17 禍津日神 - 植原尚寿

「室長、大禍津日神って知ってます? 」

 地下から管理室へ戻ったとたん、川瀬がまた声を掛けてきた。目をきらきらと輝かせ、片手にタブレットを持っている。さっきの話の続きをするつもりか。

 この男、人柄自体は良いのだが・・・・・軽度のアスペではなかろうか。

「な、何? ガマツ? マガツ? 」

「もしくは八十禍津日神」

「ヤソ? んー・・・・・古事記とかに出てくる神様かな」

「あ、知ってましたか」

「いや、まあ、それっぽい響きだし、前に何かで読んだ気も。あ、スマホのゲームだったかな─」

「ほら、これ」

 と、タブレットの画面を突き出してくる。

 先の話に出ていた資料館の展示コーナーを撮影した画像だった。問題の石碑とその拓本の写真、細かい字で書かれた解説パネルなどが壁面のボードいっぱいに掲示されている。

「興味はあるけど、今は時間がさ─」

「これについてのレポートを書いて、本部にも提出済みだって言ったでしょ」

「ああ」

「だから、室長にも概略を伝えとこうと思いまして。蚊帳の外だと悪いかなって」

「いや、気にしなくて良いよ。原因調査に関わることは、僕らは管轄外だからさ。そっちはそっちで気にせずに進めてよ─」

 と、いったんは離れたが、すぐに思い直して川瀬の傍らへ戻った。

「やっぱ、教えて。できるだけ手短に」

 現場の末端を使い捨てて現状を乗り切ろうとする上層部の意志が明らかとなった今、成澤を見習って逃げ出す目処を付けるまでは、能う限りの自衛策を講じる他、途はない。まず何よりもこの場に関わる種々の情報を自ら積極的に取りにいく必要がある。

 川瀬が調べたという石碑の件も、ここで聞き逃してしまったらそのままとなる可能性が高い。実際には些末な内容であっても一応は頭に入れておきたい。

「─あのさ、取りあえずその話、二、三分くらいに短く纏められる? 」

「んじゃ、結論から先に言っちゃいますね。椿原って呼ばれているこの一帯の土地には、かつて独自の信仰があったらしいんですよ。で、その信心の対象だったのが─」

「オオマガツヒノカミ? 」

「─ええ、資料館のお姉さんの話ではそういうことらしいです。

 三分以上掛かっちゃうけど、順を追って説明しますね。えーと、まずさっき言ったペトログリフっていうのはですね、文字通り、自然の岩や石に刻まれた絵文字や図象を指す用語です。古くは旧石器時代、新しくても紀元前後くらいの遺物で、言語が未発達だった先史時代に、特定のシンボルを用いて何事かを伝えようとした痕跡と言いますか─」

「それが、あの石碑ってこと? 」

「いや、正確に言うとですね、その辺にうじゃうじゃ転がっているあれらは全部レプリカなんですよ。オリジナルはここから二キロほど離れた椿原神社にあって、そこの石に描かれた線刻を後世、別の石版に彫り直したのがミチバタサマってわけです─」

 

 椿原地区に残る石碑群の由来について川瀬が訊ねると、歴史資料館の女性学芸員は若干の自説も交えながら詳しく教えてくれたらしい。

 まず、昭和四十年代の終わりまで、ミチバタサマの正体は全くの謎だった。

 形状からして明らかに地蔵尊などの石仏ではない。周辺一帯の集落には庚神講の風習もないのでよくある青面金剛や三猿を祀る塚でもない。

 また、その呼称から類推すれば道祖神の可能性が最も高いと思われるが、実際の形状が既存の類型に当て嵌まらずそのことすらも定かではない。何よりも縁起由来を記した古文書や伝承の類いが一切残っておらず、古くから地元に根を張る農家などに聴き取りをしてみても、有力な手掛かりは得られなかったらしい。

 そんなミチバタサマの謎が解け始めたのは、同じく昭和の五十年代に入ってからのこと。ある年の早春に椿原神社の本殿が不審火により全焼し、焼け跡の土台部分から直径五十センチほどの丸石が出土したことが端緒となった。

 当初、それは社家の記録に残る、江戸中期の本殿再建時に使われた礎石の一部と思われていたが、慎重に掘り出して調べたところ、石面に文様然とした線刻が施されていることが判り、念のために年代測定も試みると、縄文晩期から弥生初期の頃に加工された想像以上に古い遺物であることが明らかになったのだという。

「で、これがその文様なんですけどね─」

 川瀬は画面をスワイプし、今度は拓本の写真を見せてきた。手渡されたタブレットを覗き込む。黒地に白い線描の形が幾つも浮き出している。

 図面の中心には左回りの丸い渦巻きが一際大きく描かれており、四方にはその渦に比してやや小振りの、それぞれ異なる象形が配されていた。

 右上にあるのは円形の周囲を放射状の直線が取り巻いた図形だが、これは太陽のシンボルだろうか。また対面の右下には、同じく三日月と思われる形も置かれていた。

 さらに左上にはアスタリクを構成する線の数を一層、密にしたような形。そして、最後の右上は・・・・・。か細くて稚拙な描線が多く、にわかに判別し難いが、ひとつの正円と五本の線で描かれた人の形が、その上方で横に広がった三重の楕円に頭から飲み込まれる様を描いているように見えた。

 これら五つの象形の外縁を波形の線模様が幾重にも取り巻いている。それがこのペトログリフの全容だった。ひとつずつ指差しながら確認する。

「この上は太陽で、こっちの下は月? 」

「ええ、学芸員もそう言ってました。判りやすい絵ですよね」

「じゃあ、こっちの上は星? 」

「はい。それもその通りみたいです」

「てことはこれ、古代人の宇宙観みたいなものを表現しているのかな? 真ん中の渦巻きは宇宙のエネルギーの象徴とか? 」

「でしょうね。シンボル学的な解釈では、螺旋や渦は自然界の循環と進化の力とされていますから」

「この外側の波線も─」

「はい。これは水が持つ不定形で流動的なエネルギー、ってことなんでしょう」

「なるほど。で、判らないのはここの右上なんだけど─」

「室長は何に見えました? 」

 目を上げて川瀬と向かい合った。悪戯を仕掛けた子供のような表情でこちらをじっと見つめている。

「人間を・・・・・喰おうとしてるデカい口、かな・・・・・。合ってる? 」

「僕にもそう見えますが、正解は知りません」

「え? 」

「関連文献を調べても類似する文様の事例はひとつも見つからなかったと言ってました。と、ここで椿原神社の話へ戻るんですけど─」

 ─祭神は八十禍津日神と罔象女神、比売神の三柱で、創建が平安時代の中期まで遡るとされる古社だが、その由緒由来についてはとくに何事も伝わっていない。

 また境内の見回りや掃除といった日常の奉仕をする社家らしき一族が社の建つ場所から少し離れた集落に住むものの、例祭などの行事は廃れて久しく、参拝者も稀な無人の祠として丘陵の繁みの奥に佇むばかり─。

 それが黒河の地に残る椿原神社の概容だと川瀬は言った。

「一緒に祀られてるミズハノメノカミっていうのは、水を司る神様だそうです。この一帯の低地は江戸時代に灌漑と埋め立てが行われるまで沼だらけの場所だったから、治水工事の無事や地鎮という意味合いでそういうのも祀ったんだろうって」

「で、ヒメガミはどういう? 」

「それもはっきりしたことは判らないんですが、一説にはセオリツヒメだと」

「何かその名前、聞いたことあるような、ないような・・・・・」

「禍津日神と同一神だとされている女神様です。とくに近頃はスピリチュアル系の人たちにエラい人気があるとかで、ブログ記事やら解説動画やら結構な数がネットに上がっています。

 大和朝廷が成立する以前から信仰されていた相当古い神格だそうで、おまけに古事記や日本書紀には記載がなくて実体不明な部分が多いんですけどね。一応、世の罪穢れを祓い浄める役目を持った滝の女神様ってことにされていて─」

 いずれにせよ、そこは古くから住む地元民以外には知る者もいない隠れた神社。ただ、旧村落の鎮守としての崇敬は今なお細々と続いており、昭和五十年に建物が焼失した際も近隣有志からの喜捨を受け、ほどなく同じ地所に再建されたのだという。

「で、出土したペトログリフの石は今、御神体としてその新しい本殿に安置されているんですけど、禍津日神を表の主祭神にしている神社って全国的に見てもあまりないらしくて、まずそういう意味でわりとレアなわけです。さらにミチバタサマとの絡みを考えても、他に類例がない信仰形態だって学芸員は話してました」

「神道のこととか知らないんだけどさ、その禍津日神って確か、物凄く怖い神様なんだよね? 」

「古事記や日本書紀には、黄泉国の穢れから生まれた神だと書かれています。ただその神格についての解釈は、大きく二通りに分かれているみたいですね。ひとつはこの世の災いを司って、あらゆる人間を不幸に陥れる悪魔のような存在。

 もうひとつの説はその逆で、大きな災いの種になる人間社会の過ちを厳しく裁いて罰する神様です。堕落した人類に復讐するっていう意味に捉えれば、旧約聖書のヤハウェとも共通する部分があるような・・・・・。まあ、その辺りのこともネットで調べれば色々と出てきますんで、もし興味があったら室長がご自分で─」

「なるほど。それでさっき言ったお祓いの女神様とも同一視されてるわけか。けど、何か無駄にスケールがデカくて掴み所がない話だな。まあ、神話なんてそんなもんか。で、そのレプリカがどうこうっていうのは? 」

「じつはひとつひとつのミチバタサマって、それぞれが作られた年代にかなり開きがあるんですよ。古い物だと平安や鎌倉時代、一番新しいのは江戸時代の末とか」

「長きに亘ってオリジナルの石をコピーし続けたってわけ? 誰がそんなことを? 」

「この土地を通りかかった山伏とか遊行僧とか歩き巫女とか。時代、時代の宗教関係者が先行して置かれていたレプリカの文様を真似て、各時代の石板に同じ模様を彫って、それを神社周辺の至るところへ祀り広げていったんじゃないかって─」

「それも学芸員の説明? 」

「だからそうですって。僕の話は全部、受け売りです」

「君個人の考えも聞きたいんだけど。昔から忌避されてきた場所、と言ってたよね」

「ええ。裏付けはないですが、人がまだ石斧で猪を追っかけていたような太古の昔からずっとそういう曰く付きの土地だったのかなって」

「ここで起きてることを考えれば、それしかないよね」

「ええ。折り紙付きのヤベエ土地ってことです」

「うん、ヤベエ。頗るヤベエよ・・・・・」

 男二人が親密に語り合う傍らを他の課員が一瞥しながら通り過ぎていく。川瀬は気にせず話し続けた。

「─江戸時代に入ってからは辺り一面が田畑に変わったわけですが、当時の農民が暮していた集落は全部、椿原地区から外れた場所にあるんです。今でも地元に根付いた家が見当たらないのはその名残りで、文書や口伝えの伝承なんかが残っていないのも同じ理由じゃないかって。

 ただとにかくいつの頃からか、そうした不吉な土地の力を日本の神話の神格に仮託して、警告と魔除けを兼ねた丸石を置いて、やがてそれが神社信仰の形式を取って、同じような石がどんどん増えていって・・・・・と、まあそんな感じで今に至っているんじゃないかって考えました」

「そういうところまで詳しく書いたのか? 」

「いいえ。薫森さんは主観や憶測を嫌うんで、書いたのは客観的部分だけです。いずれにせよ、もう上へ出しちゃったものですから、同じデータを室長にも渡すと情報管理ルールに抵触しちゃうでしょう。だから代わりに今、口頭で─」

「ありがとう。気を遣ってくれて」

「もっとも本部はこんなこと、とっくの昔に把握済みの可能性が高いんですがね、そういう話は一切教えてくれないし─」

「君の立場でもそうなのか」

「僕の立場? 室長、誤解してませんか? 他の皆さんと同じですよ。目隠ししたまま働かされているのは関連会社の出向組だけじゃありませんから」

 川瀬は軽く頭を下げると自分のデスクへ戻った。

 雲を掴むような内容をどう受け止めれば良いのか。ただ今更、困惑はしなかった。ここから離脱したいという思いがいっそう切実になっただけだ。


 その後は諸々の憂慮が頭を去らぬまま、半ば上の空で短時間の仕事をこなした。合間にスマホでニュースも眺めたが、カフェで昏倒した霊媒師の件は一切報道されていなかった。

 城興の営業部から降りてきた接収の進捗情報に目を通した後、住民説明会の会場設営に関する雑事を終えて一休みしていると、そのうちに滝野が戻ってきた。頭を掻きながら浮かぬ顔をしている。

「雨の中、お疲れさまでした」

「はあ。業者が今、帰ったんですがね。ちょっと・・・・・」

「え?」

「問題が─」

 ああ、ちくしょう。今度は何だよ。

「事前調査自体は十五分足らずで済んだんですが─」

 現場では業者一人がゴミ屋敷の内部へ入り、滝野は玄関先で待機していたという。異変に気づいたのは一通りの下見が終わろうとする頃だった。

 強雨が降りしきるゴミだらけの庭先、人の背丈ほどの雑草が生い茂る奥の一画がいきなり不自然に揺れ動いた。

「雨は酷かったけど、風はほとんど吹いてなかったんですよ。それなのに草むらが左右に大きく波打ったんで、雑草を掻き分けて確認したら─」

「何がいた? 」

「いや、その瞬間は何も」

「どこかの飼い犬が逃げたとか。じゃなきゃ猫とか? いや、この近くの山林って狸やハクビシンも出るそうだから─」

 Pであることを否定したい気持ちがどうしても先だってしまう。だが、滝野は即座に否定してスマホの画面を突きつけてきた。

「草むらが動いてすぐ撮ったんですが─」

 手振れと露光不足でぼやけており、ゴミ屋敷の庭先だと辛うじて分かる画像。その後面の低い部分を線状の薄い影が斜めに走っていった。地面から伸び上がった黒蛇の群れにも見える。

「何、これ」

「判りません。目視はできなくて、カメラにだけコレが写っていました。ただの手ぶれか光の加減かもしれないですが、それとほぼ同時に屋内から業者の叫び声も聞こえてきましてね。慌ててわたしも家の中へ入ったら、ゴミが天井まで積まれた廊下の奥から彼が顔出して、台所に積まれた黒いポリ袋の山が急に動いたような気がしたって。

 ただ、まあ室長が今言ったように、あの業者も猫か何かじゃないかとは言ってました。小動物が住み着くことは良くあるそうで」

「でも、猫じゃないと? 」

 滝野は慎重に頷いて画面の端を拡大した。

「ほら、ここ。この黒い影が溶けるように消えてる壁の部分。ここはあの家の台所裏なんですよ。それでカラダが入るギリギリまで踏み込んで、袋が動いたっていう場所の目視を続けてみたんですが─」

 すでに気配は消えていた、と滝野は言った。そこで業務規則に従って単独での深追いは止め、いったん業者と共に玄関先まで戻ったところ、折良く警備班の覆面車両が通り掛かった。それを呼び止めて事の次第を伝え、今も外から目視の最中だという。

 壁を抜けて屋内へ入り込む影─。次から次へといい加減にして欲しい。

「取りあえずはあそこにもカメラを設置ってことになるかと。場合に拠ってはゴミ撤去の日にちをずらす必要も」

「その手配と本部への報告、お願いできますか? 念のために画像も添えて」

「ええ、はい。済ませたらわたしもまた見に行きますが、ただねえ・・・・・」

「他にも何か? 」

「うーん・・・・・」

 滝野が珍しく弱音を吐いた。

「いや、家の内部を探索ってことになったら嫌だなって。とにかく臭いが凄まじくてね。あの業者も防毒マスク付けてたし」

 屋内調査は基本的に警備班の管轄だが、人手が足らなければ管理室の人員も駆り出される。滝野に同じくそうならないことを祈るばかりだ。


「室長、いらっしゃいましたよ」

 駐車スペースに面した窓際のデスクから声が上がった。言われるまま外へ目を向けると、漆黒のセダンと二台のバンが続け様に駐まった。

 セダンの後部からクラシックスーツに身を包んだ細身の人影が降り立つ。

 薫森祥子は傘を開き、辺りを無表情に眺め渡した。

 遠目にも端正な美貌が目立つ年齢不詳の女。今日も長い黒髪をそのまま垂らしている。

 計算高くて老獪、冷酷。そのくせ気紛れな言動も多く、直に接すると神経が磨り減る相手だ。できれば一対一で話したくないのだが、今日はそういうわけにはいかないだろう。

 遅れて反対側のドアも開き、白いTシャツにジーンズというやけにラフな出で立ちの女が雨烟りの中に姿を現した。

 こちらは鮮やかな赤毛のボブヘアーに抜けるような白い肌の持ち主。身長は恐らく滝野よりも高い。ということは二メートル弱か・・・・・。とにかくその長躯が薫森祥子のすぐ隣に立ち、一種異様な絵を描いている。

「クシャナが巨神兵、連れてきた」

 声に振り返るとまた川瀬が立っていた。

「何だよ、その喩え」

「何かあったのかも」

「えっ? 」

「親がその手のアニメ好きで、子供の頃に良く見せられたんです」

「いや、そうじゃなくて、あの外人は誰。知ってるの? 」

 川瀬は頷き、耳打ちしてきた。

「─リーザ・フェドトブナ。公的な科学論文に載ったこともあるクレアヴォイアントで、このプロジェクトの外部監修者ですよ」

「クレアボ? 」

「透視能力者」

「初耳だ」

「僕も最近、知りました」

 先刻の会話が脳裏に甦った。成澤が仄めかしていた、超常現象に対応するための顧問的存在というのはこれのことだろうか。

「このプロジェクトってワールドワイドなんだな。まあ、金に厭かしてっていうか、とにかくスゲエな」

「ロシアだか東欧だかの研究機関からスカウトしたらしいです。ホントに今日は何で来たのかな。この場の影響を受けたくないって、来るのを拒んでいたはずなのに─」

 川瀬は言いかけたまま指差した。

「─あれ」

 目を逸らしていたわずかな隙に窓外の様子がおかしくなっている。最前まで傘を手に並んでいた二人がいつの間にか向かい合いで睨み合っていた。

 薫森祥子は大仰に身を反らせてフェドトブナを見上げ、一方的に言い募っていた。雨音に掻き消されて内容は聞き取れないが眦を激しく釣り上げているのが見える。

 手前側に駐まった方のバンの後部扉が開き、黒縁眼鏡に地味なネイビーのスーツを着た小柄な中年女が飛び出してきた。これは通訳担当者か。顔の向きを忙しなく変えて二人の会話の橋渡しを始める。

「彼女、一応は英語も話すらしいんですが、それほど堪能じゃないみたいで、とくに透視している時なんかは母国語に戻るそうです。ってことは今も」

「何、揉めてんの? じつは仲が悪いとか? 」

「うーん、とばっちりが来なきゃ良いけど」

 通訳を介した遣り取りがしばらく続いた後、薫森祥子は自分の傘を地面へ放り投げた。そのまま大股歩きでセダンへ戻ると、乗り込み様に怒声を放つ。

「話が全然、違うじゃないの! この役立たず!」

 今度ははっきりと耳に届いた。横で川瀬が怖じ気づいている。

「室長、お腹が痛いんで早退させて─」

「それはこっちのセリ・・・・・あ、出て行った」

 薫森祥子を乗せたセダンが駐車場を去っていく。残されたフェドトブナと通訳も浮かぬ顔でバンへ乗り込んだ。

 ブルゾンのポケットがバイブした。取り出したスマホの画面を見て、躊躇いながらも耳へ宛てる。今しがたの癇癪が嘘のようにいつもの無感情な声が響いた。

「─同行してください。身ひとつで結構です」

「えっ」

「今、そこに一台残っている車へ。中途の業務の引き継ぎなどはこちらで手配します」

「何処へ? 」

「いったん、城西市内の施設へ向かいます」

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