25 黄泉平坂 (よもつひらさか) - 権頭重辰郎

「はぁ、はぁ・・・・・ち、きしょう! ちきしょう! 来んなっ、来んなっ、来んなっ」

 権頭はずぶ濡れの手脚を滅茶苦茶に振り乱し、歯噛みして地団駄を踏む。こちらを嘲弄するように素早く動き回る黒頭の集団に行く先々を悉く阻まれて、その度に右往左往を繰り返しながら、やっとのことで四区外れの登り坂まで辿り着いた。だが、もう息が切れて碌に動けない。

 途中、目に付いた他人の家の玄関先へも幾度となく逃げ込もうとしたのだが、向こうはそれを察したように必ず先回りして正面から顔を出す。このままではどう足掻いても撒くことが叶わない。

(一体、どうすりゃくたばるんだ、こいつらはよぉっ)


 バケモノの目玉に見据えられて気を失い、少しして目を覚ますと、奴らはすでに裏庭から去っていた。

 浩司の姿も消えていた。その場に残っていたのは血尿塗れのズボンにメッシュシャツとブリーフ、後はピアスや腕時計の類いだけ。それがトイレの床一面に散乱していた。裸に剥かれて連れ去られたのか、あるいは瞬く間に食い尽くされたのか。

(恐らく後の方だ。ついさっきも見たばかりだしな)

 何故、自分だけが見逃されたのかすぐ腑に落ちた。慌てて家を出てみると、裏庭と接する隣家の玄関前に地味な色の服や下着、さらに介護オムツや歩行杖まで落ちていた。そこに住む爺婆夫婦が折悪しく外出から戻り、その気配を察したあいつらはいったん鉾先を変えたのだろう。

 それにしても何故、急に人を襲い始めたのか。

 トイレの嵌め殺しから覗いていた黒頭の群れはこちらの庭から隣家、そして再びガレージへ移動しただけだった。愛車の扉をこれ見よがしに塞がれて、それに乗り込むことすら叶わずに権頭は雨の路上へ飛び出すしかなかった。

 そしてその後はひたすら駆け続け、やがてゴミ屋敷の前を通りかかると、そこもまた大騒ぎの渦中だった。

(ゴキブリの巣はあそこだったんか。灯台下暗しだ)

 家屋の周りに山積したゴミの奥底から、際限なく湧き出した黒頭の群れが城興の連中に襲いかかっていたのだが、その時に奴らが人を喰うやり方を見た。

 初めは複数の黒頭が一人か二人を取り囲み、その目に魅入られた餌が動けなくなると、今度は赤緑色をした大蛇のような木の蔓がいきなり空から降りてくる。

 それがグルグル巻き付いて餌の全身を覆い尽くし、次の瞬間には血の霧を噴きながら人間が丸ごと消えてしまう。後は着ていた服が地面へ落ちるだけ。

 当時、血の気が多い若い衆がわんさと詰めていたはずのあの組が、たった一晩で跡形もなく消え失せたのも道理だと心の底から納得した。

 自分も無駄とは知りながら拳銃を撃ち散らかしてはみたものの案の定、弾丸は黒頭と化け蔓を通り抜け、代わりに逃げ惑う連中が倒れるばかりだった。

(まあ、あいつらもすぐ喰われたから、あれで証拠隠滅かな。いや、んなこたねえか。後から来たあの図体がデケえ滝野とかいう野郎、くたばる前にどっかへ電話してたもんな)

 思う間もなく、また大群に取り囲まれた。

「しっ、しっ、しつけえよっ。この糞目玉! 」

 弾切れの銃身を振り回し、隙あらば近づこうとする黒影の波を必死に追い払う。

 瘧のような震えが止まらない。現役の頃に掻い潜った最悪の修羅場よりなお酷い。この愚にも付かない鬼ごっこはいつまで続くのか。

 舗道の際までジリジリと後退り、他に逃げ場はないかと血眼で見回すが、紙写真の二重焼きのようなこんがらがった風景のせいで物と物との距離感が掴めない。

(さっきから何もかもダブって見えやがるっ。これも神嶺のマジナイなのかっ)

 気絶から目覚めた瞬間から有り得ない視界が広がっていた。この世の風景に重なって果てのない砂山の連なりが見えている。逃げ惑う路上もその先も、かんかん照りに晒された白茶けた砂地との二重写し。足を踏み出す感覚も狂う。前も砂、後ろも砂、左右も砂の砂、砂、砂の砂まみれ。

「うわっ」

 ゴミ置き場のポリバケツに足を取られ、両手で空を切りながらもんどり打って転がり倒れる。すると濡れた道路とも焼けた砂地とも判らぬ穴から、これまた蛇とアナゴの合いの子のような細いバケモノが飛び出してきて、鼻頭の肉をわずかに食い千切られた。

「んがっ、痛でぇっ」

 血を噴く顔を押さえながらその場を転がり逃れ、ほとほとうんざりして頭上を見れば、明るさがまるで掴めぬ空には鈍く光る大小の何かが数限りなく浮いていた。

 何れも魚とも虫とも付かぬ奇妙な生き物で、盛んに身を翻して泳ぎ回っている。腐った鯛に似たその顔が大口を開けるとノコギリの刃を思わせる歯列まで窺えた。

 あの空にいるバケモノ共が新たに降りてこないことを祈るばかり。いや、降りて来ずとも命運が尽きそうだ。忽ちまた黒頭に囲まれた。

 低く覗き込んできた黒いツラのひとつに苦し紛れのアッパーカットを食らわせる。その途端、拳に燃えるような痛みが広がった。

「んげぇーっ」

 肌肉が焼け爛れて湯気を噴く片手を押さえ、権頭は緊く目を閉じた。


「ちょっとーっ。どうしたのぉーっ」

 坂の上から女の声がした。結んだ瞼を薄く開く。目前まで迫っていた黒頭の群れも声がした方へ一斉に顔を向けた。そこには白髪を引っ詰めた老婆が立っていた。少し離れた路肩に白のセダンも見える。

「しめた! 」

 権頭が腰を上げるより早く、黒い塊が滑るように傾斜を移動した。老婆は何が起きているのかも判らずにただ首を傾げる風だったが、やがて自分を取り囲む異形の輪が見えてきたらしく、空気が抜けたようにその場にへたり込んだ。

「あああぁーっ。ユ、ユキちゃーんっ。助けてーっ」

 ガラガラに掠れた悲鳴が上がる。同時に化け蔓の切っ先がその頭へ落ちてきた。胴から離れた白髪の首が宙高く舞い上がり、粉々に砕けて霧散した。

 権頭は返り血を浴びながら、セダンの運転席へあたふたと乗り込んだ。キーが差し込まれたままの車をUターンで発進させると、県道へ続く道筋を疾走し始める。

「あんた、誰」

 後部座席から声が響き、女が頭を抱えて半身を起こした。


「おめえ、もしかして昼間の」

「松島さんは? 」

「婆さんか? 喰われたよ」

「えっ? 」

 目の端の遠くの方にちらちらと動くものがある。権頭は横を流れる工事現場の景色を見下ろし、言葉を失った。

 鋼板で囲われた内側の広い範囲から数えきれぬほどの太い蔓が伸び上がり、一面に網の目を成して蠢いている。しかもその一本一本は途轍もなく長い。遙か一区や二区の方まで届いているものもあった。

「ぐわっ。まるで街に根、張ってるみてえだ。いつからこうなんだ・・・・・」

 女は呆然と呟いた。

「多分、ここの住宅地が造られた頃から。こうやってみんなの人生を吸い取ってたのよ」


 車内で怒鳴り合いを続けながら二人は道中を共にする。

「んん、くそっ。ダメだっ。ハンドルが上手く捌けねえっ。運転代われっ」

「わ、わたしも今、車の中に座っているのか、砂漠に浮いてるのか良く判んないのよっ」

「そりゃ、俺も同じだっ。席、替わったら、このまま突っ走って県道へ抜けろっ。あそこが抜けられなかったらすぐUターンして黒河の駅を目指せっ」

 権頭は辺りの気配を注視しながら、小さな公園がある付近で車を停めた。

 焼け爛れた片手を庇いつつ、いったん降りて助手席へ回る。四区と二区との境目となる路上のそこかしこには、開かれたままの雨傘と濡れた衣類や靴などが点々と落ちていた。一緒に打ち捨てられたようになっている女物のウィッグや入れ歯、紙オムツの類いを見るのもこの場所ゆえか。

「ああ、ここもかなり喰われまくってんな。こりゃもうホントにダメなんだ」

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