20 孵化室 - 高村有希子
「ほら、こっち来て、ユキちゃん」
姉から久し振りに愛称で呼ばれ、有希子は虚ろな眼を上げた。もはや抗う気力も失せ、手を引かれるままに書斎を出る。
「こっち」
亜紀子は両親の寝室のドアに鍵を差し込んだ。奥へ開いた扉の向こうには初めて見る室内が広がっていた。隣り合う姉の部屋との区切りの壁が取り除かれ、ひとつの空間として使われている。
「パパが死んだ後にリフォームしたの」
後ろ手に扉を閉めながら亜紀子が言った。本来は外鍵に使う暗証式のドアロックを掛けると、良く見てとばかりに両腕を広げた。
漆喰塗りの天井と内壁に元の部屋の名残りがあるが、板張りだった床面は白いリノリウムに替えられていた。室内の総ての窓も嵌め殺しの仕様に造り替えられている。
怯えながら目を転じた。右手の最奥の壁際に大型犬の飼育用と思しき金属檻が三つ並んでいた。
(うっ・・・・・)
真ん中のケージにあの全裸の男が蹲っているのが見えた。
「大丈夫、何もしないわ。何もできないし」
「ここで・・・・・一体、何をやってるの・・・・・」
「だからぁ─」と、亜紀子は事も無げに今度は左を指差す。
対角の片隅に別の全裸の男が横たわっていた。膝を折った仰向けの姿勢で瞼を閉ざして口を開けている。眠っているのか、死んでいるのか。枯れ木のように痩せた手脚のせいか、首から上と腹部がひとまわりほど膨張しているように見えた。
「な・・・・・にこ・・・・・れ・・・・・」
「さっき言った通りよ。あの人もこっちの人もみんな、わたしの大切なモルモット」
「生きてるの? 」
「脈もあるし、意識もあるわ。でないと、向こう側へ移れないから」
「向こう側へ移れない。む・こ・う・が・わ・・・・・」
有希子は姉の言葉を茫然と繰り返した。後退り、壁へ貼り付いて徐々に右へ動く。その角隅には業務用の大きな冷凍庫が置かれ、背面のモーターが唸りを上げている。後ろ手にもうひとつの扉のノブを探り当てると気づかれぬようにゆっくりと回した。開かない。
「ああ、そのドアもね、外からも内からも開かないようにしてあるの」
「もう、出たい。出して」
「辛抱してよ。終わったら一緒に晩御飯作りましょう。昔みたいに」
「この冷凍庫には何が。まさか・・・・・死体」
「飛び立った後に蛹の殻が残ることがあるのよ。放っとくと腐って臭いから。でも、ゴミに出すのも何だかだし、いちいち燃やすのも面倒だし」
この狂気の部屋を出る手段は他にないだろうか。有希子は目だけ動かして室内を見回しながら、時間稼ぎの問いを重ねる。
「蛹の殻? 」
「そう。科学的なことはともかく、わたしの持論だと人間は髪の毛や爪の細胞レベルまで意識が行き届いているはずだから、そのままマルッと向こう側へ行けちゃうはずなんだけどね。何て言うか、移動の寸前に身体の一部だけが先に壊死して意識を失うと、そこの部分がこっちに残っちゃうんじゃないかなって」
「それが殻っていうこと? 」
「ええ、そう。ホントにごくたまにだけど、最悪の場合は向こうとこっちの狭間でぐちゃぐちゃになっちゃうっていうか。どっち付かずで終わるっていうか。今、あんたが言ったただの死体になっちゃうこともね。その冷凍庫にもひとつだけあるけど」
訊ねる気力が忽ち失せた。
「・・・・・もう、嫌っ。ここから出るっ。お願いだから解放してっ。銀行のカードをもらったらすぐ出てくから! 」
懇願を無視して姉は淡々と語り続ける。
「─こっちの寝てる彼はね、タクシーに乗ってふらりとやって来たの。八月の初めくらいに。一文無しだっていうから代わりに車代払ってあげて、身の上を聞いてあげたのよ。
奥さんと子供を殺して車へ乗せてそのまま海へ飛び込んだんだけど、自分だけ死ぬことができなかったんだって。沈む車から飛び出して、海岸へ辿り着いて、そこから東京へ逆戻りしたけれど、もうこの世に居場所はないし、どうにかして欲しいって泣きつかれたの。
一時はIT系のベンチャーで大成功して、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのよ、この人。それがどうしてこうなっちゃったんだかね─。でも、おかげでここへ来れたんだから結果オーライじゃない? 本来の自分に生まれ変わる機会が得られたんだから」
「姉さん・・・・・」
「人が生まれ変わる瞬間を見せたいのよ。あんたにも何かが見えているのだとしたら、きっとその時にあっちの世界を覗けるはずだから」
「あっちの世界・・・・・」
「そう。理由は知らないけど、ここの住宅地はそこと繋がっているの。この丘を開発して街にした連中も間違いなくそれに気づいているはずよ。今もそこらじゅうにカメラやマイクを仕掛けて毎日、みんなの様子を見張ってるし」
「監視。嘘っ」
「ホントよ。例えばウチの右隣の三軒先にある空き家、あそこの二階にも色んな人たちが出入りしてるわ。どれも城興レジデンスの関係者。この辺の監視用に使っているんじゃないかしら」
「姉さんの他には誰も気づいてないの? 」
「さあ」
「誰かが騒いで問題にならないのっ! 」
亜紀子は憐れみを含んだ表情を浮かべた。
「ならないわねえ。ここに限らず、それが今の世の中だし。偉い人たちやお金が沢山ある人たちに都合が悪いことはね、絶対に騒ぎにならない仕組みができてるの。
ああ、そう言えば・・・・・かなり前にここの近所で話を聞き回ってた人がいたわ。雑誌の記者だっていう若い男の子だったんだけど、その日のうちに黒い車へ押し込められて何処かへ連れ去られちゃった─」
「秘密を嗅ぎ回って殺されたってこと? 」
「さあ。うふふふ」
姉は気もそぞろに微笑みながら床上の裸体を間近に覗き込んだ。
「もうすぐね。もう、ちょっと」
「何のために─」
「え? ああ、あの人たちの目的? 知らない。ここの秘密を隠したいだけなのか、それか、わたしとは違うやり方であっちの世界のことを研究しているのかも。公民館の向かいに新しい建物もできてるから、何ならそこへ行って直接、訊いてみたら? 」
─バキッ、バキッ。ボキッ。
室内に異音が響き渡った。硬質の何かが砕ける音。足下に横たわる男の身体から聞こえている。
「この人の中で今、骨とか筋とかが割れたり崩れたりしているのよ。ほら─」
さらに目を疑う光景が展開し始めた。鬱血した顔の皮膚が縦に割れていく。その罅は毛の薄い頭頂部から始まって額の真ん中へ達し、鼻筋に沿って下降すると唇と顎を真っ二つに割いた。
度肝を抜かれて手脚が固まった。有希子はもはや顔を背けることも忘れ、人体の空恐ろしい変容を憑かれたように凝視し続ける。
男の顔が完全に分離した。肌肉の裂け目に露呈した脂肪と筋肉の層、さらにその下の頭蓋骨の形まで判る。胡桃の殻がふたつに割れて中身が剥き出されたようだった。
眼窩から迫り出した眼球が床へ落ちると急に身体の呪縛が解けて、その場にヘロヘロとへたり込んだ。股間に温かい感触が広がり、着替えて間もない黒いトレパンに濡れ染みが広がっていく。
「ああん、もう。ゲロの次はおしっこ? 後でまたお風呂に入ってよね。気持ち悪いのは解るけどね、それでも目を逸らしちゃダメ。ちゃんと見ててね─」
亜紀子は顔色ひとつ変えず、肉の裂け目を辿るように指差していく。
「─とは言え、あまり集中しないで。見るともなく見る。それがコツ。ほら、子供の頃に流行ったじゃない。軽ーい感じで寄り目をして立体映像を見る本とか。あれと似た要領よ。そのうちぼんやりと見えてくるから」
そう話す間にも、顔面に始まった皮と肉の亀裂は胸部を経て下腹まで伸びていく。中年男の緩んだ肉体が瞬く間に分離した。その間、当人は苦痛にのたうつわけでもなく、鮮血や臓物が辺り一面に噴き出すこともない。
生肉の臭いを微かに放つ薄桃色の粘液が湧水のように溢れ出し、それがリノリウムの床へ広がっていくだけ。人体の組成自体が変容しているのか。
空洞を蔵した人形が自壊していくプロセスを見せられているようで、本来あるべき肉体の生々しい存在感がまるでこちらの身に迫ってこない。
姉が蛹の羽化に喩えたのはこのことか。
(あ・・・・・)
突然、目が眩み、視界が揺れた。男の身体と二重写しに何かの影が姿を現した。
肉塊の裂け目から線状の揺らめきが立ち上り、その数がどんどん増していく。
初めは鎌首をもたげた蛇の群れのようにのたうち、やがてそれは螺旋を描いて伸張する草の蔓に変じた。
ひたすら目を凝らしていると細部が徐々にはっきりしてきた。蔓というよりは拗くれた木の枝に近く、その先端には甲虫の鉤爪や複眼の頭部、さらに針管のような口吻が伸び、それぞれが出鱈目に蠢いている。
「見えてる? 」
「捻曲がった木が沢山生えてきた・・・・・。甲羅がある虫の脚や口みたいなトゲトゲも付いてて、まるで植物と昆虫の合いの子みたいな─」
「そう。それ」
亜紀子の声が頭上から聞こえた。高い台の上にでも登ったのか。有希子は目を上げて息を飲んだ。
(えっ? )
縦に割けた男を挟んで向かいに立つ姉の身体がいつの間にか空中に浮いていた。濡れ髪の頭が天井に迫り、そこから笑顔でこちらを見下ろしている。
言葉を失った有希子に亜紀子が頷く。そして自分の足許へ目を配った。
「良く見て」
瞠目したまま視線を落とす。草木の枝とも虫の手脚ともつかぬ線状の群生がバスローブの裾から突き出した白いふくらはぎにぐねぐねと絡み付き、その肢体を宙へ押し上げているのだと判った。
「これって・・・・・」
「そう、こういうことなのよ。向こうの世界を感じられない人には、ただ浮いているように見えるだけなんだけどね。ミラレパやアヴィラのテレジアも、こうやって空を飛ぶ奇跡を起こしたのかもよ」
「幻覚・・・・・」
「うーん。それは幻覚をどう考えるのかに拠るわね。あたしたちのこの世界だって脳が作り出す幻覚に過ぎないとも言えるし。それならもっと自由で伸び伸びした幻覚の中で遊びましょってことなのよ。
ただ、こっちの人間のまま送っちゃったら、餌にされてすぐ死んじゃうから、あっちの世界で適応できる形に変えるひと手間が要るの。その人の中にある、こっちの世界では通用しないあっちの本性を表へ引き出してあげるわけ。
ちょっとややこしい話だけど、これで少しは理解できた?
ああ、ほら、ユキちゃんっ、見て見て! 言ってるそばからわたしの実験がまた成功しちゃった! 」
縦一線に裂かれた肉体の残骸、その断層の狭間から不定形の大きな影が盛り上がり、それは次第に人の形を成していく。元の冴えない中年男とは似ても似つかぬ筋骨隆々の巨漢。それが人肉の残骸からゆっくりと立ち上がった。血走った両眼にいきなり見据えられ、有希子は激しく狼狽える。
(コイツ、あの夢の中にもいた・・・・・あっ)
生まれ変わった男の全身から新たな枝の群生が噴き出し、四方八方へ伸び広がった。
鍬形虫の鋏に似たギザギザが腕先を掠め、咄嗟に横へ跳び退く。
朧気な半透明だったその質感が急に色濃くなっている。緑に赤と黒が入り混じった気味の悪い色合いで全体がぬらぬらと濡れ光って見えた。
その幾筋かが波打ちながら再びこちらへ這い寄ってきた。左腕と右脚へ同時に絡みつかれ、慌てて払い除けながら後退っていく。
「変に抵抗しちゃダメ。されるがままにしておくの」
「んなこと言ったって! ああ、嫌っ、来ないでっ」
見た目よりも硬い枝先が今度は顔に触れた。頬先に鋭い痛みを感じて掌で拭う。指が血に濡れていた。
「あああぁーっ、もう嫌ぁーっ」
「何かに怒っているみたい。何かしら」
「もう沢山!」
有希子が喚くのと同時に一際太い枝の先端が腹を目掛けて突き出された。すんでのところで身を翻し、ブルゾンのポケットから金槌を抜き出すと盲滅法に振り回す。
「来ないでっ。来んなよっ・・・・・」
だが、金槌は空を切るばかり。枝先に当たっても手応えがない。
「止めなさい、無駄だから。向こう側と触れ合えるのは心があるモノだけよ。トンカチに意識はないでしょ? それにしても変ねえ。いつもはもっと大人しいのに。あんたのことが嫌いなのかしら」
「ちっきしょーっ。ふざけんな! 」
有希子は蠱枝の群れを避けながら、何とか窓際まで回り込んだ。力任せに金槌を振り下ろし、窓ガラスを粉々に打ち砕くと、そこから躊躇なく飛び降りる。
「い、痛っ・・・・・」
雨に濡れた雑草の上へ着地した拍子に片足が捩れたが、激痛を堪えて庭を飛び出す。
「ユキちゃああん」
亜紀子の声を背中に聞きながら、路上に駐めた車のドアに縋りついた。
「・・・・・あ! 」
キーがない。シャワーを浴びる時に脱いだバギーパンツのポケットの中だ。一瞬、逡巡して玄関へ立ち戻る。扉は内から施錠されていた。
「あああ、ああああーっ」
有希子は狂乱し、雨の道路を駆け出していく。
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