18 「わたしの原点」 - 高村有希子

「まだ、生きてる。身体も痛くない」

 有希子は白い天井を見つめながら呟き、長々と息を吐いた。涙が溢れ、いつまでも止まらない。このまま子供のように泣きじゃくりたい。でも、今は駄目。ここで自分を見失えば先には奈落が待つだけだ。

 男を刺して追われ、バケモノに付き纏われ、眠りの夢の中にも逃げ場はなかった。

 偽りの記憶と共に山林を彷徨っていたことはまだ理解できる。夢にはよくあることだから。だが、人間もどきが集まった森の中の巨大な館や、そこの螺旋階段の先に広がっていたあの酸鼻の極みの情景はこの内面の何に由来しているのか。

 自分も知らない心の奥底には、あれほどに残虐で倒錯した欲望が隠れているということなのか。しかもいずれも本物と見紛うほどに生々しい五官の体験を伴っていた。

 あの囚われの少女を救わなくてはという思いはとても強烈な感情を伴っていたし、最後に夜の谷底へ滑落し、瀕死の状態でいた時も本当に野垂れ死ぬのだと覚悟した。

 現実の感覚がますます壊れている。何があっても生き延びたいという身勝手な思いでここまで辿り着いたが、そろそろ覚悟を決める時なのかも・・・・・。

 苦し紛れに掌を見た。いつも見慣れている自分の手。試しにその手で頬を撫で回し、子供の頃から顎下にある大きな黒子の感触を確かめる。

(うん。今はちゃんと眼が覚めてるわ。ここは現実の世界)

 自らに言い聞かせ、Tシャツの胸元にも触れてみる。腋の下と乳房との間の素肌を探ると引き攣った肉瘤が指の腹に触れた。五歳の時に天麩羅油の跳ね返りを受けて負った火傷の痕だ。

(あの時はママ、泣いて大騒ぎしてたっけ)

 母の記憶がまた甦った。それに棺の死顔が重なり、慌てて脳裏から追い払う。

 窓を見る。外は依然として雨景色。雨足の強さも変わらない。空が暗くなりかけていた。

 室内へ目を転じる。高校時代まで使っていた学習机の周りには大小のダンボール箱が積み上げられ、両親の寝室と父の書斎にあった調度や仏壇なども全てこの部屋に纏められている。高村家の歴史の残骸を集めたゴミ置き場・・・・・。

 寝覚めから少し経ち、ここへ辿り着いてからの行動をひとつずつ思い起こした。

 まず、亜紀子に言われるままシャワーを浴び、脱衣場に用意されていた下着と服に着替え、テーブルに出されたカップ麺を啜った。

 その間、姉はただこちらを見ながら微笑むだけで何も訊ねてはこず、食事を終えると「あんたの部屋、そのまま残してあるから」と言われて二階へ上がり、すぐ眠りに落ちた。あれからどれくらい時間が過ぎたのか。

 室内には時計がない。代わりに枕許の携帯を覗いた。時刻は午後三時半。一時間以上も眠っていたのか。

「あれ? 」

 日付の表示が狂っている。2024年9月24日。2年後の9月? 嫌な予感がしてニュースのヘッドラインを開くと同じ日付が目に飛び込んだ。指の力が失せ、目線に掲げた画面が滑り落ちる。

 居ても立ってもいられなくなり、有希子はついに部屋を飛び出した。階段を降りてリビングへ飛び込もうとすると、そのすぐ手前の廊下で不審な物音に気づいた。壁越しに荒い息遣いと低い呻き声が聞こえてくる。


 少しだけドアを開けて隙間から覗く。ダイニングキッチンと居間がひと続きになった広い空間、その中央に敷き詰められた青い絨毯の上で亜紀子と見知らぬ男が一糸纏わぬ姿で縺れ合っているのが見えた。

(・・・・・こういう女だったわ。忘れてた)

 姉のプライバシーを侵すつもりはないが、これでは遭遇を避けようがない。妹が帰ってきたことを失念したのか。あるいは何か意図があってわざと見せつけているのか。

 何事もなかったように扉を閉めかけたものの、思い直して隙間を広げる。最前の混乱から続く幻覚まで疑い、後ろめたさを感じながらも再び目を凝らした。

 男はソファーの端に両手を掛けた姉を背後から攻め立てていた。たまたま覗き込んだ角度からその容姿がつぶさに窺えた。

 中背の痩せぎすで肌色が浅黒い男。細身といっても引き締まった筋肉質ではなく、だらしなく萎んでいるだけの貧弱な身体付き。年齢は五十代から上に見える。ボサボサに乱れた髪には白い筋が目立っていた。

 目鼻と口の造りも薄く、これといった特徴のない顔立ちだが両眼が異様にぎらついているのが判った。まぐわいの快楽に感極まっているのか、腰を盛んに振り立てながら緩んだ口から舌を垂らしている。醜悪・・・・・。

(何であんな男と? )

 有希子が知る姉は極度の面食いで、しかも大柄なスポーツマンタイプを好んでいたはずだ。歳を経た今もなお見た目の良さは健在なのだから、求めれば相手に困ることはないだろう。そうなると、金銭かそれに類する便宜が関わる割り切った男女関係ということか。


 亜紀子は二十代の初めに家を出て間もなく、自ら夜の世界へ身を投じた。

 三十代の半ばまでは六本木や新宿にある高級クラブやラウンジを渡り歩き、その後も似たような職場を転々としていたことまでは耳にしていたのだが、父の最期を看取るために久し振りに顔を合わせた際、夜の病院の休憩室で思いも寄らない誘いを受けた。

「─じつは今ね、完全会員制のSMクラブをやってるの。と言っても、わたしは半分お飾りのオーナーで経営の大元が別にあるんだけどね、その仕事が意外と面白いのよ。

 誰でも知ってる大御所の有名人とか、政治家とかお役人のトップとか、大きな企業の経営者とかがね、安っぽいハイヒールで踏みつけられて、ヨダレ垂らしながらゼエゼエと喘ぐわけ。前から話には聞いてたけど、ホントにこういう世界があるんだって。

 ─社員を潰しまくってるブラック社長が、わたしを罰してくださいって叫びながら、汚い床へ額を打ちつけてね、終いには血まで流すのよ。馬鹿よね。うふふ。普段、他人にやってるみたいに自分で自分を潰せば早いのにね。

 ─表向きにはそう見えなくても、ああいう人たちってみんな悪いことをしているって自覚があって、それを誰かに罰してもらいたいっていう思いを心の奥に抱えているみたい。でもこの世には神様も天罰もないから、代わりに超ハードなマゾプレイでお茶を濁してるわけ。欺瞞よね。

 ─ああ、そうだ。もし、気が向いたらバイトしてみない? 射精産業のフーゾクとは完全に別物だから、あんたが大事にしてるそのプライドも傷つかないし。

 実際、昼の仕事と両立させている子も大勢いるし、客の扱い方さえ身に付けば全然、苦じゃないわよ。

 もっとも常連客の中には身体を深く切られたり刺されたりして毎回、血達磨にならないと気が済まない筋金入りもいるけどね、そういうのはわたしを含めて慣れた数人が専門に相手してるから安心して任せてね。

 万が一、事故って客を殺しちゃっても揉み消せる仕組みもあるし・・・・・あ、この話はナイショよ。うふふふ─」

 姉はとくにからかうという風ではなかった。以来、謎だった彼女の本質をようやく言葉で言い表せるようになった。

 天真爛漫な狂気─。情性欠如というありきたりな心理学用語では片付かない、特殊な内面の在り方だ。

 だから今更、その狂態を目の当たりにしたところで驚きも嫌悪も困惑も感じない。ただそういう世界の生き物なのだと思うだけ。しかし、別の意味では不安が募る。限度を越えた姉の放縦が新たな混乱の種を生む恐れがある。

 今、姉と事に及んでいるあの男は誰なのか。いつ、ここへやって来たのだろう。自分が二階で寝ていた間とは思うが、同じ屋根の下に第三者が潜んでいること、それが人を刺して逃げている女であることを向こうは既に知っているのか。

 従順な牝獣のような姿勢で犯されていた亜紀子が、急に身体の向きを変えた。紅潮した美貌に艶やかな笑みを湛えながら、男の肩先を突いて仰向けに倒す。その股間へ勢い良く跨がると、自ら腰を動かし始めた。

 紅いマニキュアに彩られた指先が男の胸板から上の方へ滑ると、その貧相な顔が鬱血し、床の上で虚しく振れ始めた。

 亜紀子は男の首を絞めながら徐々に昂まっていく。容赦のない力で絞め付けているのか、男は目を剥いて咽せている。それでも抵抗する素振りは見せず、激しく揺れる大きな白い尻を健気に支え続けていた。


 先刻よりもなお酷い吐き気を必死に抑え込みながら、有希子は震える手で扉を閉じる。足音を立てずに廊下を戻り、階段を上がって部屋へ飛び込むとベッドの枕下へ頭を突っ込んだ。

(マジで締め殺しそう・・・・・)

 生来の狂気から発する突拍子もない行動─。現在に至る姉の行状に加え、喜々として語っていたSMクラブのことを考えればあり得ないことではない。

 事実、自分が識るだけでも亜紀子は過去に三人の男たちを破滅させている。高校時代に関係を持っていた既婚者の教師は、それが公に露見して懲戒解雇が決まった翌日に自殺したし、姉を真ん中に置いた三角関係がこじれた挙げ句に恋敵を殺した男もいる。

 有希子の初めての恋人も亜紀子に奪われて間もなく心を病み、会社を辞めて失踪してしまった。郷里の家へ引き取られて今もまだ治療を受け続けていると聞くが、このことについて姉自身の口からはまだ一度として謝罪や後悔の言葉を聞いた試しがない。

 もちろん、その時は姉を深く恨んだ。だが、まともに怒りをぶつけてその闇に深く関わったら、こちらの心まで壊されると思った。だから、大人しく泣き寝入りするしかなかった。

(あの男が何事もなくここを出て行ったら、すぐにお金の話を切り出そう)

 有希子は決心を新たにし、今や物置と化した自分の部屋を見回した。あちらこちらを掻き回して護身に使えそうな道具を探す。

「あった! 」

 雑多な日用品の山の中から父が道具箱代わりにしていたプラスティックケースを掘り出し、そこに放り込まれていた金槌を取り出した。クローゼットから古ぼけたブルゾンを引っ張り出して羽織ると、その深いポケットへそれを収め、再びベッドへ戻って時を待った。

 途中、何度か浅い眠りに落ちたが、今度は夢は見なかった。やがて窓外の雨が小降りになった頃、ドアをノックする音が響いた。


 扉を細く開けると、素肌に木綿地のバスローブを着た姉が立っていた。事後にシャワーを浴びたらしく全身すっぴんに戻っていたが、それでも肌艶が驚くほど若い。

 姉が言葉を切り出さないのでこちらから口を開きかけた瞬間、廊下の隅を全裸の影が横切った。最前のあの男だ。

 男は何も見えていないかのように姉のすぐ後ろをゆっくりと通り過ぎ、廊下の突き当たりにある、亡き両親の寝室へ消えていく。握っていたドアノブを咄嗟に押し込むと先に戸当りを掴んでいた姉の手に阻まれた。

「心配いらないわ。大人しい人だから」

「ここに住んでんの? 」 

「一緒に暮らしているのかって意味なら違う」

「誰なの! 」

「下で話さない? 」


「飲んで。落ち着くから」

 ダイニングテーブルに置かれた湯気立つティーカップを有希子は無言で見つめた。

 仄かに甘い匂いがする。そういえば姉は昔からフレーバーティを好んで飲んでいた。いつも自分で湯を沸かして淹れ、たまたまその近くにいるとよくこうして頒けてもくれた。

(昔からわたしよりずっとマメで、優しくて女らしい。だから、この人と深く関わらない限りは異常さに気づかない)

 亜紀子はポットをレンジ台へ戻すと、向かいの席へ腰を下ろした。

「あんた、さっき覗いてたでしょう」

 有希子は顔を強張らせた。

「─別に見せびらかすつもりはなかったんだけど。夜まで寝るんじゃないかって思ってたから」

「姉さん」

「何?」

「ここでどんな風に暮らしてるの? 」

「どんなって・・・・・」

 亜紀子はわずかに首を傾げながら飲みかけのカップをソーサーへ置いた。

「朝、起きたら軽いストレッチ。週に何日かは外を走ったり。帰ったらシャワーを浴びて、ご飯を食べて、株のチャートを暫く眺めて。それから、午後は─」

「あの仕事、まだ続けてるの? 」

「ああ、アレ? 今もたまに顔、出してるわよ。でも、もう飽きちゃったし、どうしようかなって考えてる。あんなのより、もっと面白くて大切なことがあるし─」

 有希子は遠回しに探るのを止めた。

「教えて。あの男、誰? 」

「昔、わたしのことを慕ってた人」

「恋人? 」

「違う」

「その・・・・・割り切った関係? 」

 亜紀子はクスクスと笑い出した。

「確かに店の常連だったこともある人だけど、今は一文無しで住む家もないの。だから、これはお金が絡んだことじゃないのよ。強いて言えば慈善事業? 」

「意味が解らない」

「省庁勤めのね、そこそこ偉いお役人だったのよ、彼。でも、収賄事件に巻き込まれちゃって独りだけ詰め腹切らされたの。一時期はその辺りのこと、ニュースでも結構やっていたから、そういうのを観ていた人なら知ってる顔かもね。それが今年の春くらいにようやく刑務所から出てきて─」

 話を聞き続けるのが苦痛になり、有希子は横を向いた。だが、亜紀子は構わずに語り続ける。

「─何もかもどうにもならなくなって、駅のホームから電話を掛けてきたの。わたしかが引き留めなきゃ、あのまま飛び込んでたんじゃないかな。

 ずっと前にね、『今の自分に疑問を持ったら、いつでもいらっしゃい。人を生まれ変わらせる実験を始めたから、モルモットとして使ってあげる』って言ったことがあったの。それで彼、線路へ飛び込む寸前にその言葉を思い出したんだって─」

「モルモット? 」

「─そう。でね、つい先週、本当にこの家へ来たってわけ」

「実験? 生まれ変わらせる? 」

 亜紀子はゆっくりと頷いた。

「そう、わたしにはできるの。初めは自分に特別な力が宿ったんだって思ってた。でも、実際はそうじゃなくて、ここの場所の力を借りてそうなるってことが解ったの─」

 姉の表情を注視する。昂ぶった様子は見られず、むしろ淡々としている。冗談や喩え話のつもりではなさそうだ。となると妄想性障害か。

 いずれも頭がいかれた中年姉妹が今、向かい合いで座っているのだと思うと無性に可笑しくなってきた。

「─ねえ、わたしのことはひとまず措いて、あんたの話を聞かせてよ。どうして刺しちゃったの? そういうことができる子じゃないと思ってたのに。電話でも聞かされたけれど、初めからもう一度、説明してよ」

 話を振られて有希子は身構えた。金の無心をするために肉親の情に訴えても意味はない。むしろこの窮状をありのまま伝えた方が良いと感じ、賢哉との経緯を冷静に話した。

「─で、譲渡先を探している繁盛店の権利を手に入れたいんだけど、手持ちの資金がどうしても足らないって。早く手を打たないと他に取られるから不足分を貸してくれって言われたの。利子も付けて返すからって─」

「それで、お金渡した途端にいなくなったのね」

「ええ。纏まった金額だったから向こうも潮時だって考えたのかも。その後は血眼で行方を探したわ」

「独りで? 」

「うん。誰も助けてなんかくれないし、警察へ届け出たところでお金は返らないし」

「まあ、そうね」

「それからずっと経ってようやく居場所が判った頃にはあたし、もう何の仕事もやってなくて。会社をクビになってからずっと派遣で凌いでいたんだけど、アイツを探すことにのめり込み過ぎちゃって、それまでブッチしちゃって─」

「これから、どうするつもり? 」

「姉さんがお金を貸してくれるなら、いっそ外国へ逃げようかって」

「バリとかプーケットとか? あんた、一時期よく遊びに行ってたわよね。現地に人のツテとかある? 」

「別にないけど。どこへ逃げるかもまだ決めてないし─」

「何なら口座ごとひとつ上げようか。三千万以上入ってるのがあるから。自由に引き出せるカード付きで」

「えっ・・・・・」

 さすがに耳を疑った。考えていた金額より一桁多い。幇助罪に問われることも恐れていないのか。呆気に取られた有希子をよそに亜紀子は二杯目のお茶をカップへ注ぐ。

「けど、実際はどうなのかしら」

「やっぱり難しい? 空港で捕まる? 」

「ううん、その前にまずこの住宅地から外へ出られるのかなって」

「どういうこと? 」

「だって、あんたはここへ呼ばれて来たんだもの。みすみす逃がしてくれるのかな」

 有希子は思わず眼を剥いて身を乗り出した。亜紀子はテーブルの揺れを避け、ソーサーごとカップを持ち上げる。

「落ち着いてよ。零れちゃったじゃない。ねえ、有希子・・・・・この際だからはっきり訊くけど、あんたも気づいてるんでしょう? ここが普通とは違う場所だってこと」

 姉の表情をまた窺うが、やはり腹の内は読めなかった。

「・・・・・そ、そうかもね。ママみたいに自殺する人が物凄く多いし、他にも突然死とか行方不明とか。前には殺人事件まで起きてたし─」

「それだけじゃないでしょう。あんたには何が見えてるの? 」

 テーブルを挟んで無言で見つめ合う。急に何故、こんなことを言い出したのか。そして何をどう答えれば良いのだろう。有希子が混乱していると亜紀子が先に口を開いた。

「わたしから先に話そうか。わたしがここでよく見るのはね、全身が影みたいな真っ黒い人たちよ」

「黒い人・・・・・」

「一人だけの時もあるし、何人かが同時に出てくる時もあるけれど、どれも同じ女の人の分身だと思う。誰なのかは知らないけれど・・・・・初めて見たのは小学校の五年生の時で、泣きながら学校から帰る途中、裏の森で出会ったの」

「泣いてたって、どうして? 」

 亜紀子は遠くを見るような顔になった。

「担任だった男の先生に身体を触られたのよ。タジマっていう人。あの頃、四十代くらいだったかな─」

 話の展開が読めない。有希子は訝しみながらもじっと耳を傾ける。

「─児童に対する性的イタズラってヤツ? それの常習者だったみたい」

「パパとママには? 」

「言わなかったわ。どう説明すれば良いか解らなかったし。あの時はもう五年生だったから、何をされたのかも理解できてたんだけど」

「それで泣いてた・・・・・」

「あんたが今、想像している気持ちとは違うかも。わたしはかなりマセてたし、意外かもしれないけれど、自分は変だっていう自覚もずっとあったのよ。

 あの時の気持ちを簡単に言うとね、子供心に虚しかったの。男って、いえ、人間ってこうなんだなって。とくに他人に隠したい何かを持って生まれた人はね。

 世の中を渡っていくためにそういうのを必死で隠そうとして、一時的には上手く隠せてもそのうちに何かの拍子についボロが出ちゃって、そこからどんどん駄目になっていくんだなって。

 わたしも大人になったら同じようになるのかな。それは凄く嫌だなって考えていたら急に涙が止まらなくなってね。ちょうどそんな時、あの黒い人が森の道に立っていたのよ。

 幽霊とかオバケって言われてるモノはこれなのかと思ったけど、見た目はそれほど怖くもなかったし、逆にちょっと親近感が湧いたわ。とくに根拠はなかったんだけどね、直感的に自分の同類みたいな気がして。

 そうしたら、向こうもわたしを見るなり、昔から知ってたみたいにスルスル近づいてきて、大きな目でジッと見つめてきたの。で、そのうちにこっちの頭の中に囁きかけてきた。

『虚しいと思うなら、解放してあげれば良いじゃない。本来の姿に戻してあげなさい』ってね。

 その日を境に人の心と別の世界の様子がたまーに見えるようになったのよ。しかも今ではそれを変えることも─」

 有希子は相槌を打つでもなく、また口を挟むこともなく、ただ黙って亜紀子の話を聞き続けた。新たな物事を受け止める思考と感情の許容量がすでに限界を越えていて、語られている内容は頭へ入って来なかったが、自分と同じく亜紀子もまた、この場所でこの世ならざる者に遭遇し続けていたらしい─。ただ、それだけを心に留めた。

 姉の言葉を鵜呑みにするならば、この地を彷徨っているバケモノの姿形はひとつだけではないということになる。全身が影のように黒い人間とは一体、どのような存在なのか。この地で自分に付き纏うあの目鼻のない大女と何が違うのか。

 亜紀子は乾いた口をお茶で潤し、飽きずに語り続けている。口調も熱を帯び始めた。

「─誰かをじっと見つめているとね、その人の本体が少しずつ見えてくるわけ。それが人間の形をした殻の中で、もう見てられないくらいに藻掻き苦しんでるの。『早く、外へ出たい。思うまま、自由に動き回りたい』って。

 そういうのを見つけると、最初の頃はどうしてあげれば良いのか解らなかったんだけど、そのうちに意識を集中して優しい想いを注ぎ込んでいると、奥に隠れているその相手の本体の動きが徐々に大きくなることが判ったのよ。

 ああ、こっちが気づいてあげたことで本体が喜んでいるんだなって。

 それからわたしの実験の人生が始まったの。男の人と女の人の両方で試したけど、男の方が効果が出やすいことがはっきりしてきて、これは自分が女だからそうなのかなとも考えて、そのうちに男の人ばかり相手にするようになった。

 あとはね、ただ見つめるだけよりもその身体へ直に触れたり、セックスしてみたり。そういう密度が高い交流の方がこちらからの影響が高まるってことも学んだわ。

 そんな風に実験を繰り返して、たまに成功した時はその人が一気に解き放たれて、とても嬉しそうに元の世界へ帰って行って・・・・・でも、失敗しちゃった時には・・・・・例えばヒロト君とか─」

 寝取られた恋人の名がいきなり飛び出し、有希子は唇を噛んだ。

「姉さん。今更、恨んでるとかそういうことじゃなくて、ただ純粋に知りたいだけなんだけど─」

「何?」

「あたしに対して申し訳ないとか、悪いとかって思ったことある? 」

「あんた、ヒロト君のこと、どれくらい好きだった? 一緒に死んでも良いって思えるくらい? 」

 言われて有希子は宙を見つめる。当時のヒロトの顔形すら、ろくに思い出せなかった。

「そこまでは・・・・・」

「だったら、大したことないじゃない」

(この女! )

「─でも、可哀想なことしたとは思ってる。脱皮し切れなかった蝶々が、蛹の殻をくっ付けたまま地面へ落ちて死ぬようなものだから。

 さっきも言ったけど、あの頃はまだわたし勘違いしてたのよ。これは全部、自分に備わった特殊な才能だって。でも、ホントは違ってた。ここの場所の力があってこそのわたしだったの。それにはっきり気がついたのは、ちょうどパパが死んだ時で─」

 かつて耳許へ囁かれた「わたしの原点」という言葉の意味が有希子にもようやく理解できてきた。

 狂気じみた告白はなおも続く。

「─おかげでここへ帰ってからは頗る順調よ。年を追う毎にね、あっちへ送る能力がどんどん上がっているの。みんな、この世界のくだらない制約を離れることができて物凄く楽しそう。

 だからね、有希子、あんたにもぜひこの実験を手伝って欲しいの。わたしと同じように何かが見えているみたいだし─」

「どうして、そう思うの? 」

「十年以上もひとつ屋根の下で暮らしていたんだから、そんなの自然に気がつくわよ。ただ、あんたの場合はあの黒い人じゃなくて、何か別のモノを見ているみたいだったけど。ねえ、それは一体どんなモノなの? こうしている今も見えてる? 」

 有希子が何も答えずにいると亜紀子は椅子から立ち上がった

「付いてきて」

 迷いながらも姉の後を追った。今ここで下手に刺激するのは得策ではないし、話の続きにも興味が湧いてきた。新たな不安の種ではあるが、同時にささやかな救いにも感じられる。

 人ではないモノを見ていたのは自分だけではなかった。もしかしたら姉の他にもまだ大勢、見えている人たちがいるのかもしれない。


 亜紀子に続いて階段を上がる。両親の寝室のドアを見つめながら、その隣にある父の書斎へ足を踏み入れた。あの男の存在が気に掛かるが、取りあえず今はどうすることもできない。

 六畳ほどの広さの室内には、ほぼ昔の記憶通りの景色が残されていた。壁の三面を占める本棚に埃を被った書籍が並んでいる。その大半は父の仕事に関連した専門書だ。

 生前、土木設計コンサルティングの事務所を運営し、自らも技術者であった父は休みの日の大半を専らこの部屋で過ごす習慣があった。仕事柄、県内各所で実施される公共工事の現場へ赴く機会が多く、自宅から現地まで行く際の車の利便性も考えてこの土地に家を買ったらしい。

「ちょっと、待ってね。今、すぐ探すから」

 亜紀子はそう言うと、木製のデスクの引き出しを探り始めた。有希子はその机上に置かれた一冊の本に目を留める。古びた緑色の簡素な装丁で『黒河の歴史民俗』というタイトルが付いている。

 何気なく手に取って頁を開くと、近くの椿原神社について書かれた箇所が現れた。

『主祭は八十禍津日神、配祀は罔象女神と比売神─』

 読み方さえ知らない神様の名が並んでいる。こちらを見ぬまま亜紀子が呟いた。

「それね、棚の隅っこにあったの。郷土史の研究家が出した自費出版みたい。パパが仕事の関係か何かで、地元の誰かからもらったんじゃないかしら」

「読んだ? 」

「パラパラとね。ここの土地の由来について書かれていたわ。椿原っていう地名、椿の花とは何の関係もないんだって─」

 姉はまるで頁を諳んじているかのようにスラスラと説明し始めた。


 本に拠れば椿原の地名の発祥には二説ある、という。

 ひとつめの説は、江戸時代初期に行われた埋め立てと灌漑工事に因んだ話で、当時はまだ沼沢が点在する湿地だった一帯を、丘陵から運んだ土砂で埋める際、その泥濘の下から赤錆色の水が迫り上がってきたことに由来しているらしい。

 赤い水─。鉄分の含有もしくは淡水性の赤藻を原因としたその不吉な色を人の血に見立て、いつからともなく、また誰ともなく『血湧き原』と呼ぶようになり、それが後年に転訛して『椿原』となったという説。そして、もうひとつは─。

「─道を別けるって書いて『ちわけ』って読むんだけど、そういう古い言い方から来ているっていう説もあるんだって。道別っていうのは、道案内の意味よ。その『ちわけ』が訛って『つばき』になって、そのうちに椿原って呼ばれるようになったって。ほら、よくあるじゃない。細い山道の端っこなんかに石で造られた男女一対の像が─」

「道祖神? 」

「そう。道案内の神様」

「この辺にいっぱい建ってるミチバタサマも? 」

「見た目は違うけど、コンセプトは似たようなモノらしいわよ。とにかく、そういう古い信心と関わりがある土地なんだって・・・・・あ、あった」

「何、探してたの? 」

 姉が引き出しの奥から取り出したのは日に焼けた紙の束だった。


「これね、二年前の新聞とか雑誌を切り抜いて取っておいたのよ。リビングに置いておくといつの間にか失くしちゃうから。

 ネットで過去のニュースを検索して見せても良かったんだけどね、せっかく集めたモノだし。ほら、これ─」

 亜紀子は広げた新聞の見出しを指差した。有希子は床へ崩れ落ちる。

『千葉・男性殺害 知人女性を重要参考人手配』

 霞んだ目で日付を確かめた。令和4年10月1日。今日から七日後に印刷された新聞。いや、今年は2024年らしい。そうなると、これは二年前の記事か。

 有希子は唇を戦慄かせ、啜り泣きながらゲラゲラと笑った。見下ろす亜紀子が遠い声で告げる。

「あの日、電話もらって待ってたけどあんたは来なかったの。こっちから掛け直してもずっと圏外だった。

 その代わりに少ししてから警察の人が来て色々と聞かれたわ。あんたが刺した西脇賢哉って人、死んでから二十日近くも発見されなかったんだって。最後はマンション中に酷い臭いが漏れちゃって、そこでようやく管理会社が動いてね─。

 死ぬ何日か前まで同棲していた女の子に逃げられて、あんたが忍び込んだ時には独り暮らしだったそうよ。

 山道に乗り捨てられてた車のことが報道されたのは、それから間もなくだったかな。すぐ近くでスマホとバックも見つかったけど、肝腎のあんたは行方不明のまんま。それがついさっき、その時のと同じ赤い軽に乗ってようやくこの家へ帰って来たってわけ。

 うふふ、あの電話から二年も待たされちゃった。時間にルーズなとこ、昔のままなのね。ほら、よく寝坊してママにも怒られてたでしょう─」

「どうして・・・・・どうしてっ・・・・・」

「─だからぁ、あんたは特別に呼ばれてここへ来たの。呼んだのは多分、あの黒い人たち。ねえ、ほら、拗ねてないで立ってよ。まだ、他にも見て欲しいモノがあるんだから。次は隣の部屋へ」

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