたしは気分が悪くなり、なけなしの勇気をふるって彼を追い立てようとした。


「それに…っ、あの人と、わたしは…もう、関係、ない…」


 だって、あの人はわたしを置いていってしまったのだから…。

 そして、わたしという人間は、その仕打ちが相応しい…愚か者なのだから。


 彼はわたしの言葉に少し俯いて、けれども踵は返さずそこから動かない。

 不意に、彼は顔を上げた。


「…俺はさ、幼いころ…人との繋がりなんて全く信じていなかった」


 何なんだよ…こいつ。

 いつまで経っても立ち去らない。それだけでは飽き足らず、突然自分語りまで始めるときた。


「親がいない俺はずっと施設に居たからさ。

 ここには子供も大人も沢山いたけれど…いくら話しても、触れあっても…いつの間にか、居なくなっている。だから…誰かに心を許したことなんてなかった…」


 頭がおかしいのか、彼はそのまま話を続ける。

 誰がお前なんかの身の上話に興味を持つ…。


「…そんな俺を変えてくれたのは…俺の、妹なんだ。

 俺はあいつをほったらかしにしていたのにさ。全然、構ってなんてやってないのにさ…。

 俺はあいつの特別なんだ、って気付くと同時に、あいつは俺の大切な存在になっていた…」


 …何故、こんな話を聞かされなくてはならない?


 確かにわたしは愚か者だ。

 しかし何故、見ず知らずの男に、こんな仕打ちを受けなきゃいけないんだよ…。


「でも…。

 憧れていた人が施設を出て…もう会えなくなって…

 人との繋がりなんて…やっぱりこんなものなんだと思ったよ。

 だからさ、俺が妹のそばを離れたのは…縋るような思いだったんだ」


 話の筋が分からなくなる。どこまでも取り留めない、要領を得ないことを並べ立てる。

 しかし、彼はそれに気付くこともなく、却って不自然なほど熱を込め始めた。


「あいつが幸せになるには、俺がそばに居てはいけない。

 俺とあいつの距離は離れてしまうけれど…でも、家族なら…繋がりは消えないって聞いたから…。

 とても信じられなくなっていたけど、みんながそう言うから…もしかしたら、本当なのかもしれないって…不安で、恐ろしくて、どうしようもなく…、目を瞑るようにそれだけに縋っていた…」


 もう、いいから…。

 わかったよ…。十分、わかった。

 あなたにとって、妹が大切なのは…。

 頼むから、ここではない何処かで…わたしじゃない、誰かに…それを話してよ。


「…そんな時にさ、俺を救ってくれたやつがいたんだ…」


 彼は視線を下げながらも、薄く口角を上げて、唇を引き結ぶ。

 大切な記憶に思いを馳せるようなその表情に、わたしは奥歯を噛んだ。


「そいつはさ、困ってる人を放っておけないやつで、どんな人にも手を差し伸ばす…。

 それでいて、いつだって不可能を可能にしてしまう…そんなあいつに、俺も…」


 痛みが走る。強く、強く…。


「…あいつみたいになりたいって思った。ずっと、友達でいれたらって…思った。

 あいつは今、俺の近くから離れてしまったけど…変わらず、そう思っている…。

 たぶん、これからもずっと…」


「…」


 大方、この人は自分の妹とわたしを重ねたのだろう。

 それで、わたしの様子を見るに見かねて、ここにきたのだろう…。


 …だからって、斟酌なんてしてやるものか。むしろ、猶更——腹が立つ。


 親も存在しない。太陽を知らない。

 何の繋がりも無い、他人に照らされた気になって…。

 なにも持たない者が、恵まれた気になりやがって…。


 本当は照らされたことなんてないくせに…。

 それを、本当に失ったことなんか…ないくせに…。


 …こいつは偽りの熱に浮かされる、病人なんだ。

 見せかけを本物だと思い込む…盲目の狂人だ…。



「…だからさ…その、上手く言えないけど——」


 聞きたくない。

 これ以上は、もう…耐えられなかった。


 ——だというのに、彼はそれを言葉にした。


「その繋がりは…決して消えないと思う。お前と、姉の繋がりも…」


「…っ」


 それを言葉にするな…。

 言葉にしてしまったら、それは誰もが信じない嘘に成り下がる。


 …死んでしまったら…繋がりもくそもあるもんかよ…。

 それに…あの人はわたしを選ばなかったんだ。いまさら、どうしたらそんな幻想を信じていられる…。



「…じゃあ…なん、で…っ、お姉ちゃんは、わたしを…置いてったんだよっ…!」


 こんな奴に、聞くことなんて…何一つない。そのはずなのに、決壊したなにかがあふれ出す。

 そして、彼はわたしの目を見て、答えた。


「それは、わからない…。でも、たとえ俺がそうなったとしても、妹には…笑って生きていて欲しい…」


 じゃあお前が死ね…。死ね。死んじまえよ…。

 そしたらその幻想も、少しは真実に近づくだろ…ッ。


 苦しい。息が詰まって、わたしは何も言えなくなる。

 そんなわたしに困ったのか、しばらくすると彼はこの場を後にした。



 一人になると、今度は悔しくて、悔しくて…。

 好き勝手言われて…わたしは何も言い返せなくて…、更に、涙が出た


 …何が一番悔しいかって…わたしが今まで生きていることだよ。


 繋がりなんて…、光なんて…、この世界には残ってないのに…わたしは姉の後も追わず、過去に縋り、のうのうと生き延びて…。


『その繋がりは…決して消えないと思う。お前と、姉の繋がりも…』


 否定したいのに…。

 なんでわたしは、そんな真っ赤な嘘が…本当であって欲しいなんて思っているのだろう…。



 涙でぼやけた視界に、まだ少し明るい、夜の空が映った。

 歪んだ空に、星々の光を捉えることはできない。

 それでも小さく、空の低いところに、本当に小さい…月の欠片が見えた。


 どれほど眺めていたのだろう。まぶたの裏にそれが焼き付くほど、そうしていた。


 …やがて、あの職員が来て、わたしは部屋に連れ戻された。

 おそらく、立ち去った彼が呼んだのだと思う。


 そして数日後、迎えにきた叔母と共に、わたしは施設を出ることになったんだ…。



 施設を出た後も、彼の言葉はわたしの頭についてまわった。

 何も知らない子供なら、あの言葉を信じることが許されるのだろうか…。


 許されることなら、そんな子供でありたかった。

 幻想に思いを馳せて現実から目を逸らせるのなら、ずっとそうしていたかった。


 しかし時はそれを許さない。子供はいつか大人になる。なってしまう。


 喪失の苦しみは時が解決するという。だが、わたしの場合それは違ったようだ。

 目を逸らし続けたツケのように、それは世界に影をおとす。


 時が経つにつれ、わたしは本物の喪失に耐えられなくなっていった。


 姉の命日。墓参りなんて一日で十分だろう。

 それでも、わたしは叔母さんに嘘をついて家を出た。

 明確な理由なんてない。何をする気だったのかなんて覚えてもいない。

 ただ逃げるように。過去に縋るように、家を飛び出して…あの腕時計を拾った。


 その時、止まっていた時間が動き始めた気がした。いや、本当は止まってなんかいなかったのだろう。

 亀裂の入った時間はそれでも動きを止めず、流れている。

 輪から外れたそれは狂い、一貫性を失い、捉えることもできないだけ。


 それから、色々あって…わたしは、姉と飛び降りたその相手を探した。

 どうやら、その人は長井仁というらしい。

 別に、復讐なんて考えていない。恨み言をぶつけたいわけでもない。


 …ただ、聞きたいことがあった。

 それは、どうして姉はわたしを置いていったのか。そんな、聞くまでもないことじゃなくて…。


 何故、生き残った長井仁は姉の後を追わないのか。

 何故、わたしはまだ、生きているのか…。


 わたしが長井仁を追っているのは、たぶん…それを知りたいだけなんだと思う。



『———その繋がりは…決して消えないと思う。お前と、姉の繋がりも…』


 あの時、わたしはその言葉に…自分の心の内を暴かれた。

 あの時のわたしは、心の何処かでずっと…同じことを信じていた。


 そんな愚かな自分を引きずり出されて…みっともなくて、どうしようもなく苦しくなったけれど…。

 だけど、そうした彼はわたし以上に…無知で、子供だった。


 だからなのかもしれない。

 わたし以上の愚か者がそれを信じているから…わたしがそれを信じ続けていても許される気がしたんだ…。


 でも、もう…わたしは、それを信じられない。

 時の流れが、わたしを子供のままではいさせてはくれなかった。

 子供じゃないのなら、もうそれを信じることは許されない。



 …しかし。


 しかし、時が様々なものを移り変わらせるのだとしたら———あの盲人は何になったのだろう…。

 あの人はまだ、それを信じ続けているのだろうか…。


 名前すらも覚えていない。名もなき盲人。


 ううん、本当は知っている気がする…。

 施設に居る間、意識の外でわたしはそれを見ていた…。


 施設の子たちが彼を呼ぶのを。

 わたしに良く話しかけてきたあの職員が、彼の名前を呼んでいたのを……


 ◇


「長井仁ッ、土下座して詫びろッ」

「沈澱党解散しねぇとどうなるか分かってんだろうなァ!? 長井仁ッ!!」


 …今、トルスケイルの人たちがはやし立てるように、彼を長井仁と呼んでいる。

 そんな状況を目前にして、どうしてわたしはあんなことを思い返したのだろう。


 ヘッドライトの安っぽい光が彼を照らして、罵声を嫌そうに受ける顔が見える。

 なんだか、久しぶりに彼の顔を見た気がする。


 この何処までも暗い広場のなか、眩い偽りの光に包まれた彼には、何も見えていないんじゃないかと思った。

 その姿に、何故か…わたしはあの盲人の影を重ねる。


 …いや、その理由は分かっている。

 思い返せば、はじめから既視感があったと思う。


 そう…彼は、長井仁じゃない——

 わたしは彼の名前を、知っているはずなんだ…。


「ハルト…」


 わたしの声じゃない。横の秋鷹さんが漏らす様に呟いた。

 秋鷹さんが前に一歩踏み出る。その顔には、どうしても笑みが堪えられないと、犬歯が晒されていた。


「松田…松田陽人まつだはるとォ…! 二年ぶりだなあァッ!!」



 ——ああ、そうだ。


 ハルト…。松田、ハルト。


 そうだ…。そんな名前だったな…。

 わたしの大嫌いな…あの人はたしかに…そう呼ばれていた。

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