23 タンブルウィード - 高村有希子

「有希子ぉーっ、ユキちゃああん! 」

 実家が建つ区画を離れても姉はまだ自分の名を呼んでいる。有希子は振り返らず、不自由な左足を引き摺りながら、ひたすら雨の道筋を遠ざかる。挫いた足首だけでなく裸足の裏も酷く痛む。足指の爪が割れて血が出ていた。

 通り過ぎる家並みに住人の気配を感じるものの、その姿を見ることも誰かとすれ違うこともなかった。近所の人々は皆、この騒ぎに気づいていないのか、それとも見て見ぬ振りをしているのだろうか。頻繁に出歩かない年寄りが多いにしても、やはりこの街はまともではない。戻るべきではなかった。

 やがて区域の変わり目まで辿り着くと、ようやくそこで足を止めて、怯えながらも来た道を顧みた。

 二区の中心部からやや外れた高村家が建つ辺り、その真上に大きな影が浮遊していた。

 目を凝らす。放射状に伸びた無数の蠱枝が見る見る周囲へ拡大していくのが見える。叩き割った窓ガラスの穴から外へ噴き出しているのか。

 あるいは打ち降ろしたはずの金槌が虚しく空を切ったように、あれは家の壁や屋根も自由自在に通り抜けるのかもしれない。

 さらにその上空、一面に厚く垂れ込めた雨雲の中には輝く点の散らばりも窺える。本来なら晴れた夜空に煌めくはずの月と星々の姿─。ここへ着く手前の道でもこれと似たような空を見た。

 目を擦り、再び周囲を確かめる。街並みの様子もおかしくなっている。家屋と庭、塀、電信柱─。一見、何の変哲もない日常の空間にキラキラした粒子が充満していた。それが日の光を乱反射した砂埃のようなものだと判ると、その途端に果てしない景色が現れた。

「砂漠だ」

 そうとしか形容できない広大無辺の砂丘の連なり。しかもこの世界と二重写しで見えている。為す術もなく立ち尽くす。

「熱っ」

 足裏の感触まで変化していることに気づく。自分が今、踏みしめているのは濡れたアスファルトなのか、それとも灼けた砂なのか。冷たくもあり、熱くもあり、湿っていて乾いてもいる。ここは暗い雨空の下でもあり、眩しすぎる日差しにも照らされている。

 触覚と視覚が両極に振れながら五官の秩序を乱していく。有希子は激しい眩暈に襲われて座り込んだ。

(こことは違う世界がこの空間を浸食しているってこと? それともあたしの頭が完全に壊れたってこと? ああ、何かもうどっちでも良くなった・・・・・)

 受け容れ難い状況の連続に心の糸が切れた。捨て鉢な気持ちが極まり、逃げる気力も失せる。眩暈に嘔吐し、頭を抱えて力無く笑い、絶望に咽び泣く。再び顔を上げてみると路上か砂地の何れかから伸び上がるように現れ出た大勢の人影に囲まれていた。

 十人。いや、もっと多い。誰も彼も真っ黒だ。服を着ているのか裸なのかも判らない。

 いずれの顔も口と鼻と耳がなく、頭もツルツル。昔、箱根で食べた黒卵のことを思い出した。墨を塗ったような殻の表面にふたつの大きな目だけが爛々と輝き、それがゆっくりとこの身に迫ってくる。

(姉さんが言ってたのはこれのこと・・・・・。口しかない女のオバケとは逆だ)

 我が身を取り巻く黒い輪がますます縮まった。有希子は観念した。

 運が良ければ精神科病棟のベッドの上で再び目覚めることができるかもしれない。だが、その可能性は低いと思う。狂っているのはこの現実の方で自分の頭ではなかったようだ。

 何が原因でこんな馬鹿げたことが起きているのか。姉が続けていたという実験のせいなのか。いや、元々この土地自体に不思議な力が宿っているのだと、亜紀子は言葉足らずながらに説明していたではないか。聞きように拠ってはオカルト漫画みたいに陳腐な話だが結局、それが答えなのだろう。

 社会と呼ばれる腐れ切った場所で無数の安っぽい人生が泡のように浮かんでは消えるのがこの世界で、その裏側のオバケの世界も陳腐で無慈悲で気色が悪いだけ。魂の救いはどこにもない。

(あたしがゴミ屑みたいに落ちぶれてとうとう人まで殺しちゃったのも、これが原因だったと考えたら逆に気が楽だわ。自己責任でこうなったんじゃないってことだから。これでなけなしのプライドが辛うじて保てるもの─)

 有希子は震えながら目を閉じた。黒い人たちには熱も息遣いも感じられないが、今にもこちらの肩先へ触れる距離まで近づこうとしているのが判る。これから何をされるのか。

(殺すのなら痛くしないで。賢哉みたいな死に方は嫌。虫と植物の合いの子が身体中から生えるのも・・・・・)


 遠くから水を切って近づく走行音が聞こえた。次の瞬間、ブレーキの音も響き、有希子は薄く目を開く。

「乗って。早く」

 五メートルほど先で急停車した白いセダン。その運転席のドアが開き、生成りのブラウス姿の痩せた老女が外へ半身を乗り出した。

(誰? )

 黒い人たちは動じていない。停まった車体と重なっているだけだった。そのうちの一体の首から上は身を低くした老女の背中に突き出している。

「早く」

「そっちまで行けない。黒いオバケが」

「どうすれば良い? 」

「オバケの輪の内側へ入って。そうすれば乗れる」

「ごめん。わたしには見えない」

「ここっ、この辺っ」

 老女は頷いて運転席へ戻る。セダンはいったんバックして切り返すと、有希子が指差した場所でもう一度停車した。

 その後部座席へすかさず飛び込んだ。最前からの酷い眩暈に身を起こしてはいられず、扉内へ倒れかかったまま礼を告げる。

「あ、ありがとう」

「どういたしまして。あら・・・・・」

「早くっ。また寄ってきちゃう! 」

 今度は有希子が運転席を急かす。老女はフロントガラス越しに空を見ている。有希子も釣られて見上げると、いつの間にかあの蠱枝の群塊がこちらへ向かって近づいていた。

 砂漠を転がるタンブルウィードに似た、巨大でいびつな赤緑の球体。それが雨の中をアドバルンのように浮遊している。球の中心から伸びる枝の群れに身を巻かれながら共に動く肌色の影も見えた。一糸纏わぬ姿の亜紀子だった。

「あははは。こんなの初めてぇ。楽しいぃーっ」 

 陽気にはしゃぐ姉の声が雨音と一緒に地面へ降ってくる。フロントミラーには魂が抜けたような皺だらけの顔が映っていた。

「裸で、空歩いてる・・・・・」

「あたしの姉さん」

「亜紀子さん? 」

「知ってるのっ? 」

 老女は我に返って言った。

「えっ、ええ。あなたのことも知ってるわよ。昔、一区の公民館でお料理教室やってたでしょ。その時に高村さんと何度かお話したことあるの」

「ママと? 」

「そう。お友達ってほどじゃなかったけれど、お通夜にも伺ったわ・・・・・あ、そんなことより! 」

 セダンがようやく発進した。大勢の黒い人たちも、姉と蠱枝の塊も後ろから追いかけては来なかった。

 車に乗っているのと同時に、横座りに倒れたまま砂漠の上を浮動している摩訶不思議な感覚─。見上げた車窓の景色の流れから、老女が四区へ続く道筋へハンドルを切ったことが判った。

「何処、行くのっ」

「家を取り壊して工事している場所」

「お願いっ。お願いだから、このまま黒河の駅前か城西へ行って。一刻も早くここから出たいの! 」

「どうしてもって言うのならそうするけれど・・・・・」

 老女は思案するように首を傾げている。

「たった今、見たでしょ。ここはマトモじゃないのっ。小母さんも一緒にここから逃げようよ! 」

「その前にわたしの話を聞いてくれる? 」

「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないんだって! 」

「わたし、一区に住んでる松島。宜しくね」

「・・・・・」

「あなたが子供の頃にも会ったことがあるのよ。お母さんに手を引かれて、ユキちゃんって呼ばれてた。じつはわたしもユキちゃんなの。幸いに恵むと書いて幸恵」

 老女は前もろくに見ず有希子へ振り返りながら語り、萎びた口許に静かな笑みを浮かべた。助けてくれたところまでは良かったがその先の話が通じない。運転も危なっかしい。

(いっそ、この車を奪って! ああ、助手席に乗るんだった。う、ううぅ)

 不穏な考えまで巡らせるうちに眩暈が激烈な頭痛に変わった。こめかみが砕けるほどに締めつけられ、朦朧として口も利けない。手脚もろくに動かせず、ただ低く唸りながらシートの上で身体を丸めた。

 松島幸恵は独り言を呟くように話し続けている。

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