その2

 …人間、夢を見ることは大切だと思う。

 目標的な夢のことではない。寝ている時に見たり見なかったりするあれだ。


 夢は過去を表す。

 まあ、面倒な予定に追われる夢だったり、あんまり過去然としていない夢を見ることも多いが…。

 でも、少なくとも俺の場合…夢の世界が大事なことを思い出させてくれることがあった。


 論理も整合性も欠けているこの世界で大切な物を見つける…今もまさに、そんな夢を見ている。

 それは真っ暗な世界を歩く夢。いや、歩いているのか…進んでいるのかも定かじゃない。

 ただ、動いている。


 何処までも続き、そこは途方もない。なにを求めてそうしているのかも分からない。

 ただただ、その蠢めく暗闇の中を行く。さながら、灯り一つない夜の海に放り出されたかのように。


 どれぐらいそうしていたのだろう。

 凄まじい時間が経った気がするが、案外一瞬のことだった気もする。時間間隔すら曖昧だ。


 それでも、特に不安はなかった。

 ここから先はいつも決まっている。

 何度も見たから、後の展開を覚えている。


 そうだ、ここで———



「——寒いッ!!」


 あまりの肌寒さに夢の世界は崩れ去り、冷たい現実へと引き戻された。


 突き刺すような突風。

 硬く、冷たい床。身体の鈍い痛み。

 そして、耳元で響くピリリリとうるさい電子音。それらすべてが俺の神経を刺激する。


「…ぅう」


 冷えから粟立った腕を両手でさすりながら赤子のように身を丸めると、耳元にあった電子音が遠のく代わりに、側頭部が固く冷たいコンクリートの上に晒された。


 その体勢のまま数秒。


 吹きすさんでいた風が落ち着きを見せたのを皮切りに、嫌々ながらもまぶたを開き、首をひねって空を仰ぐ。そこには雀色の空が広がる。

 まばたき一つの合間に、いやになるほど青かった空はその様相を変えていた。


「…もう夕方かよ」


 寝ぼけた頭から、ゆっくりと記憶を引き出す。

 えーと…三限目の授業をふけた後、屋上に出て…そしたら陽気が気持ち良かったから横になって…。

 そうだ。眠気を感じたのでアラームを設定しておいたんだ。


 あれ? なんでわざわざアラームなんて…。


「ああ」


 生徒会に顔を出せ、と言われていたんだったっけ。


「めんどいなぁ…」


 眠いし、別に行かなくていいか。

 そう考え寝返りを打った瞬間、再び夜気を含んだ冷たい風が屋上に吹き抜けた。


「うっ…」


 眠りに落ちる前に吹いていた心地よい春風はすっかりと鳴りを潜め、厳しい冷気が突き刺さる。

 日が完全に落ちればさらに寒気が幅を利かせるだろう。

 今年はやたらと寒い日が続き、最近になってようやく暖かくなってきたと喜んでいたのに、ここのところ夜になるとまた冷え込むようになった。もう4月も終わるというのにだ!


「うう…」


 鼻水出てきた。風邪を引いたらかなわんので、流石に戻ろう。

 傍らに立つキュービクルの側面を支えに体を持ち上げ、制服についた砂埃を払いながら枕にしていた学生鞄を拾う。持ち上げた鞄の中からはまだ電子音が響いていたが、そのまま逃げるように屋上を後にした。



 窓から零れる夕影がまばらに散り敷かれた廊下を歩きながら、鞄から取り出した少しまばゆい液晶を眺める。

 全授業が終わって四十五分。アラームの設定時間からは五分程。

 立ち入り禁止の屋上から戻るところをうっかり見られちゃ困るので、学校から人がいなくなり始める時間を見計らっておいたのだ。


 人通りのほぼないこの廊下は喧騒とはほど遠いが、耳を澄ませばかすかに人の声が鼓膜を揺らす。

 たぶん、女子生徒が笑いあっている声だな。願望も少し入っているかもだが、徐々に鮮明になって来る声の高さからして間違っていないだろう。

 なんとも楽し気なその声色に、もやもやと体を取り巻く寝起きの倦怠感も、少し晴れたような気がした。


「…っと…」


 階段を降りようと足をおろしたところで、その声がかなり近くまで迫っていることに気づく。

 たぶん階下からだ。コツコツと階段を上る音も聞こえてきた。

 なにもやましいことは無い(俺が屋上に立ち入っていたなんてわからないだろう)のだけれど、なんだか無性に緊張する。


「…こ、こんちゅわ」


「…え…っ」

「うわ…」


 こんな薄暗い中、男がボーっと突っ立っていたら驚くと思い、女子生徒二人が踊り場に上がったぐらいで爽やかに挨拶した。いや、しようとしてちょっと噛んだのだが、二人はそんなことには見向きもせず、ただ俺の相貌に目を向け声を漏らすとそのまま視線を床に落とし、そそくさと俺の横を駆け足で抜けていく。


 …あーあ。


 楽し気な声の代わりに、取り残された俺の周りには沈黙の帳が下りる。と思ったら、二人が行った先から僅かに会話が聞こえた。


「…ねえ、今のっていつも授業サボってるあの長井だよね…」

「う、うん…」

「なんか、ヤバいクスリとかやってるらしいよ…」


 その後もまだなにか話していたようだったけど、離れていく声は俺の地獄耳をもってしても聞き取れない。

 いたたまれなさというか、罪悪感のようなものがふつふつと湧き上がってきたので、とぼとぼと階段を下りることとなった。


 …しかし、さっきの子。どっかで見た気がすると思っていたが、会話から察するにどうやら同じクラスの子らしい。とはいえ、新しいクラスになってまだひと月程しか経っていないので、もちろん名前は覚えてない。いや、正直なところ、一年経っても覚えることは出来なさそうだ。



「ちわー」


 億劫な心持のまま、生徒会室の引き戸を開けた。

 なぜか室内には明かりが点いておらず、窓辺に差し込む山吹色の夕日が影とコントラストをつくる。


「…う」


 誰もいないのかと思ったが、廊下側の壁際、その陰影に隠れるよう人影が佇んでいて、つい声が漏れた。

 幽霊だったら怖いので即座に部屋の電気を点けると、ようやくはっきりとその姿が見える。


「ほっ…」


 どうやら幽霊じゃなくてただの生徒のようだ。驚かせやがって。

 体格と制服からして女の子、こちらに背を向けているので顔は見えないが、制服には一年生の印がついていた。つまりこの子は、生徒会ただ一人の一年生である…会計担当の小娘だろう。


「なあ会計よ、会長どこいったの」


「…」


 こちらに向けられた背筋の伸びた背中は何も語らない。

 この態度にはちょっとムカついた。

 なので、ビビらせられた復讐も兼ねて、俺は無造作に椅子を引き、沈黙を保った背中の隣りへと腰をおろす。

 ちらりと横に視線を向ければ、えらくしかつめらしい顔をして机の上の書類へとペンを走らせているのが見えた。


 生徒会会計、松田 菜津美まつだなつみ。先月入学したばかりの新入生。

 入学ひと月で既に生徒会へ入っている所から察せられる通り、少々まじめすぎるきらいがあって大変接しづらい。なにが気に入らないのか、なにかと俺に反感を持っている気もするし。反抗期かね。


「あれ、なんか機嫌悪い? 調子悪いとか?」


「…あなたは今日も授業を欠席したと聞きましたが、今はずいぶん調子が良さそうですね。ナガイさん」


 言葉尻につれて、やたらと語気が強まる。全く、せっかく心配してやったのに…。

 このままだとちくちく言葉で責め立てられそうなので、話を進めよう。


「俺、会長に呼ばれたんだけど…いつ戻ってくるかわかる?」


「知りません」


「…」


 取り付く島もないので、そのまま黙りこくって座っていると、一分ほど経った所で彼女が呆れるように口を開いた。


「あの…、ぼーっと座っていないで、暇なら仕事を手伝ってください」


 えっ、やだ。話を逸らそう。


「そういえば副会長もいないなんて珍しいなぁ。あの人、いっつも遅くまで仕事してるだろ」


 副会長は三年の女性で、美人なことで有名な先輩だ。会長も容姿が整っている(憎たらしいことに)ので、お似合いの美男美女だと噂されているのを聞いたことがある。


「あっ、もしかして会長と副会長っ、今頃逢引し、ぶべッ…!」


 話してる途中でふいに顔面が強打される。隣から飛んできた裏拳は正確に俺の鼻を打ちぬいていた。


 …こ、こいつ。人が話している時に殴っちゃいけません、って親に教わらなかったのかよ。


 確かに教師に説教されている時とか、相手の話がやたら長い時とか、今ぶん殴ったらどうなるんだろう…、と考えることあるけど、絶対に実行しないだろ。親の顔がみてぇわ。


「…変なこと言わないでください。あの人たちは貴方みたいな不良とは違います。それに副会長はいま、他の仕事で席を外しているだけです」


「じゃ、会長は?」


「…」


 うーん。もしやとは思っていたがこの子、会長に懸想しておるのか? 

 なんか腹立たしいので、会長の恥ずかしいエピソードでもバラすか。あいつとは小学校が一緒…幼馴染とでもいうのかもしれない。というわけで、そういう話には事欠かない。


「や、実はさ会長って、小学生の時にウンコ…」


「…」


 …すんごい怖い顔で睨みつけてくるので、やっぱりやめておこう。


「…あー、んじゃ俺、会長探して帰るわ」


 いつ雷が落ちるかも定かではないので、とっとと帰ることにする。というか気まずいから逃げたい。


「あ、そうだ。会長が今どこにいるか心当たりない?」


 席から立ち上がり、引き戸に手をかけたところでふと尋ねた。


「…さぁ。今日は見かけていないので…」


 だから機嫌が悪かったのか? …それだけだといいけど。


「ふーん…そうか。じゃ、会長が戻ってきたら、俺が来てたって言っといて」


 言付けとけば別に探す必要もないか。

 いないやつが悪いんだし、このまま帰っちまおう。


「——い、さん」


「…ん?」


 引き戸を引く音に合わさって、小さく声が呼び止める。


「あの…、たまには顔出してくださいね…」


「…ああ、うん」


 なんか面倒くさい事言われちゃった…。まあ、そうしたいのはやまやまなんだけど。


 一階の廊下を歩く。窓からグラウンドで練習する運動部を眺めながら、殴られた鼻を触った。

 痛いわけじゃない。というか、スキンシップにちょっと嬉しくなっちゃったのは秘密だ。


 いや別に、大体の女子生徒が俺を避けるから臆面なく接してくれたのが嬉しいとか、さっきの二人組のやり取りにへこんでたとか、まして殴られるのが気持ちよかったとかじゃなくて…。


 頭の中で言い訳していたらふいに、グラウンドの端——校門のすぐそばに見覚えのある影を見つける。


「なにやってんだ、あいつ」


 昇降口から靴を履いて近づくが、距離が近づくにつれ、呆れの念が首をもたげた。

 残念ながら、決して生徒会長などではない。


 うんこ座りで隠れるように(校門前には遮蔽物が少ないので丸見えだが)、タバコをふかす男。

 その体躯は座っていてもかなりの大柄であることが見て取れるだろう。


「おい、吉矢」


 背後から声をかけると、その男は緩慢にこちらを見上げた。

 その顔は一見精悍な男のものに見えるが、それが全く的外れな印象であることを俺は知っている。


「んお、どうした。今帰りか?」


 口から薄く煙を吐きながら、見た目に似合わぬ、少し高くて間の抜けた声を上げる。

 しかしこの声色こそ、この男の内面を如実に表していると思った。


「もう少し目立たないところで吸えよ、見つかったら不味いだろ」


「お、そうだ。お前も吸うか」


 そう言ってやつはタバコを一本こちらに差し出す。

 てんで会話が成り立っていないが、まあ今更そんなことを気にするほどこいつとの付き合いは短くない。


「いらん」


「あ、そう?」


 まごまごとタバコを戻すのに手こずっているこの男の名を、吉矢 広よしやひろという。

 見ての通りあまり上等とは思えない生徒で、なぜ俺のような優等生(諸説あり)と関わりがあるのかと疑問に思うだろうが、まあえらくシンプルな話、この男と俺は腐れ縁だった。


 俺もこいつも子供だった頃、こいつは横暴を絵に描いたようなガキだったし、そして俺は姑息という言葉がふさわしいような子供だった。

 なにかにつけて争っていたが、気づけばいつしか一緒にいた。

 あいつも入れて…いつも三人一緒だった。


「そういえば、あいつも今、生徒会なんだっけ」


「…え、あ、ああ。らしいな」


 まるで俺の思考を読んだかのような言葉が突然、目の前の不良男から出て面食らう。


「ぶははっ、なんかすげー似合うよなぁ」


「…ああ、真面目だもんな」


 俺が言い終えると同時に、グラウンドに風が吹く。

 巻き上げられた砂埃の中、遅咲きの桜が地に散らした花弁が何枚か飛び交った。


「うお寒っ。くそ、あいつらまだかよ」


「なんだ、誰か待ってたのか?」


「うん、お前も知ってるだろ。咲坂さきさか臼野うすの。いまからあいつらと繁華街行くんだけど」


「あー…」


 そういえば吉矢に引っ付いて回っている取り巻きが二人いたな。なんとなく顔が思い浮かぶ。

 しかし、いつも頭の中では取り巻きAとB、と名付けて区別していたので、どっちが咲坂でどっちが臼野なのかは見当がつかない。というか彼らの名前を今初めて知った。


「咲坂が車買ったから二人でそれを取りに行ったんだが、全然帰ってこねぇんだよ」


「えっ、車買ったって…、あの人先輩だったの」


 吉矢の取り巻きなんてやっているもんだから、てっきり同じ二年とばかり…。


「いや二人とも二年だよ。でもあいつら二回留年してっから」


「あ、そう」


 そこまで聞いたところで、一度驚いたのがあほらしくなるほど、嘘のように興味が失せた。

 それはたぶん、こいつらを俺の常識で計ることがいかにナンセンスであるか気づいたからだろう。


「お、そうだ! 丁度いい、お前も一緒にクラブへ——」


 吉矢がそう言いかけたところで、俺は食い気味に突っぱねる。


「やだ。行かない。断じて行かない」


 なんだよクラブって…色気づきやがって…。

 絶対いかがわしい所だ。正直よく知らんけれど…。


「おっ」


 そこで吉矢が声を上げたので、俺もあわせるように顔を上げると、タイヤの擦れる擦過音と共に一台の車が校門前に止まった。そのドアウィンドウから、取り巻きA(たぶん咲坂)が顔を出す。というか…


「軽トラじゃん…」


 車に興味がない俺でもわかる車種で大変ありがたいが、免許を取って一に買うのがそれってのは、少々硬派が過ぎる気がするけど…。


「か、かっけえぇ…」


 隣の吉矢は大いに感動しているから、そうでもないのかもしれない。


「いやぁ、遅れてゴメンちゃい! 車の鍵なくしちゃってさぁ」


「しゃあないから、オレの親父から車借りてきたんよ」


 取り巻きA(きっと咲坂)から、助手席のB(おそらく臼野)が続ける。

 なんだ、買ったわけじゃないのか…。


「てかあれ、インくんじゃん。幼馴染で仲良くやってたの」


「別に仲良くはやってないよ」


 取り巻きA(推して咲坂)が俺に話しかけてくる。

 ちなみに、インくんというのはヤツらが俺を呼ぶあだ名だ。由来は陰と陽とかの陰。


 …つまり陰気な顔をしているって理由でつけられた。

 正直イジメだと思うので、証拠を集めて訴えるべきか迷っている。


「お前らナイス! 一度軽トラ乗ってみたかったんだ!」


 吉矢は嬉々としてそう言うと、迷わず荷台に乗り込んだ。

 寒いだろうに。あと、捕まっても俺は知らんからな…。


「あれ、インくんはのらんの?」


「うんいいや。じゃあな」


 取り巻きB(どうやら臼野)が親切にも誘ってくれたが、丁重に断らせてもらった。

 荷台に乗ることになるだろうし、その状態で繁華街に乗り付けられるほど神経図太くない。


「うおおお、風が気持ちいいぜッ!!」


 そのまま軽トラは発進する。

 荷台に立つ吉矢は腕を広げ、その巨体に風を浴びながら沈む夕日に向かって消えていった。

 さっきは風に吹きつかれて、寒いと言っていたのに…。


「相変わらず、ばかだなぁ…」


 さて、俺もそろそろ行かないと…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る