その5

 暗い世界で揺蕩う。

 夢もなく、ただ穏やかな闇に包まれている。


 …やにわに光が差した。


「ぅ…」


 右目がなんだか暖かい。ぼんやりと両目を見開いてみれば、右の視界にまばゆいフラッシュが突き刺さる。そして、窓を覆うカーテンの隙間から陽が差し込んでいるのが左目に映った。


「もう、昼か…?」


 どうやら、事務所のソファで眠っていたようだった。

 薄暗いし、右目に光を受け続けていたのか明暗が滅茶苦茶になっていて周りの様子がよくわからないが、身を預けているクッションの感触からして間違いない。これはうちのソファだ。


「うーん…」


 俺はいつ寝たのだろうか。

 酒でも飲んだのか知らないが…頭がガンガンと響き、記憶が曖昧だ。

 確か、昨夜は吉矢たちとナイトクラブに行って…どうしたんだっけ?


 スマホで時間を見ようと、ソファの横にある黒檀のローテーブルに手を伸ばす。

 触覚だけでテーブルの上にごちゃごちゃと積まれた物を避けつつ、目当てのものを探し当てた。


「なるほどもう正午か…」


 光る液晶に視界をチカチカとさせつつ、12時という時刻を読み取る。

 今日は休日で、学校もないからこのまま眠っていてもいいんだけど…起きるか。

 疲れは全然取れていない気がする。しかし、なんとも寝る気分でもない。


 とりあえず顔でも洗おうと、仰向いていた体を起こす。寝起きだからか力が入りづらく、よたよたと洗面所に向かおうとすると…


「うぼぁッ!」


 足に何かが引っ掛かり、床に向かって頭突きをかましかけた。

 すんでのところで手をつき、頭突きはせずに済んだが、なにやら物が落ちる音が後ろから聞こえた。と思ったら、その音はドドドとのべつになり続け、果てにズドンという大きな音でピリオドを打つ。


 …たぶん、本棚がいったな。


 コードか何かに引っ掛かったのか、それに巻き込まれて本棚が倒れ、最後に聞こえた大きな音はテレビだろう。その悲劇は唐突過ぎて腹も立たない。


「…なんだこれ」


 足に引っ掛かったものを掴む。やっぱりコードっぽいやつだ。

 手繰ってみれば、なにやらマイクのようなものが引っ付いてきた。こんなものあったっけ…?


「こんなとこに置くなよ…物置じゃねぇんだから…」


 恐らくあいつのか。

 人の失態を見つけると自分の過失はどうでもよくなるもので、段々と腹が立ってきた。

 文句を言いたくても、言いようが無いってのが何とも空しいが…。


 半ばやけくそで洗面所に向かい顔を洗い終えると、廊下の先、玄関の方からドンドンと扉を叩く音が聞こえてきた。


『お~い。長井君、いるんだろ~』


 うわ、ヤバイのが来た…。


「はいはい」


 嫌々玄関の扉を開く。


「なんすか…」


 扉の先には冴えないおっさんが一人突っ立っていた。

 奥にある階段の先からほんのりと差し込む陽光の波及だけを光源に、薄明りの中で中年男性が佇立している様子は見方によってはホラー映画のようだ。


「あれ、長井くん寝起き? おはよ~」


 ホラーと思うと目の前に立つおっさんが怖くなってきたのだが、しかしそんな考えとは裏腹に、おっさんから上げられた声色はいつも通り調子が外れていて、耳障りかたがたホッと力が抜けた。


「おはようございます…内野さん」


 このおっさんは内野 裕太という。

 昨年脱サラし、このビルの三階(つまりはここの下)でガールズバーを始めたという変わり者だ。


 もちろん、そのガールズバーはあんまり繁盛していない。

 この辺も夜は人通りがあるとはいえ、このビルエレベーターないし、女の子と喋りたいのになんか変なおっさんがいるしで、二度目以降の客が少ない。一応、常連もいるにはいるらしいが、きっといない方がマシといった面子だろう。


 おっさんが誘ってきたので俺も一度行ったことがあるが、それはまあ酷い店だった。

 酒は飲まないのでつまみだけ頼んだら、しょうもない柿ピーをぽつんと出され(その時はガールズバーってこういうもんなのかなぁ、なんて思いながら渋々つまんだけど)、その後柿ピーだけで五百円取られたのが未だに納得いかん。女の子は可愛いかったので、四百円ぐらい返してくれたらまた行ってやらんこともないがな。


「…で、なんですか」


「なんだじゃないよぉ。すごい音だったよ。なにがあったの~」


「あー…それはちょっと本棚が倒れちゃって…」


「え~、大丈夫だった? ていうか気を付けてね、あんな大きな音出されたらお客さんが困っちゃうよ」


 それは悪いことをした…あれ?


「というか、嘘つかないでくださいよ。今正午ですよ。困る客なんているわけないでしょ」


 そもそも開店時間が午後五時からだったはずだ。


「うん? 違う違う。僕また奥さんと喧嘩しちゃってさぁ、いま店で寝泊まりしてるのよ。

 騒音で僕が寝不足になっちゃったら、僕目当てのお客さんが困っちゃうじゃんさ~」


「そんなやついるわけねぇだろ…。こんなキモいおっさんに」


 あ、つい本音が。


「なっ…ひ、ひどいよ長井くぅん! 昔は奥さんも僕のこと世界一可愛いって言ってくれたのにっ!」


「うわ!」


 シャワーを浴びてないのだろう、ほのかに加齢臭が鼻をついたと思えば、おっさんが俺に抱きついてきていた。思っていたより筋肉質な腕に抱かれ顔を寄せられると、身長は同じくらいなので俺の首筋におっさんの顎が当たり、ジョリジョリとした感触が身を走る。


「ひ、ひぃッ!」


 あまりのおぞましさに意識が飛びかけ、拒否反応から反射的に出た左のショートアッパーがおっさんの肩あたりに突き刺さった。


「ぐえぇ」


 おっさんは踏みつぶされたカエルのような声を上げて俺のパーソナルエリアからはじき出されると、今度はひっくり返ったカエルのように倒れこむ。


「…あ」


 不味い…ほぼ無意識だったから、あまり加減出来ずに打ってしまった。

 左の拳にはかなりの手ごたえが残っている。鎖骨辺りは折れやすいし、骨までやっちゃったかも…。


「おっさん、大丈夫…?」


「おっさんて呼ばないでぇ…ボクまだ四十歳だもん…!」


「…スイマセン」


 小声にもなる。

 その後もおっさんは仰向けで天井を見つめながら、ぶつくさと意味不明な供述を繰り返していた。

 もしや頭を打って、更に向こう側へ行ってしまったのかもな…。


「おわっ」


 俺が冷や汗をかきながらひっくり返ったおっさんをまじまじ見ていると、勃然とおっさんが上半身を起き上がらせるものだから吃驚する。


「あの…大丈夫すか?」


「はは、大丈夫大丈夫。うん、なかなか良いパンチだ」


 その体勢のままで、おっさんはこちらに向かってサムズアップをしてそう言い放った。

 肩を使ったその動作は特に不自然でもなかったので、本当に怪我はなさそうだ。

 よかったよかった。このおっさん、歳の割に丈夫らしい。


「奥さんと娘たちが乱暴でね、慣れているからこのくらいへっちゃらさあ。まあキュートアグレッションというやつだろうから愛情の裏返しと諦めてはいるんだけれど、二月に和歌山まで旅行にいったときなんか、三段壁で危うく突き落とされそうになって流石に困ったよ。まだ海は冷たかったろうからね~」


「…そうすか」


 生命保険に加入しているのかは聞かないでおこう。こわいもん。


「あれれ? そういえば長井くん学校は?」


 ふとよぎった考えに身震いしていると、おっさんは立ち上がりながら尋ねてくる。


「今日は学校休みですよ」


「え、そうなの!? じゃあ可愛い我が子たちが家にいるのかもっ。これを機に奥さんとも仲直りしてくるね~」


 一息にそう告げたと思えば、おっさんは嵐のように階段の方へ急ぐ。しかし途中でその動きを止め、あそうだ、と階段へ繋がる角からひょこっと顔を出した。


「長井君、今度また店に来てよ。燈花ちゃんも来てほしいって言ってたよ~」


 燈花ちゃんというのはガールズバーで働いている女性で、年上の素敵なお姉さんだ。


「その前にお金返して…って、もういねぇし」


 実際の所そんな素敵なお姉さんが俺を気にかける道理などなく、見え見えの営業トークに愛想の良い返事をする気にもなれなくて、かつて奪われし五百円の恨み事でもぶつけようと思ったが、既におっさんはカツカツと階段を鳴らす音だけを残して声が届かない所まで行ってしまっていた。


 …相変わらず、突拍子のない人だ。


「はぁ」


 かれこれ俺とあの人の付き合いもそろそろ一年になるのかぁ。と感傷と呼ぶには少々屈託した想いを抱きながら、俺は事務所にもどり外へ出る身支度を整えた。



「うーん」


 ビルを出て軽く伸びをする。昨日と並び、今日もなかなかの晴天。

 ぷかぷかと浮かぶ白い綿雲は青い空を引き立てて、時折路地へと陰を落とす。

 道を行く人々は移ろう陰日向の中を、思い思いに歩いていた。

 陽が差そうと、影が差そうと、その明暗に足を止める者はいない。


「…」


 夜ほどではないが、休日なので人通りはそこそこか。

 学生らしき姿も見えるが、勉強の息抜きに遊びに来たという感じで、どことなく健全な雰囲気。

 今も目の前を年若い男女が楽しそうに通っていった。


「…はあ」


 俺何してんだろ。折角の休日なのに、予定の一つもないし…。

 クラブの受付で出会った小春さんや、燈花さんのような年上彼女でもいれば、さぞや楽しかったろうな。

 自身の寂しい青春を認識してしまい、足取りもとかく悄然となる。


 しかし、怖いもの見たさか、臭いものを嗅ぎたくなる思いか…いや、この言いぐさはおかしいけど…とにかく俺の足は並木道へ向かっていた。


 道中、段々と目に付く年齢層は低くなり、おおよそ高校生前後といった所だろうか。女性のグループが多めだが、カップルなどもちらほら見える。

 この辺は学生たちに人気のスポットで、多彩な飲食店に雑貨店がずらりと続く。そしてこの先の並木道に入ると打って変わり少々上品な様相となり、道沿いにはショーウィンドウなどが並んで、なんだか居心地の悪い風景を一望できること請け合いだ。

 その並木道は冬になるとイルミネーションが飾られるらしいが、まあご察しの通り俺とは縁の薄い場所なので、結構近所なのに一度も見たことはない。


「…兄さん?」


「…ん」


 しかしなんとなくそちらへ向かっていたところ、微かに聞こえた聞き覚えのある声色。

 それを探す様に首を回せば少し離れた道の辺に女の子が二人、こちらを眺めるよう足を止めていた。


「——あ、お兄さんか。その陰気な顔つきは間違いない」


「…誰が陰気な顔つきじゃ」


 いきなり不躾なことを言いながら、その片方がこちらに近づいてくる。

 人懐っこくふざけるようにほほ笑みながらも、隠せない聡明さを滲ませて、その子——長井 みどりは俺の前に立った。


「久しぶりですねお兄さん。入学してからひと月立ちますけど、思いのほか学校じゃ会いませんねっ」


「ま、学年も違うしな。そりゃそうだろ」


 みどりは先月、うちの学校へと入学したらしい。

 俺なんかとは違って、もっと上の所へ行ける頭を持っているだろうに勿体無い話だ。

 学校で出会わないのは、俺がいつも放課後まで屋上でサボっているってのも関係あるだろうが、敢えては言うまい。


「たまには家に顔出しましょ。お母さんも成哉も喜びますよ」


「…そのうちな」


 この子、みどりと俺は一応家族ということになっている。平たくいうと、俺の妹というわけだった。

 人好きのする社交性のあるタイプだからか、いきなり現れた俺を邪険にしないでいてくれたので、俺としてもこの子が妹で良かったと思う。


 それより問題なのは、先ほど俺を一瞥するや否やうわ、と顰めた眉をそのままに、我が妹みどりの後ろを背後霊がごとくついて回るなじみ深い女の子。


 一日ぶりに会う生徒会会計、松田 菜津美だ。こっちは相変わらず俺が嫌いなようで、ため息が出た。

 この二人は小学校と中学が同じということもあり、前々から交友関係にあるのだ。

 似ても似つかぬ二人だと思ったが、いや俺に対して無礼な所はちょっと似ているなと考え直した。


「しかし会計も街で友達と遊んだりするんだな。驚いた」


「…話かけないでください。ウザいので」


 顰められた眉の当てつけに少し失礼な物言いをしてみたら、バッサリと切られた。


「はぁ…みどりも貴方みたいな兄がいたらさぞかし大変でしょうね」


「そうかな? 私はお兄さんで良かったって思うけどなぁ…」


 返す刀で得意のチクチク言葉にて責め立ててきた会計こと菜津美に、可愛い妹が擁護してくれる。

 でもその顔には微かに苦みを帯びていて、気を利かせたのだろうと、負い目を感じつつも感謝した。いやぁ、俺の妹はやっぱり性格がいいなあ。


「お兄さんはこれからどっかいくんです?」


「いんや、散歩してるだけだけど…」


「それじゃあ、一緒に行きませんか? 菜津美もその方がうれしいだろうし」


「えっ…」


 菜津美が心外だとばかりに歪めた表情がちょっと面白くて、それを眺めていたら気づかぬうちに俺は腕を取られていた。

 強引すぎると思ったが、まあ予定もないし付き合うのも悪くない。

 それにこれも、みどりなりの気遣いなのか。普通の家族はこういうことをするのかもしれん…。


「…」


 とはいえ、並んだ俺たちの後ろには菜津美がえらく嫌な顔で付いて来ているはずで、少しは友達の機嫌を伺ってみたほうがいいんじゃないかと心配になった。


「あっ、この店最近話題になってるとこですよ、お兄さん知ってます?」


「全然知らん」


「…チッ」


「背後で舌打ちするのやめて…」


 そして、目的地もわからずにみどりに引っ張られるがまま街を歩く。

 休日を謳歌する学生たちの中に溶け込むよう。いや、勝手がわからずきょろきょろと辺りを見回す俺と、そんな俺を睨みながら瘴気を放つ菜津美のことを考えると全く溶け込めてはいないかもしれないが、俺も自分なりにこの状況を謳歌した。なるほど、学生というものはこうして休日を過ごすらしい。

 確かに年下だとかそもそも妹だとかいう残念ポイントはあるが、女の子たちと街を回るのはかなり新鮮だ。

 何が凄いって…女の子と一緒だというだけで、カップルや女性に囲まれていても、ここまでいたたまれなさが薄まるとは…これは大いなる発見と言えるだろう。


「あっ、あそこクレープ売ってますよ。食べてみましょ」


「へえ…」


 みどりが街角へ指をさす。その先には対面販売みたいな店構えのクレープ屋があった。対面販売と言っても屋台のようなカジュアルな感じではなく瀟洒な雰囲気纏うそこには三組ほど人が並んでいて、そこそこの人気店とみえる。店脇に立つスタンドプレートにはメニューが書かれているみたいなので、遠目ながらも俺はじっとそれを読み取ろうと試みた。


「うげっ、最低一つ千円もするのか…」


 事務所前のラーメン二食分…。

 一日の食費を千円以下に収めたい俺にとっては、法外な値段だ。

 しかし、みどりには全く怯む気配がない。後ろの菜津美に至ってはクレープの話になった途端、剣呑な雰囲気が引き、どことなくご機嫌な空気まで醸していた。


「お兄さん、私が奢りましょうか?」


「やー…それは流石に…」


 年下の女の子に奢られるのは、なんだが良くない心持だ…。


「大丈夫ですよ、お父さんが一杯お小遣いくれますから。ほら遠慮なく」


「あ、そう? じゃあなんか腹に溜まりそうな奴頼む。好き嫌いはないからさ」


 しかしオヤジの金だと思うと遠慮心も薄まり、俺は恥を忍んで厚意にあずかることにした。


「菜津美はどうする?」


「私は焼きリンゴパイクレープ。カスタード普通、リンゴマシマシ、シナモン少な目」


「はーい」


 …そんな二郎系みたいな注文できる店なの?

 店構えがお洒落なので大人向けの高級クレープなのかと思っていたが、ボリュームで攻めるタイプなのかもしれない。


 みどりは俺たちの注文を聞くと、当たり前のように一人だけで列へと並びに行ってしまった。

 必然的に俺は菜津美と二人取り残される。なんかいつの間にか、そうなるのが自然の流れとなっていた。


「…お前、みどりに払わせないで、あとでちゃんと自分の代金払えよ」


「なっ…当たり前です! というか、貴方こそみどりに奢られる気満々のくせして…」


「俺はいいの。兄妹なんだから」


「っ、く…」


 道脇で二人無言にて突っ立っているのも変だと思い菜津美に話しかけてみれば、せっかく上機嫌へと傾いていた天秤もたちまち元の木阿弥へ。


「というかお前、普段からあんな高いクレープ食ってるのか? よっぽど沢山小遣い貰ってんだな」


「そんなわけない…たまにだけです。

 高校生になってお小遣いが五千円に増えたけど…そんな贅沢出来ないですよ」


「あれ、そんなもんなの…?」


 一般的な高校生がどのくらい貰っているのかは知らないが、菜津美が返した答えは俺の予想を外れていた。


「…」


 俺が少し考えをめぐらせていると、当然この子は何もしゃべらないので会話が途絶えてしまう。

 …流石に何か話をしたほうがいいのかな。


「あー…どうだ学校は? うちの学校変な奴多いから、そういうのには近づくなよ」


 ちょうどいい会話の取っ掛かりも見つからないので、適当に学校の話をふる。

 ちなみに変な奴というのは特に吉矢とか、その取り巻きとかのことだ。

 あんなのと関わったらみどりにまで影響が出てしまうかもしれん。


「別に順調です。クラスも生徒会も皆良い人ばかりですし…ただ、サボり魔がいることぐらいでしょうか。授業に出ない人に、生徒会に全く顔を出さない人に…」


「色々事情があるんだと思うなぁ、そういう人には。温かい目で見守ってあげようよぉ…」


 折角話を振ってみたのに、その先には暗雲が垂れ込めていた…。


「…流石に授業はちゃんと受けた方が良いですよ」


「だって眠いんだもん。寝なきゃただでさえ陰気な顔がお化けになっちまう」


「それならちゃんと夜眠ればいいでしょう。それともなにか、それが出来ない理由でも?」


「そういうわけじゃないけど…」


 理由など言えるはずもなく、誤魔化す様に呟くしかなかった。


「…そのままじゃ、留年しますよ」


「え?」


 留年? いやいやまさか、咲坂や臼野じゃあるまいし…。


 …しかしまてよ、冷静に計算してみると確かにこのままじゃ不味いかもしれない。

 去年は普通にパスしたが、今年は前より時間を取られているから単位が以前より取れていないんだよな…。


「お兄さーん。ちょっとこれ取ってくださーい!」


 咲坂と臼野に加わり三人で吉矢の取り巻きをしている来年の俺を想像して、それだけは勘弁だと冷や汗だらだら垂れ流していると、いつの間にかみどりが列からこちらへ歩いてきていた。

 その右手にはだいぶ無理した感じでクレープ二つを重ね持っている。そして反対の手には溢れんばかりに焼きリンゴが堆く積まれ、かなりのボリューム感をあらわにしていた。これで千円なら安いんじゃないかと関心するほど。


「リンゴとかはかなり多めにしてくれるんですよね。イチゴでやると追加でお金かかりますけど」


 言いながら、みどりは俺達に向かって両手を差し出した。

 実はクレープを食べるのは人生で二度目なので、クレープの耐久度を把握できていない節があり、恐る恐るみどりの手から受取ろうとしていると、横から菜津美の手が素早くデカブツをかっさらう。


「おぉ」


「…何です」


 そのまま嬉しそうにぱくついてる菜津美を見て、あの仏頂面を崩すことが出来るクレープというやつは凄いなと感嘆の声を洩らすと、さっきの顔は幻覚だったのかと目を疑うほどの目つきで睨まれた。


「ほら、お兄さん。はやくー」


「あ、すまん」


 みどりは自由になった手で俺の分を渡してくれる。

 受け取ったそれは菜津美のデカブツを見た後だとかなり小さく見えた。


「お兄さんのは私と同じイチゴにしてみました。それとも、菜津美みたいにモリモリのが良かったですか?」


「いや、美味そうだ。ありがとう」


 腹にはあまり溜まらなそうだが、奢りだし、実際美味しそうなので文句はない。

 それに菜津美が頼んだようなサイズを一人で二つも持ってくるのはみどりも大変だろう。

 …なんだか今更になって、一人で行かせたことに罪悪感が湧いてきた。


「ほら、行きますよ」


「あ、ああ…」


 今度はみどりに腕を引かれることもなく、並んで歩き出した二人のあとをクレープ片手に追う。

 そうして再び三人で街を歩いていると少しして、ちょっと困ったことに気づいた。


 …あのう、歩き食いって地味に難易度高くない? 


 いつ食いついたらいいのかタイミングが全然わからん。生地の隙間から見えるホイップクリームが溶けていくのを無情にも眺めることしかできない…。

 参考に前の二人を見てみれば、既にクレープは残り少ないうえ、歩き食いの合間に会話まで成していてまるでレベルが違う。真似できそうにないな、あれは。


「あの~、お二方に提案があるのですが、ちょっとそこのベンチで休まない?」


 このままじゃ生地の隙間から溶けたクリームが漏れだしてしまうと、焦っていたらおあつらえ向きに、路傍にベンチがあったので二人に休憩を要請した。

 この辺りは酔っ払い対策なのか知らないけれど、ベンチが少ないのでこのチャンスを逃すわけにはいかない。


「疲れちゃったんです…? って、クレープ全然食べてませんね。小食アピールですか? ぶりっ子め~」


「そんなんじゃないよ…」


 みどりの謎中傷をはねのけながら、返事も聞かず我先にとベンチへ腰を下ろす。

 だいぶ生地がぶよぶよになってきてるので、急がんと不味いのだ。

 腰が落ち着き、ようやく普通に食べれるぞとそのままクレープにかぶりつく。

 みどりはそんな俺の横に座るが、菜津美は突っ立ったまま珍獣でも見るような目つきで俺を眺めていた。


「お兄さん、頬にクリーム跳ねてますよ」


「ぅ、む…」


 隣のみどりがハンカチを取り出し、俺の頬を拭う。

 子供みたいでちょっと恥ずかしいが、クレープを食べるのはまだ二度目だし、クリームが溶けてぐちゃぐちゃになったのなんか初めてなんだししょうがない。


「不出来な兄妹がいると、世話を見る方はずいぶん気をもむようですね」


 その様子に、冷ややかな目で菜津美が言い放つ。同時に俺はクレープを全て呑み込んだ。


「すまん…」


「いえいえ。これくらいなんでもないです。それにお兄さんには恩がありますから」


「…恩?」


 なんかあったっけ? どちらかと言えば、俺の方がありそうだけど…。


「私は本当に、お兄さんで良かったと思っているんですよ。ほら、変な人だったら大変じゃないですか。距離を取りたくても、そうはいかないこともありますし…」


「…まあ、嫌でも向き合うことになるもんな。家族という間柄からは…」


「っ…」


 冷たく俺とみどりのやり取りを見ていた菜津美だったが、俺が家族とはそういうものだと、何処かで聞いた受け売りを無責任に飛ばすと、菜津美が苦虫を噛みつぶしたかのような顔でおののく。


「本物じゃないくせに…逃げてるくせに…どの口が…っ」


 そして、菜津美の口から吐きつけられた呪詛は俺の痛い所をついていて…内心、墓穴を掘ったなと自分を笑った。

 確かに俺は家族を語れる立場にない。…そんなもの、よく知らないし。


 主に菜津美を中心として剣呑な空気が醸される。それに当てられたみどりがおたおたし始めたのを見て、いつも迷惑かけてすまないと、頭を下げたくなった。


「…じゃあ、食うもん食ったし、そろそろ俺は行くわ。クレープ御馳走様」


 ベンチから立ち上がり、逃げるように別れを告げる。このまま俺がいたら、空気が悪いままだろう。

 折角の休日を邪魔する気もないので、すかさず踵を返す。


「…あ、もう行っちゃうんですか? おーい…!」


 そんな俺の背中にみどりが声をかけていたが、振り向かずに立ち去った。



「…」


 そのまま並木道へと入り、ショーウィンドウを眺めて歩く女性たちを追い越しながら、一つ考え事をする。


 …実際、アイツの家族ともちゃんと向き合わなきゃいけないのかもしれない。

 彼女たちに新しい家族として認められる必要はない。

 俺は彼女たちを家族と思うことはできない。

 でも、逃げ続けるのはそろそろやめにしよう…。そして願わくば、一つだけ。

 彼女たちの大切なモノの中に存在する権利を、認めてくれれば…それだけで充分だ。


 ひたすらそんなことを考えていたら、居心地の悪さなんか感じる暇もなかった。


 やがて並木道も抜けて、当てもなくそぞろ歩く。

 どれほどそうしていたのかも定かじゃない。南の空高くにあった太陽は少し傾き、黄色がかった陽光を放つ。あと三時間もすれば、立派な夕日となるだろうか。

 そう考えたとき、惰性のように動き続いていた足がようやく止まった。

 どこからか波及した人のざわめきが耳をつき、その元を探せば…。


「ここは…」


 気づけばそこはホウライビル前。居丈高に屹立するその体躯は傾き始めた日に照らされて、中腹辺りで影と真っ直ぐに斜線を描く。

 そしてその根元には、黒山のように人の蠢くいつもの広場。

 休日でも、昼間でも、いつもと全く変わらない表情を見せるこの場所に、浮ついた心が落ち着いていく。一度だけ息を深く吸えば、悩みは頭の片隅へと押し込まれ、いつもの自分を取り戻せた気がした。


「ここは騒がしくて嫌いだったはずなんだけどな…」


 案外、俺はここを気に入っているのかもしれない。

 眼下に広がる人の波は厚すぎて、自分の存在がちっぽけなものだと改めて諭されるような気分だ。


「この中に、知り合い何人いるんだろ…」


 ハヤシさんは…いるだろうな。あの人は休日によく出現している。

 吉矢はここらで見かけたことないな。もしいたとしたら、取り巻きもセットだろう。

 仕事する上で知り合った子供たちはこの中にいても不思議じゃない。でも同じ年頃の成哉には、こういう所に来てほしくないな…。


 人波を眺めそんなことを考えながら、その横の道を抜ける。

 さっきは気に入っているかもしれないと言ったが、この人込みに入るのは流石に嫌なのだった。


「暗いな…」


 そのまま迂回するように入った脇道を歩きつつ、途端に薄暗くなった辺りを見回す。

 建物がちょうど日を隠しているのだろう。

 陰が落ちた路上にも人影はそこそこ見えて、すれ違う人はもちろん、ガードレールに腰かけてスマホをいじる男や、数人で固まってなにやら盛り上がっている中高生ほどの若者たちも目に入る。


「…?」


 そこで、今いる脇道から更に枝分かれした小さな路地の角にひっそりと、パーカーを来た男が佇んでいるのが見えた。


 その服装とフードをしていて顔が良く見えないこともあり年齢が分かりづらいが、恐らく三十代。

 この辺りでは少し浮いた年頃。寂然としつつもどこか落ち着きのない立ち振る舞い。


 …堅気じゃないな。売人かなにかか。


 その裏路地の真横に差し掛かかったところで、歩調を緩めそれとなく路地の奥を覗いてみる。

 フードをかぶった男の奥には更に男が二人、なにやら話し込むように顔を突き合わせていた。


「——あの~」


「うわ!?」


 急に背後からかけられた声に、思わず素っ頓狂な声を上げる。

 覗いていたのを見咎められたのかと思い、たたらを踏みつつ翻って見ればそこには何故か年若い女の子。流石に路地の男たちとは無関係だろう。大げさに驚いたのがちょっと恥ずかしくなる。


「あのっ、ちょっといいですか?」


「な、なに?」


 驚きで速くなった拍動を抑えるように手を当てながら、その女の子をそれとなく観察する。

 中学生か、高校生。この辺では珍しくもない年頃だが、なんだか服装が見慣れない。


 ファッションに疎い俺でも感じる垢ぬけなさ。その多くはたぶん肩越しに見えるパンパンに膨らんだリュックに根ざしているのだろう。一瞬登山にでも行くのかと思ったが、時間帯からしてそれはないなと考え直した。


「さっき、この腕時計を落としませんでした?」


「腕時計…?」


 そう言って、女の子は手に持った腕時計を見せて来る。


 …多分、アナログの腕時計だな。


 なんで多分かというと、その腕時計の前面ガラスは蜘蛛の巣状にひび割れていて、奥の文字盤が良く見えないからだ。円周に文字が綴られていて、針の先が少し見えるので、かろうじてアナログだと分かる。


「いや、俺のじゃないな。ごめん」


 俺は腕時計をしたことが無いし、俺の物な訳がない。

 というか、その腕時計、落としたじゃなくて捨てたの間違いなんじゃないか?

 そんなほぼ壊れている腕時計を付けるような変人がいるとは…いや、この街には結構いそうか。


「そうですか…ありがとうございました」


 果々しくない俺の返事に女の子は目を伏せ礼を述べると、頼りない足取りで離れていった。


 …なんだったんだろう。

 少し呆気にとられながら、遠のく大きなリュックを眺める。


 あれ…?

 心なしかそのリュックが先ほどの裏路地へ向かっている気が…。


「あのー」


「…あん? なに?」


 うわ、話しかけちゃったよ。なんだって見るからにアレな奴に…。


 俺にしたのと同じ聞き込みをするのか、女の子は俺がさっきこっそりと覗いていた路地に近づき、手前の角に寄りかかっていたフードの男へ声をかけた。


 声をかけられたフードの男は、今話しかけんなよと不機嫌そうに答える。

 その様子を見るに、やっぱり路地の奥で取り込み中だった奴らと仲間みたいだ。

 なにか密談中なのだろう。


「腕時計を落としませんでした?」


「時計だ…?」


「そうです。これなんですけど…」


 嫌そうに応対する男とそれでも引かない女の子を尻目に、俺は足を前に進めた。

 いくらこの地域の治安が悪いとはいえ、あの男たちはなにやら立て込んでいるようだし、追い返されるか精々クスリを売りつけられるくらいだろう。放っておいても大丈夫。

 そう判断して歩き出したわけだが、なんだか気になってチラチラと振り返ってしまう。


 というか、クスリを売りつけられるというのも十分不味いのか…? 

 ハヤシさんと関わりすぎたせいか感覚がバカになっている気もする。

 それに、なんかお上りっぽい感じだったからな…。変な事言って顰蹙を買わなければいいけど…。


「——てめぇ、それを何処で拾ったッ!」


 そんな俺の憂慮へ重ねるように一際大きな声が通りに響く。続いて微かに間の抜けた声がしたかと思うと、後方から聞こえていた話し声が途絶えた。


「あっ…」


 ギョッとして振り向いてみれば案の定、路地の角に控えていた男と、それに聞き込みをしていた女の子の姿が消えている。


 …もしや、裏路地に引きずり込まれた? 


 きょろきょろと周囲の人…若者たちの集団などを見てみるが、消えた二人に感づいた様子はない。いや、感づいていたとしてもどうでもいいのか。


「…」


 そろりと枝分かれした裏路地の方へ足を戻す。

 すると近づくにつれて徐々に、裏路地へ続く角の奥から怒気のこもった男の声が聞こえてきた。


「お前、この腕時計の持ち主は何処にいる!? 丸山! はやく手伝え!」


「いえあの、こっちがその人を探してるんですけどっ」


 なんで揉めてるのかよくわからんが、なんか口答えしてるよ…。

 ちらりと角から奥を覗いてみると、さっきの子がフードの男に腕を掴まれた状態でメンチを切られている。

 その後ろでは先ほど密談していた男二人が女の子を眺めながらなにか言葉を交わしていた。


「とりあえず戸田さんのとこに連れて行きます?」


「未成年だろこの子…警察に話行ったらメンドイぞ」


 茶髪でチャラそうな方の提案に、いかついスキンヘッドの男が仏頂面で返す。

 禿頭とくとうの方はフードの男と同年代といったところだが、茶髪はかなり若く見える。

 大学生くらい…下手すれば高校生か…?


「話聞いたら身元控えてすぐに放流すれば大丈夫すよ。怪我とかさせなきゃサツも頑張らないでしょ。 ほら、あの店とかだったら騒がれても大丈夫ですし」


「移動はどうすんだよ…今車ねえんだから」


「あ~、じゃあ僕がこの子見張っときますから、丸さんと佐藤くんで車取ってきてくださいよ」


「なんでわざわざ二人がかりで車取りに行く必要があんだよ。一番年下のお前がいけボケが」


 ヒートアップしてるのはフードの男だけで、幸い後ろの二人に手荒な真似をするつもりはなさそうだ。

 とはいえ二人の会話もちょっと雲行きが怪しい。

 あの子は時計の落とし主を探していただけのように見えたが、何故こんなことに…。


「…」


 だが、仮に連れ去られたとしても、そこまでおかしなことはされない…かもしれない。

 会話を聞くに、連中は半グレとかその辺の組織立った集まりの一員だろう。

 しっかり警察を警戒しているし、まばらな年齢と会話から滲む上下関係がそれを物語っている。

 何故そんな連中にあの子が目をつけられているのか。その理由は見当もつかないが、警察を警戒してる連中があの子に手を出して、むざむざと事を荒立てるとは…いや、それも事情次第か。


「おとなしくしろっていってんだろッ! くそこいつ…チビなのに重い!」


「それリュックの重みですっ。というか引っ張らないで、手汗凄いしぃ…!」


 さながら綱引きのようにフードの男と女の子が腕を引きあいながら、緊張感のないやり取りをしている。しかし、痛みがあるのは本当なのだろう。女の子の顔が苦痛からか歪んでいた。

 あのままだと手首を痛めてもおかしくないな…。


「佐藤はマジで手汗凄いからなぁ。可哀想に。俺も前、手の平びちょびちょにされたよ」


「え、どういう状況? 佐藤くんと手を繋いだってことすか? ゲイ…?」


「腕相撲しただけだぶちのめすぞ…」


「…オッサン二人で腕相撲してる絵面も相当キツイっすけどねぇ」


「藤、お前先輩ナメてんな…?」


 後ろの二人はどうでもいい話に夢中で仲裁に入る様子はない。


 …だからといって、俺が間に入ったところで事態が好転するとは思えない。


 いやむしろ、余計にこんがらがるのが目に見える。

 だって俺は事情も、詳しい経緯も、何も知らない。関係がない部外者だ。


「…」


 …でも、俺が関係ないなんて、それこそ関係がないか。

 重要なのは、俺がなにをすべきか。

 あいつなら——長井仁なら——どうするか、だよな…。


 路地の角に手をかけて、裏路地に身を乗り出す。

 女の子の背後にいきなり出てきた俺に面食らったのか、フードの男が女の子を引く手を止めた。


「…なんだお前?」


 男がそう言うと、その声に反応して後ろの二人もこちらを見る。

 お取り込み中に割り込んだ時向けられる、この何だコイツといった視線は、何度浴びせられても慣れない。


「おい…!」


 フードの男が怒気を込めて俺を睨む。


「はやく…放してっ…!」


 しかし、女の子はそれどころじゃないのか背後の俺に気づいた様子はなく、動きの止まったフード男の手から逃れようと未だに腕を引き続けている。


 フードの男も女の子も興奮状態みたいだから、とりあえず場を落ち着かせたいのだけど…どうしよう。


 …自己紹介でもするか。


「あー、どうもこんにちわ…俺は、長——」


「おッ!?」


 言いかけたところで、突然フードの男が驚いたような声を上げる。


「——いッ!?」


 すると、男の手元で蠢いていた大きなリュックがさながらカタパルトから射出されるがごとくこちらに突き進み、俺は為すすべもなくそれに激突した。


「いったぁ…って、誰…?」


「…っ」


 今の今まで俺に気づいていなかったのか、俺のみぞおちに背中のリュックを突き刺した女の子がその体勢のままこちらを見上げる。

 俺はなにも答えられず、それとなく彼女を後方に追いやった。


「チッ、汗で滑ったか…で、誰お前? その女の仲間…いや、奴の仲間か?」


「…ぁ、ぅ」


「聞こえねぇよ。しっかり喋れや」


 …いかん。さっきの激突で舌を噛んで全然喋れん。

 血生臭いものが口内から鼻腔に満ちる。というか痛すぎて涙が出そうだ。


「…その子の友達じゃねえの」


「馬鹿だなぁ丸さん、見てよあの二人が醸す芋臭さ。この街であんな服装してる人いないから、

 お上りカップルってとこでしょ」


 後ろの二人の会話が聞こえる。

 俺この街に住んでんのに、なんか酷い言われよう…。


「って、あっ…!」


 散々に俺のことを腐した茶髪が、ふと何かに気づいたかのように目を見開く。

 その眼差しは俺の顔に向かっている気がした。


「…どうした?」


「や、なんでもないっす~…」


 丸さんと呼ばれていた強面禿頭の男になにやら聞かれた茶髪が目を泳がせ、そのままさりげなく上目遣いで俺の目を見ると、何故かまばたきを繰り返し始めた。よくわからんが、なんかムカつくな…。


「てめえ、さっきから何だんまり決め込んでやがる…」


「…ぅ」


 マズい、よそ見してたらフードの男がキレかけてる。

 さっき俺の後ろに追いやった女の子は逃げればいいのに何故かまだ背後に居て、このまま喧嘩にでもなったら巻き込んでしまうだろう。

 とにかくなんか喋って、フードの男を落ち着かせなきゃ…。


「…ぉお、をぉれは、ららい…」


「あ? なんて…?」


 駄目だこれ。

 つーか俺の舌ついてる? 噛み切ってない?


「…お前、ふざけてんのか?」


 ふと荒々しかった語勢を緩め、フードの男がぽつりと俺に問う。


 …こりゃ内心、腸が煮えくり返ってるな。

 冷や汗をかきながら肩越しに後ろを見ると、そこには依然女の子が控えている。

 この子がさっさと逃げてくれれば、俺もすぐさまとんずら出来るんだけど…。

 そんな思いで女の子を見ていると俺の視線に気づいたのか、その子は不意に顔を上げ、俺の顔を見据えた。


「あの、さっきの人ですよね」


「…?」


 一瞬何が言いたいのかわからなかったが、たぶんさっき聞き込みをした人かと聞いているのだろう。

 喋りたくない(喋れない)ので、とりあえず首肯する。

 というより今はぶち切れ寸前の輩がすぐそこにいるわけで、こんなやり取りしている暇なんてないのだけれど…。


「その、以前に私と何処かで会ったことありませんか?」


「——ぇ」


 その一言に、ひたと、周りの音が止んだ気がした。

 吃驚して、こちらを見上げる女の子の顔をまじまじと見つめてみるが、はっきり言って全く覚えがない顔つきだ。


 そうとなれば決まっている。所謂…逆ナンだろう。

 以前野生の軟派男たち(いま思い返せば咲坂に臼野という個体だった気がする)が道行くお姉さん方に同じ口上で声をかけているのを見かけて、羨むと同時にそれをする勇気がない自分への失望で夢に出るくらい悔しい思いをしたことがあったが、まさか自分が声をかけられる側になるとはな…。

 感慨無量と浸りながら、しかし質問に対しては正直に答えようと居を正し、首を横に振って否定する。


 その時、揺れ動く視野の端で影が走った。


「——っ!」


 反射的に後ろへ飛び退くと、鼻先を残影が掠め微風が顔に吹き付く。

 そして飛び退いた先で背中になにかが当たり、ふぎゃと、野良猫の鳴き声のような悲鳴が背後から聞こえた。


「オレが質問してんだろうが、よそ見すんじゃねぇよ…ッ」


 …あ、マジで一瞬忘れてた。

 目の前にはフードの男が、如何にも怒り心頭に発しているといった表情で俺を睨みつけていた。

 それにしてもよそ見をしている相手にいきなり殴りかかってくるなんて、相当キテるみたいだ。

 運良くそれに気づけたうえ、単発の右ストレートだったからなんとか躱せたけど、普通にコンビネーションで来られていたら食らってただろう。


「ちょおっ、佐藤くん暴力はやめといた方がいいって!」


「うるせーぞ藤、ガキが日和ってんなよ…! この路地が映る監視カメラがないことぐらい知ってんだろうが!」


「そういう問題じゃ…」


 茶髪のチャラ男がフードの男を制するように出てくると、二人は何やら揉め始める。


 しょうがない、この隙に…。

 俺は振り向き、自身の鼻をさすっている女の子の手を取って、裏路地から飛び出した。


「えな、なにっ?」


 なにじゃねえよ逃げるに決まってるだろ、と言いたくなりつつも、導くようにその手を引く。

 ただ心配なのは、こんなパンパンに膨らんだリュックを背負ってちゃんと走れるのかという所だが…。


「お前ら馬鹿か。揉めてる間にさっきの子たち逃げたぞ」


「なっ…クソッ、追うぞ藤! てめえ落とし前つけろ! あれは間違いなく俺を襲った奴のもんだ!」


「えぇ、追うんすか? だいぶ目立ちますよ。ねえ、丸さん」


「背に腹は代えられんだろ。少なくとも話は聞いとかねぇと…あの時計について…」


 女の子を先導するように、影の落ちた路地を走る。

 途中まで手を引いていたが、自分で走り出したのを確認してからその手を放した。


 …ちゃんとついてきてるな。重そうなリュックの割に、なかなかの健脚だ。


 奴らはまだ揉めているのか追手は来ない。だが、あの様子だと時間の問題か。

 路地を曲がり、ホウライビルの背面に出る。

 そしてそのまま道を行き、二筋道に分かたれたところで足を止めた。

 このままぐるりとビルを回って広場の人込みに紛れるのも手だが、人込みの中に奴らの手先がいないとは限らない。囲まれてしまったらどうしようもないので、駅前に行くのが賢明か。


「ど、どうしたんですか?」


「…この先、駅前に…タクシー乗り場、とかある、から…」


 良し。なんとか喋れた。

 駅前まで俺が先導しても良いが、追手が来るかもしれないことを考えるとここで分かれた方が良いだろう。


「この先って、真っ直ぐに?」


「ぁあ…」


 そうかこの子、道知らないのか…。

 道はもちろん直線じゃないし、というか少々入り組んでいる。

 あ、そうだ。スマホの地図アプリで…。


「っ!」


「わっ」


 咄嗟に女の子の手を引いて、急ぎ分かれ道の先へ進む。

 先ほど俺たちが通った曲がり角からフードの男と茶髪が出てきたのを見ての事だった。


 …もう道を教える時間も指示を出す暇もない。

 僅かな光陰さえ惜しむように路を覆う射影を踏みしめれば、ホウライビルの天端から影を切り裂く斜光が俺たちを差し照らす。

 奴らに目撃されていないことを願いながら、とりあえず駅前に向かった。


 ◇


 数分後。

 俺たちの足取りはすでに緩やかなものとなっていた。

 駅前までもう少し。来た道を振り返ってみるが、追手が来る気配は無い。


 …どうやら撒けたみたいだな。

 胸をなでおろし、そのまま少し後ろを歩く女の子をちらりと見る。


「…?」


 うーん、やっぱり中学生か高校生くらいか。服装…というかパンパンのリュックは一見すると旅行者。

 実際、この辺の地理に明るくないみたいだし、なんだってこの歳の子が一人であんなとこにいたのか。

 いや、事実ホウライビル前の広場あたりには不良中学生とかが結構いるが、この子の雰囲気はそれとは違う気がする。


 それに、気になるのはそれだけじゃない。

 先ほど、この子に話しかけられたあのフードの男が見せた異常な剣幕。

 結局あれはなんだったのだろう。

 確かあの男は時計がどうこう言っていた気がするが…。


「あの、あなたの名前、なんていうんですか?」


「…おれ?」


 横目ながらもまじまじと顔を見つつ考え込んでいると、突然名を聞かれる。


「わたしは、大野…大野真尋おおのまひろです。あなたは…」


「おれは…、らがい…」


「羅蓋?」


 くそ、まだちょっと舌が痛い…。


「違…。らがいじゃなくて、な、長井…」


「長井…」


 なにかを思い返すように、苗字を呟く。


「聞き覚えがあるような…ないような」


 もしかして本当に、俺と何処かで会ったことがあると思っているのか…?


「…」


 …うーん。

 ざっと脳内でここ1年の記憶を洗いなおして見たが、目の前の女の子に見覚えはない。

 となれば、この大野って子がなにか勘違いしているだけだろう。別に珍しい苗字でもないしな。


「おれは、お前みたいなやつは、知らない…。人違い、だろ…」


 言葉を選ばずに突き放せば、彼女はそのまま黙り込んでしまう。

 その姿を振り切るように前を向く。目的地はすでに目前まで来ていた。


 目の前に伸びるビルに挟まれた路地には人っ子一人おらず、がらんどうの路地口からは駅前を行き交う人々が良く見える。

 あのなかに紛れてしまえば、仮にさっきの連中がまだ追ってきていたとしてもすぐにはバレないだろう。

 そのままタクシーや電車に乗ってしまえばこっちのもの…なんだけど。

 一応、確認しておくか。場合によっては俺がどうにかしないとな。


「金、ある? タクシー代とか、電車賃…」


「あ、はい。貯金崩してきたので、けっこうたくさん」


 …貯金を崩した?

 ちょっと要領を得ないが、まあ金の心配がないならどうでもいいか…。


「——ったく、丸さんも人使い荒いよなぁ」

「ていうか、芋臭い奴らを探せってどんな指示だよ。ハゲさんとうとうボケたんじゃね?」


 懸念もなくなり、それじゃあ路地口に向かおうと歩き出したところ、いきなり若い男が二人…駅前から路地に入って来る。


「バッカお前、そんなん聞かれたらボコられんぞ。それにあの人まだ二十代らしいぜ」

「え、マジ? 風俗狂いの伯父さんにそっくりだからそんぐらいだと思ってたわ…」


 一見すると、ただの若者二人。

 しかし、その口から微かに聞こえた言葉に不穏なものを感じた俺は無意識に足を止めていた。

 ひょっとして、あの二人は…。


「まあ、広場からこっち来るとしたらこの道が最短ルートだし、ここ通る奴全員絡めばいいべ」

「ここ意外と人通るから日が暮れんぞー…お?」

「どしたん?」


 会話をしていた二人がこちら側を向き、十メートルほど隔てて俺と目が合う。

 すると、二人組もぴたりと足を止め、隣と顔を見合わせた。


「「芋臭い奴いたぁ!」」


 珍獣発見とでも言わんばかりに男たちは快哉を叫ぶと、肉迫せんと距離を詰めてくる。

 その表情は嬉々としている。それはさながら、夏休み朝早くから準備して友達と昆虫採集に行ったらオオクワガタを見つけた時のような…少年然とした笑顔。


 …いや、そんなことはどうでもいい。

 そんなことより速く逃げなくてはならないのだが、何故か俺の足が動かない。


「クソッ…」


「あ、あの長井さん…? あの二人、さっきの人たちの仲間なんじゃ…」


 ——ちくしょうッ、俺の服装ってそんなに芋臭いのか…!?


 理由は明白。心理ダメージが足にまで響いているからだった。

 いやまて、さっきのはもしかしたら俺じゃなくてこの大野真尋という女子に言ったのかもしれない。

 そんな可能性の先に自尊心を送り出そうとするが、奴らが完全に俺の顔を凝視しながら言ってた事を考えると、転嫁しようにも無理があると気がついた。


 …確かに、何も考えずに安い服を買う癖があるけれど。

 なんなら近所のおばちゃんがくれた、家を出た息子の色褪せたお古も、難なく着ちゃうけれども。


「でも内野のおっさん四十歳も似たような服装なのに、なんで俺だけ言われる…!?」


「うわ、いきなり凄い喋る…。てか、普通に喋れたんだ…」


 まだかすかに残っていた舌の痛みも忘れて疑問を呈すれば、大野真尋が驚いたように言う。


「その、よくわからないですけど、中年男性の服装をそこまで気にする人なんていないんじゃないかな…」


「…たしかに」


 なんだか妙に合点がいって落ち着いてきた。

 それに俺が知らないだけで、あのおっさんも言われてる可能性あるもんな。


「というか長井さんっ、変な事言ってないで逃げないと…!」


「…」


 とりあえず、冷えた頭で状況を見る。

 こちらに向かってきている前方の二人組との距離は五メートルほど。

 足にはまだダメージが残っているが、走り出すのに支障はない。

 ともすれば、問題は後ろにいるこの子…大野まひ—


「——わァ!?」


「とにかくあっちに!」


 先ほどとは打って変わり、今度は俺が腕を引かれた。

 全く予期していなかったのでふらつきつつも大野真尋に引かれるがままついていくと、迷いもリュックの重量も感じさせない足取りで、彼女はどんどん先導する。


 …あれ? この子、この辺りの地理に疎いはずじゃ…。


 彼女は道を戻り、分かれ道に差し掛かるとさっき来た道とは逆に進む。それに必死に追いすがりながら、そっちの方面は郊外だったか、と思い返した。

 それを裏付けるよう段々と道沿いには住宅が増え出し、住宅の隙間からは線路沿いの土手に生えた緑がちらちらと覗く。


 確かにこっち方面だったら挟み撃ちにされる可能性は薄いし、合理的な判断ではあるが…。


「「——!!」


 後ろを見るとさっきの二人はまだ追ってきていて、振り向いた俺に気づき何かを叫ぶが、ちょうど横を通りかかった電車がそれをかき消し聞き取ることは叶わない。


 …叫んだ奴らの表情は相変わらず楽しそうだから、またしても俺に対する誹謗(中傷でもあるはず)だろうと推せば耳に入らなくて幸運だったかもしれん。


 ◇


 そんなこんなで逃げ続け、どれほど経ったのか。

 未だ前を走る大野真尋の歩武に翳りはなく、その健脚は衰えることを知らない。


「はっ…はぁっ…」


 反面俺はというと、実はかなり疲れてきてたり…。

 情けない話ここ最近走ることなんて無かったからか、もう既にわき腹が痛い。

 とはいえ、俺たちを追ってきている二人組の速度も落ちているので、俺が特別運動不足という訳ではない…と思いたい。


「長井さんこっち!」


 一足先に家々の隙間を抜けた彼女が俺に進路を伝え、角の先に消える。

 疲れをおくびにも出さない声色に称賛を通り越して呆れの念を抱き、子供のバイタリティにはついていけんと思いつつも付いていかないわけにもいかないので、老体に鞭を打てば、


「——え」


 角の先で目に飛び込んだ光景に声が漏れる。


「長井さん急いでー」


 アスファルトの路面を背景に彼女がこちらに手を振る。

 その足が踏みしめるのは緩やかな勾配。しかし、見上げる路面は何処までも続いているように見えて、もう完全に郊外のスケール感だった。


「ま、まじ…?」


 今、この坂登るのか…。


「芋ーどこいったー…」

「たぶん、あっちじゃねー…」


 愕然と坂のふもとから見上げていれば、来し方から覇気のない蛮声が聞こえる。

 こうなってしまってはもう、登るしかないのか…。

 喉がカラカラなのですぐ近くにあった自動販売機を恨めしく思うが、断腸の思いで振り切り登攀へと取り掛かった。


「ふぅ…はぁ…」


「なにちんたらしてるんですか長井さーん」


 クソ…。ガキが調子づきやがって…。

 睨むように先を見上げてみるが、さっきから一向に彼女との距離が縮まらない。


「…もうよくねー、どっか行っちゃったし。張り込んでたけど、誰も通らなかったことにしない?」

「バレたら丸さんキレんだろー」

「あの人すぐキレるもんなぁ…ストレス溜めこみすぎなんだよ。そりゃ二十台でハゲるわ」


 ガコンと自販機の方から音がしたので振り向いてみれば、坂のふもとには追手の二人がいた。


「ジュース買ってんじゃねーよ…」


「…お?」


 妬みと呆れから小さく呟くと、この距離では聞こえるはずはないのに、何かを感じ取ったのか一人がこちらを見る。


「どした?」


 そして当然俺と目が合ったのだが、そいつはすぐさま目線を切ると相方になんでもね、と首を振って手にしたジュース缶に口をつけ始めた。


 や、やる気ねー…。

 こっちとしてはありがたいのだけれど、こいつらを差し向けた奴にはちょっと同情した。


「はぁ…はぁ…、くそ…いねぇし…」


 何ともこちらのやる気がそがれる所を見てしまいながらも、気力を振り絞り坂を登りきる。

 しかし、そこにあの子の姿はない。

 目の先には家々とブロックの壁で囲われた道が続く。たぶん、奥に行ったのだろう。


「あいつらは…帰ったか」


 もう一度覗くように坂の下を見てみるが、もうあの二人組の姿はなかった。

 本当に帰ったみたいだ。だったらこれで一安心…なのか?


「…いや」


 他に追手がいないと決まったわけじゃない。

 一応、あの子に今日は早く帰って、しばらく街には近づかないよう言っといたほうがいいか…。


 幸い一本道なので迷いはしない。

 激しくなった鼓動を落ち着かせるように、ゆっくりと歩く。

 辺りからは人の声一つ聞こえず、自身の鼓動だけがやけに響いた。

 必死に走っていたので気づかなかったが、だいぶ町はずれまで来てしまったようだ。


「お…」


 少し歩いているとひらけた道路の横合いに出た。

 螺旋のようにカーブを描いた斜面が左手の下方から右手へせり上がっている。

 つまり、左の降りる道か、右の上る道かなんだけど…。


「上かな…」


 子供は高い所が好きだからな。


 そのまま幅の広い道路を右に上る。

 周りを取り囲む家々を追い越すように道を行くと、吹き付ける風と暮れなずむ空が俺を出迎えた。

 背の高い建物がないからか、いつもよりずっと広い空には雲が悠々と浮かび、それを照らす黄色い陽光は時を告げる。日が沈むまであと二、三時間ってところか。


「暗くなる前には帰れそうだな…」


 まあ、その前にあの子を見つけないといけない。

 という訳で、さっきからずっと歩きながら辺りを見回しているのだけど、彼女の姿どころか人の影すら見えなかった。

 本当は大声を出して呼びかけた方がいいのだろうが、こうも閑散としていると逆に声を出しづらいよなぁ…。


「あ…」


 その時ふと、路肩の野立て看板が視界に入る。それは、なんてことのないただの看板。

 しかし、そこに書いてある二文字に、俺の目は釘付けになっていた。


「この先、霊園…」


 霊園ってあれだよな。お墓がいっぱいある…。

 先ほどから不自然なほど人影が無いが、それと何か関係が…いや、まさかな…。


「ふう…」


 …やっぱ帰るか。


「なにしてたんですか長井さん、捕まっちゃったのかと——」

「——いやああっ!!」

「うわぁっ…」


 看板へ釘付けになっていたところ、死角から声がして腰が抜けかけた。


「おお、おま…いきなり…っ」


 どこに隠れていたのか、いつの間にかそこには大野真尋が立っていて、悲鳴を上げた俺を不気味そうに眺めている。

 路地裏の時といい、気配無くいきなり声かけるの本当にやめてくれ…。


「ほら、長井さんあっち行きましょ」


「い…いや、さっきの奴らは帰ったから、もう逃げなくても…」


「いいから、こっち来てくださいっ」


「ちょっ…」


 そのまま彼女はスタスタと看板の先へ行ってしまう。


「…う」


 取り残された俺は逡巡ののち、彼女の後を追った。

 流石になんの警告もせずに、あの子をほっぽりだすほど俺は薄情じゃない。

 …決して一人になるのが怖くなっちゃったわけではなくて。


 ◇


「長井さん、ここですよ」


「…」


 あの後、大野真尋を追い看板の先に行けば道脇には墓石屋なんかが見えだして、そのまま彼女に付いていくと今度は歩道を挟みこむようにフェンスと灌木のある道が続いた。

 フェンスを介した向こうには茫々と広がる墓地が見渡せるつくりになっている。


 徐々に夕色がかって来た日差しに照らされる墓石群は如何にもホラー映画に出てきそうで、やはり直ぐに帰るべきだったんじゃないかと思案しだしたせいかそこからの記憶が曖昧なのだが、気づけば俺は何故かフェンス越しだったはずの墓地の中心で立ちすくむ事を余儀なくされていた。


 まあ、遠目にはおどろおどろしかった墓も近くで見たら意外と小綺麗にされていて、お陰でそこまで怖くはないのだけれど、とはいってもそれは今が日中だからというものでこれが夜中だと考えたら(しかも一人っきりとする)想像だけで鳥肌が立ち足が竦んで汗が噴き出てしまうのも当然…。


「あの、聞いてます? なんか顔色悪いですけど」


「え…あ、なに?」


「だから、ここなんです…この腕時計拾ったの」


 そう言って、彼女はどこからともなくひび割れた腕時計を取り出す。

 てっきりあの連中に奪われたんだと思っていたが、まだ持っていたらしい。


 …訳は知らんが、この時計のせいで追いかけられることになったんだよな。


「覚えとかありますか? この腕時計…」


「いや、さっきも言ったが…無い」


 拾った場所を教えられても、俺はこんなところに来たことはないし、その腕時計に心当たりなんてない。


 ん…あれ?


「…ここで?」


 ちょっとしてから違和感を抱き、墓前でしゃがむ彼女から横に視線を切った。

 この辺は山地に寄っているからかこの墓地は丘になっている。だからだろう、視線を切った先には柵を越して見下ろすように町並みが見える。

 手前には住宅が並び、途中に総合病院などを挟むと少しずつビルなんかが増えだして、果てに町並みは無彩色に塗り替わった。

 それを更に上塗りするように吹きつける黄赤の陽射しの中で、天を衝かんばかりに突出するのはホウライビル。しかし、その威風もここからではまるで地に突き立てられた針のよう。


 つまり、俺たちはあんな遠くからここまで逃げてきたわけなんだけど…。


「なんでここで拾ったのに、ホウライビルの広場まで行って落とし主を探してたんだ? だいぶ距離があるぞ」


「…それは」


 それに、霊園には係員とかがいて落とし物をそういう人に預けたり出来るのでは…まあ、霊園というものを良く知らないので憶測だけど。


「その、このお墓…わたしの家族のものなんです…」


「…え?」


 返された答えは俺の質問と結びつかず、なおかついきなりの新事実で二重に混乱する。

 でも、改めて彼女の前に据えられた墓石を見てみれば、確かに大野という字が彫られていた。


「今日は姉の命日で…私は朝電車に乗ってお墓参りに、この街へ来たんです」


 彼女はこの街に来た経緯を話始める。

 それが俺の質問にどう繋がるのか見当はつかないが、とりあえずそのまま聞くことにした。


「そしたら、この場所…私の家族の墓前に先客がいて…」


「先客?」


「はい。でも不思議なことに、その人は私に気づくとそそくさと墓地を出て行ってしまい——といっても、その時は特になにも思わなかったんです。遠目だったので、本当に大野の墓前にいたのかも定かじゃなくて…」


「は、はあ…」


「そして、その後わたしが墓前に行くと、この腕時計が落ちてたんです。留め具が壊れてて、たぶん立ち上がる拍子にでも落としたのだと思うんですが…」


 大野真尋は腕時計のひび割れたガラスを撫でながら言う。


「それで、わたしは墓地から出て行ったあの人が時計を落としたんだと思い、その後を追ったんです。坂の辺りで姿を見つけたんですが、何故かその人はわたしに気づくと走り出して…そしてずっと追ってたら、いつのまにかあの広場に…」


 つまりあの坂からホウライビル前の広場までずっと鬼ごっこしてたのか…。

 追う方も追う方なら、逃げる方も逃げる方だ。


「あの人込みですから、見失っちゃって…しばらく探してたんですけど、全然見つからないので、藁にも縋る思いで歩いていた人に——あなた…長井さんに聞き込みをしたんです」


「なるほど…」


 とりあえず広場にいた経緯は分かった。

 でも…


「…よくわからんな。その人がなんで逃げたのかは謎だが、別にそいつが落としたと決まったわけじゃないんじゃないか。墓前に落ちていたんだろ? 命日なら他にお参りに来た人がいるかもしれないし、あるいは関係のない人がたまたまそこに時計を落としたのかもしれない」


 というか、その人が落としたという確信があっても、そんな必死に追いかけないだろ…普通。


「その可能性はありますけど…でも、普通腕時計を落としたら気づきそうなものじゃないですか。

 あの人はわたしに気づくと飛び出すように墓地を出て行ったんです。だから、落としたことに気づかなかったのかなって…」


 腕時計をしたことがないからわからんが、まあ確かにあの重量の物が落ちたら直ぐに気づく…のかな。


「それにこの時計…まるで、高い所から落ちたようだったから…だから逃げたんじゃないかと…」


「…?」


 …どういうことだ?

 大野真尋の呟きが理解できず一瞬目を丸くするが、まあいいかと突っ込まなかった。

 それより、聞いておきたいことがある。


「…そいつはどんななりをしてた? 男か?」


 さっきの柄の悪い連中はこの腕時計の持ち主を探しているように聞こえた。

 その逃げたやつが腕時計の持ち主だとしたら、なにかしらあいつ等と繋がる特徴があるかもしれん。

 その特徴から追われる理由が予想できれば危険性も計れる。

 俺も奴らに顔を見られてしまったので、警戒するに越したことはないだろう。


「あ、はいたぶん男性…わたしより背が高かったし…」


 女性でもこの子より背が高い子なんて沢山いるだろうよ。

 せめて何センチぐらいだったか知りたいのだが…。


「や、顔とか、もっと詳しい体型をだね」


「さあ…。追いながらじゃよくわからなかったし、ここで見た時は特に注視してなくて…それにその人、目深にフードを被ってて顔も全然見えなかったなぁ」


「そう…」


 全然手がかりないじゃん。しょうがない、後でさっきの奴らについてちょっと調べてみよう。


「…あれ、フードと言えば奴らの中にも…」


 不意にあの柄の悪い連中の一人もフードをしてたのを思い出す。

 フードなんて別に珍しくもないが、ちょっと気になった。


「あ、そうですね。聞き込みするとき、なるべく逃げた人と似てる人に声をかけたんですよ。そのせいで今度は何故かわたしが追われる羽目に…」


「似てる人に声かけたって…、俺はフードなんかしてないけど」


「それは、丁度前を歩いていたからなんとなくというか…長井さんはフードを被ってるみたいな陰のある暗い顔だったので…」


 どんな顔だよ…意味わからん。言い分によっては訴えるぞ。


「それにしてもさっきの人たちは、結局なんだったんだろ…。この時計がどうこう言ってた気がするけど…」


「…たぶん、その時計の持ち主と奴らの間に何かしら揉め事があったんだろ。大方、金を持って逃げた仲間がその腕時計をしていたとか、そんな感じじゃないか。ひび割れていて特徴的な時計だから、目印として働いたんだろうな…」


 傍目八目というやつか、後ろから見てた俺の方が状況を理解していそうだったので、彼女に説明する。


「はあー確かに、なんか不良っぽい人たちでしたね」


「不良っていうか…あれは恐らく半グレとか、チーマー…あ!」


 ふとしたひらめきに、俺はぽんと手を叩く。


「そうか、あれはチーマーだ間違いない…」


「え、なんで?」


「昔のチーマーは統一性のあるファッションで固め、逆に自分たちの意にそぐわない服装をダサいとする傾向があったらしいからな。俺に対する芋臭いだの無礼な発言を考えれば間違いない!」


「まだ根に持ってる…」


 俺の力説に、大野真尋は少し考え込むと、


「うーん、別にあの人たち統一性のある服装してませんでしたけどね」


 …そうだっけ?


「ま、まあそれはいいとして…その腕時計どうするんだ? とりあえず、警察とかに遺失物として預けたほうがいいと思うが…」


 反社と関係がある可能性が高いからな。手元に置いておくのはなんだか怖い。


「えっ、それはちょっとっ」


 だというのに、何故か大野真尋は腕時計を隠すよう後ろ手になる。


「おい…」


「な、なんです?」


 俺が近づくと彼女は立ち上がり、そのまま街が見下ろせる柵の方へ逃げた。

 一瞬、あの腕時計が気に入ってネコババでもする気なのかと疑ったが、冷静に考えてあんな壊れかけの時計を欲しがるとは思えない。となれば、おそらく…。


「お前、もしかして…まだ落とし主を探そうとしてんのか?」


「うっ…」


 柵に背を預けた大野真尋に近づくと、柵を越した段差下にも墓地が広がっているのが見えた。

 今まで気づかなかったが、この霊園は階段状に墓地が分けられているらしい。


「…やめとけ。何故そこまでしてそいつを見つけたいのか事情は知らんが、今日追われて分かっただろ。危険だ」


 手を差し伸ばし、腕時計を渡すよう促しながら、じりじりと距離を詰めていった。


「…っ」


 いつの間にか斜脚は完全な夕色に染まり、背後に浮かぶ夕日が彼女を照らす。

 地には彼女の影が伸びていて、俺のつま先がそれに触れた。


「あ、こらッ!」


 その瞬間、彼女は意を決するように口を引き結んで身を翻す。

 追いすがるよう咄嗟に手を伸ばすが、向けられた背のリュックに手をはじかれる。

 そしてそのまま、大野真尋は柵を越え段差下の墓地に降り立った。


「猿みたいな奴だな…!」


 下の墓地で走り出した彼女を追いかける為、俺は柵に足をかける。

 間近にして分かったが、なかなかの高低差。柵も入れたら二メートルぐらいか。

 とはいえ躊躇う暇もないので、俺は飛んだ。


「ッ」


 落下の衝撃に息が漏れる。少し足が痺れるが、痛みはないのですぐさま走り出した。


 墓石の合間を縫うように走る。

 罰当たりかつマナー違反でかなり気が引けるが、そんな感情は見て見ぬふりをして彼女の後姿を追いかける。墓地を抜け、小道を抜け、道路に出た。


「くっ…」


 彼女の健脚は健在で、身長差があるし俺の方が足は速いはずなのに、距離はあまり縮まらない。

 あの逃げっぷりを見ると先の落下で足を痛めたりはしていなそうで少し安心するが、そのせいで追いつけないともなれば複雑だ。

 あの子はスタミナも無尽蔵だし、このまま追いつけないかもしれん…。


「——ぎゃッ!」


「うおっ…」


 そんな懸念も突然杞憂に終わる。

 足がもつれたのか、前を走る大野真尋が突如前のめりになったと思えば、勢いそのままに歩道の灌木にダイブした。


「だ、大丈夫か…?」


 俺も子供の頃灌木に突っ込んだことがあるから分かるが、あれチクチクしてて結構痛いんだよな…。


「…ううぅ…」


 灌木の上に突っ伏してうめき声を上げる彼女の安否を確認しながらも、俺はその横を抜けて手から放り出された腕時計を拾った。


「か、かえして…」


「…お前のもんじゃないだろ。これは俺が警察に届けておくよ」


 未だ体は灌木に投げ出したままで、顔を上げ恨み言を言いこちらに手を伸ばす。

 顔に怪我は…ないな。灌木の枝などで生身の部分は擦り傷がついてもおかしくない。

 一応確認のため、そっと彼女の顔を観察した。


「ぐすっ…」


 すると、いきなりその目には涙が浮かびちょっと焦る。


「な、なんだ? 枝が目に入ったのか——って、あぶねっ!」


「うう、くそう…」


 のこのこと近づけば、彼女は切り返すような鋭さで俺の手から時計をひったくろうと身を乗り出し、勢いあまって灌木の上から道路に落ちた。中々の演技派だ…あなどれん。


「…別にいいです。時計がなきゃあの人を探せないわけじゃないし…」


 そしてそのまま歩道の端に寄ると、足を抱えて座り込んでしまった。


「そうだ。手がかりがなくても、さっきの人たちならなにか知ってるはず…」


「…」


 …はぁ。なんで俺がガキのお守りをせにゃならんのか。


「とりあえず、今日はもう帰ったほうがいい。そろそろ日が沈むし、暗くなってからじゃ親御さんも心配するぞ」


 今日この子を帰せても明日からまたこの街に来てしまう可能性はあるが、それに関しては後で手を打っておこう。さっきの連中に話が通じてくれればいいけど…。


「親は、いません…。四年前に、二人とも亡くなりました」


「…え?」


 普通は同情したりすべきなのかも知れない。

 しかし俺は彼女の両親の死になにを思えばいいのかも分からずに、ただ間の抜けた声を上げた。


「そしてその後、お姉ちゃんも飛び降りて…」


「……」


 嫌なことを思い出したのか、彼女の声はどんどん沈んでいく。


 な、なんかやりにくいなぁ…。

 ここからどうやって家に帰す方向に持っていこう…?


「い、今は誰が面倒を見てくれているんだ? その人も心配すると思うなぁ」


「…今は、叔母が保護者として面倒を見てくれています。両親が死んだあと、わたしは施設に預けられたんですけど、海外に住んでいた叔母がわざわざ引き取りに来てくれて…」


「良い人じゃないか。その人の為にも…」


「でも、家出しちゃったので、今更帰れませんけどね…」


「家出ェ…!?」


 いや、なるほど。パンパンのリュックはそういうことか…。


「別に、あの人に不満があるわけじゃないんです。むしろ、あの人は優しくて、気さくで…でも、だからこそ、居心地が悪い…」


「…」


「だって、わたしはあの人のことを家族だと思えないのに…」


 俺は何も言えなくなる。

 言葉にしてはいけない思いを抱いて、それを押し込めるために数秒要した。


「…お前、行く当てはあるのか?」


「いえ…適当にホテルとか探そうかと…」


「言っておくが、未成年は当日飛び込み出来ないぞ」


「え、そうなんですか!?」


 まあ、例外はあるだろうが…。


「はあ、どうしよう…」


「…諦めて、大人しく帰るんだな」


 俺の言葉に嘆息して、彼女は突っ伏すよう顔を膝の間に伏せる。

 そしてぽつりと、一言呟いた。


「こんなことなら、あのまま施設に居れたら良かったのになぁ…」


「——っ」


 その姿に、俺は息をのんだ。

 見てはいけないものを見てしまったような戦慄。体が自分のものではなくなるような感覚。

 それはまるで一瞬の前後不覚で、なにを思ったのかもわからない。


「だ、ったら…」


 ただ、意思を介さず、口だけが動いていた。


「だったら、俺の事務所に来るか…? 使ってない部屋があるから、そこを使えば——」


「…ぇ」


 ——って、俺…何言ってんだ…!?


 はっと冷静になった頭で歩道に座り込む彼女を見れば、ぽかんと口を半開きにしてこちらを見上げている。


 ま、まずい…変質者だと思われたか!?


「い、いやっ、今のはその…」


 唐突に恥ずかしくなってきて、熱が上るように顔が熱くなる。


「もしかして泊めてくれるんですかっ!? 是非お願いします!」


「え、あ…」


 しかし、彼女が返した反応は思ってもいないものだった。

 立ち上がった彼女に迫られ、たじろぎながら、あれ…これって本当に泊めないといけないの? と今度は血の気が引いてくる。


「い、一日だけなら…」


「充分ですよ。いやー良かったいい人がいて…」


 一度出した言を引っ込める訳にもいかず、せめてもの抵抗として条件を付けるが状況は全く変わらない。


「長井さんって隈エグくて凄い陰気だし、なんか片言だったからちょっとヤバい人なのかなって思ってたけど、いい人だったんですね!」


「…ぁ、ああ…」


 なんか滅茶苦茶失礼なこと言われている気がしたが、彼女がなにを言ってるのかも理解できぬまま頭の中には一つの思いがこだましていた。


 …いやほんと、俺はなんであんなこと言ってしまったんだろう…。


「そうと決まれば早く事務所とやらに行きましょう! そろそろ日もくれますし、善は急げですよっ」


「…」


「ちょっとー、返事もせずに歩き出さないでくださいよー!」


 黄昏時。暮れなずむ空の下で帰路に就く。

 何故か、大野真尋という子を伴って…。


 ◇


「うぅ、寒くなりましたね」


「…うむ」


 念のためホウライビル周辺を迂回するように、連れだって俺の事務所へと向かう。

 歩いている内に日は沈み、空は少しずつ濃紺の天蓋に覆われていった。

 やがて冷たい風が流れ始める。

 そのおかげで頭が冷えたのか、道中ずっと頭を悩ましていた疑問の答えも見つかりかけていた。


 …あの時何故、俺はあんなことを言ってしまったのか。

 それはたぶん…あろうことか俺は、この子に自分を重ねたのだろう…。

 でも、重ねたのは本当にそれだけなのか…。


 それ以上、俺は考えないようにした。

 だってそれはこの子にも、あの人にも失礼だ…。


 …まあ、この子を放っておいたら何をしでかすか分からなかったからな。あの不良共にコンタクトする恐れもあるし、目付の為には仕方がなかったということにしよう…。


「長井さんさっきからずっときょろきょろしてますけど、どうしたんですか?」


「…ん、ああ。俺らを追ってきた不良どもがいるかもしれないからな」


 それにもし知り合いに見つかりでもしたら、どれほど茶化されるか予想もつかない。

 それどころか、最悪通報までありうるか…。


「…」


 そもそもこの子、いくつくらいなんだろう。

 言動からして中学生だと見当をつけているが、よもや更に下ということは無いよな…?

 でも、最近の子供は成長が早いと言うしなぁ…。


「大野だっけ…。お前、歳はいくつなんだ?」


 年齢次第では今すぐ交番に向かおう。

 いや自首じゃなくて、家出少女を保護したという名目でね?


「わたし? 高2の十六歳ですけど」

「えっ、高2って…タメなの!?」


 今日一驚いたかも知れない。

 同じクラスの女の子たちはもっと大人びてる気がするが…いや、クラスの子と会話することなんてないから実際の所はわからないんだけども。


「タメって長井さんと? あはは、冗談きついな~そんな過労死寸前みたいな顔してる高校生いるわけないじゃないですかー」


「…さようなら。二度と会うことはないでしょう」


「ちょっ、なに怒ってるんですか…え、もしかして本当に同い年…?」


 事務所近くの大通りに出て益々増えた往来のなか、同行者なんて素知らぬ顔で歩調を早める。

 人の行き交う横断歩道を渡り、歩道を歩き、そして奥まった路地を通るが、大野真尋ははぐれずに付いてこれているようだった。


 ワンチャンはぐれることをちょっとだけ期待していたが(俺と同い年なら流石に一人でも帰れるだろうさ)、こうなってはもう腹をくくるしかない…。


「…ここだ。このビルの四階が俺の事務所」


「なるほど! つまり今日の宿はここなんですねぇ」


「わっ、早まるなっ」


 言ったとたん勇み足でなかに入り、階段を突き進もうとする彼女を引き留める。


「俺が先に行って安全を確保するからさ…、合図したら来てくれ」


「安全? まあ、わかりましたけど…」


 そうして、このビルを間借りしている顔見知りたちを警戒しつつ、そろりと階段を上る。

 特に三階の内野のおっさんに見つかってしまったら、最低小一時間にわたるウザ絡みは免れまい…。


「…来ていいぞ」


 二階の安全を確認して、踊り場で待機している彼女を呼び寄せる。

 そして共に階段を上り、再度踊り場で待機させて俺は三階に上がった。

 上がった先でちらりとガールズバーに繋がる曇りガラスのついた扉を見る。

 営業時間に入っているはずだが声は聞こえない。相変わらず閑古鳥が鳴いているようだ。


「良し。いいぞ」


 階下に目をやり合図を送る。

 しかし、合図を受けた大野真尋が三階に乗りあがったその時、からんとガールズバーのドアが開く音がした。


「は、はやく上にっっ」

「え、あ…はい」


 取り急ぎ四階に続く階段に彼女を押し込む。

 そしてそのまま俺も続こうとするが、


「…おや、奇遇だね。今帰ってきたのかい?」


「う、よ、よう…。珍しいなここに来るなんて…」


 逃げ遅れたこの身へかけられた声に振り向けば、ちょうどガールズバーから出てきた男が立ちはだかる。

 その男は昨晩ナイトクラブでも同席した、我が校の誇る生徒会長だった。

 よりにもよって同級生が出てくるとは…俺も運がない。


「ちょっと母から叔父さんに言伝を頼まれてね。叔父さんはすぐに携帯電話を失くすから困ったものだよ」


「ああ…内野のおっさんに会ってきたのか。てか、ガールズバーから出てきたんだからそりゃそうだよな。ナハハ…」


 この男、前世でなにをやらかしたのか知らんが、内野裕太四十歳を叔父に持つ。

 だがそんな苦境にも負けず、今や成績優秀、品行方正を絵に描いたような優等生(ナイトクラブに居たりと実態はさておき)に育ったのだから、大したやつだ。

 頼む…その度量を持って見逃してくれえ…。


「今日は休みだろ? 長井君はどこかで遊んできたのかな」


「お、おう。散歩してたら妹たちと会って、ちょっと…」


「へえ…それは良かった」


 会長は鷹揚に笑みを浮かべた。


「なるほど、じゃあさっき四階に行かせた子はその後に引っかけたんだ」


「うぇ!? ち、ちが…」


 や、やっぱり見られてた…!


「違う? ああ、前々から面識があっていつ連れ込むのか見計らってたのか」


「な、なわけないだろっ!」


 目を白黒させて抗弁する俺の痴態がよほど面白いのか、ヤツはくつくつと喉を鳴らす。


「でも上には事務所しかないよね。今まで君が女の子を招いた記憶は僕にはないが、どういう風の吹き回しなのかなぁ」


「そ、それは、そのですね…」


 い、いかん。言い訳も思いつかない…。

 家出少女を拾ったなんて正直に言えばあらぬ疑いをかけられるに違いないし、危ないことをしそうだったから保護したという言い訳も通用するはずがないだろうし…あ、そうだ!


「ほ、本を貸してって言われててさあ。だから取りに来てもらったんだよ…?」


「ふうん…そうなんだ。あの子とはどこで知り合ったの?」


「ん…? あ、あー…学校?」


「後輩?」


「ど、同級生…」


「…嘘だよね。さっき少し顔が見えたが、あんな子はうちにいないよ」


「!? なんで言い切れるんだよっ!」


「流石に同級生の顔ぐらいは把握しているよ。生徒会長だもの」


 え…マジ…?


「い、いや嘘つけっ! 全員って、そんなの覚えてるわけないだろ…ッ!!」


 俺なんて同級生でも数人しか覚えていないんだ! そんな芸当はいくらこいつでも無理なはず!

 昔からこいつは平気な顔をして、突然こういった嘘を言い出すから油断ならない…!


「嘘かどうかはすぐわかるよ。その子と僕を合わせてくれたらね」


「…ほ?」


「顔を確認するだけさ、問題ないだろ? 本を借りに来たただの同級生ならさ…」


 硬直している俺の肩に手を置き、生徒会長はするりと横を抜ける。そのまま上に続く階段に足をかけたところで、ようやく俺の硬直が解けた。


「まてまて! その子はだなっ、イケメン恐怖症だからなっ、お前みたいのを目にしたら駄目なんだ! 俺のように過労死ライン超えてそうな顔じゃないと駄目なんだ!」


 自分で言っていて悲しくなるような言い訳までして留め立てようとするが、その時、上階から降った声がそれを無に帰す。


「あの、なんか騒がしいけど、大丈夫です?」


「あ…」


 声に反応し見上げれば、そこには覗き込むように顔を出す大野真尋がいて、階段に片足を乗り出した生徒会長と顔を見かわしていた。


 これはもう終わったか…と、気持ち顔面蒼白で、諦観交じりに会長の相貌を窺い見る。

 ところが、そこにはまるで俺との鏡写しのように、双眸を見開き戦慄する会長の姿があった。


「なぜ、ここに…大野、真尋が——」


 音にならぬのではないかというほど、小さな呟き。

 いつも余裕を崩さない会長が、初めて見せた慄然とした表情。


「おい、どうした…?」


 その意味を理解することなんぞ不可能な話で、俺はただ去来した感情を表に出すことしかできなかった。

 階上の大野真尋に至ってはなにがなんだかわからん、とでも言いたげに首をかしげている。


「…君は、なにも知らないのか?」


「な、なにが?」


 険しい顔で聞いてきた会長に俺がそう答えると、何故かやつは険を潜ませ微かに笑った。


「そうか…。とにかく、彼女は早く家に帰した方がいい。さもないと…君の大切な人が悲しむことになるかもね」


「あ…?」


 いきなりなにを言い出すんだと、目をぱちくりさせていれば、奴はそのまま背を向けて階段を下りる。


「あ、おい! 説明しろよ!」


 流石に看過できず、俺は会長の肩に手をかけて引き留める。

 すると、ヤツは肩越しにこちらを見て、興味なさげに目を細くした


「別に…生徒会長として、不純異性交遊は推奨しないってだけさ」


「匂わせるだけ匂わせて、いざ突っ込まれたらしらを切るってのか? なんだよ、大切な人が悲しむって…っ」


 激しく詰め寄るが、まるで人が変わってしまったかのごとく、会長は物憂げにため息を吐いた。


「…ほら言うじゃないか、遊んでばかりだと親が悲しむとか…ただそれだけの意味だよ」


 そう言い捨てて俺の手を払うと、その姿は階下に消える。

 取り残された俺は色々判然としないまま、会長の残した言葉を反芻していた。


「ちっ…」


 なんなんだアイツ…。意味が分からなすぎるぞ…。

 勉強のし過ぎで頭がおかしくなったのか?


「長井さん。今の人は?」


「…」


 大野真尋が階段を下りてくる。

 会長はこの子についてなにかを知っているようだったが、彼女の方はやつに覚えがないらしい。


「俺の学校の生徒会長…なんだけど。ちょっと様子がおかしかったな」


 そこで「生徒会長!」と驚愕の声が上がった。


「えええ、じゃあ長井さんってマジで高校生なんだぁ…」


「お前まだ疑ってたのかよ…ぴちぴちの十七歳だっての…」


 うなだれるみたいに息をつく。

 というか、俺としてはこの子が俺と同年代というのが、未だに信じられないのだが…。


「うわぁ本当だ! 燈花ちゃんの言う通り長井くんが女の子連れ込んでる!」


 またもやカランと扉の開く不吉な音が響いたと思えば、それ以上に禍々しき、ミアズマを漂わせた胴間声が轟く。

 半開きになったガールズバーの扉からは中年オヤジのたるんだ面がひょっこりとはみ出していた。


「く、会長のやつ…!」


 あんにゃろう、内野のおっさんにバラしやがった…!

 おそらくここ去った後、店にいた燈花さんへ電話して、そこから内野のおっさんに伝えさせたのだろう。嫌がらせにもほどがある…!


「行くぞ!」


「あのおじさんなにか言ってますけど…」


「いいからっ」


 ポケットから鍵を取り出しつつ、大野真尋の手を引き階段を上るよう促す。


「あああっ、公衆の面前で手を繋ぐなんて…ッ! それ以上はいけないよ長井くぅん!」


 嬌声めいた鳴き声を上げながら、妖怪が飛び出てくる。

 俺はそれをしり目に階段を駆け抜けた。

 四階に上がって直ぐにある事務所の扉に鍵を突き刺し、開錠してすぐさま扉を開け放つ。

 そしてそのまま大野真尋を伴って、暗い事務所の中にもぐりこんだ。


「な、なんなんですか。あのおじさん…」


 妖怪を見るのは初めてなのだろう。少し驚いた様子の彼女を他所に、その背にある内鍵をかちゃりと捻る。


『そんなっ、嘘だと言ってよ長井君ッ! 僕の目の前で女の子を家に連れ込むなんて、そんな不誠実な子じゃなかっただろ~!!』


「うわあっ」


 鍵を閉めた途端、ドンドンと扉が叩かれ大野真尋が飛び上がった。

 ふぅ…。間一髪だったか。


『君にならば娘をあげてもいいと…ずっと、信じていたのに…っ』


 聞き流しながら靴を脱いで、取次ないし廊下に足を踏み出す。


『しくしく…』


「なんか、泣いてません…?」

「放っとけ。アレは返事したらいけないタイプの妖怪だって柳田国男も言ってた」


 とりあえず廊下の電気をつけて、土間で扉の向こうへ耳を傾けている大野真尋を呼び寄せつつ居間に向かう。

 そうして居間の電気をつけたのだが、一向にあの子が来る気配がない。


「なにやってんだ?」


「あ、いえ。今行きまーす…。長井さんが呼んでるので、行きますね…」


 返事をした彼女は、ちらりと扉の方を向いて微かに口を動かした。

 もしかしてアレと喋ってたのか。 


「あんまり良い顔しないほうがいいぞ。俺も始めはなるべく丁寧に接していたのだが、それのせいか今やあんな感じで来るようになっちまったからな…」


 とはいえこの子がいるのは一日だけだし、心配する必要はないか…。


「おぉ、思っていたより広い…」


 居間に来た彼女が息を洩らす。


「…というか、事務所って言ってましたけど、なんか普通の部屋なんですね」


「まあ、な…」


 事務所なんて呼んではいるが、内装は完全にただの住居だ。

 実際、俺がここで仕事をすることなんてほぼ無い。

 仕事の聞き込みは当然外でするし、雇い主への報告も書面にはせず口頭で行っている。

 なのでこの部屋の使い道は、今朝のように少し睡眠をとる所だったり、荷物置き場として使ったりというのが実態だろう。


「って! 本棚が倒れて凄いことになってますよっ。地震でもあったのかな…」


 あ、忘れてた。寝起きに引っ掛けてそのままにしておいたんだった。

 大野真尋は横倒しになった本棚に駆け寄り、零れた本を集めだす。


「そのまんまでいいよ…。後で俺がやっとくから」


「うえ、古今和歌集とか、なんか気取ってそうな本ばっかり…外国語の本とかもあるし…」


「そのまんまで良いって言ってるだろ!」


 クソ…俺の物じゃないのに、気取ってるとか謂れのないレッテルを張られた気がする…。


「長井さんって見るから勉強出来なさそうだもんなぁ~背伸びしたいのが見え見えで…ぷふ」


「んだと…」


 大野真尋が俺をこけにした笑みを浮かべる。


「…お前、高一最後の中間テスト、何点だった?」


 自分の頭に自信があるわけじゃないが、コイツに馬鹿にされるのは鼻持ちならん。

 如何にもアホの子だし、絶対俺のが上だ…!


「中間テストですか…? 確か、平均80点ぐらいだったかな…」


 うっ、危なかった…。


「ざ、残念だったな。俺はなんと平均82点だ」


 あの時も勉強なんて碌にしていなかったが、運よく知っている問題ばっかりで盛れたんだよな。


「えー、なんか嘘くさい…それになんで中間? 直近は高一の学年末テストですよね」


「…」


「長井さん、学年末はどうだったんですか」


 やれやれ…。

 ため息をついて、頭をかく。


「…赤点だが?」

「はい?」

「点数で言えば30点だが?」

「落ちすぎでしょ…」


 だっていきなり忙しくなっちゃって、勉強どころか授業にも出てられなくなったんだもん…っ。


「と、とはいっても中間は俺のが上なんだからねっ」


「でも、長井さんの高校とわたしの高校じゃたぶんレベルが違いますよ」


「…うん?」


「なんといってもわたし、西高ですからっ」


「う、うそ…」


 西高といえば、隣県との境にあるここらでもっともレベルが高い公立高校だ。

 確か、みどりや菜津美がそこを目指して中学の時から勉強をしていたはずだが、行くのをやめたのか落ちたのか知らんけど、結局二人ともうちの学校に来ている。

 奴らでも落ちるところの生徒と考えれば、俺なんかが太刀打ちできるはずがないのだが…まあ、西高はちょっと遠いのでそれを理由にやめたと考える方が俺としてはしっくりくる。

 だってあいつら年下のくせに俺の十倍くらい勉強できるし…というかこんなのが入れるなんて、実は西高大した事ないんじゃね?


「まあ、良い高校に入ろうとする向上心は認めてやるべきか…」


「え、30点なのにすごい上から目線」



 そんな会話を倒れた本棚の前でしていれば、いつのまにか床に散らばっていた本はすべて本棚に収められていた。本棚をよく見ると順番グチャグチャだが、それはどうでもいい。


「…すまんな。片付けさせて」


「いえいえ、一宿一飯に預かるのですから、これくらいは…」


「一飯…プロテインならあるが…」


「あ、一宿だけでいいです」


 俺は基本外食だから事務所にはプロテインぐらいしか食べれるものがないのだけれど、近くにいくつか店もコンビニもあるので、この子の飯はそこで調達させればいいか。


「あのう、それでわたしは何処に泊めさせて貰えるんですか?」


「ああ。廊下に扉があっただろ。浴室の向かいにあるその部屋、ずっと使ってないから使っていいぞ。ベッド…といってもすのこベッドに布団をのせたやつだが、それも前に洗濯したし…」


 俺がその部屋を居間から指さす。

 彼女はそれに従うように、その部屋(元々俺が寝泊まりしていた部屋だ。いつからか物置にしか使っていない)に向かう。


「入ってすぐ右手に電気スイッチあるからな」


 部屋に入っていく彼女の背中にそう声をかければ、居間に音はなくなる。


『ウワッ! 枕臭ッ!』


 手持ち無沙汰になったのでなんとなしにテーブルの掃除をしていると、部屋から叫び声が聞こえた。

 あれ、前に洗ってから一回も使ってなかった気がするが…あ、そういえばひと月前に吉矢があの部屋に泊まったんだっけ?

 一か月も匂いが残っているとは、あやつもなかなかやるなぁ…。


「お…」


 妙な関心をしていたら、部屋から大野真尋が出てきた。


「ちょっと長井さんっ、これほこり積もってるんですけど!」


 布団を抱きしめるように抱えながら、むすっと不機嫌そうな顔をしている。


「あ、そう? 結構すぐ積もるんだなぁ…うわっ!」


 そのまま彼女が俺の眼前に来たかと思えば、いきなり布団をバサバサとはたく。


「ここでやるなたわけ! せめてバルコニーで…っ」


 咳込んで言葉が途切れた。

 仕方ないので無理やり息を止めて窓辺に行き、掃き出し窓を開く。

 すると、南風でも吹いていたのだろうか。帰り道の時よりも生暖かい風が室内に入りこんだ。


「春たけなわって感じですねぇ」


 二十四節気で言えば、そろそろ立夏のはずなんだがな…。


 彼女は自身の愚行も忘れたようにのんきな声を上げてバルコニーに出る。


「まったく…」


 殊勝なのかと思ったら、わがままというかホント子供っぽいというか…。

 よくわからないやつだ…。


 バルコニーで布団のほこりを払う彼女の頭上には、小さな三日月が見えた。

 夜雲の隙間から街を照らす光はあえかに、それは地の光に追い立てられながらも必死に抗う姿に思える。


 でも、本当は地上を照らそうなんて、月は思ってもいないのかもしれない。

 月は遥か上界に手を伸ばし、こちらのことなど露知らず…それでも、俺たちはその光に照らされて、地は月に肯定されている。


「…月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして…か」


「はぁ?」


 ギョッと見上げた顔を落とせば、そこには布団を抱えた大野真尋が訝し気に俺を見ていた。

 き、聞かれたか…? いや先手必勝!


「うーん、明日の古典の小テスト大丈夫かなぁ…。俺古典苦手なんだよなぁ」


 さっとテーブルの上にあったノート(家計簿だ)を開き、適当ぶっこく。


「いやバリバリ得意でしょ。メッチャ諳んじてましたけど」


「ウッ…」


 言い訳しようにも言葉が詰まり、俺は顔を赤くして口をもごもごと動かすことしかできない。

 うう、普段の俺はあんなこと言うタイプじゃなかったのに…。魔が差したところを目撃されるとは…。


「長井さん。もう高校生なのですし、いきなり人前で浸るのはやめましょ? 周りの人が驚いちゃいますから…」


「…はい」


 なんかガチ目に諭されてしまった…。


「…でも、わたしのお姉ちゃんもたまにそういう所があったなぁ…」


 ふと彼女は目を細め、懐かしむように呟く。


「お姉ちゃんてのは…たしか…」


 この子が墓参りにきた相手だったか…。


「はい。四年前の今日、飛び降りて亡くなりました。事故で両親が死んでしまって、本当は限界だったんでしょうね。そんな素振りもみせず、いきなり…」


 …不味い。

 テキトーに返答していたら、いつの間にか沈鬱な話題へ舵が切られている。


「わたしが姉に最後に会った時も『…愛する者が没したのならば、その後を追わなければならない』って、さっきの長井さんみたいに浸ってたのにな…」


 素振りに予兆出てる気がするの俺だけ…?


「それに対してわたしが、死ぬときは一緒だよって言ったら…当たり前だよ、って…。これからは二人で支えあって生きて…死ぬときも一緒だって約束したのに…。なのにっ、わたしだけ取り残してっ…」


 びり、と布が裂ける音がしたと思えば、彼女が抱えた手の先で握りしめた布団の表面が悲鳴を上げている。


 こ、こわいぃ~…。

 俺はすぐさま目をそらし、視線を床に逃がそうとした。でも、続く言葉がそれを引きとめる。


「結局、あの人はわたしのことなんか、どうでも良かったんでしょう…。いえ、むしろわたしを置いてけぼりにして、せいせいしたはずです。だって、わたしは——」


「——そんなわけ、ない」


「…え?」


「お前のお姉さんがどんな思いで亡くなったのかは分からない…でも、妹にそんな顔をさせたいなんて…思うわけない。と…思う」


 揺れる瞳を見つめる。

 彼女は動揺した表情で、見上げる俺の目を見返していた。


「あ…」


 またも、口が勝手に…。

 大野真尋は何か嫌なものを見るような目つきで俺を見たまま、口を動かすが言葉になるものはない。

 やがて目をそらし、布団を抱えてあてがった部屋へと無言で行ってしまった。


「はあ…」


 怒らせちゃったか…。まあ、当然の話だ。

 事情も知らないくせに、人の事情に土足で踏み入るような真似をしたんだから、怒るのも当然だろう。


 彼女が戻ってくる様子もないので、俺はプロテインを作ったり、学校の準備へと精を出す。

 世は所謂ゴールデンウィークというやつに入っているのだが、明日は穴があいて平日なので登校しなくてはならない。

 ほんと、あんな約束しなければ学校なんて行かなくて済んだのに…どうせ行っても30点だもんなぁ。


「お、そうだ」


 ポケットにしまっていた件の腕時計を取り出す。

 この腕時計は後で交番に届けよう。あの子をまた怒らせてしまうかもしれないが、こんな物を持っていてもいいことないだろう。それに墓地で拾った物ってなんかやな感じだし。

 そう思い、開いた学生鞄の中に腕時計を入れようとしたところで、少し違和感があった。


「…あれ」


 この腕時計、昔…何処かで見たことがあるような…。

 ひび割れたガラスに覚えはないが、周りを囲むケースの色合いなどに既視感がある。


「まあいいか」


 見覚えがあるからなんだって話だ。

 テレビや街でちらっと同じモデルの腕時計を見ただけだろう。


「…あの、長井さん」


「あ…、なに?」


 いつの間に居間に来ていたのか、大野真尋が背後にいた。

 さっき怒らせてしまったことと、彼女が執着する腕時計をこっそり鞄に移していた所だったので、二つの意味で気まずい。


「もしかして長井さんって、ここに住んでるんですか…?」


「え、ん…? そうだけど?」


 なんだ今更?


 …あ。

 ああそうか。なるほど。

 初対面のはずの男の家にすんなりついてきたと思ったら、俺がここに住んでいるとは思っていなかったのか。

 事務所なんて言い方してたからな。勘違いするのも無理ないだろう。


「安心しろ。十時…いや、九時にはここを出るからさ。明日は学校があるからそのまま登校するし、好きな時に帰ったらいい」


 言いながら備え付けの掛け時計を確認すれば、既に八時を回っている。


「じゃあご両親とは離れて暮らしているのです?」


 しかし、見当違いだったのか彼女は俺の返答に大した反応は見せず、立て続け質問を投げてきた。


「両親…」


 ふと、オヤジとあの人の顔が浮かんだ。


「いや、親は…」


 そんな物言いをすべきじゃないとも考えたが、思わずそう言っていた。

 あの人たちは俺の親じゃない。二人はみどりや成哉の親で…オヤジはアイツの…。

 俺との繋がりは、とても家族と言えるようなもんじゃない。

 だから、建前でも言いたくなかった。


「…そうだ。腹減ってないか? ここらにはいくつか飲食店があるし、コンビニもあるからなんか買ってこようか?」


 居心地が悪くなって話を逸らす。


「え、奢りですか!? 行きましょう!」


「…貯金崩してきたんだろ。自分で払え」


 一緒に行く感じに乗ってきたので、俺は腰を浮かした。

 食べ物ぐらい見て選びたいのだろう。


 俺たちは軽く準備をすると、事務所を出た。

 扉の前にいた内野のおっさんは流石にもういなかった。まだいたら怖すぎる。

 でも扉にはなんか水滴が垂れたような跡が残っていて普通に気持ち悪かった。今度水拭きしとこう。


「このラーメン屋は肉そばが500円で、あっちにある中華料理店は麻婆豆腐が量の割に安くて…」


「うーん。そういう気分じゃないなぁ。コンビニはどこにあるんですか?」


 ビルを出てすぐの所、眼前を通る緩やかな往来には踏み入らないまま、大野真尋へこの辺りの飲食店を教える。


「ああ、コンビニはこっち」


 足を踏み出して往来に入った。

 後ろをついてくる彼女を意識しながら、コンビニに知り合いがいませんように、と祈りつつ、そこに向かう。


「…ほっ」


 コンビニに着いたが、そこに知り合いらしき姿はない。

 いつもは会ったら少し話す程度の間柄である中学生とかがたむろしていることが多いけど、何故か今日はいないようだった。


「うわ、なにこれ新商品!?」


 入るや否や、大野真尋は菓子を見繕い始めている。飯を買いに来たはずなのに、大丈夫かこいつ…。


 そのままひとしきり買い物をする彼女を眺めていたが、それもなんか不躾かと思い目をそらした。

 すると買いたいものもないので、無聊を託つことになる。

 そういえば、持ち金が減ってきてるからここのATMでおろそうか。いやでも、手数料がな…。


「な、長井さん~。これ持って~」


 手数料についてうんうん悩んでいると、堆く商品が積もった買い物かごを両手で抱えた大野真尋がふらふらとやってきた。


「いつのまにこんな…」

「というか10分ぐらいなんか悩んでましたけど、どうしたんです? なにか買おうか迷っているのなら、買った方がいいですよ」


 …俺そんなに悩んでたの? たかが手数料で。

 せせこましいにも程があるな。我ながら…。


 ずっしりとした買い物かごを受け取りレジに持っていく。

 そして会計は彼女に任せて、俺はそれを後方からぼんやりと見ていた。


「!」


 大野真尋が支払いのため財布を開くと、見えたその中身に俺は仰天する。

 さ、札が一センチ以上あるぞ…確か一万円札が百枚でちょうど一センチだったはず。


 こいつの叔母は資産家かなにかか…?

 いや、高一から一年間バイトで稼いだ可能性もあるか…。くそ、生活費がかかるとはいえ俺は一年働いても80万ぐらいしか貯まらなかったのに…なんか悔しい…。それも今はないし…。


「これでお願いしまーす」


 そう言って、大野真尋はその札束から一つまみ、十枚ほどレジに突き出した。


「なんだ…千円札かよ…」


 ビビって損した。俺は大金を見ると漠然とした不安に包まれ、心臓がバクバクしてしまうのだ。


 斯くして、買い物を済ませた彼女とコンビニを出る。


「足元気を付けてください。転んだら大変ですよ」


「うむ、分かってる」


 なんか当然のように荷物持ちをして、事務所への帰路を歩いた。

 まあそんなに重くもないし、別にいいんだけど。

 しかし、それにしても…


「お前これ、一日分にしては食いすぎだろ。絶対太るぞ…」


「はあー? 一日分って、んなわけないでしょ。馬鹿ですか」


「…お前まさか、明日も帰らないつもりじゃないだろうな」


「お、お菓子は日持ちしますから、持って帰る用ですよ…」


 なんか怪しいな…。あとで釘を刺しといた方がいいか。


 事務所に戻り、彼女が買ったものをなかに運び終わると、俺は置いてあった学生鞄を拾い上げる。

 まだ九時にはなっていないが、もう出た方がいいだろう。


「冷蔵庫、勝手に使っていいからな」


「はーい」


 コンビニの袋に手を突っ込んでいる彼女の背中に声をかける。


「さっきも言ったように俺は明日の夕方まで出てるから、それまでにちゃんと家に帰れよ。あと鍵をここに置いておくから、家を出るときは施錠して、その後は外のドアの横にあるパイプスペースに…」


「え、どこか行くんですか?」


 さっきの話は聞いていなかったのか、振り向いた大野真尋が今更聞いてくる。


「…夜遊び?」

「違う…仕事だよ」

「仕事って…高校生が?」

「ば、バイトだってば…」

「高校生がこんな時間からバイト…なんか怪しいですね…」

「も、もう俺行くからっ」

「あ、逃げた!」


 急いで事務所を出る。

 しっかり家に帰るよう釘を刺そうとしてたのに、なんで俺が逃げてんだか…。

 階段を下りながら、深く息を吐いた。


「今日はちょっと疲れたな…」


 今日は散歩してたら妹たちと会って、それからホウライビルの近くで女の子に声をかけられ、輩系と揉めて、その女の子と一緒に逃げることになって…


 終いにはどういうわけか、その子を事務所に泊めることに成り行った。


 …まあ、それは俺の失言のせいなんだけど。


 正直、初対面の相手に留守を任せるというのはどうかと思うのだが、とはいえ通帳とか大事なものは分かりづらい所にあるし大丈夫だろう。

 なんとなくだがあの子はそういうことをしそうにないし、それにたぶん…アイツだって、同じようにしただろうからな…。


 ビルから出ると、相も変わらず人は行き交い、店には光が灯っている。夜はまだまだ続くのだ。

 夕方から一転、すっかり暖かくなった空気を裂くように俺は歩き出した。

 ふと空を見上げれば、珍しくも星が良く見える。しかし、月は建物に隠されてしまったのか、どこにも見えない。


 仰いだ顔を下し、前を向いた。

 目に見えなくても、沈んでいても、月はその光を持って道を照らしている。

 だから、見失うことなんてないのだろう…。

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