第5話 彼の名は


 結婚相手の名前が分からない。

 あの人と婚約している間に会ったこともなかった。一度この領地を訪問したこともあるのに、会わなかった。従兄なら紹介されてもおかしくなかったのに。 


 ベッドでそんなことを考えている間、先ほどの侍女と年配の侍女がワゴンに食事を乗せてきて、小さな丸テーブルに用意を始めた。若い侍女はちらちらとこちらをうかがっているし、年かさの侍女も私の様子を気にしているのが分かる。


 実はちょっと驚いた。

 元婚約者のあの人の周りにいた従者や侍女は、いつの間にか私のことをぞんざいに扱うようになっていたから。子爵家でも、私の扱いは適当だったし。

 もしかしたら、結婚相手のあの方が、使用人に何か言ってくれたのかもしれない。もし言ってなくても、あの方がわたしを大切にしようとしていることは使用人にも伝わる。だからかも。

 

 つまりは、私が情けないって話なんだけど。

 でも、ベッドに起き上がったまま黙っていたら、私は尊大すぎる奥様になってしまう。あ、奥様って言っちゃった。

 ともかく、自分から何か話さないと。


「ありがとう。でも、体調は良いのだから、朝食室に行けば良かったわね?」

とベッドから降りれば、年かさの侍女がとんでもないと言いたげな表情で答えた。

「寝室でも、朝食室でも、奥様がお決めになってくださいませ。

 私は侍女頭のエーメリー、この娘はキャシーです。」

 そして寝衣の上にガウンを羽織らせてくれた。……まるで、奥様みたいな扱い。


 椅子に座れば、テーブルにはスープに卵料理、温野菜に果物と、軽めで食べやすそうなものが並べられていた。それからミルクにヨーグルト、ジャムにバター、そしてパン。

 あ、お腹がすいている。そう気づいた。

 昨日はほとんど食べてないし。ここ数日、食欲なんてなかったし。結婚が近づいたこの一か月、食事はただ出されたから食べる、それだけのものだった。

 

 温かいポタージュ、スクランブルエッグ、あら温野菜も美味しい。バターとマーマレードをぬったパンも、とても美味しい。どれも少しずつしか食べられなかったのが残念なくらい。

「料理長にお礼をいっておいてね。」

 ナイフとフォークを置いてそう言えば、食後の紅茶を淹れながらエーメリーが心配そうな顔になった。

「奥様、体調がお悪いのでは、それともお口に合われませんでしたか?」

「いいえ、とても美味しくいただいたわ。

 最近あまり食べられなくて、その、胃の調子がまだ元に戻ってないの。

 だから夕食は少なめにしてくれる?」

 ……どうかしら、奥様としていい感じの返答になっている?


「かしこまりました。」

とエーメリーがほっとした顔になった。

 その時、私が食事をする間ずっと壁際に控えていキャシーが身じろぎした。何か言いたいことがあるみたい。

 ちょっと迷って、やっぱり迷って、でも声をかけてみることにした。

「どうしたの、キャシー?」


 私より年下の侍女がうろたえて、それでも好奇心を抑えきれないように口を開く。

「奥様は貴族のお嬢様だって聞いていたから、どんなに気難しい方かと思っていたんです。

 でも、そんなことなかったから、私ほっとして。」

「これ!」

とエーメリーが小さく叱責する。


 ……これ、どっちが正解かしら。気難しいお嬢様風にしたほうが侮られない?それとも、親しみやすい奥様風の方がマシ?思わず考えてしまった。

 でも、無理をしたら続かないわ。これから、ここで暮らすのだから。ずっと暮らすのだから。

 だから、私ができることを、私にできるやり方で。 


「私は貴族のお嬢様だけど、格式ばったのは苦手なの。

 エーメリーも、こちらのことをいろいろ教えてほしいわ。」


「もちろんでございますとも、奥様。」

とエーメリーが相好を崩す。口を両手で押さえていたキャシーも笑顔になった。 


「そういえば奥様、ご用意した食事は旦那様が料理長に指示なさったのですよ。」

「あたしも、奥様がまだお休みかどうか、見に行くようにと旦那様に言われて。」

「坊ちゃま、いえ旦那様は、本当に奥様のことを心配なさって。」

「そうですよね、あんな旦那様は初めて見ました。」

「奥様、その、急なことではございましたが、旦那様はとても良い方なので。」

「ええ、とっても素晴らしい旦那様なんです!」

 

 ありがとう、結婚相手のことを教えようとしてくれて。彼はとても慕われているのね。ただし。

 その言い方ではお名前がわからない。

 かといって、この状態でエーメリーやキャシーに聞くのもはばかられる。


 仕方ないわ。意を決して、恥をしのんで、あの方に、私の結婚相手の本人に尋ねるしかない。

 でも、愚かな娘だとあきられるかも。

 それはイヤだわ。何となく避けたいし、やっぱりイヤだわ。

 でも、でも。私を大切にしたいと言ったあの方が、愚かな私をあざ笑うかしら。気づかってくださるあの方が、愚かな私を見下すかしら。

 ……そんなことは、きっとしない。でも、わからない。わからないわ。


「奥様、食事がおすみになったら、旦那様がお会いしたいそうです。」

 エーメリーが食器を下げながら、とんでもないことを言ってきた。いえ、結婚しているのだから、当前だけど。会いたいなんて、当たり前なはずだけど。

 どうしよう、緊張してきた。

「エーメリー、あの、急に結婚ということになったから、お仕事とか、お忙しいのではないかしら?」

「仕事がおありのようでしたが、きっと奥様を優先なさいますよ。

 まずは部屋着に着替えられますか?」


 ……逃げられなくなった。


 着替えてまた椅子に座ったところで、キャシーが呼びに行ったらしく、あの彼が部屋に入ってきた。

 けれど彼は、ドアの前に立ち尽くし驚いたように私を見ている。

 なぜ。この部屋着、ヘンだった?それとも、実は名前も分からないとバレてしまった!? 


「あなたがこの館でくつろいでいる姿というのは、良いものですね。思った以上に。」

 

 ぽそりと、そんな言葉が聞こえた。……ええと?

 でも、私はここでくつろいでも良いのだと、そんなふうに聞こえてしまった。

 

「ああ、すみません。体調が良いなら、僕がいる部屋だけ案内してもいいですか。」

と彼から手を差し出された。その手に私の手を乗せて立ち上がる。

 やっぱり、そう、温かい手。緊張がちょっとだけゆるむ。


 彼が案内してくれたのは寝室の左隣の部屋。彼がドアを開ける。

「僕の私室です。晩餐の後、叔父上と一階の書斎にいることもありますが、夜はたいていこちらにいます。」

 落ち着いた家具の部屋だった。サイドテーブルには本と、あれは何?

 彼が一歩中に入る。私も入るのを促されているのかもしれない。でも、いいのかしら、私が入っても。

 ためらっていたら、こちらにと廊下を案内された。


 次はその左隣の部屋。彼がドアを開ける。本棚と本と机と、書斎みたいな部屋。

「外出していなければ、日中はここで仕事をしています。」

 彼がすっと部屋に入る。私もおそるおそる入ってみる。ここなら、まだ入りやすいから。

 奥にあるどっしりとした大きなデスクには整然と物が置かれ、本棚には重厚な本も並ぶ。やっぱり大丈夫かしら、私が入っても。

 

 机のそばに立った彼が私を振り返る。

「ここも僕の私室も、来てもらってかまいませんから。

 何か困ったこととか、相談したいこととかあれば、いつでも。」


 ……ああ、だから彼はこの二つの部屋を案内してくれたの。わざわざ、これを言うために。

 嬉しい気持ちがふわっと沸き起こる。

「あの、お茶の時間をいっしょに、というのでも良いでしょうか?」

 思わずそう言ってしまってから気づいた。どうしよう、ずうずうしかったかも。

 

 彼が驚いた顔になる。それが笑顔に変わった。

「もちろんです。あなたは僕の妻なのだから。」 

 

 ……つ、妻。そうよね、結婚したのだから、妻よね、当然。でも、何か気恥ずかしい。


 彼が慌てて付け加える。

「もちろん、侍女や従者に事づけて、僕を呼んでもらってもかまいません。ただ、急ぎの仕事があるときは調整するので、待ってください。」

 彼が律義に説明してくれる。


 私の結婚相手は、こんな方みたい。

 眼鏡をかけて、穏やかで。でも決断するときは毅然として。

 私を大切にしたいと言ってくれた方。それを行動で表そうとしてくれる方。


「あの。」

 この方に近づくように、私は一歩前に踏み出す。

「とても、大変、非常に、甚だ、お恥ずかしいのですが、私、」

 彼の表情がきりっとしたものに変わる。三歩で私に歩み寄る。

「何か、困ったことでも!?」

 ち、違う。そうじゃなくて。


「……あなたの、お名前は?」


 彼が小さく口を開けたまま動きを止めた。

「ごめんなさい。昨日、いろいろな事態についていくことができず、ぼーっとしてしまって。

 ずっと、ぼーっとしていて。」

 そう、どこかで彼の名前を聞いていてもおかしくなかったのに、まるで思い出せない。


 彼が小さく息をついた。

「そうですね。僕とあなたが出会ったのは、」

 彼が私を見つめる、なぜか決意のこめられた眼差しで。

「昨日が初めてですから。

 シェリル、僕の名前はルーファスです。」




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