その3

 学校から三十分も歩けば、既にそこはここらで一番の繁華街。

 雀色だった空もいまや、その最後の一辺が濃紺に飲まれつつある。

 空の暮色に浮かびあがる星々をなぞるように、街には光が点じられ、行きかう人々は増していく。


 俺は人々の中を縫うように足を運びながら、すれ違う者を横目でみた。

 スーツを着た人や学生服を着た人。十代前半に見える人から、七十は超えていそうな人ともすれ違う。

 この繁華街は働くにしても、遊ぶにしても都合がいいのだろう。


 かくいう俺は苦学生なので遊ぶ金はない。しかし、この街に住まいを持ち、この街に仕事があった。


 人が行き交う道から逸れて、並び立つ建物の間へと身を滑り込ませる。

 時たま壁に肩を擦らせながら、人が一人ぴったりと挟まってしまいそうな路地を進む。

 ほどなく、T字に道がなった通りへ出た。いま通った路地を含めれば十字といえるかもしれない。

 丁字路の道沿いには雑居ビルが立ち並び、種々雑多な店が門を開いている。

 俺はその中のラーメン屋にはす向かう、四階建てのビルへと向かった。


 階段を上り、踊り場を転回する。それをもう一度繰り返し、最後にまた階段を上る。

 そうしてようやく最上階にたどり着いた。

 鞄から鍵を取り出しドアを開くと、開いた先の暗闇からは少し生暖かい風が漂う。

 俺はその暗闇に足を踏み入れ、足だけで無造作に靴を脱いだ。


 部屋のドアを開け、ドアの脇に据えられたスイッチを押せば、無機質な光が暗闇を払った。

 手前で露わになった黒檀のテーブルが光を照り返す。その左手にはソファが添えられ、テーブルを介した反対側にはなかなか立派な台座があり、上には台座に似合わない小さなテレビが恭しく置かれている。テーブルの奥の窓際にはデスクトップの置かれたデスクがあるが、そっちは俺のスペースじゃない。


「ふう…」


 今日も疲れた、と先ほどまで眠っていたことを棚に上げて、ソファへと身を沈めた。

 ビルの四階に位置するこの部屋は、俺の部屋…というより、事務所といった方がいいのか。

 別に俺の所有物というわけではない。ただ、家がない俺に雇い主が住居兼事務所として宛がってくれたものだった。とはいえ、俺一人のためにそこまでしてくれるわけもなく、上司(と言うべきなのか分からないけれど)が一人同居人としているのだが、最近は全く顔を出さないのでいまは実質一人で使っていると言っていいだろう。


 一息ついてから立ち上がり、制服を着替えた。このままで外に出ると、補導される可能性がある。

 街には制服姿の若者があふれかえっているので気にしすぎかもしれないが、聞いた話によると、最近補導が増えているらしい。まあ当然と言えば当然の話だ。近頃ここらでは犯罪が急増しているし、いけない薬を売っていそうな怪しげな風体の男を以前より見かけるようになった。

 春だからか、なんか奇人変人の類も多い。


「さてと」


 服も着替えたし、そろそろ仕事をしなきゃな…。


 階段を降りに降りてビルを出ると、裏通りだというのに人が一層増えている。

 空を見れば、陽は完全に隠れていた。


 俺は表通りへ足を向ける。少し歩くと、行く先のコンビニの脇に中学生ぐらいの少年が二人屯っているのが遠目に見えたので、俺はそれに近づいて行った。


「よ」


「お、インくん久しぶり」


 片割れの茶髪が挨拶を返してくる。自分で名乗ったわけじゃないのに変な渾名が広まっているのが少々遺憾だが…まあ、こんな治安の悪い所で本名を使いたくもないので甘んじる事にしよう…。


「なにやってんだ?」


「んー、金ないからさ。ダチが来るまで待ってる」


 そういえば、この少年らはいつも四人組でいた覚えがある。


「へえ…。あ、最近なんか面白い事とかあったか?」


「面白いこと? うーん…」


 しばらく茶髪が考え込む。それを見かねてか、今まで黙っていた黒髪の方が口を開いた。


「…さっき、ヒロさん見かけたけど」


 ヒロさんというのは、先ほどの悪漢、吉矢 広のことだ。何故かあいつは少年たちに人望がある。


「あ、そうそう。飲み屋街のとこで焼酎飲んでた。寒い寒いっていって」


 …大方、軽トラで体を冷やしたんだろうな。すごいどうでもいい。


「ふーん。じゃあ俺もちょっと顔みて来るわ。じゃあ」


「うん、じゃね」


 このまま駄弁っていても特に聞けることはなさそうなので、別れる口実に吉矢を使うことにした。

 そして俺は再び表通りへ向かう。


「ふぅ…」


 なに遊んでるんだと思うかもしれないが、いまのが俺の仕事だった。

 街に集まる若者と話し、聞いた話を事細かに報告する。

 稗官はいかんのようなその業務が雇い主から俺に命じられた業務なのだ。


 正直、雇い主の意図が全く分からないのだけれど、仕事を選べるような身の上ではないので致し方なく従順にしている。


 給料は業務内容と労働時間、そして住居付きなことを考えれば破格で、そこは大変満足だ。

 …ったのだが、近頃ふと、通帳に振り込まれている額はもしかして俺の上司と折半なんじゃないのかと思い、不安な気持ちで日々を過ごしている。

 雇い主とまともな雇用関係があるわけじゃないので(もちろん税金も納めていない)、通帳を分けず適当に振り込んでいる可能性に思い立ってしまったのだ。

 なので今度報告に行くときにそれについて聞いてみようと思っていたのだが、なかなか機会がないので、まあいいかと結局そのままにしていた。


 そうこう考えているうちに、俺の足は既に表の大通りへと踏み入っていた。

 裏通りと比べると夥しい数の春灯が俺を出迎え、その蛍光色に思わず目を細める。

 行きかう車。行きかう人々。まるで川の流れにも思えるその中に、呑まれるように溶け込んだ。

 しばらくその趨勢に身を預けていると、スクランブル交差点に差し掛かったあたりで、右手の方に突兀と一際大きなビルが見える。

 蓬莱山から取ったのだろう。通称、ホウライビルと呼ばれる高層ビルだ。


 そのビルを目印に、今度は大通りを外れて脇道を通る。

 ジグザグと何度か道を曲がれば、ホウライビルを正面に見据えられる場所へと出た。

 ぼうっと、聳えるビルの頂上を見上げる。まだ距離はあるので、頂上を見上げても首は痛まない。

 視線を下してみれば、ホウライビルの前方に立った二棟の建物が、まるでビルの両端を支えるようにその根方を隠している。

 ならばと暴くように二棟の合間へ目を向けると、そこにあるはずの空隙は人の坩堝に埋めつくされていた。

 人に塗りつぶされた空白は決して狭くはない。俺の事務所があるビル程度ならすっぽりと収まる。

 それどころか二、三棟くらいは入るかもしれない。

 そんな場所を所狭しとひしめく人々に辟易しながらも、そのざわめきへと向かわなければならない身上なので、しぶしぶ歩いた。

 なにか特別な物や催しがあるわけじゃない。だというのに、ここら一帯にはいつも若者が集っている。

 その中でもとりわけ人口密度が高いのがホウライビル前、つまりこの広場で、この頃益々その人数を増していた。


 …ニュースでよく見るような様相を呈すこの広場には、正直あんまり来たくなかった。

 まあ…暴力、薬物、売春がどうだとかでニュースでよく取り上げられている所よりかはマシな部類の場所だと思いたいが、少なくとも薬物の売買はあると聞いた。

 直接取引の現場を見たわけじゃないが、売人のような風貌の男を見かけることも少なくない。

 そもそも、ここに来た理由だって…。


 近づけば近づくほど、がやがやとうるさい喧騒が耳をつき、子供の頃に祭りで感じたような熱気が肌を撫でる。

 群衆を見れば心なしか薄着の人も多い。この熱気に春宵の肌寒さも忘れているのだろう。


「いるかな…」


 街に集まる若者と話してその内容を報告するのが俺の仕事だが、内容はなんでもいいというわけではない。

 ある程度物珍しい話題だったり、雇い主の好みの話じゃないと文句を付けられるのだ。

 だから、その条件を満たす内容を聞くのにうってつけな人がいるここへ来たのだけれど…。


 人波の中に、半身になって無理やり押し入り、周囲に目を走らせた。

 目に映る集団というゲシュタルトを崩し、稠密とした人々を一人一人細分して認識する。

 立ち話をする者。植え込みの石段へ腰かける者。地べたに座り込んだ者。四方を探しても目に入るのは群れる若者たちだけで、尋ね人は見つからない。今日はいないのかもなあ…。


「や、ほんとコレおすすめの最先端で、いまならワンジーたったの二千円で——」


 ため息をつきかけた所で、にわかに目当ての声が聞こえた気がした。

 はっとそちらに目を向けたその時、偶然雑踏が開けて声の主が目に入る。


「ハヤシさん!」


 ざわめきにかき消されないよう大きく呼びかける。

 すると、大げさな身振り手振りを振り回しながら腕を組む男女にまとわりついた痩せぎすな男が、俺の声に振り向く。その隙に、男女が逃げるように踵を返していった。


「…? おお、インくんじゃないかぁ」


 彼はこちらを振り向くと、真ん中で分けた黒髪に額の汗を滲ませながら、黒縁メガネ越しの隈が目立つ目元を綻ばせた。


「やあやあどうしたんだい。もしかして、インくんもコレが欲しいのかなぁ?」


「いや、俺はそういうのやらないって……ハヤシさんは今日も小遣い稼ぎですか?」


 一見真面目な出で立ちとは反面、この男は広場でよく自家製の薬物を捌いている不逞の輩である。

 とはいっても、ただの売人と判ずるのは誤りで、彼は薬中が高じた結果薬物を自作し、それをみんなに試してもらいたい思いで捌いているという。…実際に取引が成立しているのは見たことがない。

 まあ所謂、奇人変人の類だ。ほどほどに有害といった程度の。


 自称、薬学部の大学生らしいが、本当かどうかもさだかじゃない。ハヤシという名前も、みんながそう呼んでいるだけで、本名じゃないだろう。あだ名みたいなものと見た。

 真面目そうな風采にも、よく観察すれば薬中の傾向が見て取れる。やせ細った体躯。たるんだ顔。乾いた唇から覗くボロボロの歯列。黄疸は出ていないし、いちおう節度は保っているみたいだけど…。


「小遣い稼ぎなんて人聞きが悪いなぁ…。これでも原価割の特価で提供しているのに…」


「…今日はどんなやつ売ってるんです? 前は風邪薬ブレンドでしたっけ」


 この前はなんだか、一周回って風邪薬が趣深い、とか言って、いろんな風邪薬を砕いた粉を売りつけられそうになったのだった。付き合いもあるので普通に風邪薬として買ってもいいかな、と一瞬悩んでしまったのがなんともタチが悪い。


「うふふ、風邪薬とか古すぎるよぉ。時代はやっぱりオーガニック。わざわざ山に入ってまで摘み取ってきたチョウセンアサガオをふんだんに使ったオリジナルブレンドが…」


「へえー」


 なるべく人の密度が低い所を見繕い二人して移動すると、ハヤシさんはいつも通りに一人薬物談義に花を咲かせ、対して俺は持ちうるコミュニケーション能力を駆使し相槌に徹した。

 変人の相手をするときは、これが一番なのだ。


「…それで、いま巷ではどんなのが流行っているんですか?」


 しばらくそうしていたら喋々も下火になってきたので、今か今かと後ろ手に隠し持っていた本題をぶつける。


「あーいまはねぇ…。そうだ、ちょっと歩こうよ」


 ハヤシさんは広場の外を指さす。あまり人に聞かせられない話でもするのか。

 今まで散々人込みの中、大声で自作の薬物自慢をしていたので今更だろ、とも少し思ったが、察するに売人から得た情報を、ベラベラと話している所を目撃されたくないのだろう。

 売人の間で醜聞が立つと色々不都合だろうし、そうなってしまっては俺も困る。この街にはクスリの卸売りが複数あるらしく、ヤクの売人と言っても一枚岩ではなく、派閥というか勢力めいたものがあると聞いた。そんな事情もあり、各方面へと顔が利くエリート薬中のハヤシさんはなかなか貴重な存在で、それを手放してしまっては仕事も捗らない。


 二人連れだってごみごみとした広場を抜け出し、ホウライビルを取り巻く道を回るように歩く。

 路傍に見える路地にはちらほらと若者が集まっているが、流石に広場のような人波はない。

 すれ違う人もそう多くはないので、内緒話をするのに差しさわりはなさそうだ。


「あの、さっきの話しの続きなんですけど…」


 歩きながら適当に交わしていた雑談を打ち切り、再度本題に触る。


「ああうん。いまのトレンドだよね……あとさ、ボクから聞いたって言わないでよね」


「わかってます」


 俺の返事を聞くと、彼は黒縁メガネをくいっとあげてから、滔々と話し始めた。


「すでに知ってるかもしれないけど、覚せい剤系がかなり値上がりしているね。ヤクザが卸しから手を引いて流通自体減ったから当然ではあるけど。あ、質の悪いヤーバーなら今も結構見るなぁ」


 以前、この街での覚せい剤の卸しはヤクザがほぼ独占していたらしいが、度重なる取り締まり強化により手を引いたという話を聞く。

 半グレの台頭ゆえか組織の縮小が洒落にならないらしく、今はヤクザなんかほとんど見かけない。


「ここら辺の覚せい剤はカサ増しもないし質が良かったのになぁ。今じゃ前の3倍ぐらいの値段だし、手に入ってもポンプの売り手もいないしね。もう今はかつてのライバルが天下を取っちゃった感じだよ」

「ライバルというと…半グレとかですか?」


 ヤクザ以外の卸売りとなると、主に半グレとかその辺になる。この街にもいくつかグループがあると聞いた覚えがあった。


「うん、そうだね。まあ天下を取ったといっても、固定の卸しがあるわけじゃなくて、新しい半グレグループが参入してきたと思ったら消えて、また新しいグループが立ち上がってと、入れ替わり立ち替わり。水物だからねぇ、長く続いてるのなんて…ドラジットぐらいかな」


 そのままハヤシさんは続ける。


「流行りはエク…mdmaとかかな。クラブとかでかなり捌いてるみたい。あとはさっき言ったヤーバーとか。やっぱり錠剤形は手出しやすいのかな」


 薬物の隠語に疎い俺に配慮して、分かるようにハヤシさんは言い直してくれた。


「なるほど…他になにか変わったこととかはありませんか」


「んー…別に。最近若い子が減ってる気がするくらいかな」


「若い子…?」


「うん、中学生ぐらいの子。前は良くつるんでこの辺でたむろってたじゃない? 最近あんまり見なくなったなぁ…と。そのぐらい」


「…親の財布から金を抜いてるのがバレて、外で遊ぶ金が無くなったんじゃないすか。もしくは中間テストとか」


「ハハ、かもねぇ」


 まあどんな理由であれ、こんなところに来なくなったのは良い事な気もする。


「じゃあ、俺はここで失礼します。ハヤシさん。どうもありがとうございました」


 ホウライビルの背を沿うような道を曲がり広場の方へ戻ろうかという所で、俺は別れを告げる。

 話が聞けたらすぐさま別れを切り出すという事になり、それはちょっと勝手な気がしたので糊塗するよう、続く謝辞はなるべく丁寧に述べた。


「いやいや、礼はいいって。君には恩もあるし。どうしてもっていうなら、僕のオリジナルブレンドを試してよ。タダでいいからさ」


「…それは、また今度に」


 いざとなったら吉矢でもつれてきて、アイツにキメさせよう。


「またね」


 ハヤシさんは人のよさそうな笑みを浮かべて手を振ると、広場の方へ戻っていった。

 実際、大した義理も見返りもないのに良くしてくれているので、人がいいのだろう。薬中だけど。


 ハヤシさんと初めて会ったのは、去年の暮。

 なにをやらかしたのか、輩に詰められていたハヤシさんを見かねて、俺が差し出口したのが初対面だ。それでその場を乗り切って以来、ハヤシさんは俺を恩人と仰ぎ、色々と良くしてくれていた。



「今日は、こんなもんでいいか…」


 ハヤシさんから話を聞けたので、本日のノルマは達成ということにしておこう。

 普段はもう少し手間がかかるのだが、大概こんな感じで毎日を過ごしていた。


 学校が終わったらこの街に戻り、そして夜になったらいろんな人に街であったことを聞いて回る仕事(俺は全く興味が無いというのに、薬物だの暴力沙汰だの…所謂関わり合いになりたくない噂が好きなのだ。あの人は)をする。後はこうして聞きまわったことを週一で雇い主に報告しに行かなければならないけど、まあ、それは今日である必要はない。


 それにしても、モチベの湧かない仕事だ…。


 明確なノルマが決まっているわけじゃないけど、仕事である以上ある程度は熱心にしなければいけないと思うので、普段は夜遅くまでこの聞き取りが及ぶこともある。

 だから、俺としては学校なんか早退してもう少し時間を作りたい所なんだけども…。


「…ふぅ」


 これからは自由時間。数少ない俺だけの時間だ。

 俺はホウライビルから離れ、今度は駅前の方へ足を延ばす。


 だが、向かうのは人の多いターミナル駅とは別方向。

 あっちと比べれば大分大人しい、繁華街の際にある駅のほうだ。


 その駅前にはレストランやバーなどの飲食店が多い。飲み屋街も近いので、繁華街の際といってもなかなかの賑わいを見せていた。

 広場の方は若者一色だったが、こちらは若者だけではなく、会社帰りのサラリーマンなどもかなり見える。今から遅めの晩飯にでもありつくのだろう。


 学校で目を覚ましてから何も食べてないので、俺もだいぶ腹が空いている。

 ここのところは事務所前のラーメン屋で済ましていたのだけれど、たまには他のものを食したいと思い今日はここまで出向いたのだ。


 スマホで時間を見ればまだ八時前。

 この時間帯なら大抵の店が開いてるだろうし、より取り見取りなんだけど。


「…うーん」


 迷うなぁ。

 貯蓄をしなくちゃならない身だが、このペースだったら大分余裕あるし、ここは贅沢しても…。


「おっと…」


 まだ八時も回っていないのに既に酔歩蹣跚としたスーツ姿の男が、俺を追い越してどこかへ向かっていく。その足取りはなんだかせわしない。会社にでも呼び出されたのだろうかと眺めていると、その足取りを追うように、数人が同じ方向に向かっていった。


「おい、あっちで喧嘩してるみたいだぞっ」


 今度は学生服をきた男が二人そろって俺の脇を通る。なんだ喧嘩か…。

 別にこの街ではそう珍しいことではない。日常茶飯事だ。

 だというのに、なぜかありがたがって見物人が群がる。


「なにが面白いんだかな…」


 とはいえ、ちょっと見ておいた方がいいか。なにか報告するべき情報があるかもしれない。

 そう思って現場に向かってみれば…。


「「ヒロくん最強! ヒロきゅん頑張れ!」」

「うるっさ…」


 見物人の中にやたらやかましい二人組がいたので、耳をふさぎながら、右のやつを軽く足で小突く。


「うぉっ、と。あれぇ…インくんじゃん」


 取り巻きAとBあらため、咲坂と臼野が降りむく。


「…お前らなにやってんの」


 というか、この二人が上げていた馬鹿うるさい声援からして…。


 熱狂する見物人の正面を覗き込めば、男が二人向かい合っている。

 片方は細身の男。身長は180センチぐらいだが、体重は70あるか怪しいと言ったところ。

 顔つきからしてかなり若い…下手すれば中学生かもしれない。それに対面しているのは…


「うわまじでやってる…」


 見まがえようが無い。若そうなのより、頭半分近く高い上背。そして、身体の幅、厚みに至っては二倍近いのではないのかという恵体。間違いなく吉矢だ。

 いい歳して、こんな往来でなにやってるんだか。しかも相手は中学生(だと決まったわけではないが、非難するためにそう決めつけておこう)ときている。


「ほら、インくんも一緒にぃ…」


「…え?」


 咲坂が俺の左手を取り、上へと引っ張り上げる。

 嫌な予感がし右手で耳をふさごうとしたところで、臼野にその手も握られていることに気がついた。


「「ヒロくんサイッキョウ!!! ヒロきゅんガンバレ!!!」」

「うわッ!」


 両サイドからの咆哮になすすべもなく、かろうじての抵抗として悲鳴でそれを打ち消そうと試みたが効果は薄く、耳がキーンとダメージを伝えてくる。


「「ヒロきゅんサイッキョ!!! ヒロきゅんサイッキョ!!!」」

「…」


 逃れることもかなわず、捕らわれた宇宙人のごとく、二人の男に挟まれるがままになる。

 幸いといっていいのか分からんが、耳がおかしくなって左右の声どころか周りの音もぼんやりとしてきたので、両腕を持ち上げられたまま、他の見物人と同じように吉矢の動向を見守った。


「…小さいほうが仕掛けるぞ」


 なにやら物知り顔のおっさんのつぶやきが耳に入る。左右の叫声はノイズキャンセリングされているのに、この喧騒のなか少し離れたおっさんの声を拾えるとは、カクテルパーティー効果というやつだろうか。あるいは俺の耳がなにか新しい機能に目覚めたのかもしらん。


「お…」


 おっさんの呟きを追うように、中学生(仮)が仕掛ける。

 踏み込み放たれたローキックが風を切る。いや、ローキックというより、逆足払いか。構えからして空手っぽい。なかなかのキレ。

 だが、残念ながら吉矢はそれを軽くバックステップで空かした。

 中学生(仮)は空ぶった足をよろめくことなく戻し、再びじりじりと間合いを計る。

 細い体の割に、結構体幹もしっかりしている。俺としては中学生(仮)くんに是非頑張ってほしい。


「「ヒロきゅんサイッキョ! ヒロきゅんサイッキョ!」」


 あーまたうるさくなってきた。はやく吉矢を成敗して、この声の根を止めてくれ…。

 そう願ったとき、吉矢が壁際に寄って行ったのを見計らって、中学生(仮)が踏み込み、渾身の右ストレート…逆突きを打つ。


「くそう…」


 踏み込みが半歩遠い。あれじゃあ…。

 気づけば、予想通りに中学生(仮)は右手を吉矢に捕まれている。空を切った右ストレートを掴んだのだろうが、その動きははた目からでも捉えられなかった。ああなってしまってはお終いだ。

 体重100キロ越えの巨体は伊達じゃない。そのうえやけに機敏だから始末が悪い。


 …子供の頃は俺もだいぶ苦労させられたな。

 当時は俺の方が勝率が高かったが、今やったら歯が立たないだろう。


 吉矢は中学から総合にハマりだして技術もついたし、俺とは体格差もある。

 まあ、小学生の時もいまと同じくらい体格差があったけれど、当時は技術にかなりの差があったから何とかなったようなものだ。


「「うおおお! ヒロきゅんきたぁ!」」


 組み合っていた状態から、吉矢が流れるようにタックル。そして、すかさずマウントポジションへ移行する。


「あーあ…」


 そのまま吉矢は中学生(仮)の顔面を横殴りに乱打する。一見派手な攻撃に見物人は盛り上がるが、あれは一応吉矢の気遣いだろう。下はアスファルトなので、セオリー通り鉛直にパウンドすると、後頭部を強く打ち付ける恐れがある。吉矢は嬉々として滅多打ちにしているようにみえるが、頭は冷静らしい。


「わっはっはっは!」


 すごくいい笑顔で笑う吉矢の下で、中学生(仮)の顔がボコボコになっていく。

 ごめん。全然冷静じゃないかも…。


「あ」


 歯が飛んで来て先頭の方にいたおっさんにあたった。


 …流石に止めた方が良さそうだ。何かあっては目覚めが悪い。


 それに彼が吉矢に怨みを抱けば、将来心強い同志となるだろう。未来の同胞を見捨てたりはしない。

 立ち並ぶギャラリーの人垣を割ろうと、掴まれた腕を引きずるみたいに無理やり前に出る。

 やがて視界が開けるが、途端、示し合わせたように両腕に負わされた枷が外れた。


「うわっとっと…」


 つんのめりながら人垣につくられた土俵へ躍り出ることになり、なんか出てきたぞと見物人の視線に晒された。


「…おい、吉矢」


 あがり症なのでギャラリーの視線がちょっと不快だが、今更戻れないので吉矢へ声をかける。


「だははは!」


「おーい…」


 全然聞いてねぇ。

 笑顔を通り越し、よだれまで垂らしていて大変汚らしい。


「やめろって」


「ぶへへへ、ぐへッ!」


 気持ち悪いので、キドニーブローの要領にて吉矢の腎臓めがけ蹴りを入れてみた。

 すると、すわ仲間が加勢に来たのか、と見物人が盛り上がり気が滅入る。

 吉矢は蹴りの衝撃に沿うように、マウントポジションを崩しアスファルトの上をくるりと横回りして、こちらに向き直った。


「痛てて…って、よう。…お前なにしてんの?」


 きょとんと、やつは手を上げて挨拶する。


「いや、お前がなにしてんの…」


「オレ? クラブにいたんだけどさ、タバコ切れちまったからコンビニ行って来た。今その帰り~」


「…」


 …そういう話じゃなくて。

 というか、蹴りがそこそこ深く入ったはずなのに、吉矢にこたえた様子はない。

 酒も入っているみたいだし、感覚が鈍っているのか。


「お前、やりすぎだって…」


 倒れたままの中学生(仮)に目を向ける。意識はあるが動く気力もなさそうだ。


「ちゃんと加減してたぞ? 後に残るような怪我はさせないようにな!」


「いや、歯とばしてたじゃん」


「…虫歯だったんだろ」


 意味のわからん言い訳をするな。と俺が面詰しようとしたとき、吉矢の背後に見える群衆の合間から、ぬっと子供…メガネをかけた少年が出てくる。


「…吉矢、ちょっとそこどけ」


 いまだ地べたに尻をつけている吉矢の腕を引き、仰向けに倒れた中学生(仮)から距離を開けさせた。

 人垣から出てきたメガネの少年(こちらは考えるまでもなく中学生といった感じだ)は一直線にこちらへ向かってくる。中学生(仮)の友達だろう。

 俺としてはそのまま吉矢を懲らしめに来てほしいが、仇討ちをはたせるような体格じゃないし、そもそもそんな気概もないようだ。察するに、中学生(仮)の回収に来たらしい。


 同じことを察したのか、見物人が少しずつ散っていく。ひと時の祭りも終わる。

 崩れだした人垣の狭間を吹き抜ける夜気が、立ち込める熱をさらった。


「…しょ、っと」


 倒れて空を仰ぐ中学生(仮)のそばまで来た少年が、いそいそとその体を立ち上がらせようと奮闘している。吉矢ほどじゃないが中学生(仮)も結構デカイので、支えるのがなかなか大変そうだ。


「というかイン! 後ろからいきなり蹴んなよ! 昔から乱暴なんだからよお」

「お前にだけは言われたくない…」


「…え、あれ…」


 それを横目に吉矢のくだらない話に付き合っていると、少年がふと声を上げた。

 なんだろう、とそちら見れば、奇しくも少年も俺の顔をじっと見ている。


「? な、なに…?」


「…噂の…?」


 ぼそっとなにかを呟くと、少年は翻って中学生(仮)に肩を貸しながら、のそのそと行ってしまった。

 …なんだったんだ?


「いやー、やっぱヒロきゅん最強だったね。おれら応援団も鼻が高いよ」


「でも正直歯ごたえなかったなぁ、つまらんわぁ」


 判然としないもやもやを抱いていると、吉矢の取り巻きこと咲坂が相方の臼野と共に歩み寄って来ていた。


「ああ、いきなり絡んできたから自信あんのかと思ったけど、思ったり弱かったな。でもま、酔い覚ましにゃちょうどいい」


 軽くを伸びをして吉矢は立ち上がる。すると、かすかにアルコールの匂いが漂った。


「…遊びに出歩くのもほどほどにしておけよ。最近補導が増えているらしいからな」


「んだよ。お前だって出歩いてんじゃん」


 俺の小言に、拗ねるよう吉矢は言い返す。


「俺は…知ってるだろ、仕事だよ。それに今は飯食いに来ただけだ」


「なんだ腹減ってんのか。じゃ、一緒にクラブに戻ろうぜ」


「え」


 がっしりと、いつのまにか両脇に回っていた取り巻きコンビに再度取り押さえられる。


「ええな。ヒロくん応援団、新団員の歓迎会も兼ねて盛大にやろうや」


「インくん声出てたからなぁ。期待の新人だあ」


 な、なんかいつのまにか応援団に入れられている。悲鳴を上げてただけなのに…。


「え、オレの応援してくれてたのか? まじか、へへ…照れるなぁ」


 気恥ずかしそうながらも、吉矢はにやけながら人差し指で鼻の下をこする。

 きもい…。


「だ、誰か助けて…」


 逃げ出したかったが、体調が優れないのかどうも力が入らない。

 無情にも、俺は取り巻きツインズにずるずると引きずられていくことになる。


「そう嫌がんなよ。今日はクラブに特別ゲストが来てるんだ。久しぶりに三人で集まろうぜ」


「…三人でって、アイツ来てるのか?」


「おうよ」


 それならまあ…行ってもいいか、あいつには訊きたいことがある。


 ◇


 少し歩いて出たのは裏店通り。

 居酒屋などが並び、駅前表通りの華々しさと比べると、いささかレトロな雰囲気だ。

 正直なところ、クラブという横文字とは折り合わない様相だが、どうやら目的地はここらにあるらしい。

 居酒屋とダイニングバーの間にある薄汚れたコンクリートの壁。その中央にこじんまりと取り付けられた鉄扉の中へ吉矢が入る。

 吉矢に連なる取り巻き二人の後を追い中に入ると、そこには外面とは似つかわしくない小綺麗な部屋があった。

 正方形のような間取りの部屋の正面には大きなドアがあり、その横には受付らしきカウンターが置かれている。


「あ、おかえりなさーい。ヒロくん」


「おー」


 カウンターの奥に控えていた女性が立ち上がり、吉矢が手を挙げて応じる。

 どうやら受付の人らしい。大学生ぐらいのお姉さんだ。

 クラブの受付というと結構派手なイメージを持っていたが、思っていたより見た目はおとなしめで…なんといいますか、正直…


「こいつ、俺の連れだからよろしく」


「はいはい。今日はたくさん友達連れてくるね」


 …正直タイプです。

 地味過ぎず、派手過ぎず。物腰も柔らかく、しかも年上(たぶん)。

 俺は健全な男子高校生。憧れずにはいられないのだ…。


「ああ、プチ同窓会だな。なんならお前も来いよ」


 な、なんだ吉矢の野郎、やけに馴れ馴れしいぞ…。


「いいね。小春ちゃんが来たら盛り上がるよお」


 咲坂が言った小春ちゃんというのはこの方の名前だろう。

 もしかして吉矢とそういう仲だったり…、と考えたら、羨望と絶望と敗北感で軽く戦慄した。

 事と次第によっては、吉矢としばらく距離を取った方が良いだろう…これ以上ストレスに晒されたら身が持たない。


「私は駄目だよ。受付あるし、行きたいけどね」


「なんだハル、来ないのかよ」


 一人脳裏に描いた想像に打ち震えていると、いつのまにか正面にあった大きな扉が開いていた。

 扉のすぐ向こうには、ブラックスーツに身を包んだ二人の逞しい男が後ろ手に腕を組んで佇立している。所謂黒服というやつだろう。こういう店には入らないので、なんだかんだ見るのは初めて…というか本当に存在するんだなぁ。


 扉の更に奥からは寒色の仄暗い光が放射され、それに誘われるよう咲坂と臼野が奥に消える。

 吉矢は途中で立ち止まり、俺を待つように横目でこちらを見ていた。


「ねえねえ」


「は、はいっ」


 俺も扉をくぐろうとしたところで小春さんに声をかけられ、ついキョドる。


「ヒロくんってばいつも君のこと話してるんだよ。できたらもっと一緒に遊んであげてね」


 鳥肌が立つような情報はさておき…いつも話しているって、ちょっと待てよ…。

 クラブの客が受付とそんなに話すのか? ここで話し込むってことか? 

 いやそれはおかしくね…?


 もしや、もしやだが…。

 それって、それってつまりさ…ぷ、プライベートで話し込んでるって…コト!? そ、そんなぁ…。


「う、うぅ、うわぁぁ…」


「だ、大丈夫?」


 あまりのショックに返事もできず。その場から逃げ出し、よたよたと吉矢を追う。

 おぞましい想像から帰ってきたと思ったら、現実も地獄と地続きだった。

 嗚呼、なにゆえ神はこの世をつくり給ふたのか…。こんな現実いらないやい…。


「このクラブ、スゲーだろ。オレも最初見たときは驚いたぜ」


 吉矢と並んでクラブの奥へ向かいながら死んだ目でその内観を眺める。

 たしかに表構えからは想像もつかないほど広い。

 天井も高く、ネオンに彩られた壁に距離感がおかしくなりそうだ。


「なんか元々二階建てだったらしいんだけど、フロアをぶちぬいたんだってよ」

「そう…」


 下へ続く階段を下りながら吉矢が話しかけてくるが、その内容はまったく耳に入らなかった。

 平時だったら少しぐらい興味が出たかもしれないが、先だってのショックで今は現実が色あせて見える。

 一面を色付ける鮮やかなはずの藍いネオンも、いまやオッサンのくたくたになった靴下みたいな色合いに感じる。なんだかそう思うと異臭に包まれている気がして、吐き気を催してきた。胃液くらいしか吐くものはないが、反射的に鼻と口を手で押さえると…


「あ、今すかしっ屁したんだけど、バレた?」


「ううぅ…死ね…」


 なんでこんな奴があんないい感じのお姉さんと懇意に…。クソがよ…。


「…ん」


 階段を降りきった所で、再び大きな扉が現れた。扉越しにクラブミュージックが鼓膜を震わす。

 その扉を吉矢が開くと、ようやくナイトクラブの本領が晒された。

 薄暗い広々としたホールを、意味があるのかよくわからん光線が飛び交い、奥歯が震える程の重低音が体に打ち付けられる。

 ホールの中央ではそのリズムに合わせるように、蠢く人だかりがあった。


「うわぁ…」

「いい雰囲気だろ? なかなかの穴場なんだよココ」


 俺の嘆息を感嘆のものだと思ったのか、吉矢が得意げに言う。

 実際、思っていたほど客の人数は多くない。設備にはかなりお金が掛かっていそうだが、いるのは精々五十人ぐらいか。広いホールも大分スペースが空いている。穴場というのは本当らしい。

 まあ、なぜか人目を忍ぶような立地だしな。なぜそっちに金を掛けなかったのだろうか。


「…それで、アイツは?」

「ん? こっちじゃねーか」


 吉矢についていく。


「…あ、おかえり吉矢君。それに…」


 そこで、一人の男がこちらに近づいてきた。男は吉矢に挨拶する。

 そして俺の方を見ると、何かを掴みかねるように間が開いた。


「…よ、なんでこんなところにいるんだ? 生徒会長ともあろうものが停学にされちまうかもしれないぞ」


 薄暗いし顔もよく見えないだろうと、俺からその男——生徒会長へ声をかけた。


「…やあ。先ほどたまたま吉矢君たちと会ってね。折角だからご一緒させて貰ったんだよ。君はどうしたんだい?」


「いやなんか、さっき外で会ってあいつらに無理矢理…」


 そっか、と会長は頷くと、なんだか気まずい空気が流れる。

 隣にいた吉矢もいつの間にか消えているし、どうしたもんかな…。


「座ろうか。どこか席は空いているかな…」


 会長はホールを見回して、席を探す。

 その視線はテーブルに突っ伏す人や、集まり談笑している人々の間を彷徨って、やがて奥まった暗い場所に留まった。


「…あそこにしよう」


 暗くてよくわからなかったが、近づけば長テーブルと、それを縁取るように置かれたL字のカウチソファの席が見えてくる。そこに会長が腰を下ろすが、なんとなく後に続かずに俺は立ったまま会長を見据えた。


「それで君…長井君は…」


 少しの沈黙の後、生徒会長は少しつっかえながら、俺の苗字を口にする。


「…言いづらいのなら、お前の好きなように呼べって」


「いや、大丈夫…。それとも、僕もあの二人みたいにイン君と呼んだ方がいいのかな?」


「それはあいつ等が名前をもじって勝手に言い出しただけで……むしろイジメみたいなもんだから、お前が止めてくれよ。生徒会長だろ?」


「あれ、そうだったのか。てっきり君は喜んでいるものだと思ってた」


「な、なんでだよ…」


「…馴れ馴れしくされるの、好きだろ? 君は…」


 ちょっと動揺していると、おーい、と何処かから吉矢が駆け寄って来る。

 いなくなったと思ったらいきなり湧いて出てきて大変せわしないが、正直助かった。


「咲坂と臼野は? 会長と一緒じゃねーの?」


「ああ、彼らは踊りに行ってたよ。ほら、あそこに…」


 会長が指を指す方を見れば、人だかりの中で咲坂と臼野をみつけた。しかし、なぜか二人は社交ダンスのように手を取り合って踊っている。その動きはかなり激しく、熟達したものを感じて少々気味が悪い。周りの人も距離をあけていて、なんだか迷惑そうだ。


「アイツら…」


 吉矢が不機嫌そうに呟く。流石に迷惑行為は寛仮しないか。


「オレも混ぜろッ!」


「…」


 吉矢は跳ねるように踊る集団へと向かっていく。


「ははは、彼は相変わらずだね」


「苦情入れられて追い出されなきゃいいけどな…」


 なんだかドッと疲れて、俺もカウチソファに腰を下ろした。

 何か大事なことを忘れている気がしたが、思い出す気力もわかない。


「そういえば、生徒会室には来てくれたかい?」


 あ、そうだ。

 今日の放課後、こいつに呼ばれたからわざわざ生徒会室に顔を出したというのに、当の本人がいなかったんだ。


「…行ったけどお前、どこ行ってたんだよ。会計しかいなくて困ったわ」


「いやあ、生徒会室に来てくれていたのならそれでいいんだ。わざわざすまなかったね」


「はあ…?」


 なんじゃそりゃ、意味が解らん。訝しむように会長の顔をにらむ。

 そんな俺に対して、会長はテーブルの上にあったカップをつかみ一口つけると、穏やかにほほ笑んだ。


「ヒロだ」「ヒロくんが来たぞ」「誰だよヒロって…」「ほら、戸田さんを倒した高校生の…」


 更に疑問が深まった所で、なんだか奥の方が騒がしくなる。

 見てみれば、迷惑行為に耽っていた二人に吉矢が合流し、更に注目の的となっていた。

 だが先ほどとは異なり、衆人の視線はどことなく好意的だ。


「吉矢君は、ずいぶん人気者のようだね」


「…なぜかこの辺りではな。ま、変な奴らが集まってるから、似た者同士通じ合うものがあるんだろ」


 この街は俺みたいな常識人からしちゃ住みづらいことこの上ないのだが、変人の代表者ともいえる吉矢からしたらよほど居心地が良いに違いない。


「ふふっ、彼も変わらないが、君も相変わらずだね。いつも仏頂面で憎まれ口ばっかり叩いて…心にもないことをさ。なるほど、そりゃ彼らになんてあだ名もつけられちゃうよ」


「…なんだよ、お前もイジメに加担か?」


「いやいや。ただ、変わらない二人を見ているとなんだか懐かしくて…。あの時はいつも、三人一緒だったろう?」


 確かに、あの時…小学生の頃は、いつも三人一緒だった。

 面白いことに、くだらないこと、揃っていろいろやった。

 性格はまるでかみ合わない、バラバラな三人だったけど不思議とそりが合って…楽しかったな。


「吉矢が暴力担当で、俺が頭脳担当。あと…」


「…君に頭脳担当が務まるのなら、僕もそこに入れておくれよ。それに君も君で、よく喧嘩していたじゃないか」


「お前は頭脳っていうより…たかられ担当だろ。いっつも上級生にカツアゲされやがって。助けるの面倒くさかった…」


 とはいえ、こいつが上級生にたかられていたお陰で俺たちは出会えたようなもんだし、それについては恨み言だけではない。


「あはは…、その節では世話になったね。重ね重ねお礼申し上げるよ」


 ふいに、朗らかだった会長の顔が翳る。


「僕がもっとしっかりしていれば、あんなことにはならなかっただろうに…」


 会長が沈鬱な表情で、手に持ったカップに視線を落とした。生真面目な奴なので、吉矢に手酷く痛めつけられて病院送りになった当時の上級生を悼んでいるのだろう。悼むといっても死んではないけど。


 …そういえば、あの上級生たちも今は大学生くらいか。


「はぁ…」


 時の流れは早いな…。あれから何年たったのか。


 当たり前だったことが当たり前ではなくなり、変わらないと思っていたものは想いと反して変わっていく。

 歳を食って煩わしいことが増えたが、得たものも多い。


「…」


 だというのに、何故だろう。流れる時が恐ろしい。

 このままこの時間が続けばいいのに、と願わずにはいられない。


 …でも、そう願えることは幸せな事なのだと思う。

 たとえそれが過ぎ去る日々に対する恐怖からのものであろうと、今が続けと、噛み締めることが出来るのなら、今はまだ…幸せということなのだろう。…たぶん。


「はぁ~ぁ…」


ため息とも、あくびともつかないものが漏れる。


「おや、すごいあくびだね」


「いやなんか、最近眠くて…」


 気温が高くなってきたからだろうか。この頃サイクルがおかしい。


「毎日毎日、夜更かししすぎなんじゃないかな。今日も授業サボって寝ていたのだろ?」


「んー…まあ、そうだな…」


 なんだか、本格的に眠くなってきたな…。

 程よい薄暗さが眠気を促す。うるさいと思っていた音楽も、一定に刻まれる低音が今は心地よい。


「少し眠ったらどうだい」


「…あぁ…そうだな。ちょっとだけ…」


 うつらうつらとしているとそれを見かねたのか、会長が腰を浮かしてカウチソファの端へと移動し、人が横になれるスペースを作ってくれた。

 眠気に逆らえず促されるまま横になると、一呼吸のうちに俺の意識はどんどん沈んでいく。


 …まだ、なにか大事なことを忘れているような気がする。


 今にも眠りに落ちるという時に、かすかな引っ掛かりが邪魔をした。


「僕は…彼が戻るまで待っているからさ…」


 何を忘れているのか考えようとしたが、思考が上手く働かない。

 ああそうだ。俺は飯食いに来たんだった…。

 曖昧模糊とした意識で、ようやく強い空腹感に気づいたが、関係なしに俺の意識は底へと滑り落ちた。


 ◇


 …底の暗闇。どこからともなく声が聞こえてくる。


「…あれ…ンのやつは…」

「…ああ…彼は…」

「…なんだよ…せっかく三人集まってんのに…」


 ああ…やかましい。人の声と音楽が半覚醒の意識を刺激する。

 しかし、まもなく音に溶けるよう再び意識は落ちていった。


 …そして、家族の夢を見た気がする。

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