第3話 求婚


「顔色がひどい。」

 抱きとめてくれたその人は、気づかわしげにそう言った。

 顔色が悪いのは寝不足のせい、ところで誰?


 私の知らない人。礼装だから、花婿の親族の誰か。

 その人はすぐに指示を出して椅子を持ってこさせると、私をゆっくりと座らせた。

 眼鏡をかけた、私よりいくらか年上の、穏やかそうな雰囲気の、誰?


「水です、飲めますか。」

 その人は悔やむような表情で、私にグラスを差しだした。

 そうね、身内が結婚式当日に駆け落ちしたら、ちょっと申し訳ないって気持ちになるかも。

「ありがとう、ございます。」

 かすれた声で受け取ったけれど、手に力が入らなくてグラスの中の水が波立つように揺れた。その私の手を、彼の大きな手が包み込む。温かな手だった。


「申し訳ありません。」

 彼が小声でそう言う。どちらの意味かしら。

 淑女の手に断りもなく触れたから?それについては大丈夫よ、おかげで水はこぼれなかったもの。

 それとも、身内の不始末に?あなたがそう思う必要はないのよ。でも、私が飛び上がって喜ぶのも変でしょ。こちらに何らかの思惑があったと、そう疑われるのも困るわ。

 それに、まだあの人は私の婚約者。婚約は解消も破棄もされていない。


 急に喉の渇きを感じて、グラスを口元に運ぶ。一口、水を飲み込む。

 少しだけ気持ちが落ち着いた。

「ありがとうございました。」

 そう言ってグラスを返せば、やはり心配そうに私を見ていたその人は、

「いいえ。」

と早口で受け取り目をそらした。整った顔立ちが私よりも沈痛そうな面持ちになる。困ったわ。私は大丈夫、と笑ってみせるわけにもいかないし。


 花婿が隣国に抜けた、その知らせに新郎側は大混乱。その逆に新婦側は醒め切ってしまった。

 義父になる予定だった領主様はしっかりと立ちながらも、うつむき目を閉じている。あの方は一見厳しそうに見えるけれど、私に温かな言葉をかけてくださった人だった。この領地での暮らしが良いものになるようにと。

 その周りで、怒鳴っている礼装の男たち、ヒステリックに騒ぎてるドレスの女たち。

 切れ切れに聞こえてくる言葉からは、女と共に隣国に抜けた後の花婿の動向が分からないらしい。


 どこに行ったかわからない花婿。駆け落ちしたらしい花婿。

 私の父と母が話す声が聞こえる。母の鋭い語調に、怒りと苛立ちをにじませながら父が答えている。式も結婚も、むろん婚約も取りやめだと。


 ただ感謝をしたい気持ちになり、頭を垂れる。両手をぎゅっと握りしめる。

 それでも手が震える。自分の幸運が信じられない。


「申し訳ない、あなたは、」

 まだそばにいて、私の体を支えてくれていたその人が何か言いかける。そこに、お姉様と妹がやって来た。


「シェリル……。」

「お姉様……。」

 来たものの、二人ともそれ以上は何と言ったらいいか分からない様子。

 そうね。美しいお姉様は華やかな場で臆することなく振舞うことができる人。愛嬌のある妹は要領がよくて甘え上手。この二人ならきっと、こんなことにはならなかった。

 お姉様はいつも私に、もっと自信を持ちなさいってアドバイスしてくれた。妹は、もっと要領よくした方がいいって勧めてくれた。こんな二人なら。


「お父様が、何とかしてくれるわよ。」

 妹が明るい口調でそう言ってくれる。ええ、子爵家の体面にかけて、そうするでしょうね。

 お父様からもお母様からも、私に対する怒りと失望を感じるけれど。家の利益につながる結婚をダメにしてしまったから。私がちゃんと婚約者を捕まえておかなかったから。


 お姉様がそれでも私を安心させるように言ってくれる。

「こちらに非はないのだから、大丈夫なはずだわ。」

 ええ、だから、婚約の違約金か慰謝料か、それで二人分の持参金はかなりまかなえるはずよ。私は、お姉様と妹の結婚がダメになればいいなんて思ってないの。でもね。


 私はお姉様に向かって小さな声で言った。

「花婿に逃げられた花嫁は、花嫁に非があったと言っているようなもの。」

 周りはそう見る、そう考える。だから、しばらく婚約は無理ね。つまり、しなくていい。私は結婚の騒動から遠ざかりたいから、ちょうどいい。そうしているうち私は結婚の適齢期を外れる 。ただし、爵位を持つ者の娘が欲しいお金持ちは昨今多いから、結婚の話が出る可能性はある。良くも悪くも、また。


 その時、そばにいてくれた彼が一礼して離れていってしまった。

 ちゃんとお礼も言えてないのにと、思わず背の高い後ろ姿を目で追えば、彼が向かったのは義父になるはずだったこの地の領主。


「伯父上、決断が必要です。

 一番近い親族、従兄である僕が跡を継ぎ、シェリル嬢を娶る。これが、この場を収める最適の方法かと。」  


 堂々とした声だった。その立ち姿も迷いがなく、眼差しも揺るぎなく。

 領主様は一瞬だけ悔いる表情を見せた後、朗々とした声で告げた。

「仕方あるまい。ルーファスが跡継ぎだ。」


 ざわめきが波のように引いて、あとにひそひそ声が残った。

 そして、私の父と領主様が話している。何かを話し合っている。


 ……今、何が起こったのかしら。

 花婿に逃げられた花嫁に、あっという間に新たな花婿候補が現れた、そんな物語みたいなこと。

 私は、婚約者の従兄だという彼に目を向ける。いいのかしら。それ、今言ったら、取り消しがきかないけれど。


 その彼が、もう一度私のほうへやって来た。

 そして、私の前でひざまずく。


「急なことで驚かれているでしょう。

 しかし本気です。僕はあなたを大切にしたい。僕なら、あなたを大切にできる。

 僕の妻になっていただけませんか。」




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