19 角大師 - 権頭重辰郎

(目玉のバケモノの件は置き土産に話すか。それともこのまま話すまいか・・・・・)

 三杯目のウイスキーを飲み干した権頭は居間の扉外へ目を向けた。

 廊下では浩司が壁に寄り掛かり、携帯での遣り取りを続けている。「根性見せろや! 気合いだ!」など、頭の悪そうな怒声が漏れてくる。

(兄貴、これで一応は筋を通したぜ)

 空のグラスにボトルを傾け、思い直してテーブルに置いた。これ以上過ごすと運転に支障を来す。立ち上がり、窓のカーテンの隙から屋外を窺うと雨足が少し弱まっていた。視界の端にあるゴミ屋敷の門前に数台の車がたむろしているのも見える。

 振り返り、戻ってきた浩司に声を掛ける。

「揉めてんのか? 」

「ええ。まあ、ちょっと」

「何だよ? 」

「勝手に持ち場、離れたのが出たみたいで」

「何かヤベエもん見つけてフケたんだよ。命拾いだな。・・・・・いや、もう止めねえから好きにやれよ。んで、これからどうする? 」

「んー、それがですね。ついさっき、ウチのアタマから連絡が来て─」

 浩司は途方に暮れた顔付きでぼやいた。昼過ぎに大橋と半グレのトップが話し合い、今夜中にカタを付けることが決まったのだという。

「例の仮囲いのトコ、大橋さんも間違いなくあそこに埋まってるはずだって」

「で、いきなり夜討ちかよ。オメエは今日、何のために話を訊きに来たんだ? 」

「大橋さんはともかく、ウチのアタマは偉いせっかちなんすよ。回りくどいことやってねえで、さっさと証拠を押さえりゃ後はどうにでもなるって。どうせ警察は呼べねえだろうって─」

「じゃあ、せめて九時を回るまで待っとけ」 

「何で? 」

「その頃、ここを出るんだよ」

「何処、行くんすか? 」

「イロが横浜の方で部屋借りてな。暫くはそこをヤサにして落ち着くわ。野球選手やお笑い芸人も住んでるタワマンだとさ。どっから金を捻り出したんだかよ、俺に内緒でへそくりでも貯めていやがったのか─」

「権頭さん・・・・・」

「ん? 」

「さっき言いかけてたバケモノって」

「んんん。オマエ、まだこの家に居るか? 」

「ええ、もう少しだけ厄介になります。迎えの車が来るまで」

「じゃあ、俺が一眠りした後にまだ居たら、その時に話してやるよ」


 権頭は浩司を居間に残して二階へ上がった。

 寝室に入ってドアの鍵を掛けると、服のままベッドへ寝転がり、降魔札で埋め尽くされた天井を見上げる。何枚かの縁が剝がれかけて空調の風に舞っていた。

 いずれの札にも頭に触覚のような角を生やした厄除け大師が描かれている。本来は疫病除けに貼る札らしく、一昨年辺りまで飛ぶように売れたと聞いた。また、売り付けてきた胡散臭い坊主も「悪霊退散にも効果覿面。貼れば如何なる邪鬼も跳ね返す!」と豪語したそうだ。

(この絵自体がもうすでにバケモノじゃねえか。ったく、あの女は効きもしねえのに碌でもねえもん、買い込みやがって)

 酒の力を借りてはみたものの一向に眠気を催さない。今夜はこのまま酒気だけ抜いて家を出る羽目になりそうだ。もちろん二度と戻るつもりはない。

 何なら出掛けに玄関の鍵を浩司に渡してやろうか。権利書を持っている男の考え次第だが、恐らく早晩この家も城興に売り飛ばされる運命だろう。そこから取り壊されるまでの短い間に大橋や浩司たちがどう使おうと知ったことではない。

 世の中に人より怖いモノはない、と見切った風に言う奴は多い。本物の人外を見たことがないからこそ吐ける台詞だ。

 今まで鬼畜の輩は腐るほど見てきたが、幽霊やバケモノの恐ろしさはそれとはまた別物だと思い知らされた。

 とくにあの黒い影はこちらの心を読んで自由自在に姿を変える。基本は漆黒の影法師だが、それが女や子供に見えることもあれば、厳つい大男に化けることもある。見る側に馴染みの深い者の姿やその仕草まで模倣する。

 初めてアレを見た時は、死んだ母親があの世から出張って来たのかと勘違いした。また、その次には昔、故あって殺めた男の輪郭をなぞって現れた。そのうちに本物の亡者ではないことが解り、尚のことアイツらが恐ろしくなった。

(ありゃ多分、鏡みたいなもんで、そこに映ってんのは俺の心の奥底だ。だから身震いするほどおっかねえんだ・・・・・)

 いずれ恐ろしくタチが悪い代物だ。修羅場で培った勘がそう告げている。あのギョロつく目玉に正面から睨まれたら、それで一巻の終わりとなるのだろう。己の心が作り上げた無間地獄へ引き摺り込まれるのではないか。神嶺薩貴子という呪い師が仕掛けた恐ろしい罠だ。

 権頭は溜息を吐いた。最後に熟睡したのはいつだったか。少なくともあの黒いバケモノが出始めてからはその記憶がまるでないのだが、やはりその辺のことは浩司にもきちんと伝えておくべきなのか。

(ああ、そういや、さっきの馬鹿デカいバケモノ女・・・・・もし、このまま居続けたらアイツのこともしょっちゅう見るようになんのか。やっぱり、今夜のうちに逃げるが得策だ)


 何度も寝返りを打つうちに、ほんの少しだけ眠気が兆し、そのまま暫く微睡んでいると額に何かが落ちてきた。天井から剥がれた降魔札の一枚だった。

「ちっ、寝かかったのに・・・・・」

 うんざりして見上げるよりも早く、札紙が次々と舞い落ちてくる。室内が急に暗くなったようにも感じ、辺りの空気ごと振動するような不快な低音も耳に付く。

 空調の音か? いや、違う。続いて階下から野太い叫び声が響くと権頭はベッドから跳ね起きた。

 クローゼットを開く。奥に隠してある油紙の包みを取り出し、ズボンのポケットへ無理矢理ねじ込むと、静かに階段を降りて扉の隙から居間を窺った。


「浩司、どうした」

「権頭さん、あれ・・・・・」

 大きな図体が長椅子の陰で身を屈め、青ざめた顔で出窓を指差していた。そのカーテンがいつの間にか開いている。

「おい、何で開けた」

「外で気配が。開けちゃいけなかったんすか!」

「そか、言い忘れてたか」

 権頭は慎重に視線を動かした。窓のすぐ向こうに黒い人影が立ち並んでいる。

 一、二、三、四、五─。今日はどれも子供くらいの背丈だが一度に五体も現れたのは初めてではないか。

「目、逸らせ。これ以上は絶対に見んなよ。早くカーテン閉めてこっちへ来い」

 浩司は素直に動く。窓際まで這って近づき、伸び上がり、カーテン裾を乱暴に引っ張ると踵を返して廊下へ飛び出した。権頭はすかさず居間の戸を閉じる。

「が、餓鬼のイタズラ? ハロウィン? 」

「そりゃ、来月だ。アレ見ても冗談言う余裕があんのかよ。ははは」

「いや、ねえっすよっ。何なんすか! 」

「三、四ヶ月くらい前からよ、急に出始めた。まあ、その前から居たんだろうが、この家で俺らが気づいたのがその頃だ。しかもここだけじゃなく、町内のあちこちに同じヤツらが出るんだよ。まだ家の中までは入った試しはねえが」

「ゆっ、幽霊って奴? 」

「知らねえが、さっきオメエに言おうとしてたのがまさにアレ─」

「カラダが透けてました。向こう側の植木や道路が見えて・・・・・黒いガラスで出来てるみてえに・・・・・」

「そういう風に見える時もあるし、そうじゃねえ時もあんだよ。大きさも色々で素の正体が掴み難えってぇかな。まあ、そのうちにいなくなっちまうだろうから、暫く二階へ上がってろ」

「いや、イイっす! もう、ちょっと勘弁! 」

 拒絶の表情を浮かべた猿顔がそのまま早足で玄関へ向かう。

「苦手なんすよ、こういうのっ」

「おい、待て。道路側へ回り込んでっかもしんねえぞ」

「権頭さん!」

「何だ」

「アレ、素手でぶちのめせますか」

「どうだろな。前に石ころ投げたらすり抜けたが」

 言いながら尻のポケットから油紙の包みを抜き出し、中身を開く。権頭は手にしたコルトのセーフティを解除すると居間の扉へ向かって軽く構えた。

(最後に手入れしたのはいつだっけか・・・・・)

 試し撃ちをしたのもかなり前。重さと感触は一人前だが果たしてまともに弾が出るのか。

「チャカならイケるんすか? 」

「いや、恐らくコイツも効かねえだろ。が、俺には他に御守りがねえからよ」

 浩司は手にしかけたブーツを再び三和土へ放り出した。恐る恐るドアスコープを覗き込み、蛇柄の頭を掻き毟る。

「いるか? 」

 権頭が訊くと浩司は首を傾げた。

「いや、ワカンねえけど・・・・・やっぱ言う通りに。あ、ちょっと便所─」と、おっかなびっくり左右を見回しながら、玄関の横にある水回りのスペースへ消えていく。

 廊下に残った権頭は、閉めたばかりの扉をまた開いてみた。居間とキッチンに異変がないことを確かめ、忍び足で出窓へ近づくと雑に引いたカーテンの隙間から外を窺った。黒い影の群れはもう何処にもいない。奴らは前触れもなく急に現れるが消えるのも早い。

 ひとまず胸を撫で下ろしたが、廊下へ戻って浩司を待つうちに嫌な予感が頭を掠めた。

「おい、窓!」

 トイレの扉越しに叫ぶなり、空から落ちるような声が返ってきた。

「あ・・・・・あああああああぁ・・・・・」

 慌てて扉を開く。曼荼羅の刺青が透け見えるメッシュ地の背中が目に飛び込んだ。

 ジョボジョボとだらしなく響く放尿の音。便器の内は真っ赤に染まっている。

「浩司! 」

「あああ・・・・・めだまぁ・・・・・」

 浩司はだらけた逸物の先から血潮を噴きながら、ぼんやりと正面を見上げていた。

 天井際に設けられた、横長の明かり取りの窓に黒い頭が並んでいた。今にも零れ落ちるほど剥き出した眼球の群れ。それが一斉にこちらを見下ろしている。

 左端の目玉がクルリと転じて権頭を射竦めた。避けることも忘れてまともに見つめ合う。

 その虹彩は真っ赤に輝いていた。高校を中退したばかりのまだ餓鬼だった時分に、故郷を流れる川の河川敷で眺めた夕焼けの色を思い出した。敵対する暴走族の一団を柔なナイフ一本で纏めて半殺しにした直後のことだ。

 赤く変じた目玉が窓ガラスをすり抜けて鼻先まで迫る。幻覚だと解っていても恐ろしくて堪らない。足が縺れて尻餅を突き、そのまま廊下まで後退る。

「ぐぁっ、痛え! 」

 こめかみから後頭部へ痺れるような激痛が走り、権頭は頭を抱えてのたうち回る。重苦しい振動が空気を伝わり、慌てふためく脳髄をさらに激しく掻き乱す。緊く閉じた瞼の裏で虹色の光が踊っていた。権頭は意識を失った。

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