第2話 回想、そして


 私は両手で顔を覆い、ただうつむく。

 もしかしたら叶うかもしれない願いを、ほんの少し見えた希望を感じて、心臓が大きく音を立てる。

 同時にひとまず安堵する、相手がいないのに今すぐ結婚式は行えないから。

 

 教会は騒然としたまま、おさまる気配がない。

 新郎側の狼狽して収拾がつかない声、新婦側の苛立たしそうに事態を確認する声。

 そんなざわめきの渦中から、私は独りはずれて。

 祭壇の前に独り、残されて。


 私は思い出す、三日前のことを。




「あんなつまらない女、俺にはふさわしくない。

 いっそ、人買いにでも売ってしまおうか。それとも、呪いの生贄か。

 ああ、事故に見せかけて殺してしまうってものいいよな。それより魔獣に襲わせるほうが簡単か。」


 嘲りに満ちた声、その周りでどっと笑い声が上がった。

 それは婚約者のユースタス様の声。それは友人らしい人たちの、毒のある笑い声。


 それは、冗談のように聞こえた。

 でも、冗談に見せかけて、実は冗談じゃない、そんな声色にも聞こえた。

 ゾッとした。

 指が震えた。耳をふさぎたかった。胸が苦しい。立ち去りたいのに足が動かない。

 怖くて、たまらなくなった。それなのに。


 あの日の夕方、私たちは式の準備のため、嫁ぎ先である領主館に着いたところだった。

 本当は式の前日に来る予定だった。けれど、使用人が日にちを間違えて鉄道の切符を買ってしまった。買い直しができず、結局予定より三日早くこちらに来ることになってしまった。父も母も機嫌が悪い。挨拶にも来ない婚約者にしびれを切らし、父が私に連れて来いといった。

 とりあえず侍女をつかまえて聞いてみる。けれど、婚約者の居所はよく分からないと言う。

 領主館は式の準備に慌ただしい。速足で歩く侍女をまたつかまえる。怪訝そうな表情が返ってくる。

 歩き回って、何とか見知った従者を見つける。尋ねれば、しぶしぶといった様子で馬車に乗せられ、婚約者は友人とここにいると案内された。街の酒場に。


 そう、確かに、少しどうかとは思っていた。

 最初は良かったのに。というより、単に普通だった。

 可もなく不可もなく、それだけの人。それだから、何ともいいようのない人。

 でも、少しずつ少しずつ、私に対する扱いが雑になっていく。

 少しずつだから私も受け入れてしまい。それが雑過ぎる扱いになっても、惰性で受け入れてしまい。

 

 手紙を送っても返事が来ない。会えば嫌味を言われ。それは蔑みの言葉に変わり。

 私がなんとか話しかけようとしても、苛立ちのこもった視線が向けられるようになり。

 やがて無視になり。私の存在などいないかのように扱われるようになって。

 そのうち一方的に会う約束はするのに来なくなった。


 他の人がいる場所ではそんな態度は取らないユースタス様を、誰も不審に思わなった。

 周りは皆、ユースタス様を普通だと思っている。私だけが、普通でない扱いを受ける。

 彼がそんな人だと誰も思わなかった。私も思わなかった。なぜこうなったのか分からなかった。

 それを積み重ねて、ここまで来てしまった。

 あんな台詞を言われるまでに。


 ユースタス様は、私の婚約者はまだ何か話している。婚約者である私をせせら笑う何かを。

 無理矢理、足を動かした。

 何とか歩き出せば、誰かにぶつかった気がした。でも、ただ歩き続けた。その場から逃げ出したかった。

 乗ってきた馬車までたどり着き、領主館に戻る。両親には婚約者も準備で忙しいようだと何とか誤魔化し、私は寝室に閉じこもった。旅で疲れたからと。




 そして。

 この三日間、どうしよう、どうしようと、ずっと悩み続けていた。ずっと考え続けていた。

 今更、結婚を取りやめることなどできない。できるはずがない。

 でも、何とかならないかと、誰に相談すればいいかと。

 でも、良い方法など思いつかず、誰にも相談できず。


 なぜなら、この結婚は。

 爵位のある家の娘と、お金持ちである大領主の息子の政略結婚。私の家にはお金を、相手には人脈を。

 そのお金は、お姉様と妹の持参金となる。格式のある伯爵家へ望まれて嫁ぐ姉のため、裕福な男爵家へ気に入られて嫁ぐ妹のため。

 そのための婚約、そのための私の結婚。

 母に言えるわけがなく、父にも言えるわけがなく。お姉様にも、妹にも、何も言えず。

  

 ただ、祈るように願い続けた。婚約者と結婚するのは嫌だと。

 それだけを願って。


 願ったからといって、どうにかなるものではない。

 こんな状況を招いてしまった自分が情けない。本当に不甲斐ない。

 それでも、願わずにはいられなくて。

 願わずに、いられなくて。


 それが、叶った。


 教会のざわめきはまだ続いている。

 その中に、これからどうするのか、式はどうなるのか、そんな言葉が混ざり始めた。

 花婿は来ない。落としてしまったブーケが、足元で萎れている。

 誰かが声高に告げた。花婿が隣国に抜けた、その確認が取れたと。


 ……本当に、来ない。

 仮に戻ってきても、連れ戻されても、この状態で式の継続は無理でしょ。

 子爵である父が、体面を傷つけられて黙っているとは思えない。少なくとも延期になる。

 つまり。

 今すぐ、あの婚約者と式は挙げられない。

 今、あの婚約者と結婚しなくていい。


 ほっとした。

 ほっとして。

 安堵のあまり、体の力が抜ける。

 そう、ここ三日、眠れなかった。昨夜は一睡もできなかった。

 くらりとする。

 気が遠くなる。視界が揺れて。体が傾く――。

 


 倒れる直前、誰かに抱きとめられた。




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