30.『上乗せ』
ボサボサに伸びた赤茶けた髪と、それを一段と暗くしたような鳶色の瞳。
両腕に生やされた鉤爪と、剥き出しの犬歯。
「影人……」
その特徴を前に、しかし俺は自分が一瞬、取るべき間合いを測り損ねたのだと錯覚していた。
近い。
このままでは、すぐにあの鉤爪の餌食になる。
そう判断して後ろに下がるも、それはそいつの踏み込み一つで御破算とされてしまう。
「おいおい……! 嘘だろ……!」
どれだけ距離と取ろうとしても繰り返しやってくるその結末に、遅まきながら俺は叫んでいた。
近いと感じたのは、間違いだった。
その影人は、単に巨大だったのだ。
今まで目にしてきた連中の、縦横倍はあろうかという体躯を誇る巨漢だったのだ。
そんなヤツの首筋に、俺の短剣の一撃が届いていた理由は推測がつく。
おそらくはこちらを踏み潰さんばかりの勢いで、あちらが頭部を下げて攻撃してきたからなのだろうが……
問題は、そんな偶発的な部分には存在していなかった。
問題は、そいつの首筋に存在する鱗状の外皮にこそあった。
「くそっ、お仲間がやられた手は喰わないってか……!」
言いながら、俺は標的の四肢を観察してゆく。
どちらにせよ、まともな手段で首や目を狙うことは叶わない。
となれば、残る攻め手はフェレシーラの援護を受けつつ――
「そ、そうだ……フェレシーラ!」
そこまで思考を巡らせて、ようやく俺は彼女の不在に気がついていた。
「フェレシーラ! おい! 無事か、フェレシーラ!?」
その名前を口にすると、影人だけに集中していた視界が一気に広がり始めた。
視野狭窄もいいところだが、それだけ余裕がなかった証明でもある。
俺は慌てて周囲を見回すと、従士の少女を探し求めた。
そこに、影人の巨大な腕が振るわれてくる。
一振り、二振りと。
川砂を撒き散らしながら立て続けに猛然と襲い来る狂爪を、俺は横走りとなって懸命に避け続ける。
打つ手がない。
敵に付け入る術がない。
攻撃のリーチで劣る。体格面で、圧倒的に上をいかれる。
ただそれだけのことが、こんなにも恐ろしいものかと身を持って思い知らされる。
「う、ぐ……っ!」
それは一体、何度目の回避行動に及んだ際の出来事だったのか。
突如脇腹に鈍い痛みを覚えて、俺の脚は河原の傍で動きを止めてしまっていた。
傷は右脇腹の、あばら骨の下辺り。
初手を凌がれた際に、胴に受けた打撲だった。
思えばそれは、打撲程度で済んでいたこと自体が奇跡に近かったのだろう。
巨体の影人からしてみれば、攻撃などではなく、ただその場を振り向いただけで引き起こした結果だ。
一撃でのされなかっただけでも僥倖だったのかもしれないが……
「い、痛みが遅れてやってくるって、マジだったんだな……!」
その脇腹が、ズキズキした痛みと灼けるような熱を持ち始めていた。
それを俺は、抱えることしか出来ずに膝をついてしまう。
巨大な影人が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
呼吸はいつの間にか乱れきっており、背中には冷たい汗が伝っていた。
まともな打開策が、思いつかない。
訓練で培ってきたもののは、飽くまで、訓練の中に含まれた状況にしか対応しきれない。
即ちそれは、『師から学んできた術では、俺に勝ち筋は存在しない』という事実に他ならなかった。
「はは……っ」
それを自覚したところで、笑いが込み上げてきた。
巨人の歩みは止まらない。
俺の笑いも止まらない。
打開策は見つからない。
あの人がいた、あの塔で学んできたことの中には、恐らく存在しない。
「じゃあ、さ」
ならば、取るべき攻め手は一つしかなかった。
「じゃあ――今ここで、やってみせろってことだよな……フェレシーラ!」
少女の名を口に、気勢をあげて俺は立ち上がる。
両の拳に力を籠めて巨人をしかと見据える。
折れかけた心を奮い立たせてみれば、相手との距離はそう詰まってもいなかった。
残されていたのは、10mほど。
逃げの一手に徹していたとはいえ、敏捷性ではこちらが大きく上回っていた証だ。
あらためて、あちらの外見を観察してみる。
体高は3mに達しようかというほどにある。
だが、鉤爪の長さは通常の個体とそう変わらず、30㎝程度しかない。
変わりというべきか、腕自体の長さが異様にある。
リーチに優れていると感じていたのは、そのせいもあった。
動き自体は、比較的鈍い。
体格差を考慮すれば、それでも尚脅威ではあるが……
しかしその力の大半を、自らの体を支えることに割いてしまっている。
何故だか、そんな印象を受けた。
体の各部を覆う鱗は、そういった欠点を補うための、悪足掻きなのだ。
付け入る隙は、十分にある。
訓練で得た力に上乗せできるものがあれば、こちらにも勝機はある。
「よし。往くぞ、ウスノロ……!」
そう口にすることで己を焚きつけて、再度の疾走へと移行する。
短剣を順手に持ち、駆けることのみに集中する。
巨人の左手が、横に薙ぎ払われる。
俺はそれを、目指すコースを鋭角に変えて一旦は凌ぐ。
まだだ。今のじゃない。
逸る気持ちを押さえつけて、誘いの一歩を踏み出す。
視線に殺気を籠めて頭部を睨みつけると、空を震わせるほどの吼え声がやってきた。
威嚇だ。
チョロチョロするな。
このまま黙って捕まってしまえという、威圧の叫びだ。
それを俺は、ヤツの焦りだと判断した。
短剣の刃を寄せ付けぬ首筋は別として、目や口といった部位は弱点となりえる。
それを証明するかのように、影人は露骨に頭部を下げる様な真似は避けている。
そうした行動――
例えば、ヤツが河原に転がる小石を纏めて掴み取り、遮二無二投げつけてくれば、ただそれだけで俺は蜂の巣にされているだろう。
だが、この鈍重な巨人はそれをしてこない。
そうすれば、鉤爪を備えた手では石を掴むのに必ず手間取る。
その隙に、こちらの攻撃を頭部に受けかねないとわかっているからだ。
「少しは考える知恵があるみたいだけどな……!」
再びの、横薙ぎの一撃。
それを急停止することで避けると、巨人の無防備な顔面がこちらの正面に晒されてきた。
「シィ――!」
それに合わせて、鋭い呼気と共に右手を振るう。
短剣が、アンダースローとなる形で俺の掌から撃ち出される。
吸い込まれるようにして、鋭い刃が影人の右目に深々と突き刺さった。
「ギルオォォォォォッゥッ!?」
突然の痛みと衝撃に、影人の口から絶叫の声があがる。
天を仰ぎ見るようにして仰け反った影人の手が、一度は白刃の柄へと伸ばされ――
そこでヤツはピタリと動きを止めると、ゆっくりとこちらに向き直ってきた。
顔の右半分からドロリとした朱色の体液が流れ落ちて、ニタリとした笑みがそこに浮かぶ。
――俺が頭に血を昇らせてこの小さな棘を投げ捨てれば、もう片方の目も狙う気だろう。
お前の考えなどお見通しだとばかりに、影人が嗤ってきた。
「はは……ほんと、考える頭はあるんだな」
悠然と構えた巨躯を前に、俺は一歩、二歩と後ろに下がった。
そこに、影人が猛然と突進してくる。
最早こちらに決定打なしと見ての攻撃再開だ。
目を潰されたお返しとばかりに振るわれてきたのは、打ち下ろしの拳骨だった。
『叩き潰してやる』
そんな感情を代弁するかのような一撃――
ヤツがその攻撃を選択した時点で、俺は行動を開始していた。
「せえ、の――ッ!」
振り下ろされる左腕に、声を合わせて飛び込む。
握り拳での一撃は、幾度も凌がれた鉤爪での横薙ぎに対する迷いの顕れだ。
その迷いに合わせる形で、俺は前進を開始する。
無手での前傾姿勢を取り、左前方へと大きく踏み出す。
回避行動としては安牌の、しかし即座に攻撃に繋げるには距離の空きすぎる踏み込みだ。
だが、先刻の一撃で視界の右半分を失っていた影人には、それで十分だった。
「グォ……!?」
死角となる位置に回り込まれて、影人が直立の姿勢をとり首を巡らせる。
これまでと同じく、不用意に頭部を下げては来ない。
だが――下げるつもりがないのなら、下げさせてやるまでのことだ。
「おい」
その声に、影人が
そこにあったのは呑気に周りを見回していた巨体の足元へと、悠々と辿り着いてた俺の姿であり。
「そら――顔、下げてろっ!」
続いてやってきたのは、もろだしの股間へと叩きつけられた、渾身の右ストレートだった。
「――――ッッッ!?!?!?」
おそらくそれは、ヤツにとっては予想外の痛撃だったのだろう。
「わりぃな。丁度いい高さにあったんでよ」
口の端から泡を噴いて膝折れとなった巨人に、俺は右手をプラプラとさせながら詫びの言葉を口にする。
流石に硬質な鱗に要所を覆われただけあり、指の痺れが酷いが……
「ま、なりがデカイわりに、そっちのほうはなんとやらってか。馬鹿の考え休みに似たり。幾ら鱗生やして守っても、衝撃が殺せないのなら……他はともかく、ソコに関しては大した意味はないな」
悶絶する標的を前に、意識を手甲へと集中する。
そうする間にも、影人が歯を食いしばり動きだそうとする。
だが、遅い。
既にこちらは『武器』を構え終えている。
「起きよ――」
右を起点に、力を練り上げる。
「
左を承け手に、式を構築する。
「グ、アォ……」
目の前で、右目から血の涙を流した影人が辛苦に染まった声をあげて――
「結実せよ!」
その残る左目へと、俺はアトマの奔流を叩きつけた。
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