28 宮里夫妻 昭和五十七年十二月

「素敵な場所。夢見ているみたい」

 ワイングラスを傾けたまま、口を付けるのも忘れて宮里晴美は呟く。

 アトリウム建築のベースにヨーロッパ調のテイストが加味された広い店内。見上げれば、ガラス張りの丸い天蓋の向こうには煌々とした冬の月が浮かんでいる。自動ピアノが演奏するドビュッシーの調べも耳に心地好い。

 間隔に余裕を持たせて並ぶ他のテーブルには、余裕がありそうな中高年の客も目立つ。

「空気からしてリッチだよね。ワンランク上の世界って感じ」

「ああ、自腹じゃ絶対、来れない店だ。少なくても今はね」

 テーブルの向かいに座る夫の寿義がスプーンを口へ運びながら言った。

「しかし、何でここでアイスなんだ? まだ、コースは終わりじゃないよな」

「だから、口直しのソルベだって言ったでしょう。本格的なフレンチのコースは魚と肉の間にこれが入るの」

「物知りだよな。さすが、一流大卒」

「止めてよ」

「尚寿も頭の中だけはおまえに似て欲しいよ」

「何よ、だけって! 」

 ソムリエがワインを注ぎに来た。少しの間、遣り取りが止まる。

 晴美は寿義の顔色を窺った。やはり今夜も元気がない。無理に繕った微笑みが痛々しい。とくにこの半年近くは、海で見せてくれる屈託のない笑顔に接した記憶がない。今の仕事は余程、忙しいのか。それとも他に気懸かりを抱えているのだろうか。こちらがさり気なく訊ねても何も教えてはくれないのだが。

「それにしても凄いよね。こんなお店までやってるなんて」

「ああ、多角経営の時代らしいからな。他もそんなもんだろ? 」

「ううん、城興はちょっと別格よ。建設や不動産とは全然、関係ない業種にまで手を広げてるじゃない。しかも、どんどん勢いが増していて」

「確かに組織の規模だけはデカくなってるけどさ、要は会社ごと買い取って傘下へ組み込んでるだけだから。この先、どうやって統制を取るんだかな。まあ上には上の考えがあるんだろうけど」

「もしかしたら、社会事業の方面にも手を伸ばそうとしているんじゃない? あの子を産んだ病院だって─」

 寿義の口許が強張ったように見えた。

「あれは・・・・・あそこに出資してるのは外部役員の会社だ。グループとは別の法人だよ」

「でも、紹介してくれたのは社長さんなんでしょう? このレストランも」

「ああ、餞別代わりだってさ。今、飲んでるこのワインも社長が好きなヤツだって。目玉が飛び出すような値段だぜ、きっと」

「ヒサ君」

「何? 」

「そこまで目を掛けてもらっているのに、本当に移っちゃうの? 」

 久し振りのアルコールのせいで口が軽くなっている。そのことは自覚しながらも言わずにいられない。案の定、夫の顔から作り笑いが消えた。

「オマエさ・・・・・」

「ごめん。蒸し返しちゃった」

「何度も言うけど、晴美が心配することじゃないから。城興を辞めるわけじゃなし、ただグループの中で動くだけだよ。建設屋の秘書なんかより流通の現場の方が俺には向いてるんだ。だから、わざわざ自分から頼んだんだし、もういい加減にこの話は止そう」

「うん、もう言わない。ごめんなさい」

「・・・・・ところでアイツ、大人しく寝てるのかな」

「尚寿? 大丈夫だと思うけど。ここを出たら母さんに電話してみる」

 寿義の顔に微かな笑みが戻った。晴美も頷いてソルベのスプーンを置く。


 ギャルソンが二品目のメインディッシュを運んできた。香ばしい油の香りが鼻奥をくすぐる。妊娠中はまるで受け付けなかった揚げ物が最近は逆に好物になっている。尚寿を母乳で育てている母としてはともかく、寿義の妻としては歓迎できない徴候だ。

(産後にこのまま激太りしていくパターン? 怖いなぁ)

 戒めの思いも束の間、忽ち料理に目を奪われてしまう。得も言えぬ温みを発する黄金色のカツレツに思わず唾を飲み込んだ。その味わいが頭の中で膨らんでいく。皿を彩る赤と緑のソースも美しい。

「─こちら、仔牛のシュニッツエル、コルドン・ブルーとなります。シュニッツエルはオーストリア発祥の家庭料理で豚や鶏が使われることが多いのですが、それをフレンチにアレンジにしたのが、この─」

「宮里様、失礼いたします」

 いつの間にかテーブル横へ近づいていた支配人らしき男が、ギャルソンの説明を途中で遮った。寿義に何事か耳打ちし、店内の後方を指差す。

「どうしたの? 」

「ちょっとね。先に食べてて」

 寿義はあたふたとテーブルを離れ、厨房まで続く店奥の通路へ向かった。その壁に設置された電話を取ると、何事か話し始めた。

(相変わらず忙しいのね。異動するまで続くのかな)

 晴美は暫く様子を眺めていたが、やがて食欲に抗しきれなくなった。


 寿義は壁掛け電話の保留ボタンを解除した。

「課長、お待たせし─」

「─そこの店、どう? 」

「え? 」

「美味しい? 」

 上司ではない。受話器を握る手が激しく震え、脂汗が噴き出す。

「─オーソドックスな料理だけどシェフの腕前はなかなかでしょ? 」

「あ・・・・・あっ・・・・・」

「わたし、春にね、男の子を産んだの。誕生日は奥さんの赤ちゃんの一日前。おまえの母方の遠い先祖って久高島のノロだったんだっけ? まあ、期待してないけど、そっち方面の血も出たら面白いわね」

「・・・・・」

「妊娠に気づいたのは、城田がおまえをお役御免にしたすぐ後よ。それでお腹が目立つ前に隠れたんだけど、臨月が近づいてまた東京へ戻ったの。

 おまえが時々、晴美のお見舞いに来るところも部屋の窓から見てたのよ。ほら、あの病院、最上階に特別室があるでしょう。一ヶ月近くあそこに籠もってたから」

「もう、許し・・・・・限界ですっ・・・・・」

「おまえの限界なんか知らないよ。それよりさ、わたしの赤ちゃん、大切に育ててよね。それが必要になる時まで」

「い、い、いっ、意味がっ・・・・・」

「安心して。奥さんもわたしも同じ血液型だから、ちょっとしたことならバレやしないわ。わたしは生まれつき丈夫だし、おまえもそうみたいだし、きっとあの子も病気知らずで育つわよ。でも、晴美には絶対に内緒よ。もし、何かあったらその時は─」

 受話器から響く神嶺薩貴子の声に波のある雑音が混ざり始めた。

 中学を出るまで預けられていた浦添のオバアの家が目に浮かぶ。あの裏手の野菜畑を飛び回っていたカナブンやハチャの羽音にそっくりだ。

 頭がズキズキと痛み始め、瞼の裏側に虹色の亀裂が走る。眩暈に襲われ、倒れそうになる身を辛うじて壁で支えた。寿義は泣き虫だった子供時代へ還った。

「う、あううっ・・・・・何でこんな目に遭うんだよぉ・・・・・じょ、冗談ですよね・・・・・また、俺をコケにして遊んでいるだけですよねっ」

「あはははは」

「じゃ・・・・・じゃあ・・・・・俺と晴美の子は・・・・・」

「左手の奥─」

 怯えながら目を動かす。すぐ先には観音開きの大扉がある。そのガラス窓越しに複数の人影が忙しく立ち回る厨房の様子が窺えた。

「そこにさ、熊みたいな図体して目が釣り上がった男がいるから、そいつに訊いてみなよ。それがその店のシェフだから─」

 扉のすぐ向こう側にコックコートを身に着けた大柄な人影が立ち塞がった。片手に牛刀、もう一方の手に薄桃色の小さな肉塊を掲げて笑っている。


(ちょっと、味見を)

 晴美は揚げたての身の端を切り、口へ運ぶ。歯応えの良い揚げ衣、まろやかなチーズ、柔らかい肉の味わいが次々と舌上に広がっていく。

 遅れて感じる塩味は生ハムかプロシュートのようだ。そこへ二色のソースを絡めるとハーブの香りと果物の甘さも加わり、より複雑な風味を醸し出した。想像以上の美味にうっとりと目を閉じる。

 料理に感動するという経験は生まれて初めてかもしれない。しかし、所詮は食べ物だ。どうしてここまで心が昂ぶるのか。

 舌鼓を打つうちにその答えが見つかった。それは今、人生の総ての歯車がかっちりと組み合って、寸分の狂いもなく回っているからだ。

 躍進中の企業グループに籍を置き、しかもそのトップから目を掛けられている夫。

 息子の無事な誕生とその後の健やかな成長振り。

 晴美自身も元の職場に支障なく復帰できたし、来年の前期に創刊される新たな女性向け月刊誌の立ち上げに関われることも決まっている。

(しかも、副編集長の肩書き付きで! )

 そうした心の内の喜びと充足をこの贅沢な場所と料理にも投影しているのだと自覚した。

 カツレツにナイフを入れる度に滋味を蔵した肉汁が溢れ出す。それをパンに吸わせてまた口へ運ぶと、爽やかなほろ苦さが滲み出した。

 美味しくて止まらない。晴美は寿義に悪いと思いながらも瞬く間に料理を平らげる。


「おい! 」

 ナイフとフォークを手にしたまま、晴美はぼんやりと顔を上げた。電話を終えた寿義がいつの間にか横に立っていた。すぐに異様な気配を察した。

「何か、あったの? 」

 寿義は答えず、視線だけ動かした。尋常ではない表情を浮かべ、テーブル上とこちらの顔を交互に凝視している。

 血の気が失せ、目が潤み、唇が震えていた。これほど狼狽した夫を見たことがない。再び声を掛けようとすると先に腕を取られた。

「行くぞ! 」

「な、どうしたの! 」

 力任せに引っ張られ、椅子を倒しながらテーブルを離れ、立ち尽くすギャルソンのすぐ横を擦り抜けた。

「クロークにコートがっ」

「早く! 」


 引き摺られるまま店外へ飛び出した。冷えた夜気が頬を刺す。人通りの多い舗道へ出た辺りでようやく夫の手を振り解くことができた。

「落ち着いてよっ。一体、何がっ」

 寿義は答えず夜空を仰いでいる。頭上の月へ向かってボソボソと呟き、髪を激しく掻き毟り、咽びながら咆吼し始めた。

「おおおおああーっ。あああぁ、あああああぁーっ」

 道行く人々が振り返り、跳び退る。晴美は咄嗟に縋りつこうとしたが、不意に突き出された夫の肘に弾き飛ばされた。石畳に転倒し、立ち上がりかけたがまた尻餅を突く。左脚に力が入らない。足首に激痛が走る。

「おぉお願い! 誰か、止めて! ヒサ君!」

 寿義は雑踏の人壁を掻き分けて瞬く間に姿を消した。

「あなたーっ。戻ってっ。あなたあぁーっ」

 晴美は俯せに倒れたまま必死に叫び続けた。すると二の腕に指の長い手が回り半身を起こされた。

「大丈夫? 」

 介抱してくれたのは季節にそぐわぬ黒のサマーコートを羽織り、その下にシックなレース柄のドレスを着た女。道路灯の真下でこちらを覗き込む半身が翳になり、顔付きも歳の頃もよく判らない。

「動いちゃダメ。挫いてる」

「わたしの主人なんですっ。ああ、何処、何処へっ」

「原宿の駅の方。人を突き飛ばしながら気が狂ったみたいに叫んで」

「警察を! 」

「騒ぎになってるからすぐ来るわよ」

「自分で呼びます! お願い、そこの電話ボックスまで手を貸し─」

 無理に立ち上がろうとした晴美の肩を女が押さえ込む。笑いを噛み殺したような囁きが耳許に響いた。

「ふ。無理しちゃダメだって」

「ほっといて! 」

「ねえ─」

「え? 」

「美味しかった? 」

 次の瞬間、背中を支える手の感触が消えた。女はもう何処にもいない。

 二人の警官が乗ってきた自転車を舗道脇へ駐め、小走りで近づいてくる。

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