16 午睡の夢 - 高村有希子
冷たい湿気が肌に纏わりつく暗闇の中、月明かりを遮る木立ちのざわめきを聞きながら枯葉が降り積もった細い山道を手探りで歩き続けていた。
人気のない山中を徘徊し始めてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。目測を誤って片輪が溝へ嵌まり込んだ車を乗り捨て、目に付いた未舗装の脇道へ入り、そのまま山林の深奥へ迷い込んでしまった。そのうちに日も暮れて、見渡す限り一点の灯りも見えない。
万が一の追跡を躱すという頭があったせいで自ら墓穴を掘ってしまった。
今の時刻を確かめて、覚束ない足許も照らしたいのだが、いつの間にかスマホを失くしたようだ。所持金の入った大切なバックもない。途中で落としたのか、車中に置いてきてきたのか。
次第に違和感が強くなっていく。歩いたり、休んだりを繰り返しながらすでに半日以上が過ぎているはずなのに、喉の渇きも空腹も感じない。いや、何よりも不安や焦燥の気持ちが一向に湧いてこない─。
突然、記憶の齟齬に思い当たった。さっきはどうして車を乗り捨てたと思い込んだのだろうか。そもそも今日の昼過ぎには実家へ戻ることができたのだから、今頃こんな場所をさ迷っているはずがない。だからこれは現実ではないのだとようやく理解した。
(明晰夢? )
意識を集中すればすぐにも目を覚ませそうな気がしたが、何度試しても瞼が開かない。脳は覚醒しているのに身体が眠ったままの奇妙な感覚が続く。
ともあれ、たわいもない夢だと解ったのだから無理に目覚める必要はない。悪夢よりも異常な現実に立ち還るよりこのままでいる方がずっとマシだ。
こうした夢の中身は自分の意志で書き換えられると何かの本で読んだ覚えもある。ならば、ひとときの心の慰めになる何かを見てみたい。
(何だろう。わたしが今、見たいもの。会いたい誰か・・・・・何もない)
やがて暗中に複数の煌めきが現れた。その光源へ少しずつ近づくにつれて、それが森の中に広がる庭園の外灯とさらにその奥に聳え建つ石造りの洋館の窓灯りだと判った。
欧米の貴族の館のような佇まい。本格的な石造りの重厚な趣きに圧倒されながら、恐る恐る敷地へ足を踏み入れる。巨大な鉄柵の門扉を過ぎると木の枝の擦れ合う音に混じり、そこかしこの窓明かりの向こうから人々の談笑する声が漏れてきた。
長いアプローチの両側には、数え切れない数の高級車が駐まっていた。小径に沿って等間隔に並ぶ常夜灯のポールがその誇らしげなエンブレムの群れを照らし出している。
(ベンツ、フェラーリ、ポルシェ、ジャガー、BMW・・・・・あはは・・・・・ここまで追い詰められてもまだこんな薄っぺらい夢しか見れないんだ、わたし)
絶望に駆られて笑い、車列から目を背ける。ようやく屋敷の入口に辿り着いた。目前の石壁に触れてみる。冷え冷えとしてざらついた感触が掌にしっかりと伝わってくる。
頬を掠める森の夜風。絡まり合って漏れてくる大勢の人の声。グラスや食器がぶつかり合う微かな音に焼けた肉と野菜の匂い・・・・・。五官を通して迫る総ての存在感があまりにもリアルだ。これは本当に夢なのか─。
躊躇いながら指先を滑らせて、屋敷の威容に相応しい重い観音開きの扉を押してみた。
するとそれは音もなく左右に開き、煌々とした光に溢れた屋内の様子が目に飛び込んだ。
豪勢なシャンデリアとスタンドライトに照らされた吹き抜けのホールには、数百の群衆が犇めくように集い、どの人影も和洋の正装に身を包んでいる。
(こんな山奥でパーティ? )
賑やかしく談笑する人々の中からタキシードを着た四、五人の男たちが抜け出してきて、忽ち彼らに取り囲まれた。歓迎されている雰囲気ではない。そしてどの顔も容貌が掴めない。目と鼻と口の位置が福笑いのように崩れて見える。この曖昧な視覚も夢ゆえか。
男たちは無言のまま有希子の背後へ回り、有無を言わさず押し出される格好になった。同時に前方の人群れが次々と両脇へ避けて道を作る。
男も居れば女も居る。老人、中年、若者に子供と年頃も背格好も様々だが、いずれも目鼻の配分がおかしい。その不気味な顔の群れが一様に口角を釣り上げ、剥き出しの歯をこちらへ向けてきた。
(ああ、この夢もあのバケモノの仕業!)
そう気づき、何とか目覚めようとまた足掻く。何度も瞼を閉じてまた開く。身体のあちこちをつねってみる。だが、どうしても覚醒できない。人壁に退路を断たれたまま、さらに奥へと突き進むしかなかった。
(! )
広大なホールの中央まで追い詰められた有希子は、そこに置かれた巨大な円卓を凝視した。料理が盛られた無数の皿、林立する酒瓶、白磁や銀の食器などが所狭しと並ぶ卓の真ん中に人の影がある。
仰向けに倒れたその横顔を燭台の灯の揺らめきが照らしている。十歳にも満たないくらいの小柄な幼女だった。白茶けたような襤褸布を身に纏い、痩せ細った手脚をテーブルクロスの上に力無く投げ出している。ここにいる連中はこの女の子をどうするつもりなのか。
薄汚れた手指と足の爪先が微かに震えているのが見えた。さらに目を凝らし、細かい顔の造作を伺う。目が落ち窪み、頬も痩けていたが、子供ながらに端正で気品のある顔立ちをしている。小さなお姫様、という言葉が頭に浮かんだ。
幼女もこちらの気配に気づき、ゆっくりと視線を泳がせてきた。カラカラに乾いた小さな唇が声を発さぬまま「タスケテ」と動く。有希子はテーブルを目掛けて突進した。
走り込んだ勢いで卓上へ飛び乗ると、皿とグラスの山を蹴り散らしながらぐったりとした肢体を胸に掻き抱いた。
(温かい)
色褪せた紅葉のような掌が微かな力でしがみついてくる。その瞬間、頭が白くなり、得も言えぬ愛おしさが込み上げてきた。
(何、この感じ・・・・・)
母性愛と呼ばれる感情を自覚したことはこれまで一度もなかったと思う。それがこの子を見るなり激しい怒りが湧き上がり、護らなければいけないという強烈な想いに駆られた。
(この惨めな子供を自分のことだと思っているんだ、わたし)
有希子は合点し、幼女に微笑みかけた。
「一緒に逃げよう」
これはただの夢。今、目の前にいる人の形に似たバケモノの群れも、現実の自分に危害を加えることはできない。だから、思うままに振る舞おう。暴れているうちに目が覚めるかもしれない─。そう頷いて、力強く立ち上がる。
片腕に幼女を抱いたまま、ローストビーフの塊に添えられた長刃のカービングナイフの柄を掴み取った。片手でそれを前へ突き出すとそのままテーブルを縦断し、円卓の反対側着地する。
子供の重みはほとんど感じない。空気で膨らませた人形のようだった。おかげで思うまま動き回ることができる。握り締めたナイフを盲滅法に振り回すと、タキシードとイブニングドレスの群れが大きく波打った。
まるで十代の頃のように軽快に動き回れる。跳躍すると男の背の高さを悠々と越えた。
腕を伸ばしてナイフを一閃させると、蜘蛛の子を散らすように人が逃げ惑う。楽しい。全身の血が沸き立つ。楽しくて堪らない。
目前に立ち塞がる男に女、そして老人や子供にまで見境なく斬りつけながら、有希子は高揚の感覚に酔い痴れた。
(あの時も同じだった)
賢哉を刺した時、その腹を抉りながら笑いが止まらなかったことを思い出していると、急に足が竦んで動けなくなった。いつの間にか周りにいる全員が賢哉の顔に変じている。
「ホントにしつけえババアだなぁ。こんなとこまで探しに来やがって。はぁん、俺のデカマラが忘れられねえってかぁっ。んぎゃははははははっ」
黄色い膿汁を口の端に滴らせながら、先頭の賢哉がおどけ声を張り上げると、続く賢哉たちも釣られて笑い出す。ホール全体に下卑た哄笑が轟き渡った。
爛れ腐れた同じ顔の群れが四方八方から一斉に迫る。有希子は声にならない絶叫を繰り返し、どんどん片隅へ追い詰められていく。大切に抱えていたはずの少女の姿もいつの間にか腕の中から消えていた。
戦慄きながら後退るうちに、背後に上り階段があることに気づいた。
震える刃先で牽制しながら、その段を後ろ向きに上がり始めた。縋り付こうとする人影を薙ぎ払い、蹴り飛ばし、次々と階下へ突き落としていく。
「ああ、ああああっ。しつっこい! イイ加減にくたばれっ! 」
そのまま階上まで辿り着くと忙しく周囲を見回した。左右に伸びた通路の両端にいずれも扉のない、四角い空洞が見える。右奥に新たな追っ手の気配を感じ、迷いつつも左側へ走る。
左の出入り口を過ぎた先には下りの螺旋階段が控えていた。恐る恐る見下ろしてみたが終点の床は確認できない。どこまでも闇が続いているだけ。
だが、ここを降りれば屋外へ出られるかもしれない。この洋館は山の斜面に建っていた気がする。となれば、地下深くまで降りるような下り階段の先には斜面の下側へ繋がる別の出入り口があるはずだ。
躊躇いを振り払って一歩踏み出す。縺れる足に気を配る余裕もなく、半ば転がる勢いで手摺りのない階段を駆け下りた。
左旋の下降は延々と続く。上方から照らす光も遠くなり、次第に闇が深まっていく。視覚が完全に閉ざされた頃には降りている理由自体が解らなくなっていた。
とにかく、この螺旋の底まで辿り着かなくては─。ただ、その一念に凝り固まって降り続けていると、階段の厚板が消え失せて足裏の感触が変化した。
歩を進めるたびに踝の辺りまでザクザクと沈み込んでいく。砂利の積層を踏んでいるようだ。そこでようやく立ち止まり、ゆっくりと目を上げた。
最前より薄まった闇の中に、ただ独り立ち尽くしている自分がいた。
ともあれ、屋外へは出られたのだろうか。駆け下りた段数を考えれば、ここは上の地表の遙か下方であるはずだが・・・・・。
頭上には月も星も樹木の影も見えない。地平線との境目も定かではない無窮の空間が広がるばかりだ。一体これはどういう夢なのか。
有希子は心細さに身を縮こまらせた。ふと足許へ目を落として喉が詰まる。砂利だと思い込んでいたのは細かく粉砕された人の骨だった。
頭蓋骨、頸椎、骨盤の残骸と右も左も後ろも前にも骨骸の野原がどこまでも続いていた。
眩暈に襲われて目を背けると、すぐ間近に鮮やかな緋色の光帯が立ちのぼるのが見えた。
鉄錆のそれに似た生臭さが鼻を突く。
陽炎のように揺らめく赤光、その中心に仁王像を思わせる巨躯の人影が立ち現れた。
筋骨隆々の裸身を晒した大男。それが斧か鉈のような刃物を握り締め、手前に向かって幾度も振り下ろしている。その足許には切り刻まれた手脚に首、胴体が山を成していた。
「ぎひいいいいいーっ」
断末魔の叫びが響き渡る。今、大男が押さえ込んでいる丸裸の女はまだ辛うじて生きているようだった。細くて白い四肢の先をぴくぴくと痙攣させて暫くは藻掻いていたが、分厚い刃面が首筋へ打ち込まれるとその悲鳴が途絶えた。
大男は人体の残りの部分の分解作業を始めた。絡みつく腸を引きちぎり、先に切り離した生首と腰部の肉を縦に重ねて捏ね上げる。やがて出来上がった血肉のオブジェを頭上まで抱え上げ、満足そうな笑みを浮かべた。
「ううっ・・・・・」
有希子は激しい吐き気と共に呻き声を漏らした。それを聞きつけた大男がゆっくりとこちらへ向き直る。血走った眼に射竦められたまま凍り付いた。
男は生首と女性器を纏めた奇怪な塊を足下へ投げ下ろすと、歯を剥き出して目を細め、股間に屹立した長大な陰茎を見せつけるようにしごき上げる。そして、口を動かさぬまま嘲りの声を轟かせた。
「俺のデカマラが忘れられねえってかぁーっ」
「ひっ・・・・・」
足が竦んで言うことを聞かない。無理に踏み出すと腰が砕けた。そのまま骨屑の地べたを這い回るうちにキュロットの裾を掴まれた。
「ひいっ」
飛び上がって振り返る。いつの間にかすぐ背後に森の館で助けたあの幼い女の子がしゃがみ込んでいる。
幼女は有希子の口を塞いで前方を指差し、先導するように走り始めた。骨の山を蹴り散らかしながら、小さな背中を懸命に追いかける。ようやく横に追いついて手を繋ごうとしたが、素っ気なく振り払われた。
逃げ惑うすぐ傍らで新たな陽炎の渦が幾つも立ち上る。それぞれの光帯の内側では最前と似たような阿鼻叫喚の地獄図が繰り広げられていた。屠殺者はいずれも屈強な大男。殺されているのは裸に剥かれた男と女、大人に子供たち。斬り落とされた手脚と首が四方に跳ね飛び、血と糞尿の激臭が辺り一面を覆い尽くしている。
「まっ、待って。何処行くのっ」
走りながら問い掛けたが幼女は答えない。その痩せ衰えた顔はただ前だけを真っ直ぐに見つめている。
(この子、誰・・・・・)
際限なく噴き出してくる光帯の群れの隙間を縫うように、あちらこちらを逃げ回る。するといきなり足裏が宙を踏み、そのまま落下する感覚に包まれた─。
─全身を貫く激痛に苛まれながら、有希子は薄く目を開いた。遙か上の夜空には半ばまで欠けた月が浮かび、岩肌が露出した険しい谷地の一帯を静かに照らし出していた。
起き上がろうと足掻いたが指先ひとつ動かせない。右腕の掌と左脚の爪先があらぬ方向へねじ曲がっているのが解った。
(ううっ・・・・・どうして・・・・・)
これは夢なのか、妄想なのか、現実なのか。それとも自分はすでに死んでいて、果ての無い冥界を彷徨っているのか。白く濁った意識の中で虚しい自問を繰り返していると、割れた額から滴った血の雫が左の視界を塞いだ。残る右目で前方を見つめ、長々と絶望の溜息を漏らす。
(ああ、やっぱりあのバケモノ女が、また来た・・・・・)
夜空から舞い降りた枯れ木のような影が地上すれすれの高さに浮かんでいる。
いつも逆巻いて背側へ靡いている針金のような黒髪が今は大人しく肩下へ垂れていた。また珍しく笑ってもいない。大きな口をわずかに動かして虫の羽音に似た息遣いを響かせるだけ。その息の音に合わせて有希子も呻く。
「ううう、痛い、痛い、痛い、痛いよぉ、ママ・・・・・うううううあああああ・・・・・ああああああああああああああああっ」
有希子は絶叫と共に目を覚ました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。