その9

 あの大雨から数日。

 華やかな連休も終盤に差し掛かり、賑わう往来にも何処か儚さを感じるような昼下がり。

 俺は外界から切り離された事務所のソファで一人、惰眠を貪っていた…予定、だったんだけど…。


『——アハハハ』


「最近この人よく見るなぁ」


 背の方から聞こえるテレビの音と人声。

 正面からは外を道行く人たちの話し声が微かに、そして時折どこかからかバイクの音が鳴る。

 学校で寝てる甲斐もあり、ちょっとやそっとの物音なんて気にならない体になってはいるが…。


「ねえー、長井さんはこの人知ってますー?」


 こうもちょくちょく話しかけられると…眠れん…。


「おーい、寝たふりすんなー」


 近づいてきた声に、ソファに横たわったままで片目を開いてみると、そこには俺を覗き込むように真尋がいた。


「うるさい…寝たふりじゃないマジで寝てる…起こすな…」


「寝言の応答性すご~」


 追い払うよう手を振ってみるが、真尋はお構いなしに話しかけてくる。


「…お前うるさくて邪魔だから、どっか行け」


 少し言い方がキツイと感じるかもしれない。

 でもこいつはこのくらい言わないと聞かない。てか言っても聞かない。


 こいつは吉矢二号でも目指しているのだろうか…。

 対処法は吉矢と同じく、興味を他に逸らすことなのだけれど…テレビ程度ではその任を果たすことはできなかったようだ。


「長井さんが移動すればいいでしょ。あっちの部屋で寝ればいいじゃないですか。ソファ独占すんなよー」


「あっちの部屋って…お前が使ってんじゃん…」


「そっちじゃなくて、もう一室のほう。なんか鍵が掛かってるとこですよ」


「…開けんなよ。前も言ったと思うが、そこは上司の部屋なんだ」


 すでに我が物顔でこの事務所をうろついているこいつだが、流石に鍵が掛かっている他人の部屋に無理やり押し入ろうとはしないだろう。…しないよね?


「絶対嘘だぁ。これは何か隠してるとみたね」


「何でだよ…」


「だってわたしここに数日いますけど、長井さん以外の人見たことないもん。上司と同居してるって話にしてはおかしくないですか」


 おかしい…、か。


「…かもなぁ」


「うわすっごい投げやり…」


 力を抜いて、より一層ソファに身を沈める。


「眠いならちゃんと夜に寝ればいいのに…いつも夜、どこにいってるんですか」


「…いろいろやることあるんだ、夜は…」


「あ、もしかしてあのナイトクラブに通ってるとか!?」


「なわけないだろ…もうあんなところには近づきたくもない」


「えー…」


 なんで残念そうなんだかな…。


「…というか、お前はいつまでいるんだよ。はやく家に帰れよ…もう連休終わるぞ」


「んー…まだやることあるしなぁ」


 やること? ああ…掃除のことだろうか。

 横たわる体を起こし、ソファの背もたれから室内を覗く。


 壁に背をつけていた本棚はズレ、いろいろと物を詰めていたダンボールは無残に中身をぶちまけたまま転がり、謎にその近くには事務所にある数少ない食器が置かれている。

 部屋の中央に置いていたソファも窓辺に追いやられ、そのせいでソファで寝てると往来の音もかしましい。まあ、それは気温が上がって窓を開けるようにしたせいってのもあるか…。


 そんなこんなと、数日前までは埃っぽくも整理整頓されていた我が事務所は見る影もなくなり、随分と荒れ果てた姿を見せている。これでも幾分かは片付いたのだけれども。


 数日前、俺たちが半グレと話し合ったあの日の帰り。

 ずぶ濡れのまま何故か3階のガールズバーに入っていった吉矢をしり目に俺が事務所に帰ると、そこには空き巣が入ったとてそうはならんだろというほどの惨状が広がっていた。


 どうやら俺が学校にいる間に真尋があの腕時計を探そうとして部屋中ひっくり返していたらしい。

 流石に愕然とし、俺は濡れた体のまま茫然自失とその荒れ果てた様を眺めていたのだが、そんな俺そっちのけで当の本人はずけずけと勝手にシャワーを使い、着替えを済ましていて(あのパンパンのリュックに着替えがあったのだろう)非常にムカついた。


 その後、当然ブチ切れた俺は部屋の掃除を命じたが、この不逞の輩はそれを一向に進めず逆に居座る名分として利用し出す始末。

 睡眠もろくに取れず心身ともに疲弊した俺は、もうこの怪物に勝つのは諦めて、どうすれば帰ってもらえるのか日々頭を悩ませている。


「掃除はもういいから…帰ってください…」


「掃除…? あ…そういえば」


 …なんだよそういえば、って。


「お前、やることがあるって掃除の事じゃないのかよ。なんかまた良からぬこと考えてるんじゃ…」


「あーお腹減ったなー。何か食べに行こうかなー」


「…」


 こいつ…露骨に話逸らしやがった。

 とはいえ、一応本気で言ってるようだ。真尋は自分の荷物から財布を取り出している。


「…俺も行く」


「お、一人になるの寂しくなっちゃいました? 顔色悪いし寝てた方がいいんじゃないかなぁ」


「誰のせいだ誰の…」


 あくびをかみ殺しながら、ソファから起き上がる。


 眠るチャンスと言えばそうなのだけれど、自ら半グレに接触しに行った前科がある真尋を一人で街に出すのも怖い。

 正直、夜に出かけてこの子を一人にしているのもかなり心配なんだよな…何をしでかすかわからないし…。


 仕方がない、と俺は外に出る準備をする。

 真尋は保護者に、連休中遊びに行くと言ってこの街に来たらしいから、連休が終われば流石に帰るだろう。


 それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせて…。


 ◇


「で、どこ行くんだ。おすすめはなぁ」


「長井さんのおすすめの店はなんか臭いからやだなー」


「…でも安くて美味しいもん…」


 青空の下。

 どこに行くかも決まらぬまま、なんとなく駅前の方へ向かって事務所前の路地を歩く。


「あっそうだ! 事務所に調理器具ってあったっけ!?」


「あるけど…え、なに」


 俺が事務所に住み始めたばかりの時は、食費を抑えようと自炊していた時期がある。

 調理器具ならその時の物があるはずだけど…え、もしや調理する気? 

 こいつが調理なんかしたら出火とかしそうで怖いよ~…。


「じゃあスーパー行きましょうよスーパー! 確か駅前にありましたよね!」


「あ、あったかなぁ…?」


 不味い流れなので、それとなく抵抗する。

 そんな時、ふと何処かからバイクの音が耳に付いた。


「ん…この音」


 最近この辺りでよく聞く音だ。この近所に騒音を顧みないバイク好きがいるのかもしれない。


「あ、噂の暴走族ですよね」


「暴走族!? 隕石が落ちて絶滅したはずじゃ…」


 あんな時代錯誤な奴らがそうほいほい出てくるとは…。


「燈花さんが言ってましたけど、なんか昔解散したのがメンバーを一新して再結成したらしいですよ」


「そんなバンドみたく再結成されても…」


「なんて名前だったかなー。なんか、ドラジットみたいに変な名前の」


 ああいうグループ大体変な名前だからな…。

 ヤクザの方がよっぽどシンプルで分かりやすい名前をしている。


「ちょっ、どいてどいて!!」


 気付けば、真尋と話している内にバイクの音がかなり近くまで来ていた。

 そして、車が滅多に通らない生活道路には似つかわしくないその音と共に、前方を歩く人々の奥からは何やら切羽詰まった叫びが聞こえてくる。


「オイ! 待てクソガキッ!!」


「うわっ…」

「なにあれ…」


 前を歩く通行人を割るように、バイクに乗った男が怒り狂った様子で道に飛び出てくる。

 流石に通行人がいてスピードを出せないのか、もたついたバイクの進行先には疾走する中学生ぐらいの子供が二人。

 二人は額に汗を滲ませ焦りをあらわに、しかしその口元には隠しきれない笑みを浮かべながら、咄嗟に道脇へ避けた俺たちの横を走り抜けた。


 続けざまにバイクもその後を追えば、爆音の余韻と排ガスの臭気、そして、通行人の困惑の声だけが現場に残る。


「なんだありゃ…」


「ああいう暴走スタイルなんじゃないです? 鬼ごっこ的な」


「どゆこと…?」


 適当すぎる真尋の返答はともかく…

 なんか逃げてる子供二人は滅茶苦茶楽しそうだったし、遊んでただけなのか…?

 それはそれで世も末だが…。


 ◇


 駅近くのスーパーに着いた。心地いい適温の空気が、強い日差しに汗ばんだ肌を迎える。

 道中、それとなく飲食店に入ることを勧めてみたりと色々抵抗を続けていたが努力空しく、結局ここまで来てしまった…。


「なに作ろっかなー」


「この惣菜おいしそう。なあ?」


 駄目だ…惣菜を指さす俺を置いて、真尋は並べられた野菜を物色している。

 …もういいや。アイツが料理するときはバケツに水を汲んでおこう。油は使わせない方向で。


「お、何してんの? 兄貴」


 真尋とわかれ、自分の昼食を買っていこうと店内を歩いていたら、思わぬ人物に出くわした。


「成哉…と、みどりも…」


 こちらを見て声をかけてきたのは、俺の弟でもある長井成哉。

 俺と同じく寝不足なのか、口元に手をかざしてあくびをしている。

 その後ろにいる買い物かごを持った女の子は、同じく俺の妹の長井みどりだった。


「お兄さんがスーパーで買い物? 珍しい」


「ん、腹減ったからここで出来合いの食い物でも買おうと思ってさ。二人は揃ってどうしたんだ?」


 みどりの持つ買い物かごにはいろんな食材が見えた。


「今日親父が帰ってくるからって、母ちゃんがお使い頼んで来たんだよ。しかも何故かおれまで行けって叩き起こしてきてさ。…あの暴走族のせいで寝不足だってのに…」


 暴走族…たぶん、さっき見かけたのと同じグループだろう。


「そっちの方にも暴走族が出るのか、だいぶ騒がしいよな」


「え、暴走族…家の方に来てた? 私は家の方で聞いたことないけど…」


「き、来てた来てた。深夜に。姉ちゃんいびきかいて爆睡してっから気付いてないだけ…ちょ、痛てっ」


 いびきなんてかいてない、とみどりが成哉をどついている。

 相変わらず仲がいい。


「———あ、おーい長井さーん。かご重いから持ってよ~」


「~~ッ!!??」


 穏やかな心持ちで二人を眺めていたところ、突然背後から聞こえてきた声に、心臓が跳ね上がった。


 やべぇ…そういえば真尋と一緒だったんだった…!

 この二人と鉢合わせたら絶対詮索されるよな…ど、どうしよう…。


「あの人、長井って呼んでるけどもしかして兄貴のこと?」


 俺の後ろを見て、成哉が訊ねてくる。

 二人と真尋に面識はないはずだし、俺が今すぐダッシュでこの場を抜け出したら、なんとか誤魔化せたりしないか…?


「ねえ無視すんな…ってあれ、長井さん…この若い子たちは? え、もしかして絡んでたとか? これだからDQNは…」


 思い浮かんだ策に身をゆだねる決心もつかず、もたもたしていると、背後から来た真尋に肩を掴まれる。

 だが落ち着け。この数日間の間に、俺はこういう場面を想定して対策を講じていた。

 深く息を吸って、振り返る。


「…違う。そんなわけないだろ。この二人は俺の…姉弟。妹と弟だよ」


 まあ対策と言っても、真尋に「俺との関係を聞かれたら親戚と言え」と言いつけただけなんだけど、それでもただの知り合い相手なら充分な効力を発揮する。


 …問題はこの二人にその言い訳は通用しないということだな。


 しかし、だからこそ今、前もってこの二人を俺の姉弟だと真尋に知らせたのだ!


 流石に真尋も親戚という言い訳が家族に通用するとは考えないだろう。

 つまり今のは、アドリブで回すという真尋への意思表示。

 俺との関係を二人に探られても、アドリブでうまく立ち回ってくれるはず…!


「兄貴、この女の人は? ひょっとして兄貴の彼女とか?」


「や、こいつはだな…」


 いきなり単刀直入に訊かれ、咄嗟に言い訳が思いつかずちょっと言いよどむ。

 そうしていると、後ろに控えていた真尋が俺を押しのけ前に出てきた。


「こんにちはー! わたしは大野真尋と言って…えーと、なんだっけ…あ、長井さんのし、親戚です」


「お、お前ばかッ…」


 馬鹿正直に親戚(それも嘘だけど)と答えた真尋を見て、俺はすぐさまその口を塞ぎ、成哉たちとの間に躍り出る。


「し、親戚って勿論俺の親戚じゃなくて…! お、おっさん…事務所の下の階に住んでいる内野っておっさんの親戚なんだ。前に話したと思うけどさ、下の階ではガールズバーをやってて…今はその買い出し中なんだ!」


 その勢いのまま怒涛の言い訳で誤魔化すが、それを眺めるみどりは無表情で、成哉は何か得心が行ったように頷いてから、みどりに顔を寄せる。


「姉ちゃん諦めな…兄貴とあの子の距離感、完全にシャイな彼氏とその彼女だよ…しかも人目がない所で甘えまくってると見たね。もうあの事務所は愛の巣と化しているんだろーなぁ…」


 そしてなにか語りかけているようだが、みどりは全く微動だにしない。

 これ誤魔化せてる…? 何故かみどりは黙りこくったままだし…何か怖いよ。


 由来のわからない恐怖感に震えていると、背後の真尋が小さく語りかけてくる。


「というか…全然似てないですね。弟さんは爽やかな感じだし、妹さんも美人でモテそうだし…長井さんとはカーストが天とアレじゃないですか」


「…アレってなんだよ、はっきり言ってみろ。ブチ切れてやるから…」


 こいつには一度、最低限の礼節というものを教え込むべきなのかもしれない…。


「えーと、真尋さんだよね。おれは長井 成哉っす。ほら、姉ちゃんも黙ってないで自己紹介しないと」


「…わかってるよ」


 成哉の言葉に、みどりが口を尖らせ呟く。

 みどりはいつもしっかりしている感じだから、こんな姿を見るのは久しぶりだ。


「はじめまして長井みどりと言います。兄がお世話になっているようで…」


「いえいえ、お世話になってるのはわたしの方ですよ~確かに長井さんは偏屈ジジイって感じですけど~」


「兄貴はちょっと変わり者だからなぁ。付き合う人は苦労するかもな~。おれはそういう所が好きだけど」


 恭しく頭を下げて挨拶するみどりに、真尋は頭のネジがいくつか飛んでいるとしか思えない返事をしていて、さらにそれに乗っかる成哉。


 駄目だ…なんかもう色々おかしい…。


 そのまま3人は会話を続けていて、俺が割り込める隙など全く見えない。

 なにか凄まじい行き違いが生まれている気がするが…それを確認することも正すことも不可能に思える。事態は完全に俺の手から離れてしまったのだ…。


 ◇


 無礼が服を着て歩いているような真尋だが、人の懐に入るのは上手いらしい。

 どういう流れか真尋はみどりたちとお喋りしながら、共に買い物へ勤しんでいた。

 そして俺はというと、特に会話に混ざることもなく三人の後をつけるのみ。


「…」


 買い物かごを持った主婦が俺たちの横を通る。

 俺はそれを刑罰を受ける囚人のような面持ちで見送った。


 先ほどから何度か主婦っぽい人とすれ違っているが、彼女らの視線はまず前の三人に行く。

 その目に浮かぶのは無関心か、もしくは微笑ましさのようなものだろう。

 しかし、その後視線が流れて、なにをするわけでもなく突っ立っている俺を捉えると、それは途端に色を変える。

 不審者あるいは得体のしれない珍品土産の置物を見つけたかのような…あの目つき。

 それを向けられるたび際限なく、俺は筆舌しがたい感覚に包まれるのだ。


 …決して惨めな思いなどしていない。

 ただ少し…生きるというのはこういうことなのだと、原罪めいた宿命に思いを馳せる…。


「あ、これ安いっ、あーでも…長井さん食べれないか…子供っぽいし」


「大丈夫なんじゃないすか? ね、兄貴って好き嫌い無かったよね」


 成哉が話しかけてくれた! う、嬉しい…!!


「ああ! 俺は別に何食べても同じに感じるからな」


「そんなバカ舌自慢されてもな~」


 横から真尋が口を出す。

 いま成哉と話してるの! 邪魔しないでっ!


「そうですよ。そんなこと言われたら真尋さんも作り甲斐がないじゃないですか」


「え、もしかして…俺の分も作る気なの?」


 そもそも、二人に真尋は内野のおっさんの親戚だと説明したから、それが俺の飯を作るってだいぶ変な話に思えるが…二人が何も言ってこないのを見るに、真尋が上手く説明したのだろうか。


「長井さんはわたしの料理の腕を疑っているようだからなぁ、格の違いを見せたるわい」


「いや、いらないです…お前の料理の腕とかどうでもいいし…」


 それになんか…怖いわ…。

 料理の味は最悪どうでもいいのだが、真尋がなすことの全てが巡り巡って俺の損害に繋がる、そんな予感がある。異物混入や食中毒の可能性まで考慮しておいた方が良い。


「駄目だよ兄貴。そんな言い方したら…」


「そうですよお兄さん…。なんというか…流石にキモいですよ」


 あ、あれ…?

 み、味方がいない…世界がおかしい…。


 ◇


 会話に混ざるにしろ混ざらないにしろ居心地の悪い時間は続いたが、ようやくそれも終わり、真尋とみどりは買い物を終えた。


「成哉は高校どこにするんだ?」


「んー? まあ、東高でいいやって思ってるよ。兄ちゃんたちいるし」


「そっか。勉強はしてんのか?」


「いんや全然してないねー。だから東高」


 吉矢が受かるくらいだもんねぇ…アイツが受かるなんて流石になにかがおかしい気もするが。

 成哉と話しながら、真尋とみどりに続いてスーパーを出ると青い空から陽射しが降り注いでくる。


 まだ五月が始まったばかりなのにかなり暑い…鮮魚とかは買っていなさそうで良かった。

 当然のように真尋から渡されたレジ袋と、成哉がみどりに押し付けられたエコバックを覗いてそう思う。


 四人で歩道を行く。

 真尋とみどりを先頭に、間に成哉を挟んで最後尾を歩いた。

 このまま途中まで一緒に帰る感じだろうか。


「みどりちゃん連絡先交換しない? てか彼氏いるの?」


 先頭からナンパ師みたいなことを言っている真尋の声が微かに聞こえてくる。

 みどりも良くこんな会話に付き合えるな。


「…? どうした成哉」


 真尋に呆れていると、成哉が先ほどからちらちらとこっちを振り返っているのに気づく。

 その目線は俺を通り過ぎている。

 それにならい俺も振り返ってみるが、歩道を歩く通行人が何人か目に入るだけだった。


「…今なんかこっち見てる奴いなかった?」


「いや、わからなかったけど…どうしたんだ。誰かに付きまとわれてるのか?」


「んー…ヒロ兄じゃあるまいし、そんなことはないと思うんだけど…さっきから見られている気がするんだよね」


 そういえば、吉矢は恨みを買って、何度か変な奴に付きまとわれていたことがあったな。

 あいつは全く気にしていなかった…というより、楽しんでいる節さえあったが。

 まあ吉矢のことはどうでもよくて…。


「見られている…か。あ、みどりのストーカーとかか…!?」


「それは無いっしょ~流石に」


 成哉は能天気にそう言うが…この街はおかしな人間が多いからなんか心配だな。

 …まあ流石に、周りに変な奴がうろついていたら、オヤジが何とかしてくれるとは思うけれど…。


「——あ…!」


 俺と話しながらも、変わらず後方を気にしていた成哉が突然声を上げた。

 噂をすれば影。成哉の声に足を止めた俺たちに寄るよう、路肩に停まる車がある。


「よっ、三人兄妹仲良くやってるみたいだな」


 そうして停まった黒のセダンに視線が集まると、答えるようにサイドウィンドウから一人の男が顔を出した。


「…お父さん」


「え、この人が!? わ、若~」


 みどりの呟きに、真尋が驚いた様子で聞き返す。

 後部座席に座るその男はどうみても20代後半、いっても30前半といった風貌だが、しかし…この男こそがみどりと成哉の父親。

 そして、俺の父親でもある…長井 道則ながいみちのりなのだった。


「…というより、彼女とお買い物中に、みどりたちと鉢合わせたって感じか」


 長井道則…オヤジはどこを支点にしているのか頬杖をついて、俺たちを眺めながらそう言う。


「おー、親父鋭いね。どんぴしゃだよ」


「いや違う違う…」


 一部、明確におかしい。


「なんだお前、最近報告に来ないと思ったら、女作って遊んでたのかー」


 オヤジの言う報告というのはつまり、俺の仕事の報告。

 長井道則は俺の父親であると同時に雇い主でもある。


 以前、給料について税金を払っていないと言ったが、それはずばり仕送り扱いになっているからだ。


 一応、一年通せばぎりぎり贈与税の基礎控除額を越す金額だからな。

 善良な市民としての誇りがある俺は脱税なんてしないのだ。


「初めての彼女に浮かれるのもわかるけどなぁ」


「だから、そんなんじゃなくてだな…」


「で、君はなんて言うんだ?」


「…おい」


 からかう笑みを浮かべオヤジは俺の返事も聞かぬうちに真尋に話しかけていた。

 このおっさん…たぶん気付いた上で俺を喋らせないようにしている…。


「あ、わたしは大野真尋と言います」


「ほお…良い名前だなぁ。おれは長井道則という。好きなように呼んでくれ」


「えっ! じゃあミッチーって呼んでいいですか!?」


「お、良いねー」


 なにが?


「つーか親父、もしかして今から家帰んの? 乗せてってよ荷物持ちつらいんだよー」


「ああいいよ。詰めればあと4人ぐらい入んだろ」


「いや無理あるだろ…というか、なんで俺たちも勘定に入ってんだよ。俺らは事務所に戻るから…」


「ハッハ、そりゃそうか。連れ込めるうちに連れ込んでおかないとだもんな」


「…」


 とりあえず無視しておこう。


「まあ、おれが助手席いけば4人いけるよな。ギリ」


「…あのな、俺たちは行かないって…」


 そう言っているのに、オヤジは車内から出て俺たちの前に降り立った。

 そして、成哉は空になった後部座席に向かうよう、意気揚々と歩道のフェンスを乗り越える。

 だが、みどりに動く様子はない。


「みどり? 成哉と一緒に行ったほうがいいんじゃ…」


「私は…」


 ふと、少し離れたところから声が上がった。


「あっ…長井道則だ」

「え? 長井道則?」

「誰だっけそれ…なんか聞いたことあるけど…」


 数人の通行人がこちらを見ながら、口々にオヤジの名を出している。

 その声色に恐れは滲んでおらず、かといって嘲る風でもない。

 芸能人を見かけた浮き立つ声ともちょっと違う、独特の重さを孕んだそれを受けて、オヤジは細くした目を返した。


 …謎に有名なんだよな、このおっさん。


 聞くところによれば、オヤジは若いころにこの街でだいぶブイブイ言わせていたらしい。

 更にその後不動産関係で財を成したこともあり、その名が街に膾炙したとかなんとか。


 そんなんでこんな有名になるのもおかしい気がするけれど…噂好きが多いこの街の地域性がゆえかな。

 このおっさんの容姿がいつまでも変わらないというのも要因の一つかもしれない。アイコンと化しているのだ。


「…私はいいや。一人で帰る」


「お、そうか。じゃ、行くか成哉」


「え…」


 突然みどりがそう言い出し、ちょっと焦る。


 …いや、突然でもないか。


 確かみどりとオヤジは折り合いが悪い…というより、みどりが一方的に苦手意識を持っている感じだった。

 変に有名であることも良く思っていないようだったし、人の目がある今、車に乗るところを見られたくないのだろう。


「…真尋、買った物持って先に戻っといてくれ。俺はみどりを送っていくからさ」


 ないとは思うが、ストーカーがどうだとか考えていた後だからな…みどりを一人で帰すのはなんだか心配だ。


「お兄さん…? なに言って…」


「や、みどり一人じゃ心配だから一緒に行こうと思ったんだが…邪魔か?」


 帰り道に何処か寄っていく予定だったのかもしれない。

 そこまで険悪ではないと思いたいが、オヤジがいる間は家に帰りたくないという可能性もある。


「彼女に荷物を持たせたうえ、一人で帰らせてまで妹を送ろうだなんて…愛されてるなぁみどり」


「わ、私…やっぱり車乗る…!」


 オヤジが小さく何か言うと、みどりは俺から逃げるように歩道を行って、フェンスが途切れているところから周って車に向かう。


 あ、あれぇ…? もしかして俺って、みどりに嫌われている…?


「く、っく…」


「…なに笑ってんだよ」


「クク…相変わらず女の扱い下手だなぁお前。せめて選択肢が潰れてから言い出せって」


「はあ…?」


 ちょっと落ち込んでいた所に、オヤジがニタニタと訳の分からんことを言ってきて腹が立った。


「ま、息子が変わりなく元気そうでよかったよ。あと、来週はちゃんと報告に来いよ」


「…分かってる」


 そう言い置いてオヤジも二人に続き車の中に戻る。

 そして出していいぞ、と運転手に声をかけた。


 開いたウィンドウから運転席を覗いてみれば、顔見知りの運転手が長身を折りたたんでハンドルを握っている。彼は俺の視線に気づくと軽く頭を下げて、それからアクセルを踏んだ。


 常々思うが、本当に良いご身分だな。運転手がいるなんて…。これだから金持ちは好かん。


「行ってしまいましたね…」


 車が発進し、角を折れて見えなくなったところで、真尋がつぶやく。


「長井さん…みどりちゃん、成哉くんたちと一緒に行きたかったんじゃないですか」


「え? いや、別に…」


「家族間でも居場所がないんですね…可哀想…」


 なんだこいつ敵か? 


「…お前だってそうなんだろ」


「わたしは叔母さんと仲良いですもーん」


「じゃあなんで家出してきたんだよ…」


 何故か嬉しそうな真尋と街を歩いて、帰路を行く。


「というかお前、オヤジが言ってきた俺の彼女だとかいう言いがかり否定しろよ。あいつは俺が言っても聞かないから…」


「えーでも本当のこと言うわけにもいかないし…都合がいいじゃないですか」


「それはお前だけな…誤解が残るこっちからしたらいい迷惑だ」


「長井さんは偏屈すぎて一生彼女出来ないでしょうし、見栄が張れてラッキーですよ」


 一生彼女出来ないって…え、そんな断言される?


「お、俺だって告白されたことぐらいあるし…彼女ぐらい作れるわ…」


「はいうそー、告白とか絶対ないねー」


「ふざけんな! 俺だって一回くらいある! たぶん…」


 遠い過去の記憶すぎて、現実なのか願望なのか判別つかないが…あった、よな…?

 …やっぱ無かったかもな。


「…ん? あれ…? そういえば…昔、みどりに…?」


「妹じゃん…子供のお兄ちゃん好きーってのを告白と受け取るってかなりヤバぁ…」


「ああ…!? うるせえなッ!」


「キモすぎる…!」


 ちょうど人通りのない路地に差し掛かったのもあり、大声で言い合う。


「そん時はまだ…あ…?」


 そこでようやく、違和感に気づいた。

 …後ろに、人がいる気がする。後方20メートル弱。二人…いや、三人。


「このキモさはもう言い訳できないなぁ」


「ち、ちょっと黙って…」


 別に人が来るなんて珍しいことではないが、気になるのはこの足音だ。

 普通の足音とは違う、擦れるような音がかろうじて聞こえる。


 …この音には覚えがある。


 昔…中学生の時だったか。

 たまたま鉢合わせた吉矢と一緒に下校した時の話だ。

 似た音を耳してすぐ、背後からナイフを持った男が襲い掛かってきたという事件があった。

 まあ、ナイフと言っても十徳ナイフだったし、狙われたの吉矢だし、その時は別に大したことにはならなかったのだけど…。

 たぶん、音を立てないようにしつつ、速度を出そうとするとこういう音になるのだと思う。


「…真尋、ちょっと走ろう。とりあえず事務所近くのスクランブル交差点まで」


「あっ、妹の好きを真に受けてる話から逃げるな!」


「もうその話いいから!」


 右手にレジ袋を持ちながら、左手で真尋の手を引っ張り走り出す。

 そのまま後方を確認すると、焦った様子で走り出そうとしている若い男三人の姿が見えた。


 やっぱり、俺たちをつけていたのか。成哉が感じていた視線も奴らのものかもしれん。


 半グレ…ドラジットではないよな…?


 あいつらには住所を抑えられているから、用件があるなら直接来そうだし…。


 ぎゃあぎゃあ文句を言っていた真尋も、後ろの連中に気づくと自分で走り出した。


 先日、ドラジットを相手に似たようなことしたからな。慣れた様子で走っている。

 なんなら俺より速い…というか重いなっ、レジ袋!! どんだけ野菜買い込んでるんだよッ!


「な、なぁっ…これ捨てていい!?」


「はぁ!? 駄目に決まってるじゃないですか!」


「じゃあお前が持てよッ!」


 クソッ、このままじゃ逃げきれそうにない…。

 こうなったら何処かに隠れるか、無駄に体力を消耗する前に、敢えて捕まりに行った方がいいかもしれない。


「はぁっ…」


 そう思いつつもからがら事務所近くのスクランブル交差点に着いた。

 この辺は通行量が多くて、人に紛れることが出来る。

 とはいえ走ったり目立つ行為は出来ないので、もたもたしている内に見つかるリスクも多分にあるだろう。


「…あの人たち、なんなんですか…」


「分からん…けど、ドラジットのメンバーにあんな奴らはいなかったよな…」


「たしかに…なんか若くて、高校生ぐらいに見えた気がする」


 よく見てなかったが、そうなのか。


「——あいつら何処に行った!?」


 路地から出てきたのだろう。人の壁の隙間から、叫ぶ奴らの姿が見える。


「たぶんこの人込みに紛れてるんじゃないっすかぁ?」


「お前ちょっと探してこい! おい仲間呼べ———長井仁を見つけたって!」


 長井、仁…? 


「あの、長井…仁って…?」


「…さあ。でも、たぶん狙いは俺だ」


 …少なくとも、その名を呼ぶってことは、真尋が標的というわけじゃなさそうだ。


「ちょっと行ってくる。お前は青信号になったらこのまま人込みに紛れて事務所に向かえ」


「え、あのちょっと…!」


 重たい足枷でもあるレジ袋を真尋に押し付けて、人込みから飛び出る。

 すると、折しも信号が青に移り変わり、波が引くように歩道から人がはけていった。


「いたぞ! 長井仁だッ!」


 思った通り、俺が標的っぽいな…。

 その怒鳴り声を受けて、俺は逃げ出す。


 走り出してから、後ろを振り向いてみればさっきの三人が俺に向かって来ているのが見えた。

 横断歩道の手前に真尋の姿を見つけることはできない。ちゃんと言った通りにしたようだ。


「おいッ、待て!」


 表通りから路地に入るが、まだ付いてきている。

 出来たら、こいつらから話を聞きたいな。街外れの公園とか、人気のないところまで誘導しよう。


 ◇


 …それからだいぶ走った。

 すれ違う通行人も徐々に少なくなり、だいぶひっそりとした所まで来たはず…なのに…。


「そっち行ったぞッ!」

「囲め!」

「時田と溝口に回り込むよう連絡しろッ!!」

「キエエエエェ!!」


 閑静な町並みに絶え間なく上がる怒号。増え続ける声の数。

 チンドン屋なんてもんじゃない。大声疾呼、列をなして、俺を先頭とした騒音行列。


 逃げて数分まで追手はあの3人だけだったというのに、辺りの人気と反比例するように追手は少しずつ数を増やして、今じゃその数は…十人近くになっていた。


「やばいっ、やばい…っ!」


 一体何したらこんな人数集まるんだよ…ッ。恨まれすぎだ!


「沈澱党のゴミを捕まえろ!」


 沈澱党? 新しい政党かなにかか…?


「長井仁ッ! 沈澱党解散しろおォ!」


 …党首なの? 

 まったく、どういう状況なんだか…。


 追い立ててくるのは人の声だけではない。

 極めつけはこの唸るようなエンジンの音。


 おそらく、バイクだろう。

 姿は見えないが、微かな地響きを伴い鳴り響くエンジン音がその存在を嫌というほど意識させてくる。


 話を聞くなんて言ってる場合じゃないぞ…ッ。こんなん捕まったら何されるか…。


「…っ」


 目的地だった公園はもうすぐだ。

 この通りの突き当りを曲がり、ちょっと行けばそこには人気の少ない公園がある。


 当初の目的とは違うが、あそこは身を隠すのにもうってつけだ。

 外周には金木犀が縁取り、身を低くすれば簡単には発見されない。

 それに俺は幼いころ何度かあそこでかくれんぼをしたことがあるからな…隠れ場所は熟知していると言っていい。


「…っと!」


 突き当りを曲がり、予定通り公園に足を踏み入ったら、前のめりに倒れこんで金木犀の影に隠れる。

 角を曲がってすぐそうしたので、奴らには見られていないだろう。このまま隠れられそうな所へ潜んでしまえばこっちのものだ。


 しかし計算外もあった。

 公園を一目眺めて分かったけど…昔の隠れ場所、今の俺の体格じゃ到底隠れられっこない。

 今更それに気付くなんて、どんだけ古い印象を引きずってんだか…久しぶりに来たという訳でもないのに…。


「長井仁が消えたぞッ!」


 呑気で場違いなことを考えていると、俺を探す声が近くから上がった。


 とりあえず…トイレだ。公衆トイレに隠れよう。

 四つん這いから中腰に移行して、速やかにトイレを目指す。


「オレ達は辺りを見てくる! お前らはここらに潜んでいないか探せ!」


 そこそこ権力がありそうな奴が声を上げると、男二人が公園に入ってくる。

 俺はそれを公衆トイレの影から覗き見て、すかさずトイレの個室に逃げ込んだ。


「ふぅ…」


 …さて、どうしよっか。


 辺りにはまだ連中がうろついているだろうし、公園から出たら見つかるのは間違いない。

 しかし、連中が去るまで籠城するにしても、さっきの二人がここを訪れるのは時間の問題だ。


「…ぅ」


 来た…。

 土を踏みしめる足音がどんどん近づいてくる。

 トイレのタイルに到達しただろう、途中それは質を変えて、俺がいる個室の前まで至った。


「…誰か入ってんのー? おーい、出てこい!」


 強く扉が叩かれる。やるしかないか…。


「はーい、今でまーす…」


 気持ち高めに声を出して、ゆっくり扉を開ける。

 徐々に開かれる向こう側。タイルと小便器を遮り、立つ男の体が見える。

 次いで、そこに立つ男と視線がぶつかったその時、俺は向こう側に飛び出した。


「な、長井…っ?」


 声を上げられたら困るので、左手を男の口に当て、揃えた指と手掌で握りこむようにふさぐ。

 そして、右手では男の左手をとり、簡単なアームロックを仕掛けるため男の背中側に捻った。


「ぅぐっ…」


「すまん…ちょっと大人しくしててくれ」


 もちろん抵抗されるが力でねじ伏せて、そのまま強引に後ろを取った。


 後ろを取り、姿勢を作ったらアームロックはもういらない。自由にした右腕をすかさず男の首に巻きつけ、口を塞いでいる左腕と交差させる。


 咽喉部を絞めているわけじゃないので、一応左手はそのままだ。噛まれそうでちょっと怖いけど。


 でもこの体勢…だいぶ極めづらいな。それに俺落とすの苦手だし…。

 というか、絞め技も関節技も基本的に苦手なんだよな…上手く落とせるだろうか。


 小便器の前で座るように男の頭を抱え、力を入れすぎないようにしながら、左右の頸動脈を意識してスリーパーホールドを続ける。


 いや…落とせなくても声が出せないこの状況をしばらく続けるってのもありか。

 こいつに気づかず置き去りに、奴らがどっか行ってくれれば…。


「時田? どうした…?」


「っ!?」


 気付けば公衆トイレの入り口に、人が立っている。

 さっき公園に入ってきたもう一人の男だ。


「仁…? いや…」


 男を抱えているので身動きが取れず、俺はそいつを見上げることしかできない。

 そんな俺を見下ろして、その男は眉を顰める。


「お前…何してんだ」


 まるで知り合いを相手にしたような温度をもって、男はそう言った。

 その視線は完全に俺の目を捉えている。俺が抱えているこいつに言っているわけじゃなさそうだ。


「完全に落ちてる。放してやれ」


「あ…っ」


 慌てて裸締めを解き、そろりと男を横たわらせた。タイルにシミが付いてて大分汚いけど…ごめん。


「…付いてこい。まだ奴らはいるから伏せたままでな」


「え?」


 男はいきなり翻り、公衆トイレを出ていこうとする。

 い、今どういう流れ…!? よくわからないが、そろりと続きトイレを出る。


「急げ。そいつもすぐに目を覚ますぞ。経験則だが、昔…吉矢にさんざ落とされたからな」


「吉矢に…?」


 ——あ!


「お前っ…溝口か! 小学生の時、生徒会長をイジメてた…!」


「生徒会長…? 宇宿のやつ、いま生徒会長やってるのか」


 赤子がごとくハイハイで後を追ってそう聞けば、男は何気なく返事する。

 やっぱりこいつ…溝口だ。面影がある。


 俺たちより2個上の小学生時代の上級生。子分連れで生徒会長をよくカツアゲしてた…。


「というかお前こそ何やって、うっ…」


 言いかけたところで、わき腹を足で小突かれる。

 喋るなということだろう。近くに奴らがいるらしい。すぐに怨嗟の声が聞こえてきた。


「沈澱党…いたずらじゃ済まねぇぞ…」

「あいつらオレのバイクに砂糖入れようとしてやがった…ぜってぇ許さねぇ…」


 やべえな沈澱党。はだしのゲンかよ。やりすぎだろ。

 どうりでめっちゃキレてるわけだ…。

 その声が通り過ぎて、ちょっとしてから溝口が喋り出す。


「…俺たちは、トルスケイルという暴走族だ。今、沈澱党というグループと抗争している」


 暴走族と沈澱党というグループの抗争…まあ、会話からしてそうなのだろう。

 でもあれ…? トルスケイルって、二年ぐらい前に解散したよな…? 


 …いやそうだ。真尋から最近暴走族が再結成したって聞いたな。

 あの再結成した暴走族って…トルスケイルのことだったのか。


「でも、それならなんで…あいつら、長井仁を…? なんで、俺を追ってるんだ…」


「…お前が追われている理由なんか知らん」


 溝口を見上げる。

 すると、やつは逃げるように視線を逸らした。


「知りたいことがあるのなら、直接聞けばいいだろ…」


 直接…? 直接って…どうやってだよ…。


「な、長井仁がトイレにいたッ!! 逃げられたーっ!!」


 トイレの方から声が上がる。


「時田が起きたか。俺もあっちに行く。お前は見計らってここから逃げろ…直ぐに発見されんなよ俺が疑われる」


「大丈夫か? さっきあいつにお前の姿見られたんじゃ…」


「…見た感じ、すでに落ちてたから大丈夫だろ。それに…見られてたとしてもなんとか誤魔化せる相手だ」


 言い残して、溝口はトイレの方に向かった。


 トイレ側に声が集まるのを感じながら、俺は匍匐前進で公園を抜け出した。

 溝口が指示した所から抜け出したらそこには俺が辿ってきた道がある。

 こちらから来たから、人員を割いていないのだろう。道に奴らの姿はない。


 公園から距離が離れるごとに、俺は匍匐前進から直立二足歩行へ近づいて、角を曲がったところで全力疾走した。

 見られていたのかもわからないが、とにかく全力で走った。


 ◇



「ただいま…」


 疲れた…。ため息をついて、事務所に入る。


 すっかり日は落ちて、外はもう暗い。

 尾行を警戒し大回りで帰ったのもあり、こんな時間になってしまった。


「…」


 居間に真尋の姿はない。でも靴はあったし…部屋で寝てんのかな。


 台所に行くと、野菜の入ったレジ袋が無造作に転がっている。

 冷蔵庫を覗いてみるが、料理をした形跡はない。


「…真尋? お前、ちゃんと飯食ったのか?」


 旧俺の部屋(譲ったわけじゃないが)をノックし、部屋にいるであろう真尋に声をかける。


『…長井…さん』


 遅れて、扉越しに声が聞こえる。

 寝起きなのか、真尋のその声は似合わないほど力がない。


「俺は今から外で飯食ってくるけど…なにか買ってくるか?」


『…いえ、大丈夫です』


「…そうか。あとで冷蔵庫になんか入れとくから、食っといていいぞ」


 飯食ったら、ちょっとコンビニに寄っていこう。


 ◇


 外で飯を食ってきて、少し仮眠を取ったらすでに夜の9時を回っている。


 真尋はその後も部屋を出ていないようだった。

 元気だけが取り柄のような奴だし、大丈夫だとはおもうが…。

 …まあ、今日はちょっと追いかけられたりしたから、いろいろと疲れたのだろう。


「…よし、行くか」


 身支度を終えた俺は、玄関に向かう。

 今日は仕事もないが、やることがある。徒労に終わるかもしれないけど…。


 ビルを出て、夜の街に繰り出した。表通りとは反対方向に歩を進める。

 それでも少なくない人通りのなか、溝口の言葉を思い返した。


『———知りたいことがあるのなら、直接聞けばいい…』


 その方法がわからないから…苦労しているのだがな。


 …こうなりゃ、辿れるものから辿るしかない。

 沈澱党とやらは知らないが…トルスケイル。昔、奴らのアジトだった場所を俺は知っている。


 先ほど行った公園の近く、河川敷沿いに工場が並ぶ場所がある。

 そこにオヤジは倉庫を一棟持っていた。

 二年前、トルスケイルという暴走族がその倉庫を占拠し、たまり場にしていたのだ。


 再結成したトルスケイルが現在もたまり場にしているとは考え難いが…でも、他に当てなんてない。


 ひたすら歩けば、明るい街も途切れる。

 すっかり夜の帳も降りて、清閑とした町並みが広がり出した。

 道脇にぽつぽつと立つ街灯と、辺りの住宅から漏れ出る微かな光が道を照らす。


「…」


 暗くてよくわからないが、誰かに尾けられている…気がする。

 また、トルスケイルの連中だろうか…。


 だが、今度は逃げるつもりはない。むしろ、たまり場まで案内して欲しいくらいだ。

 …昼の奴らのようにすごい殺気立たれていると流石に困るが。


 草の茂る河川敷の斜面が見えてきた。階段を上り、土手に上がれば高水敷が見下ろせる。


「子供の頃はよくこの辺りに来ていたな…」


 夜目にもかすかに、思い起こされる懐かしい情景。月のない空には星々が良く見えた。

 いつの間にか後ろの気配も忘れ、空を見上げて土手を歩き続けていれば、工場群の中腹ほどまで来ている。


 その末尾はここからでも目に入る。

 こちらに背を向けるようにして建つ、目当ての倉庫の窓からは光が漏れ出ていた。


「明かりがついてる…」


 もちろん、暴走族の連中がいるとは限らない。

 むしろ冷静に考えれば、あのオヤジが倉庫を採算度外視で放置しているとは考え難い。

 どこかに貸しているのか、あるいはすでに売り払ったのか。どちらかの可能性が高いだろう。


 土手を降りて、こっそりと倉庫に近づいてみる。

 これ完全に不審者だよなぁ、ときょろきょろしながら駐車場に立ち入り、漏れ出る光を求めるように窓に寄った。


「声…?」


 中から、人の声が聞こえてくる。

 倉庫の壁を背にして窓を覗き見てみると、その中にはやけに若く見える男たちが数十人と蠢いていた。


 ———なんだ…この集まりは…。


 たぶん…中学生あたりが主だろう。

 だが、見れば見る程、合宿などの学校行事やなんらかのクラブとかの集まりには見えない。

 どう見ても、不良少年たちの集い、といった感じだ。


「…でも、トルスケイルじゃないよな…」


 駐車場にバイクは見当たらないし、それに年齢層が低すぎる。

 免許も取れない16歳未満ばかりだろう。無免許の可能性もあるが…それにしたって比率がおかしい。

 やはり、トルスケイルとは違う何らかの非行グループのたまり場と考えるのが自然か。


 しかし、正直…こんな大規模な集まりは見たことがない。

 それに照明と、倉庫内にいくつかある冷蔵庫も気になる。

 電気を自由につかえるのなら、不法に占拠したわけじゃないのだろうか…?

 なんだか、不自然だ…。


「…? あれは…」


 その時、凝らしていた目に一人の少年が映る。

 瞬間、衝動的に俺は倉庫の入り口に向かっていた。


 入り口の大きな引き戸からは、光が漏れ出ている。

 その隙間に手を差し込み、俺は扉をゆっくりと開いて中に入った。


 こちらを見る視線はほぼない。普段から人の出入りがあるのだろう。

 お陰で異分子だと気づかれない。


 辺りを見回し、顔を探す。

 煩雑とした若人たちの群れのなか、やがてその顔を見つけた。


「成哉!」


 成哉は同じような年頃の少年たちと談笑している。

 俺はそこに駆け寄り、成哉の腕を引いた。


「え…兄貴?」


「ちょっと…こっち来い」


 そのまま人の少ない所まで成哉を引っ張り連れて行く。


「どしたの、兄貴。こんなところにいるなんて…」


「…それはこっちの台詞だ。これは何の集まりだ? お前いつもこんなところに顔出してるのか?」


 あの成哉もついに反抗期が来てグレちまったのか、と複雑な感情を抱きながら、成哉を問い質す。


「いつもじゃないけど…まあ、時々ね。兄貴は知らない? 沈澱党っていう最近出来たチームなんだけど」


 沈澱党…。

 それって確か…トルスケイルと抗争をしているって言う…。


「…成哉、それならトルスケイルを知ってるよな。あいつらは何故——」


 核心に至る質問を投げかけようとしたそのとき、


「——おいっ! 外に変な奴らいるぞッ!!」


 と、出入り口の方から大声が鳴り響いた。

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