その7

 泥の底。鉛のような体は沈み、混濁した意識がただ蠢く。


「——おーい…」


 どこからか、声が聞こえる…。

 底に差し込むそれは、意識をゆっくりと引き上げる。

 徐々に光が見え、音が聞こえ、ついには体を苛む倦怠感さえも蘇った。


「おーい。お兄さーん」


「…ぁ…?」


 開いた薄目に入るのは、ぼやけた夕空と影。

 寝ぼけ眼をこすり、重いからだに力を入れて上体を起こす。

 そのまま首を回し、少しずつ鮮明になってきた意識と視界で今の状況を把握しようと試みた。


 …いつもの屋上。キュービクルの脇にある日陰…つまり俺の定位置だ。

 傾いた日が足先に当たっていて温かい。夕色の光からして、もう放課後だろう。

 そして何故か、俺の脇にはしゃがみ込むようにこちらをみる人影がある。


「…みどり?」


「お目覚めですか? おはよう。お兄さん」


 膝を抱え込み寝起きの俺を見るのは、長井みどり。

 ここの一年生であり、俺の妹でもあるその子だった。


「みどり、なんでここに…」


「息抜きに学校散策してたんですよ。それでふと屋上に出たんですが、驚きました。まさかお兄さんがここで寝てるなんて…」


 散策…。

 普通屋上なんてものは施錠されているし、みんなもそう思っているのかここに人は寄り付かない。

 なので、なぜ屋上にみどりがいるのかと不思議に思ったのだけど、当てもなくぶらぶらしてたらたまたまここに辿り着いただけか…。


「あ、そういえばさっき吉矢さんにも会いました」


「へえ、珍しいな…。アイツが放課後まで学校に残っているなんて」


 この前のように取り巻きのことでも待っているのだろうか…。


「なんだかお兄さんを探したみたいですよ。二年生の教室の前でお兄さんの写真を人に見せて、何処に行ったんだ、って聞いてましたから」


「はあ…!?」


 ぼやけていた意識に冷水をかけられる。

 俺の写真で聞き込みって…なにやってんだアイツは…。

 アイツとの間に繋がりがあるってクラスの人たちに思われたら嫌だなぁ…絶対評判悪くなるよ。

 まあ、今でもじゅうぶん悪いけど…。


「ていうか俺の写真って、いつの間にそんなものを…」


「プリクラでしたよ。お兄さんこそ吉矢さんとツーショットのプリクラなんていつの間に撮ったんですかぁ?」


「プリクラ…?」


 しかも吉矢とのツーショットとか、そんな気色悪いもの撮ったっけ…。


「…あ。そういや、そんなんあったかもなぁ…。フレームから吉矢の頭が見切れてて、そのすぐ下にやたらデカくなった目ん玉が浮かんでる、怖いやつ…」


「そうそう、なんかメルカトル図法みたいになってるやつです。やっぱり二人は仲いいんだなぁ」


「いや、あれはアイツがしつこいから仕方がなく…それに俺が貰った分はもう捨てたし」


「えー、酷い! 昔からそういうところありますよね…お兄さんは」


「だって、なんか不気味だったんだもん…」


 そもそも吉矢のやつ、プリクラで聞き込みって頭どうかしてるだろ。

 ちっさ過ぎて目が痛くなるわ。


「もったいなぁ…お兄さんの血色がよかった頃の、貴重な資料なのに」


「プリクラの美白補正だろ…」


「いやいや、今のお兄さんとは格段に違いましたって…。ほら、クマとか凄いですよ」


「そうかな…」


 今年に入ってからやたらと同じようなことを言われるので、ぺたぺたと自分の顔を触ってみるが、当然それだけじゃよくわからない。


「ちゃんとした睡眠をとるように心がけてください。授業をサボって寝るにしても、こんな明るい場所じゃなくてもっと暗いところにしましょ」


 確かに、明るい所で寝ると良くないって話は聞いたことがある。

 寒い日が続いていたから風のない日は屋上で寝るようにしてたけど(コンクリートが太陽熱を反射して日陰でも結構暖かいのだ。キュービクルという風よけもある)、もう気温も上がってきたしそろそろ校内で寝るようにするか…。


「さてと…」


 膝に手をおき、コンクリートに付けた尻を上げる。


 みどりとの会話で目も覚めてきたし、そろそろ帰ろう。

 空を見るにたぶん5時前ぐらい。学校から事務所までは歩いて30分なので、ちょうどいい頃合いだ。


「帰るんですか」


「うん。みどりは帰らないのか? 良かったら途中まで一緒に行くか」


「家、反対方向じゃないですか…。それに今は菜津美の仕事が終わるのを待ってるんです」


「ああ、そうだったのか…」


「あ、それとも三人で帰ります?」


「…やめとく」


 昨日のように、また揉めたらみどりに悪いからな…。


 鞄を拾い上げ屋上から校舎へ戻れば、みどりも後ろをついてくる。

 いつもの風景。廊下に差し込む夕色は普段より明るく、夏の気配を携える。

 薄暗い…だけど明るいとも感じる廊下を二人して歩いた。


「あと、一緒に帰るなら途中までじゃなくて家まで来てくださいよ。お母さんも喜びますよ」


「うむ…また今度な」


「そんなこと言って、どうせそのままなあなあにするつもりでしょー」


「いや…時間が出来たら顔を出すよ。そのうち連絡するからさ」


「…え、まじに?」


 隣のみどりはきょとんと目を丸くする。

 今まで何かと理由をつけて逃げていたくせに、今更心変わりしたのだからこの反応も当然だろう。


 …しかもそれが、つい昨日会った子に影響されてのことなのだと知られたら、笑われてしまいそうだな。


「じゃあ、あとはよろしくな」


 2年生の昇降口に行く俺は生徒会室に向かうであろうみどりに手を振り、道を分かれた。


「あ、ちょっとー! さっきの本気ですかっ? お母さんに言っちゃいますよーっ」


 静かな校舎のなか、みどりの張り上げた声が良く通る。


「うん…ゆかりさんにもそう言っておいてくれ」


 背にかけられた声に返事して、そのまま廊下の角を曲がれば、訝し気に首を傾げるみどりが目の端に見えた。


 ◇


 校門を出て、帰途に就いた。

 木々に茂り合う若緑が道々目に入る。

 チカチカと朝日に照り映える姿が記憶に新しいが、今やその精彩を欠き、湿り気のある風にそよと揺れている。


「卯月曇りか…」


 空を見上げれば、清和な気候は人知れず雲に覆われ、雨雲の台頭を許していた。

 世界を染め上げていた残日はひび割れた曇天から零れるように光を漏らし、そして、繁華街に近づくほど町並みもそんな空模様に合わせて自然の彩りを失っていく。


 雨雲のせいか、いつもより少ない人足のなかを歩くと、しばらくして事務所のある丁字路に着いた。


「…」


 そういえば、あの子…大野真尋と言ったか。あの子はちゃんと自分の家に帰ったのだろうか。

 昨日の夜、事務所を出てから今の今まで一度も戻っていないので、今更心配になりながらビルに入った。


「あや。長井くん今帰ったの? おかえり~」


 思わずうわ、と声をあげかける。

 ビルに入って直ぐの階段を見上げれば、妖怪こと3階のガールズバーの店主、内野のおっさんが振り向くようにこちらを見下ろしていた。

 コンビニにでも行ってきたのか、手には中身の入ったレジ袋を下げている。


「ちょっと遅かったねぇ。入れ違いだったよ」


「…入れ違い? 誰とですか」


 ビルの入り口で話し込むのもなんなので、聞き返しながらせっつくように階段に足をかけるが、おっさんは不動にして上らない。


「ほら昨日君が連れてきたあの女の子、真尋ちゃんさあ。さっき僕がコンビニ行こうとしたら、上から降りてきた彼女とバッタリ会ってね。それで道すがら話をしたんだ~。この辺の地理に詳しくないみたいで道を聞かれたから、道を教えたり…」


「へー…」


 漸う階段を上り始めた内野のおっさんの後を間隔をあけて追う。


 そうか…あの子はちゃんと帰ったのか。

 たった数時間の付き合いだったが、その間はだいぶあの子に振り回されたので、ちょっとホッとする。


 …でも、俺はあの子の境遇を聞いて、ゆかりさんと向き合う覚悟ができた。


 まあ、大仰に覚悟というより、何も失ってない俺が逃げているのはおかしいと思っただけだが…とにかく、それを気づかされた。

 だから、あの子には感謝するべきなんだろうな…。


「それより聞いたよ長井くん! 真尋ちゃん、一家離散して帰る家がないんだってねぇ…。それを見かねて部屋を貸してあげるなんて、やっぱり君はいい子だなぁ」


 予期していたようなウザ絡みを全然してこないのでどうしたのかと思えば、あの子がおっさんに色々と説明してくれたみたいだ。一家離散とは、俺が聞いた話とちょっと違う気がするけど、まあ人に言いづらい内容だしそう表現したのだろう。


 しかし、善くもこの人に言い聞かせることが出来たなぁ。

 俺が弁明したとしても決して聞き入れてくれなかっただろうし、これからあのネタで何度も絡まれるんだろうな、と考えだいぶ憂鬱だったので助かった。


 ◇


「あれ、鍵がない…」


 三階で内野のおっさんと別れ、そのまま階段を上りきり、事務所の前で鞄をまさぐるが目当てのものが見つからない。


 …あ、そうだそうだ。昨日あの子に、出るときは施錠しておいてと鍵を預けたんだった。

 なんだか物忘れが多くなっている気がするな…みどりの言うように睡眠には気を付けた方が良いかもしれん…。


「えーと、確か鍵を閉めたらドア横のパイプスペースに置いてって言ったよな」


 少しかがんで、インターホンの斜め下にあるパイプスペースを開ける。


「…ないんだけど」


 配管の裏も、止水栓の脇も、水道メーターの上も覗いてみるが、鍵なんてものは全く見当たらない。


「…?」


 そもそも鍵が閉まってないんじゃないかとドアノブをガチャガチャと引っ張ってみるがビクともしない。


 となると………え、どうすんだこれ。鍵がないから俺入れないじゃん…?


「い、いや待て…もしかしたら、あの子まだ中にいるのかも」


 ほら、何か忘れ物でもして取りに戻ったのかもしれない…。


 俺は微かに震える指でインターホンを一度押す。

 事務所の奥から反響した呼び出し音が扉越しに聞こえた。そのほかに、返るものはない。


「…」


 もう一度押す。再度、反響した呼び出し音だけが聞こえる。

 もう一度押す。返ってくるのは無機質な電子音だけで、およそ人の気配なんてものは感じられない。

 扉に鉄槌を叩きこむ。


「おい大野真尋! 居たら出てこいゴラァッ!!」


 焦りからか自分でも驚くほどドスが利いた声を上げながら、何度も鉄槌を叩きこむ。

 しかし、いくら待っても扉の先からは何の反応も返ってこなかった。


 …あの女、事務所の鍵を持ったまま行きやがったな…!



「おっさんっ、あの子に道を教えたって言ってたよな! 何処に行こうとしてたか分かるか!?」


 三階のガールズバーに乗り込み、矢継ぎ早にまくしたてる。


 くそ、まさかこんなことになるとは…。

 事務所の鍵を持っているのは俺だけじゃないし、最悪紛失しても大丈夫だとおざなりに鍵を預けたのが仇となった。実際にそうなるとかなり困るもので、このままじゃ制服も着替えられない。

 間の悪いことに、昨日スマホを事務所の中に置き忘れていたし…。


「わ、どうしたの長井君。というか、おっさんて呼ばないでって言ってるじゃない。

 ボクのことはユウちゃんとでも…」


「あの子が何処行ったのか教えてユウちゃん!」


「ユウちゃん教えちゃうっ」


 店の奥では店員の燈花さんが俺たちのやり取りを気味悪げに見ていたが、背に腹は代えられない。

 もしあの子が駅に直行しているのだとしたら、なりふり構っているような時間はないのだ。


「えとねぇ、彼女にあの凄く大きいビルは何処にあるのかって聞かれたんだぁ。ボクはピンときたよ。ホウライビルのことだってね。それで、コンビニを奥に進んで、表通りに出れば右手にそのビルが見えるから、それを目印に歩いていけばたどり着くって教えてあげたんだぁ」


「ありがとおっさん!」


 ユウちゃんって呼んでッ、という抗議の叫びは聞こえないふりをして、ガールズバーを飛び出す。

 駅に直行はしていないようで助かった。これならあの子が帰ってしまう前に間に合うかもしれない。


 しかし、よりにもよってホウライビルに向かったとはな…。


 まさか、あの不良共に会いに行ったんじゃないかと、嫌な予感が一瞬よぎる。

 …いや、あの辺にもいろんな店があるから、家に帰る前に買い物をしに行っただけかもしれない。

 というか、そうであってほしいが…。



 日が沈み、ビルの外は微かな残照に青く染められていた。

 空を覆っていた鈍色の雨雲はその色を変えて、青黒い密雲と化している。


 その下で、俺は駆けた。

 普段の通行量のなかで走りでもしたらどっかで通行人にぶつかりそうなものだが、今はこの雲合いのおかげで人が少なく、そこそこの速度を出せる。


「ふう…」


 息も切れないうちに、ホウライビル周辺まで辿り着く。

 昨日だいぶ走りこんだからな。お陰で体力が戻ってくれたのかもしれない。


 しかし、ここまで来たのはいいが、これから何処を探せばいいのだろう…。

 内野のおっさんからは、あの子にこの辺りへの行き方を教えたとしか聞いていない。

 つまりこれ以上は大したあてもなく、あの子を探すことになる。


「…となれば、まずはあそこか」


 数少ない俺の心当たり。

 藁にも縋る思いで…だが、そこにいて欲しくないという矛盾したものを抱きながら、足を動かした。



 そうして行き着いたのは、ホウライビル前のいつもの広場。


 しかしその様はいつもと違った。

 今にも降り出しそうな天のせいだろう。もう日が沈んでいるというのに人気はまばらで、その数は普段の五分の一もない。

 残照と雨雲の織りなす群青の帳も相まって、まるで早朝に訪れてしまったような気分になる。


「人が少ないのは好都合だけど…」


 目を凝らし間隙が目立つ広場に視線を向けつつ、その脇にある横道に向かった。

 広場の方にあの子の姿は見えない。

 やはり、いるとしたら…昨日彼女と出会ったこの先、なのか…。


 両脇に建物が聳え、光を遮られたその横道は暗く、水底にぽっかりとあいた穴のようだ。

 この穴に入ってしまえば、もう後戻り出来なくなる。

 そんな予感のようなものが去来するほど、そこは深くどこまでも続いているような気がして、やがて思わぬうちに足が止まった。


「––––で、オレ何処に行けばいいんすか丸さん。クラブっすかあ?」


 そんなこんなでグズグズしていると、突如、眼前の深穴からぬっと男が出てきて、俺の前に現れる。


「…あ!」


 面倒くさそうに電話を耳に当てているその男には見覚えがあった。

 昨日、俺とあの子を追ってきた奴らの一人…。

 それも、駅前から霊園前の坂道までにわたって、俺の中傷で騒ぎ立てていた二人組の片割れだった。


「…ん? なに、お前」


 声を出してしまったせいか、ただ単に道を塞ぐように立ちすくんでいたためか、男は訝し気にこちらを睨んだ。


 あまりにも突然なニアミスに、俺は何も言えずにただ数歩下がる事しかできない。

 完全に目と目が合い、これはもう追いかけっこ…昨日の焼き増しになることは避けられないと覚悟する。

 後ずさった足に力を込め、いつでも逃げれるよう体勢を整えた。だが…


「…んで、なんでしたっけー丸さん…や、今のはなんか変な学生がいてー」


 そのままやつは俺の横を抜けた。

 まるで何事もなかったかのように通話を続けるその声色にも変化は見られない。


「あ、れ…」


 俺に気付いていない、のか…?

 ぱちくりと、電話片手に横を通り過ぎて行った男の後頭部を眺める。


「あでもちょっと遅れるかも。昨日働きすぎて筋肉痛マジだるいの…」

『––––!!』


 電話から俺にも聞こえるほどの怒鳴り声が響き、男はそれに顔を顰めている。


「もー怒鳴んないで~。確かに昨日はオレが取り逃がしましたけどー、それは却ってよかったじゃないすか。あのままじゃ警察呼ばれてたかもしれないしさぁ?」


 男は話を続けたまま歩いて行った。


「…」


 今はあいつらの相手なんかしてる暇はない。それよりも、急いであの子を探さなくてはいけない。


 …でも、何かが引っ掛かる。

 気づけば俺は裏路地に背を向け、男を追いかけていた。


 踵から踏み込み、爪先まで緩やかに体重を流すように歩く。

 やつは通話中とはいえ、今は雑踏の音もない。一応、足音は抑えた方が良いだろう。


「そんで、戸田さんはなんて? まさか拉致るんすか? だとしたら嫌っすよオレは。せめてあと2人はいねーと…」


 広場から離れ、さらに人気が少なくなったからか、なにやら拉致だとか物騒なワードが出始めた。

 やはり、ただのチンピラの集まりという感じじゃない。明らかに、近づかない方がいいタイプの連中だ。

 今だって後をつけているのがバレたら、また厄介なことになるのが目に見えている。

 …だというのに、後をつける俺の足は何かに突き動かされ、止まることを許さない。


「はいはい、わかりましたよ。そいつが帰ってきたらお話しして、連れてけばいいんすね。はい、顔は覚えてるんで大丈夫ー」


 もしかしてだが、あの腕時計の落し主を見つけたのだろうか…。

 奴らはあの腕時計にだいぶ執着しているよう見えた。

 俺の予想通り、腕時計の落し主が奴らの金を盗んだ元仲間とかだとしたら、拉致という強硬な手段に訴えてもおかしくない気がする。

 でも、奴が“そいつ”と呼んでいるのを見ると、元仲間というのは不自然かもしれない…。


「あちょっと待って丸さん。まだそいつの住所聞いてないっす。その女の子が教えてくれたんでしょ? 先に行って車置けるとこ探しとくんでー」


 どうやら女の子から、その拉致被害者(予定)は居場所を特定されたらしい。

 長い逃亡生活や潜伏が、女性関係から瓦解するというのはよく聞く話ではある。

 女性と縁がない俺にはよくわからない状況だが、まあ…人との関わりを一切断つというのは難しいことなのだろう。

 やっぱり、逃亡生活や潜伏とは無縁に、真面目に生きていくのが一番だ。


「––––丁目、11番地。宇野ビルの4階っすね。了解ー。じゃ、後で落ち合いましょ」


「……あり?」


 宇野ビルの四階って…俺の住所じゃねーか。


 あ、あれれ…? どういうことだろう…。

 てっきり、腕時計の落し主を拉致する話でもしているのかと思ったら、その住所が俺の事務所で…つまり拉致られるのって俺…? 俺が狙われてんの? なんで!?


 傍観者気分で事の成り行きを眺めていたのに、突然舞台に引きずり出された俺は、通話を終えた男を見送りながら立ち尽くす。


「ど、どうしよう…」


 何処かに身を隠した方がいいのか? 

 でもそんな伝手は…いや、オヤジに相談すればなんとかなるだろうが…これはやめておこう。

 これ以上アレに借りを作りたくもないしな…。


 幸い、財布は手に持っている学生鞄に入っているはずだ。

 身を隠すほどではないにしろ…しばらく何処かで時間をつぶした方が良いかもしれない。


「あ…」


 財布を探そうと、鞄に手を差し込めば指先にひんやりとした硬いものが当たる。


「そうだ…腕時計…」


 今日中に交番にでも届けようと思って鞄に入れていた…件のひび割れた腕時計。

 今の今までその存在をすっかり忘れていたけど…そうか。

 日々を懸命に生きているだけの善良な一般人である俺が、あんな奴らに狙われる理由はこれしかないよな…。


 たぶん、奴らはまだ腕時計の落し主を探している。

 だからこそ、この腕時計をもっている俺を拉致ろうとしているのだろう。


 昨日はこの腕時計を持って奴らの前から逃げ果せた。

 奴らから見て、俺が物証的にも人証的にも重要な手がかりを持っているように映るのは間違いない。

 まあ実際にあの時時計を持っていたのは俺じゃなくて、あの子…大野真尋だったが。


「はやく、あの子を見つけないと…」


 男の後ろ影を見送ってから微動だにしていなかった踵を返す。

 思った以上に、奴らは気合が入っている。もし捕まったらどんな目に合うかもわからない。

 そして、その標的となりうるのは俺だけじゃない。

 一刻も早くあの子を見つけなければならない理由が、一つ増えた。


「——あっ…」


 そこでようやく、頭の片隅に引っ掛かっていた何かが形を成し、一つの可能性が浮かび上がる。


 …さっきあの男は、住所が女の子から割れたと言っていた。

 かてて加えて、その住所は俺が住む事務所の住所だった…ってことは…。


「くそっ!」


 反転させた体を再度反転させ、米粒ほどに小さくなった男めがけ駆けだす。


 事情を知らない人にはとんだ奇行に思えるだろう。

 しかし、思い当たった可能性に俺はそうせざるを得なかった。


 俺の住所を教えた女の子ってのは、もしかして——!


「お、いっ…!」


 大した距離でもないのに焦りからか切れ切れになった呼吸のまま、交差点で信号待ちをしている男の肩を掴む。


「あー…? んだよ」


「よおっ…尋ね人が自ら来てやったんだ…。代わりに、一つだけ教えてくれよ…っ」


 振り向いた男とじっくり顔を見かわした。今度こそ後戻りできない。

 俺が覚悟を決めると同時に、男はあっけにとられたよう口を開いた。


「お前だれ?」


 ◇


 すっかりと暗くなった空。

 暗雲はそのままで、雨は未だ降っていない。


「いやわからんてー。学生のコスプレしてんなよなぁ」


「コスプレじゃねぇよ…」


「昨日の芋ファッションが鮮烈すぎてさ、完全別人だって」


 さっきからうるせぇな…。

 先ほどから俺の斜め後ろを歩きながら、言い訳を繰り返している男を見やる。


 片耳にピアスをジャラジャラと下げたこの男は、特に緊張した気色もなく道案内をこなしていた。

 探している相手の人相を忘れて、一度は俺を見逃してしまったというのに失態を犯したという雰囲気はまるでない。

 昨日追いかけてきたときも疲れたのか途中で引き返していたし、やる気の無さが透けて見える。

 拉致計画なんてものを企てるくらいだから組織立った集まりなのは間違いないのだろうが、内部の締め付けはだいぶ緩いのだろうか…。


「…それより、本当にあの子は無事なんだな?」


「今さっきお前の目の前で丸さんに確認したじゃん。別になんもしてないってよ。つーかあっちから来たらしいし」


 やはり俺が思った通り、大野真尋はこいつの仲間と一緒にいるらしい。

 だが、流石にあの子のほうから接触したと聞いた時は呆れた。

 つーかそれで俺の住所をバラすというのはどういう了見だ…!


「おーい。歩くのはえーよー。あ、そこ右ね」


 ピアス男のいう通りに道を行く。

 駅をこえ、やがて見覚えのある通りに出た。


「ここって…」


 暗い通りに、店先に明かりを灯した居酒屋が続く。

 そして、その奥には店と店との合間に挟まる塗装の剥がれかけた鉄扉が見えた。


「あそこあそこ」


 ピアス男が鉄扉を指さす。

 間違いない。そこは先日、吉矢たちに連れられて行ったクラブだった。


 …正直、少し安心する。

 拉致るなんて言っていたが、クラブには他の客もいるだろうし、軟禁もままならないだろう。

 拉致というのも案外、ちょっと話を聞く程度のニュアンスだったのかも知れない。

 だが、そんな安堵もすぐさま覆された。


 鍵がされていたらしく、ピアス男が扉を叩けば内側から扉が開かれる。

 そうして出迎えるのは、このピアス男の相方。

 昨日俺たちを追いかけてきた片割れだ。


「え、誰これ替え玉? なんかもっとダサくなかった?」

「な」


 促されるまま中に入れば両脇をコンビに固められ、なにやら無礼な言葉を投げかけられるが、俺は脇目も振らず耳を欹てていた。


 静かすぎる…。

 以前来たときはここからでもクラブミュージックの響きを感じられた。


 ちらりと受付を覗くが、そこに人の姿はない。

 二人とともに奥に進んで、階段を下りる。先日、扉の先にいた黒服の姿も見えなかった。


「みんなお待たせ~。なんと一人で捕まえてきちゃったよオレが~」


「…電話でそいつから話しかけてきたとテメェ自身言ってたじゃねえか。ナチュラルにフカしてんじゃねーよ」


 下り階段の果て、ピアスの男がフロアにつながる大きな扉を開き、その先に声をかける。

 続いて扉をくぐれば、がらんとしたホールに出た。


 薄暗いのは以前来た時と変わらずだが、ホールの奥で蠢めいていた人だかりは影も形もなく、あのやかましい音楽もない。ただ話し声だけが左手から聞こえた。


「あいつらは…」


 話し声のする方に顔を向ける。

 そこにはちょうど席(前に俺と生徒会長が腰を下ろしていた所だ)を覆い隠す様に、男が数人立ち並びこちらを見ていた。その中の二人には見覚えがある。

 スキンヘッドの強面とフード男…確か丸さんと呼ばれていた奴と…さ、さとう…だっけか。 


「あれ、藤はいないんすかぁ? 藤も昨日一緒にいたんでしょ?」


「電話したけど、眠いから寝るだとさ…」


「アイツ相変わらずゴミだな~追放しません?」


「ああ、そのうえお前らアホ二人も一緒に処理出来たら文句なしだが…それは戸田さんが決めることだからな」


 集まりに近づいて行ったピアス男に強面スキンヘッドが答え、視線を横に流す。

 その先にはテーブルを前に腰を据える男の背中があった。


 こいつが、戸田…?


 その名は奴らの口からたびたび出ていたものだ。

 会話から推した感じ、それなりに影響力のある人物だろう。

 よくよく周りの男たちを見れば、この男を中心として立ち並んでいる風に見える…もしかしたら奴らの首魁なのかもしれない。


「…お、長井さん! こっちー!」


 だしぬけに聞き覚えのある声が響く。

 驚いて辺りを見回すが、この薄暗いホールに声の主は見当たらなかった。


「こっちこっち」

「…あ」


 再度の呼びかけに、ようやく声の主を見つける。

 男たちに遮られ気付かなかったが、テーブル奥のL字ソファには一つの人影があった。


 こちらに背を向けた男の正面。そこにはかの大野真尋がソファを1人で陣取り、俺に手を振っている。


「はぁ…」


 なんというか…心配して損したな。

 相も変わらず能天気なたたずまいに、呆れと安堵が混じったため息を吐く。


「な…がい…?」


 するとその時、背を向けて座っていた男が振り返った。


 30代前半くらい…だろうか。

 男にしては長い髪から覗いた首は太く、かなり鍛えていることが分かる。

 しかしその体躯とは対照的に、その顔色は生気を失ったように青白い。


「…わって…」


「え?」


 唇が動いたのを見ていなかったら、その男が声を出したことにも気づかなかっただろう。

 そう思うほど微かな声だったというのに、話をしていた周りの男たちは一斉にその口を噤んだ。


「…おい、猪狩いがり


「オウ」


 強面に呼びかけられ、強面に負けず劣らずのいかつい男がテーブルに向かい、青ざめた男に耳を寄せる。

 膝をついたその様に、まるで側仕えのようだな…と考えていたら、ふとその男は立ち上がった。


「戸田さんが座れって言ってんだろうがァ!! ガキが早く座れッ!!」


「うわ…!?」


 な、なんだこいつ…。

 猪狩と呼ばれたその男が突然こちらを向いたと思えば唾を飛ばし怒鳴り出す。

 それに応じて、強面が俺の背を押しソファに追いやった。


「なんか怒ってますよ。何したんです?」


「さあ…」


 言われるがままソファに座れば、必然的に大野真尋と隣り合う。

 ちらりと彼女の様子を見れば、何故かテーブルの上にあるポテトをつまんでいた。

 緊張感のかけらもないな…。


「…てかお前、当然のように俺を売ってるんじゃねぇよ。住所バラしやがって」


「え? いやっ、それはそのー…あの腕時計何処だって聞かれて…そういう流れだったんでしょうがなかったんですよ~。というか長井さんが腕時計を返してくれればこんなことにはならなかったんですからっ!」


「なんでお前までキレてんの…」


 …まあ、いいか。

 変に義理堅く口を閉ざして、奴らの反感を買うよりはマシだろう。


「…にか…む…?」


「…?」


 切れ切れの呼気のような音に視線を正面に戻すと、テーブルの先で青い顔が俺を見据えていた。


「何か飲むかって聞いてんだろッ!! 早く答えろォッ!!!」


「い、いや…いらない…」


 またもやいかつい男が大声を出すものだから、面食らいながら返答する。


 マジでなんなんだこいつらのテンション…。

 たぶん顔が青い男の代弁というか通訳をしているのだろうが、あまりにも声がデカイ。

 やたら声が小さい顔面蒼白男の声を拾おうとしていた所であの大声が響いたものだから、耳が痛えよ。


「それ、じゃあ…はなし、をしても…いいかな…」


 俺の苦痛を汲み取ってくれたのか、十数秒時間を置いてからぼそぼそと青白い男が話し始めた。


「…ぼ、ぼくは…戸田、しゅうすけ——」

「戸田さんが話をしていいか聞いてんだァッ!! 居住まいを正せェ!!」


 戸田と名乗る男が段々と聞き取れる声量で喋り出したというのに、通訳の男が大声を被せる。


「…ド、ドラジットの——」

「この街にいるなら勿論戸田さんのことは知っているよなァ!? オレらドラジットのリーダーだァッ!」


 またもや言い終えるよりも先に被せられ、戸田の青白い顔も何処か悲しげなものに。

 いや、そんなことよりも…。


「ドラジット…」


 聞いたことがある。この街に数ある半グレ組織の一つだ。

 例にもれずいろいろとあくどい事をやっているらしく…中でも薬物売買においてその名をよく耳にする。

 でも、噂に聞くあのドラジットにしては構成員の質が…ちょっとアレな気もするが…。


「…きみ、は、前に…このクラブに来ていた、よね…」

「テメェ前にこのクラブに〇×&♯§@*$♭☆▲ ッ!!」


 通訳の方が何言ってるかわかんねーんだけど。


「戸田さん。このガキを知ってるんですか」


「うん…。前回…ここに、きた…とき…」


「その時はたしか…俺はご一緒していませんでしたね」


 横から強面が澱みなく戸田から情報を引き出す。

 …コイツが仲立ちしてくれればいいのに。


「え、知り合いだったんですか?」


「いや…」


 戸田の俺を知っているという言葉に、大野真尋が聞いてくる。

 吉矢に連れられこのクラブに来た時に会ったのかもしれないが、正直な所俺は奴らに覚えがない。

 というか、クラブで会長と話した後どうなったのか記憶が曖昧なんだよな…。


「あア!? テメェ素っ惚けてんじゃねぇよ! オイ関! お前もあの場にいたから覚えてるよなァ!? ここに前来た時だ!」


「…え? こんなやついたっけ?」


「なんで覚えてねーんだボケがァッ!!」


「うるせ〜…。たぶん眠かったんでしょ、そん時。てかいちいち覚えてねーよ…」


 知り合いというのを否定しただけなのだが、何やら不興を買った模様。

 しかし、その矛先はピアス男に向かい、声がデカい通訳とピアス男の言い合いが続く。


「あの、さ…この腕時計はあんたらに渡すよ」


 このまま不毛なやり取りを眺めていたところで事態は好転しなそうだ。

 俺は本題を切り出させるため、鞄の中からあの腕時計を取り出しテーブルの上に置いた。


「だから、俺たちはもう帰っていいかな?」


「…は?」


 俺の言葉に声がデカい通訳が言い合いを切り上げ、ゆっくりとこちらを向く。


「ちょっ、なに勝手な事言ってるんですか! 簡単に渡すなんて…!」


 少し遅れて大野真尋も不満げに声を上げた。だが、今はこいつに構っている暇はない。


「お前自分の立場分かってんのかァ…?」


「…分かってねーからさっさと教えてくれよ。さっきから不得要領にも程がある。馬鹿なんじゃないかお前ら…」


 …あ、いかん。

 怒声を何度も浴びせられストレスが溜まっていたのか(善良な市民として反社への義憤もあるに違いない)、つい喧嘩腰で返してしまった。


「…てめェ」


 辺りが静まりかえり、ぽつりと、通訳の男が珍しい声量で呟く。

 そして戻る静けさの中で、男の顔は徐々に険しく、歪んでいった。


 や、やばい…っ。

 来るであろう比類ない怒号に備え、耳を塞ぎ顔を背ける。


「ナメて——ッ…」


 果たしてその声は上げられた。

 しかし、それはふと不自然に途切れる。


「……なめて?」


 俺は覚えずオウム返しをしながら、どうかしたのかと、恐る恐る顔を戻しつつ薄目で通訳の方を見てみるが、そこに立っていたはずの姿がない。


「あー、血圧上がりすぎちゃったみたい」


 ピアス男が視線を下に向けて言う。

 その視線を追うと、そこには膝を折り床に這いつくばるあの男がいた。


「…あ、あたま、が…。こ、後頭部がァ…わ、われる…」


 大声男はその体勢のまま頭を抱え、しきりに頭が…、とうわ言のように呟いている。


 …え、こいつ大丈夫…? ヤバない?


「…あっちで寝かしといてやれ」


 救急車とか呼んだほうが良いんじゃないかと内心慌てるが、仲間たちは特段驚いた風もなく、ホールの右手の席へと奴を連れていった。いつもの事なの…? 


「あと、佐藤はこっちに来てくれないか。…戸田さん、ここからは自分が話を進めていいですか」


 通訳の介助で男たちが数人、対蹠に出払うと、残った強面スキンヘッドの男がそう聞いた。

 戸田が伏し目がちに頷けば、強面は目礼を返して俺たちに向き直る。


「佐藤。この腕時計で間違いないか?」


 丸山は俺がテーブルの上に置いた腕時計を手に取り、呼び寄せたフードの男に見せた。


「…ああ、間違いない」


 フードの男が腕時計を見て断言する。

 それに強面は満足げに頷くと、テーブル上に腕時計を戻して、俺たちと目を合わせた。


「俺は丸山という。良ければ、お前たちの名前も教えてくれ」


 まさかの自己紹介から始まり驚いた。見かけによらず丁寧な奴だ。


「あ、わたしは大野真尋です」


 大野真尋が躊躇なく名乗るが、俺は閉口せざるを得ない。

 こういう輩に本名がバレるのってかなり抵抗がある。なんか悪用とかされそうだし…。


「…君は、たしか…イン…だったよね」


「え…」


 名乗るべきか迷っていたところで、唐突に戸田が俺のあだ名を口にした。

 な、なんでこいつが知ってるんだ…?


「イン…っていうのか。変わった名前だな」


「いや、ただのあだ名というか…」


 俺がそう答えると、丸山はなにか判断を仰ぐように戸田に振り返る。


「呼称できる、のなら…それ、で…いいよ…。住所、割れてる、から…調べる、のも…簡単だし…ね。あだ名…で、話進めて…」


「あだ名がイン…? あ~、陰キャだもんなぁ…」


 大野真尋が笑いを漏らす。覚えとけよ…。


 強面…丸山が一つ咳払いをしてから、話を始めた。


「俺たちは訳あって、この腕時計を付けていた男を探している。…いや、男かどうかは定かじゃないが、おそらく男だろう」


 …まいったな。

 この口ぶりだと、やっぱりコイツらと腕時計の持ち主の間に面識はないらしい。

 ってことは、俺がその持ち主自身だと思われている可能性もあるってことだ。


「そんな俺たちの前にそれと瓜二つの腕時計を持った男女が姿を現したのが、つい昨日。

 要するに、その男女ってのはお前らのことだ」


 丸山がテーブル越しにソファに座る俺たちを見下ろす。


「俺らから見ると、お前たちはこの腕時計の持ち主及び、その仲間である可能性が高い。

 …だから、この腕時計を渡してもらおうが、簡単に帰すわけにはいかない」


 …まあ、状況を考えたらそりゃ疑うよな。

 問題はどう身の潔白を信じてもらうかなんだけど…正直、いい方法は思いつかない。


「その腕時計の持ち主は、一体何をしたんだ?」


「…それを教えることは出来ないな。知らない方がいいこともある」


 何か打開策に繋がる情報が得られないものかと思ったんだけど、駄目か…。


「あくまで、情報を出すのはお前らだ。イン。お前が来る前にそっちの嬢ちゃんからは一度、事の経緯を説明してもらった。今度はそれをお前の口から聞きたい」


 俺の質問を突っぱねてすぐ、丸山はそう切り返した。


 なるほど。大野真尋から聞いた話と俺の話に食い違いがあるか確かめたいのだろう。

 ここは従うしかなさそうだ。そう、俺が口を開こうとしたその時、


「あのっ、それじゃ話が違います! その腕時計を渡したら教えてくれるって約束だったじゃないですかっ!」


 いきなり隣に座る大野真尋が大声を上げた。


「この時計の持ち主について知っていることを全部教えてくれるって言ったから、長井さんの居場所を言ったのに…」


「…悪いが、それは諦めて貰うしかないな」


 感情のこもった彼女の抗議の声も、丸山はすげなく叩き落す。

 それに大野真尋は言葉を失うが、それでもまだ食らいつくように丸山を睨み上げる。

 丸山はそれにも毅然と、顔色を変えず大野の目を見つめた。


 ち、ちょっと〜喧嘩すんなよ〜…。

 流石に女(かつ)子供相手にムキにはならないと思うけど、心証が悪くなったら面倒だ…。


「教えて…あげ、なよ…知ってること、全部…」


「と、戸田さん…?」


 俺がひやりと二人の動向を見ていると、やにわにあげられた小さな鶴の一声が、丸山の毅然とした態度を容易に崩した。


「教えるって…約束…したんでしょ…」


「いや…情報を与えてから話を聞くんじゃ順番滅茶苦茶ですよ…」


「で、も…、約束は、守らないと…だから…」


 大野真尋は険しい顔のままで、戸田と丸山のやり取りを見ている。


 それにしても…戸田たちもだが、この子はなぜ腕時計の持ち主にこんなにも執心しているのだろう…。


 戸田たちはあんな稼業をしてるような奴らだからアレな界隈のいざこざなのだろうと予想はつくが、大野真尋の方はその理由がてんで分からない。

 腕時計の持ち主らしき人物を霊園からホウライビル前までの距離追いかけたというのも普通じゃないし、とてもただ落とし物を拾っただけとは思えない執着を見せている。

 昨日は立ち入るべきではないと思い意図的に追求しなかったが、自らこんな奴らに接触したりしているのを見ると、やはり異常に思えた。


「…わかりました。ですが、それはまずこの男の話を聞いてからにしましょう。与えた情報から辻褄合わせでもされたら困るので…」


「大丈夫、だよ…」


「…はい?」


 丸山が困惑を滲ませる。


「イン君は…嘘、つかない…よ、ね」


 唐突に、戸田が俺を見て言った。

 いきなりそんなこと言われてもどう返したらいいのか分からず、俺はぎこちなく頷く。


「これが手落ちになっても、自分は知りませんからね…」


「…うん。大丈夫…彼は…」


 なんか…謎に信頼されてる…。

 俺があまりにも好青年すぎるから…なのか?


 丸山は戸田とのやり取りで疲れたのか、呆れたのか、深く息を吐いてから話を始めた。


「…俺たちが腕時計の男について知っていることは決して多くない。それこそ、この腕時計と同じでガラスがひび割れた腕時計…まあつまり、これと全くソックリな腕時計をしていた…ということぐらいしか分かってはいない」


 なにから話すべきか…、と呟いてから丸山は続ける。


「…俺たちはなんというか…輸入関係の仕事をしている。以前は空輸も使っていたが、最近はそっちの取り締まりが厳しくなったのもあって海運を使うことが多くなった」


 一応ぼかしてるが、完全に薬物密輸の話だこれ…。

 とはいえ、大野真尋は気付いているのかいないのか、間の抜けた顔で聞いている。


「海運…というか瀬取りと言うのだが、俺たちはリスク分散のため、荷物を一気に回収するのではなくて、小分けにブイとともに海に流させている。それを俺たちの息がかかった漁師や、地元の海に明るい奴らにそれぞれ回収と横持ちをさせていた」


 淡々と語る丸山。


「説明したよう小分けに回収させるとなると、一つの回収に動かすのが少人数で済む。他にも露見しにくいなど色々利点があるが、一つ欠点があってな。ベテランはともかく、日が浅い奴なんかは裏切って荷物を横取りする恐れが高いんだ。だから、そんな奴らにはちょくちょく見張りを付けていた」


 この話が後々、腕時計の男と繋がるのか?

 なんか、聞いちゃいけないことまで聞いちゃってる気もするんだけど…。


「そして、事が起きたのは朔日…五月一日。新月の夜だ。俺たちの息がかかった横持ちと…見張りとしてうちの佐藤が共にブツの回収を行った。回収は滞りなく終えたが、問題はその後…陸揚げの時に起こった」


 佐藤って確か…あのフードの男だよな。

 その姿を目に収めようとホールを見回すが、そこに佐藤と呼ばれていた男の姿はない。

 さっきまで近くにいたはずなのに、どこいったんだ…?


「横持ちを見張りに立てて、佐藤がブツを車に運ぼうとした時らしい。その作業は目立たないように明かりをつけずに行うのだが、そのさなか、音もなく、不意に佐藤は襲われた。状況から見ておそらく改造したスタンガンだろう。流石に気絶はしなかったらしいが、佐藤は身体の自由が利かなくなり倒れこんだ。そしてすかさず佐藤は後ろ手に縛られ、ガムテープで口をふさがれ、為すがままにブツが奪われるのを見過ごす事しかできなかった…というわけだ」


「…もしかして、その襲った人が…」


 大野が漏らした声に、丸山が頷いた。


「ああ、そうだ。佐藤が腕を縛られ、口を塞がれたときにそれを見たらしい。

 月すらない、暗闇の中で光る…ひび割れた腕時計をな。

 つまり、その収奪犯こそが、俺らドラジットの目的。腕時計の男だ」


 丸山が言い切る。

 俺はその内容に少し引っ掛かりを感じた。


「…光る?」


 暗闇だったんだよな?

 何かの光を反射して…ってことか? 

あるいはこの時計とは違い、デジタル時計だったとか…。


「…夜光塗料だよ。その時計もそうだろ。昨日、路地裏で見た時も仄かに光っていたと佐藤が言っていたからな」


「え、この時計にそんな機能あったの…?」


「…まあ、ずっと光に当たっていなかったのかだいぶ弱いが…一応光って見えるだろ」


 俺の返事に、丸山がテーブルに置いてある腕時計に手をかざし、ホールを照らすただでさえか細い光を遮ると、確かにひび割れたガラスの奥がぼんやりと光る。…本当だ。


「…でも、暗闇のなか、よくこんな光で時計のモデルまで特定できたな」


 別物だったら俺たちが疑われる由もなくなってくれるので、言外に見間違いの可能性を提示してみた。


「特定というより、佐藤がそれを見て同じものだと言ったんだ。仮に違っていようが、俺らのすることは変わらない。残った手がかりを追うだけだろ」


 ま、そりゃそうか…。

 そう言われてしまうと、なにを言っても無駄な気がしてくる。


「あれ、そういえば見張りは…」


 手がかりといえば、見張りにしていた奴はどうなったのだろう。

 状況からすると見張りが怪しい気もするが…。


「電話で佐藤から助けを求められ仲間が駆け付けたが、見張りの横持ちも佐藤と同じように縛られていたらしい。…とはいえ、勿論俺たちも見張りを一番に疑った。あの地点で陸揚げをするということを知っていたのはそいつと佐藤と…あとは俺や戸田さんくらいだったからな。なのでそいつを尋問していろいろ洗ってみたが…芳しくなくてな。そうなると、他に残った手がかりを追うしかない」


「…縛られていたのに、佐藤とやらは良く助けを呼べたな」


「定時連絡が無かったからな。仲間が佐藤に電話をかけたんだ。それで、縛られながらもからがら通話に出ることができたらしいが……何が言いたい?」


 話のおおよそが佐藤という輩の証言に依拠しているので、その信憑性についてそれとなく突っついてみたら睨まれてしまった。


 …でも、もうちょっと深く突っ込んでみてもいいか。幸い本人いないし。


「や、話の大部分がその佐藤という輩の証言に寄り掛かっているからさ。もし、そいつが嘘をついていたのなら——…」


 思わず、言葉が途切れた。

 そうさせたのは、小さな…俺の声にかき消されていてもおかしくないくらい、小さな声。


「…それ、以上……」


 なのにそれは、声量とは裏腹に俺の耳底に反響し、意識を引き付けてやまない。


「それ以上、は…言わない方が、いい、よ…」


 感情の一つも読み取れないほど平坦な声が耳を過ぎ去れば、返る静寂をも通り越し、薄く耳鳴りが走る。


 声の主である戸田は先ほどから変わらず俯いたままで、俺たちとの間にあるテーブルに視線を注いでいた。

 その顔色を窺うことは出来ない。


 …まずった。怒らせたかもしれない。


 薬物を奪われたとなると…おそらくその被害額は桁違い。

 その疑いが今俺たちにかけられているという現状に焦り、つい慎重さを欠いてしまった。

 疑いを他に逸らすにしても、我ながらかなり杜撰だった…むしろ、却って俺たちの疑いを深めたかも…。


「…腕時計の男について、俺らが把握しているのは以上だ。

 これで約束通り、奴について知っていることをすべて話した」


 大野真尋に面目なくて俺が黙りこくっていると、丸山がこちらに向かって言った。


「そう、ですか…」


 思わしくない情報量だったのか、大野真尋も意気消沈。俺と同じように肩を落とす。


「あべこべだが…それじゃあ、イン、話してくれるか。昨日のことについて」


「…ん」


 そういえば、そんな話の流れだったな。

 顔を上げた俺は、戸田たちに昨日の経緯について話し始めた。


 ホウライビル近くの路地を歩いていたら、いきなり女の子に声をかけられたこと。

 その後、その子と男が揉め出したのを見かねて介入したら、彼女を連れて逃走する羽目になったこと。

 霊園まで逃げたことも。俺が彼女から聞いた…腕時計を持っていた理由も。

 これ以上顰蹙を買うわけにはいかないので、包み隠さずに淡々と事実だけを話した。


「そうか…」


 俺の話を聞き終えて、丸山は顎に手をやると横目に戸田を見る。


 問題はやっぱり、大野真尋の行動についてだよな…。


 霊園で落とし物を拾い、その持ち主らしき人を広場まで追跡したりと、彼女の行動には突拍子なく感じるところが多い(ただの性格かもしれんが)。


 その辺は俺から見ても不自然なので、怪しく思われるのは間違いないだろう。


「一応…二人の話に齟齬はないですね。口裏合わせをしていた可能性もありますが…どうしますか?」


 丸山が戸田に判断を促す。

 俺はそれを判決を言い渡される被告人のように息を詰まらせ見守った。


「…も、う…いいよ…」


「…良いんですか?」


「うん…もう…二人は帰って、いいよ…」


 …え、いいの?

 あまりにあっけなく渡された無罪判決に、思わず口をぽかんと開けてしまう。


「…まあ、男の方は住所も学校も分かっていますからね」


 戸田に話しかけているが、遠回しに釘を刺しているのだろう。丸山がそう付け加えた。


「い、や…はじめから…インくんは、疑って、ないよ…。だって…吉矢の、友達だから…」


「…俺としては、吉矢広みたいなタイプは信用なりませんし、使えないと思いますがね。うちの藤や馬鹿二人を見れば歴然です」


 吉矢広…って、何でアイツの名前が…?

 しかもなんか戸田の方は謎に好意的だし。


「…」


 …いいか。どうでも。

 吉矢もコイツらもこのクラブにちょくちょく来ているようだし、それで知り合っていてもおかしくない。そう考えると、戸田が俺のあだ名を知っていたのも吉矢か取り巻きのどっちかが教えたのだろう。


 腰を上げ、席を立つ。


 そんなことよりも、はやくここを後にした方がいい。

 吉矢のお陰かもしれないというのは少し癪だが、せっかく見逃してくれるみたいだからな。


「おい、関! 見送ってやれ」


「えー…もう終わったの? てか、見送りいる?」


 丸山が向かいの席にそう声をかけると、ピアス男が面倒くさそうに返事をした。

 向かいの席では、倒れた通訳の看病をしていたはずの男たちがいつの間にか揃ってトランプに興じていて、その中からのそのそとピアス男が出てくる。


「おい大野」


「…あ、はい」


 何か考えこむように未だ座り込んでいる大野真尋に声をかけて、ともにピアス男の後ろについた。

 そうして、ピアス男に続きホールを出ようとしたところで、戸田と丸山の話し声が耳に入る。


「大した情報は得られませんでしたが…このまま帰していいんですかね。帰すにしても、女の方も住所なり何なり押さえておいたほうが…」


「あの子も…嘘、ついてないと思う…。それに…手がかりは、手に入ったよ…。とりあえず…彼女の、姉…病院から、洗おう…」


「その話もだいぶ確度が低いと思います。それを洗うくらいなら、あの二人を徹底的に洗った方が良いと見ますが…まあ、戸田さんの言う通りにしますよ」


 彼女の姉…病院…? 


「いたっ…ちょっと! いきなり止まらないでくださいよ」

「あ、すまん…」


 この子が一人の時に、俺の知らぬ話をしていたのだろうか。

 少し気になったが、一刻も早くここを去りたい身からすれば話を聞いている暇はないので、俺はそのままピアス男を追った。


 ◇


 クラブから放り出された俺たちを迎えるのは、黒々とした雲が覆う夜の空。

 開放感のかけらもない景色だが、今なら肌にまとわりつく湿った夜気も気持ちがいい。


「じゃあねー真尋ちゃん」

「はい。さよならー」


 あれ、ピアス男は俺といたから大野とは関わりないはずなのに、なんかいつのまにか仲良くなってない? …いや、こんなもんなのかな。若者の距離感って。


 ピアス男が中から扉を閉め鍵を回す音を後ろに、上を見上げ一息つく。

 天から垂れた小さな飛沫が頬につき、思わず目を細めたその時、ふと夜道に響く足音に気づいた。


「…何だお前ら、もう解放されたのか。まさか逃げたわけじゃないよな」


「あ、手汗の人…!」


 首を回すと、そこにはあのフードの男。先ほど何度も話にあがった佐藤がいた。

 倒れた通訳のために何か買ってきたのか、その手にはドラッグストアの袋がある。


「あんたらの親分がもういいってさ。だからもう追いかけないでくれよ」


「そうか…」


 佐藤はそれだけ返事すると、クラブの入り口目掛けて歩み寄る。

 昨日はだいぶ頭に血が上っていた様子だったけど、今は落ち着いているようだ。


「その制服…お前、東高だよな。何年だ?」


「えっ…に、2年だけど…」


 そのまま佐藤が俺たちの横を抜けると思いきや、ふと俺の真横で足を止め、そう聞いてきた。


「2年…部活か何かやってたりするのか」


「いや、なんも…」


 俺がそれだけ答えると、佐藤は無言でうなずき再び鉄扉に向かう。

 昨日のこともあり変に警戒してしまったけど、ただの雑談…だったのかな。


 少し不思議に思いながら、佐藤をしり目に俺は大野真尋と並んでその場を離れた。

 人通りの少ない裏通り。この繁華街にしては不自然なほど静かな通りに、足音を鳴らす。


「いやあ、それにしても驚きましたねー。あの人たち、なんか怪しいお仕事をされてるみたいでしたし」


 能天気に笑うこの子にはため息しかでない。


「はぁ…お前にはいろいろと言いたいことがあるんだからな…」


 本当は聞きたいこともあるんだけど…そこまで踏み入っていいものか、未だ判断がつかない。

 巻き込まれた以上、その権利はあるとは思う。でも、これで収まったようだし、この子ともこれっきりだろうし…わざわざ訊ねる必要もない気がした。

 あの腕時計もアイツらに渡したしな。災いを招く火種はすべて、俺の前から無くなったというわけだ。


「でも、なんか優しかったですね」


「…なにが?」


 俺の文句なんぞ耳に入らんといった風に平然と歩いていた大野真尋が、突然そう言うが、俺には何に対しての言葉なのか見当がつかなかった。


「ほら、あの…なんでしたっけ。え、と…ドラ…ジット…でしたっけ? ドラジットの人たちが、ですよ」


「…半グレだぞ。優しいわけないだろ」


「えー、でも、声を荒げたりしないし、お腹減ったって言ったらポテトくれましたよ?」


 一名、滅茶苦茶うるさかったけど…。


 とはいえ…確かに、噂に聞く半グレらしからぬというか…変わった連中ではあった。

 なんか、やたらとあっさり帰してくれたしな。


「最悪、長井さんが指を詰めることになるんじゃないかと思ってましたもんね」


「それいつのヤクザだよ…」


 てかその想定で俺の住所バラしたの?


「一見ちゃらんぽらんの集まりだったけど…あんなのでも詐欺だとか、麻薬を卸してたりとかしてるんだから…これからは近づくなよ」


「へえー。ああいう人たちでも、やっぱり悪いことしてるんですねぇ」


 …というか、俺が今まで見てきた反社って、ああいうタイプが多いんだよな。


 どことなく余裕があるというか…腑抜けてるというか…。

 面子を大事にして躍起になるタイプというより、なるべく楽して金が欲しいって感じの。

 この街だけの話で、他所は違うのだろうか。


 以前知り合った元ヤクザの爺さんは、何かにつけて昔はみんな気合が入っていた、今のようなぬるま湯じゃないと主張していたが、それを信じると所謂…時流というやつなのかもな。


 ただ、ヤクザはすぐ話を盛るからなぁ。あのジイさんがフカしてるだけの可能性も大いにある。


「…あれ、なんか音しませんか」


 どうでもいいことに考えを巡らしていると、隣を歩く大野真尋が何かに反応して辺りを見回す。


「あっ、手汗の人締め出されてる!」


 指さすのは俺たちの後方。

 顔だけ振り向いてみれば、佐藤がスマホ片手に怒鳴りながらクラブの扉を叩いているのが遠目に見えた。


 …ピアスの男が鍵閉めてたからな。可哀想に。


 鉄扉に鉄槌をかますその憐れな姿には同情を禁じ得ない。

 まるで過去の自分を見るようだ…って、


「そうだお前ッ…事務所の鍵は!?」


 あぶねぇ!

 わざわざこの子を探しに街へ出たのも、事務所の鍵が無くての事だっていうのに、色々あってすっかり忘れていた。


「鍵? あー、持ってますけど…それが?」


「それが?、じゃなくてだね。帰る時は外のパイプスペースに置いてくれって言っただろ…持ち帰るな」


「別に、家に帰るつもりなんてありませんでしたしー。荷物も事務所に置きっぱですもん」


「お前いつ帰るつもりなんだよ…明るいうちに帰っておけよ…」


 よもや今日も家に帰らないつもりじゃあるまいな…と、胡乱に思い大野真尋を見ていれば、またもや水滴が顔を伝った。

 少しして、飛沫のように漂っていた雨がぽつぽつと、音を立ててその体を成していく。


 降り始めたか。濡れ鼠になる前に帰りたいけど…。

 そう思っている内にそれは勢いを増して、予想を裏切るほどの雨礫となった。


「…うわぁ」


 思ってもみない雨勢に呆然とする。


「長井さん急いでー!」


 瞬く間に水を吸う制服を前に、連休中で良かったぁ…と諦観に包まれた俺を差し置いて、猛然と道を駆け出すのは大野真尋。


「この辺に雨宿り出来る所ないんですかっ!?」


「無いよ。一番近くて…駅の入り口とかじゃないかぁ」


 無論その辺の店にでも入ればこの雨をやり過ごせるだろうが、もうここまで濡れてしまった以上迷惑だろうし、それは諦めるほかない。


「それじゃ駅まで行きましょ! 放心してないではやく!!」


「はいはい」


 正直、もう俺は濡れてもいいや。

 学生鞄までずぶ濡れだが、スマホを事務所に忘れたのが幸いした。他に大したもんは入ってないし…。

 とはいえ、あの子を放っておくのも忍びない。駅への道のりを分かっているか怪しいもんだからな。


 沛然と降り注ぐ雨粒のなか、走る彼女を追う。


 ◇


「全然止みませんねぇ」


 驟雨に追われて十数分。俺たちは駅の入り口で壁に背を預け、濡れる街を眺めていた。

 雨は依然と勢い盛んで、時折その飛沫が俺の肌まで跳ねてくる。


 流石に駅なので人の出入りはある。

 だが、すでに遅い時間なのか、その数は著しく少ない。

 それにこの雨だしな…往生しているのか雨が跳ねてこない奥まったところで、時間を潰している人も見える。

 もしかしたら、人の多いターミナル駅の方は凄いことになっているのかもしれない。


「…大野、お前もう電車に乗って帰った方がいいと思うんだけど…」


 体感、終電はまだだろうが、このまま雨が降り続けたら運転見合わせになるかもしれない。


「えー! ずぶ濡れのまま帰れっていうんですか? 無理ですよー荷物だって長井さんの事務所に置きっぱだから取りに行かないとだし」


 …だよな。

 こうなってしまうと、この子を事務所にもう一泊させることになりそうだ。

 まあ…天候のせいでは仕方がないし、この子をまた泊めることに不都合があるわけじゃないのだけれど(内野のおっさんには既にバレちゃったし)、それでもやっぱり家出少女を家に帰さないというのは気が引ける。彼女の叔母も心配しているだろう。


「そういえば…お前の叔母とは連絡を取っているのか?」


「いやぁー昨日スマホの充電切れちゃって、取れないんですよね。事務所に充電器ないんですか?」


「充電器ぐらい自分で買え。それより…捜索願とか出されなきゃいいけどな」


「あ、それは大丈夫です。叔母さんには友達と旅行に行くって言って出て来たので…」


 それでも連絡つかなかったら心配しそうなものだけれど…。


 会話が終わると、ざあざあと雨の音だけが鼓膜を揺らす。

 当分止みそうにないか…これは。


「締め出されてたけど、間に合ったのかな~あのフードの人」


 呟く大野真尋の横で、ぼうっと駅前を眺める。

 街灯に照らされた水たまりは絶え間なく波紋を打ち、水しぶきが暗い世界から浮き上がるように弾ける。

 感じ入ることも、見飽きることもなく、その様を凝然と眺めていた。


「…?」


 ふと、街灯の奥の暗闇に白い影が浮かんだ。


 あれは…なんだ…?

 その白い影は少しずつ、こちらに近づいてくる。


「…吉矢?」


 正直お化けかと思い怖すぎて身動きが取れなかったのだが、その影が街灯の下まで来てようやく分かった。

 白いシャツを着た見覚えのある大男。あれは吉矢広だ。


「よお! お前こんなとこにいたのかー。事務所にもいねぇから探したぞ!」


 傘もささず、雨に打たれながら、手を振って奴が近づいてくる。


「…あの人、知り合いですか?」


「ダチだな! だがその前に宿敵でもある…」


 大野真尋の言葉に俺がどう答えるか逡巡していると、いつの間にか眼前にまで来ていた吉矢が代わりに答えた。近くで見ると濡れた白いシャツは肌の色を透かしていて、なんとなく不快だ。


「…何してんのお前。傘もささずに」


「友達いたんだ…」と慄いている大野真尋はムカつくので放っておいて、駅に用があるとは思えない吉矢に聞く。


「あん? だから、お前を探しに来たって言ってんだろ。てか、この子誰?」


 そういえば、学校で吉矢が俺のことを探していたとみどりも言っていたけど…あれからずっと探していたのか…?


「わたしは大野真尋といいまーす。昨日泊るところが無くて、長井さんの事務所に泊めさせてもらったんですけど…」


「おまっ…!」


 泊めただとか、あんまり余計なことは言わないでくれ!


「へー、オレは吉矢広。あの事務所便利だよなー、オレもたまに使わせてもらってる」


「吉矢さん…? どっかで聞いたような…」


「どっかもなにも、至る所で聞くだろ~」


 …取り巻きがいなくて良かった。

 あいつらすぐ吉矢に変な入れ知恵をして場をかき乱すからな。そうなると手に負えない。


「…それで、吉矢。俺に何の用だ? というか、お前もいい加減携帯電話くらい持てよな…」


「いらねえだろー別に。いざとなったらアイツらの使えばいいし」


「ハァ…で、用件は? 俺のこと探してたんだろ?」


「…ん?」


 吉矢は質問に答えないまま、ぽけっとアホ面を晒す。


「あー…えーと…なんだっけ? 忘れちまったわ」


 ぶはは、と吉矢が噴き出し、雨の数十倍不快な水滴が顔に跳ねた。

 こいつはほんと…なんなのだろう。


「つかお前らここで何してんの? 電車乗ってどっか行くのか?」


「いえ長井さんの事務所に戻ろうとしてたんですけど、雨が凄くて雨宿りしてるんです」


 吉矢の頓珍漢な質問に大野が答えている。


「お、じゃあ競争すっか」


「…なんの話だよ…」


「事務所に帰るんだろ? 一緒に行こうぜ今から」


 また変なこと言い出した…。


「傘もないのに、この雨の中歩くつもりか…? 風は無いから危険はないだろうが…風邪ひくぞ」


「もうこんなに濡れてんだぜ? 今更雨なんてどうってことねー!」


 突然叫び出した吉矢が、そのまま駅前へと飛び出す。

 そうだコイツは馬鹿だから風邪引かないんだったな。じゃ、放っておくか…。


「それもそうですね。全然止みそうにないし…ほら、長井さんも行きましょ!」


「え…」


 そういうと彼女は俺の手を取り、雨に打たれる大男に続くよう、雨の下に飛び出した。

 俺も行かなきゃいけないの…?


 ◇


 空を夜雲に覆われた街は暗い。

 この辺りはネオンも少なく、かろうじて残る光は外灯や建物から漏れ出るものだ。

 雨に濡れた街のアスファルトは、それらの光をまるで揺らめく鏡像のように映し、滴る雨水もがその光を内に灯して、やがて鏡像に溶けていく。


 そんな場景を踏み荒らす様に吉矢はのっそのっそと雨の中を行き、その後ろを俺たちは歩いていた。

 それにしても、思ったより外気が暖かい。これなら風邪を引かなくて済みそうだ。


「わたし手ぶらで良かったー! 長井さんはなにか濡れて困るものありました!?」


 雨で声が聞こえづらいからか、隣を歩く大野真尋が張った声で聞いてくる。


「教科書は学校に置いてるから、財布ぐらいかな。大野も財布は持ってるだろ? どうすんだ」


「あとで乾かします!!」


 駅から出てそんなに経っていないのに、すでに髪から水を滴らせ彼女が笑う。

 そして笑みをそのままに、彼女は駆け足で前に飛び出した。


 クラブから出た時と比べると、だいぶ機嫌が良さそうだな。

 やはり子供はこういう時にテンションが上がるらしい。


「うおっ、この水たまり深え!」

「こっちの側溝もヤバくないですか!!」

「いんやこの滝のがすげえ!!!」


 案の定、この二人は波長が合うようだ。

 一瞬で仲良くなったのか、二人してたかが雨に盛り上がっている。


 子守をしているような心持ちで、雨に打たれながら二人の後ろを歩く。

 店々の明かりは未だ灯っているけれど、不思議と人通りは全くない。

 近辺の交差点では車が行き交っているはずなのに、雨音がその存在をかき消して、俺たち以外の人間がこの街から消え去ったのじゃないかと、可笑しな錯覚さえ抱かせる。


「うおりゃー!!」

「うわッ」


 突然吉矢が叫びながら、100キロを超える巨体で水たまりにストンプをかますという暴挙に打って出た。

 そして、上がった水しぶきは狙いすましたように、俺に目掛け降りかかる。


「テメェッ、汚えな…ッ!! ふざけんな!!」


「あ、長井さんマジギレしてる!」


「だはは! もうずぶ濡れなんだからそんなんで怒んなってー!」


 地面に溜まった水と雨とじゃ全然違うだろうが…!


「こいつら…」


 俺が怒ったのがそんなに面白いのか、二人はにやにやと笑みを湛えて俺を見ている。

 こんな馬鹿二人とこの世界に取り残されたのだとしたら、それはとんだ懲罰だろう…。

 どこか懐かしさを感じながら、大きく息を吸った。


「…吉矢! 昔も、こんなことあったな!」


「あったなー! あん時もお前ブチ切れてたなぁ! そんでオレに襲い掛かってきたくせに、アイツが仲裁したら直ぐにおとなしくなりやがってさー!」


 かちりと音を立てて、ひと時の非日常が日常に移り変わった気がした。


 終わってみれば大したことはなかったけれど…今回の件は相応に肝を冷やした。

 だからだろう…今は肩の荷が下りて、こんな天気だがすっきりとしている。


「うわっ、なんか臭い!」

「マジだ! 硫黄温泉か!?」


「下水のニオイだろ…」


 空を見上げれば、相変わらず雲は厚く、一縷の光も見えない。

 光の届かぬ暗い世界の水の底。そんな場所でも、響く声があるらしい。


 お天道様が隠れていても。雲が空を覆っていても。

 雨が人を散らしてしまっても…それでも、

 この街は明るくて、街を独り占めするようにはしゃぐコイツらも底抜けで…。

 なんだかちょっと——


「気分がいいな…」


 踏み出す足に衣服がまとわりつき、頭から伝った水が首筋に滴る。

 湿った空気はほのかに温く、身体を打つ雨はちょっぴり冷たい。

 雨声はのべつ幕なし、鼓膜が揺れて——負けじと響く二人の声に…頬が緩む。

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