第6編 嘘

1 ダイブ


目を見開いて、大きく息を吸い込む。

心臓がバクバクと高鳴っていて、耳の中がそれだけで埋まってしまう。

胸にたまった息を吐きだす。


肌で感じる風は鋭い。

空から降り注ぐ光は、焼けるように熱い。


一歩前に踏み出す。

そこがもうギリギリのところで、その先には何もない。


あと一歩だけ足を出せば、体のすべてがあの空気の中に吸い込まれる。


もう一度だけ息を吸う。

旨が空気で詰まって苦しい。

けれど、もう吐く必要はない。




2 フランスへ行きたい


ふと、フランスへ行きたいと思った。

しかし、正直なところよくわかっていない。


何があるだろうか?


エッフェル塔と凱旋門。これは有名だ。

きっとまじかで見たら感動するんじゃないだろうか。


ノートルダム大聖堂。

ずいぶん前に火事になったが今急ピッチで直している。


思いつくのはそれくらいか。


その程度なのに行ってみたいと思うのはどうなんだろうか。


そういうものなんだろう。

それに、きっと、行ってみれば。


何かあるんじゃないかな。




3 朝と昼の境目


朝と昼の境目は、ふいに心の中に浮かび上がるものだ。

こころなしか、陽光に黄色、あるいは橙色が差し込まれる。


透き通った涼しさのある空気から、暖かさを持った包まれるような空気に変わる。


まばらだった人の動きが、目的を持った塊になる。


でも、その境目に気が付くことなんてほぼない。


いつも気が付くと昼になっている。

そして、もう過ぎ去って跡形もなくなった、朝のことを思い返している。




4 目覚まし時計


押入れの奥底に古い目覚まし時計が転がっていた。

使っていたのは遠い昔、もう思い出すのが難しいくらいだ。


毎朝、決まった時間に、ベルの音が空気を振るわせて、耳を揺らす。

空気の地震が頭の中をぐるぐるとかき混ぜて、

ハッとして、飛び起きる。


一度だって、その音を好きになったことはなかった。


今はスマホのアラームがその代わり。

音も音量も自分の好きなように決められる。

心地いい音を響かせる。


なのに、

あの不快な音がとても恋しいときがある。


時計の電池を入れ替えて、時間を合わせて見る。

けたたましく騒ぎ出す。


不思議な心地よさがなぜだか、心の中に響く。




5 光のやすり掛け


光が目に入ってしみる。

きっと光が、鋭いのだろう。

もっと柔らかい方がいい。


人間というのは、生き物というのは柔らかい生き物だ。

鋭い光では、全身に突き刺さって痛くてたまらない。


両手に一枚ずつ鏡を持つ。


飛び込んでくる光を、うまく当てて、光を捻じ曲げる。


曲がった軌道の、その先に飛んでいった光は、壁を容赦なく突き刺していく。


鏡を上下させる。

ただ鋭い光が上下する。


光は尖ったまま、刺された壁がやすり掛けされる。




6 嘘


海が青いのは、海水の中に青い粒が入っているから。


空が青いのは、空気の中に青い粒が入っているから。


君が青いのは、そんなことを信じるから。




7 黒い鳥


カラスが何羽も空を飛んでいるのを見た。

カラスは不吉なものだと言う人は何人もいる。


確かに黒いし、不気味だ。

それでいて、憎たらしいほどに人間社会を利用している。


あいつら、頭がいいんだから、もう少し人間に歩み寄ったっていいじゃないか。


例えば、ごみ袋を破るんじゃなくて、器用にくちばしで縛ってある口をほどくとか。


でも、そんなことカラスに頼んだことはない。

なら、向こうからしたら知ったこっちゃない、っと思っているだろう。


今度、頼んでみようか。




8 雲と水滴


どちらも同じもの。

雲は本当に細かい水滴が集まったもので、水滴とは本当に細かい水の粒が集まったもの。


どちらも全く同じもの。

あるいは時に雲は巨大な水滴になるはずで、

あるいは時に水滴は小さな雲になるはずで、

ならば、その二つを分けているのは、それ等自身ではなく、


見ている我々だろう。


我々が水の集まりを決めている。

水からしてみれば、何のつもりなんだろうか。




9 終点


電車がたどり着いた先は、見たことも聞いたこともない駅だ。

終点、という存在を意識したことはない。


そこにたどり着く者なんて、ただの噂かでたらめだと思った。


降りなければならない。


そこには何もない。


見知ったものは何もない。

もちろん引き返す電車もない。


ならばここは最果てか。

そう思って駅舎を出ると、四方八方に道が伸びている。


誰だ。終点だと言ったのは。

まだ、まだ、どこにだって行けるじゃないか。




10 水星


不思議な星だと思う。

水にあふれて青く輝いている星。

降り立とうと思っても、どこまでも続く水の中。

入ったら最後、もう二度と浮かぶことのできないような深淵。


実際の水星は違う。

乾ききった岩肌と太陽の恐ろしい光に絶えずさらされた世界。

水の一欠けらも存在できない世界。


多分、そこで最も尊いものだからこそ、

水星なのだろう。

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