15 出張所・地階管制室 - 植原尚寿

「ようやく家へ入った─」

 大型の画面に映る高村邸の様子を眺めていた成澤が、腕組みをしたままゆっくりと振り返った。痩せ気味の長身で顔色が優れず、独り憮然とした成りでいることが多い男なのだが、それが今日はいつになく表情が明るい。しかも多弁だ。

「念のために確認したら、失踪時に乗っていたのと全く同じ車種でしたよ。おまけに服装なんかもまるで一緒。どう思います? 」

 答えようがない。それらしく眉間に皺を寄せて誤魔化した。考える振りをして、いつものように上からの指示を受け、後は機械的に対応するだけだ。ここで起きる現象をまともに受け止めると気が狂う。

 成澤はいったん画面の前から離れた。その間、撮影のアングルが何度か切り替わる。高村有希子が屋内へ入ってからは何の変化もない。

「良かったら、コレ」

 スペース隅に置かれた小型冷蔵庫から取り出した飲料缶を手渡され、有り難く頂戴する。口を湿らせるだけのつもりが、ひと息に飲み干してしまった。

「もう一本、どうです? 」

「いや、十分です。ありがとう」

「地下は給湯室もないし、いつまで経っても自販機も入れてくれないから買い置きしてるんですよ。あの冷蔵庫もね、去年の夏に我慢できなくなって自分ちの持って来ちゃった。立派に規律違反なんだけど、まあ見逃してくれたみたい。あはは─」

「あの、逆にご意見を伺いたいんですが」

「はい」

「彼女、今までどこに隠れて─」

「さあ・・・・・にしても、同じ車種に服まで一緒ってオカシ過ぎるでしょう」

「本人の車と携帯は見つかっているんですよね」

「そう。上越の山中で」

 この事件が発覚したのは二年前の九月末から十月初め。その頃、千葉市内のマンションの一室で男性の腐乱死体が発見された。死因は刃物で刺されたことに拠る失血で、死後三週間近くが経過していたという。

 それから程なく高村有希子が重要参考人として指名手配され、警察はほぼ同時に妙高高原の特定エリアを捜索した。その付近で脱輪して乗り捨てられていた赤の軽ワゴンが高村有希子本人の所有車であったことを突き止めていたからだ。

 だが結局、身柄の確保は叶わなかった。手配を受ける十日前、姉の亜紀子との通話を最後に消息を絶ったまま現在に至っている。

 つまり、彼女は今日わざわざ当時と同じ型の車を選んで運転し、失踪時の服装まで再現して実家を訪れたことになる。答えを期待せず成澤にまた訊ねた。

「どういうことでしょう? 」

「長い逃亡生活のうちに気が触れたとか」

「もし、ナンバープレートも一致していたら─」

「うーん、今はそこまで考えたくないかな」

「んん・・・・・」

「でも、まあ、あり得ないことが起きるのがこの場所です」

 成澤は缶コーヒーを一口啜った。ぐびり、と大きな喉音が響く。そのまま共に押し黙り、しばらくして向こうから切り出してきた。

「室長はまだ四ヶ月足らずですよね、ここへ来て」

「ええ」

「僕はそろそろ三年半。上にいる滝野さんよりもさらに前から関わっていて、何て言うかな、さすがに限界でね」

「解ります」

「で、ようやくお役御免になるって時にこれですよ」

「ここを離れるんですか? 」

「まあね。そんなことより、途中でNシステムとかに引っ掛かってる可能性が─」

「あっ、ですよね─」

 慌ててスマホを取り出すと、成澤は頭を横に振った。

「報告済みです。取りあえず、経過を注視しろって」

 本部は大きな騒ぎになることを何よりも嫌う。だからその芽を見つけ次第、迅速に刈り取れと厳命されているわけだが、すでに事態が進行して司直の介入などが避けられない状況下であれば、逆に全力でスルーしろとも言われている。

 要するにどこかの家で誰かが死んで、仮にそれが殺人だったとしても、そのこと自体には関わらないスタンスなのだ。過去の犯罪や刑事事件も然り。

 市政や県政との間に特別なコネクションが存在し、地元警察も差し障りのない範囲内で便宜を図ってくれるとも聞かされている。諸々、隠蔽する手筈も整っているようだ。

 ただし、この件には重要監視対象の最右翼が絡んでいる。今までのようには行かないかもしれない。

「この家の監視カメラ、何台くらいあるんですか? 」

「具体的な設置場所は教えられないけど、常時五台以上が稼働しています。近くの電柱や接収済みの空き家なんかを利用してね。何せトップの監視対象だし、何やかんやで機材が壊れるから─」と力無く笑いながら、また音を立てて缶の中身を啜り込む。

「─屋内設置も試したけどダメでしたね。たまに本人が外へ出ても、あそこへ忍び込むのは余程の勇気が要るし・・・・・あ、一度だけ一階の居間へ隠すことができたんですが、それも二時間でぶっ壊れました。例によってアレですよ。局所的な電磁気異常ってやつ」

 成澤は椅子から立ち上がり、管制室の片隅を指差した。そこには簡素なテーブルと数脚のスツールが置かれている。

「あっちで」

「監視は? 」

「大丈夫。この中継は今、本部の人間も見ているので。それにもし誰か駆り出されるにしても、どうせ警備部の関係者だろうし。僕や室長にできることは取りあえず何もありません」と、場所を移るなりテーブル上のPCを立ち上げ、画面に出たデータの日付タイトルをスクロールし始めた。

「室長、これ─」

 高村邸の二階にあるベランダの風景がモニターに映し出される。

 着任早々、プロジェクト長に呼ばれて見せられた、忘れもしない魔女の映像─。画面上のタイムコードは二年前の五月二日、午前十時十五分。プロジェクトが始動して一年経った頃に撮られたものだと聞いた。何故、今更これを見せるのか。

「僕のささやかな置き土産です。薫森さんには内緒ってことで。ま、バレても良いか」

 成澤は投げ遣りに笑った。一時停止していた画面が動き出す。


 ─手前から陽光の条線が差し込む、四畳ほどのベランダ。そこへブラジャーとショーツだけを身に着けた高村亜紀子が屋内から現れる。

 長い黒髪を手指で梳きながら、辺りを物憂げに眺め渡している。

「イイ女ですよねえ。顔もカラダも堪らない。ぶっちゃけ、モロ好みです。しかもこれが五十に近い歳って、そのことだけでも魔女ですよ」

 成澤はますます饒舌になっていく。色気を滲ませた人間味のある台詞も、その口から初めて聞いた気がする。この職場から解放されることが嬉しくて堪らないのだろう。早く同じ喜びを味わいたい。

 ─高村亜紀子は顔を上げた。そのまま空を見上げる様子が続く。ここまでカメラの視座は彼女の全身を捉えていたが、ここで映像に乱れが生じる。

 激しいブロックノイズは徐々に収まるが、再び映し出された直立の肢体には目を疑う異変が起きている。

 これを初めて見た時は、女の背丈が伸びたのかと思った。カメラがクローズアップしたわけでもないのに、フレーム上辺から頭部までの隙間が狭くなっていくからだ。

 画面下部から上がってくるフリッカーノイズも鎮まると、何が起きたのかがようやく判る。ベランダの床から足裏が浮き上がっているのだ。

 半裸の白い肉体は垂直に浮上し続けて、肩の辺りまでフレームアウトした。

 成澤はそこでまたビデオを静止させた。


「じつはこれ見せられた時に思わず吹いちゃって。薫森さんにえらく睨まれました」

「そりゃね、ネットの動画やらゲームやらでさんざん見てきたようなシーンだもん。まずフェイクだって思うのがまともな反応ですよ。でもね、後で寝床へ入って真っ暗な中でふと思い起こすと、これがまた急に恐ろしくなるんです。それこそ、居ても立っても居られないくらいにね。少なくとも僕はそうだった」

 相手の顔色を見ながら恐る恐る訊ねる。

「あの、それは具体的にどういう? 」

「心境? そうだなあ。オバケが怖いっていう単純な話じゃないです。何ていうか、普段の自分の感じ方や考え方に対する不信感かな。AIが創ったぶっ飛んだ映像やVRゲームなんかが溢れ返っているせいで、物理法則に反した現象を見てもさほどショックを受けない自分が逆に怖いっていうか。

 このまま現実と虚構の見分けが付かなくなって、どんどんぶっ壊れていくんじゃないかって・・・・・」

 数秒、顔を見合わせた。

「やはりワイヤーとかCGでは─」

「残念ながら。だから、ここで働く以上はまずこの現実を受け容れるしかない。でも、受け容れすぎるとそれはそれでヤバイ。そこの距離感というか加減が難しい」

「下の皆さんは、他にも色々と見ているわけですよね? Pが起きる瞬間とかも─」

 成澤は答えず、缶の残りを飲み干した。

「ああ、ちくしょう。酒飲みてえ」

「はは・・・・・」

「近々、飲りましょうよ。僕が完全にお役御免になる前に」

「ぜひ」

「じつはこのデータね、続きがあるんです」

「え? 」

 初めて見る後半部に忽ち目が惹き寄せられた。


 ─黒地のレースの胸元がフレームの外へ飛び出した辺りで、肢体の上昇はぴたりと止まり、そのまま左回りに旋回し始めた。

 真下を向いた裸足の先端はぴんと張り詰めたまま微動だにしない。

 安定して回る独楽の軸を思わせる、一直線に伸びた長脚のライン─。バレリーナが爪先立ちでジャンプした状態が空中でそのまま持続するような景色だった。

 重力に逆らった女の肢体は盆提灯ほどの速さで回り続けながら、元の位置まで緩やかに降りてきた。

 そこでまた激しいノイズが走り、その乱れた画面の中で高村亜紀子がこちらへ向き直った。満面に笑みを湛えながら、カメラのレンズをはっきりと指差す。

 何事か囁くように唇が動いている。短く「おいで」と繰り返しているように見えた。

 ─画面が暗転した。


「これ・・・・・」

「そう。自分が撮られていること判ってんですよ。しかもそれは多分、高村亜紀子だけじゃない。プロジェクト長はこういう肝腎な部分を教えてくれないでしょう? 」

 頷くと、こめかみにまた痛みが走った。頭痛薬が効いていない。首筋から噴いた冷たい汗が背中を伝っていくのを感じた。

「とっくに気づいていると思うけど、ここは本来全員で共有すべき情報が階層ごとに遮断されているんです。

 まず、接収の交渉をしている城興の営業や派遣の形で働きに来ている他の連中は、特殊用途の再開発事業としか聞かされていない。で、ここの上の階の奥にいる管理室のスタッフは当然、彼らより多くのことを知っているわけですが、その中で重要監視対象の世帯があることまで教えられているのは室長を含む数名だけってわけ」

「成澤さんは? 」

「わたしたち? まあ、こうしてモニターと睨めっこしてるから、一階の人たちと比べれば倍以上の情報に触れてますがね、それでも百パーセントには程遠いです」

「あの・・・・・この部屋自体に監視カメラとかマイクは? 」

「ああ、そこは大丈夫。僕らが今いるスペースは完全な死角だから。たまにプロジェクト長とその取り巻きが、本部のラインに乗せたくない内密の話し合いをしたりもするんで」

 現場の末端だけでなく、本社上層部へ流す情報まで操作しているということか。そこまで恣にできる薫森祥子とは何者だ。

「プロジェクト長って、創業者一族の人ですよね? 」

「亡くなった初代会長の三女です」

「えっ、娘? 既婚者ですか? 」

「違います。過去に婚歴もないはず」

「姓が─」

「事情があるんでしょう」

「もしかして薫森さんたちは、ここで起きていることの原因もすでに・・・・・」

「突きとめてるかって? どうなのかなぁ」

「全てこの高村亜紀子に起因しているってことでは? 」

「だったら、もっとピンポイントで対策しますって。この施設の維持費だけでどれだけ遣ってるか、室長もご存知でしょう。初期費用を合わせたら中規模以上の会社を興せる額ですよ─」

 ここまで腹を割って話すということは、レイコウの組織自体から完全にフェードアウトつもりなのだろう。優秀な理系は引く手あまたなのか。羨ましい。この際なので一番疑問に思っていることをぶつけてみた。

「あのですね、こういうのって普通はもっと素朴な対応というか、何て言うのかな、笑わないでくださいよ。例えば、まずはどっかの偉いお坊さんとかその道の大先生にお祓いを頼むとかですね─」

「さんざん試しました。内々の噂じゃあ、十人以上が死んだとか何とか─」

 カフェで見た女の顔がまた思い浮かぶ。皆、あのように青膨れ、白目を剥きながら倒れていったのか。

「もっとも、今も顧問的な立場の人間はいますけどね」

「やはり、霊能者とか祈祷師? 」

「僕はその辺、詳しくないんでどういうカテゴリーなのかは知りませんがね。まあ、そのうちに室長も会う機会があるかも。

 で、話を元に戻しますが、根本的な問題はそもそも何でここに余計な金を注ぎ込むのかってことで」

「それは企業イメージを損なう─」

「噂を根絶やしにすれば済む話でしょ。それだけの力があるんだから」

「薫森さんは、できなかったって」

「談合、贈賄、裏金作り。下請け虐めに工事偽装、環境破壊。内側見ても過労死やら大量の不当解雇やらとさんざんやらかして騒ぎになっても、何処吹く風で澄ましている連中ですよ? 政治屋と役人を手懐けてるし、外国資本の本丸とも繋がりが深いからもう余裕綽々でね。そんな怖いモノなしの悪徳企業が何でオバケが出る住宅地にだけ、ここまで過剰反応するんですか? 」

「事業分野の拡張に伴って、公器としての社会的責任に目覚めたとか─」

 成澤はにやけた笑みを浮かべた。

「わざと言ってるでしょ。見掛けに拠らず人が悪いなぁ。レイコウに責任とかモラルを求めるって、人命救助する殺人鬼ぐらい矛盾してるわけで」

「辛辣ですね」

「こんな得体の知れない糞仕事を強いられりゃ、そうなりますって」

 モニターをオフにした成澤が少しだけ顔を寄せてきた。

「ところで接収の進捗具合は? 」

「四区の最優先エリアは七割方で、全区まとめると三割ちょっと」

「わずかな間に進みましたね。さすが、後任に抜擢されただけある」

「わたしの力じゃありません。そもそも建設や不動産管理なんて門外漢も良いとこだし。本来はマーケティングとかSP畑の人間なんですよ。それがレイコウの関連会社に移ったとたんにCSを任されて─」

「でも、その実績を評価されたわけでしょう? 移籍したのはいつ頃なんですか? 」

「ヘッドハンティングされたのは三年・・・・・いや、お袋が死んだ直後だから二年半前か」

「へえ、そんなに短いキャリアだったんだ」

「だから今回どういう基準で出向候補に選ばれたのか、未だにサッパリ・・・・・」

「最近はグループ内の人事選考にAI併用してるって噂もありますけどね。でも、立派に結果が出せているわけだからそれはそれで良いことじゃないですか。実際、この錯綜した現場を仕切れるってホントに凄い能力だと思うし─」

 城興グループが進めている土地買収の目的は、隣の城西市に建設中のスマートシティと連動した高齢者用集合住宅、およびその企業本体であるレイコウの名を冠した次世代技術研究施設の新設ということになっている。

 その新たな研究施設では建設、エネルギー、バイオケミカルといった従来の主力分野に加え、教育、医療、生命工学など人間科学の諸分野に亘る幅広い開発事業に着手する予定らしい。

 さらにそこから生み出された新技術と商品を、今後も拡大展開予定のスマートシティ構想へ随時投入していく計画が控えているとも聞いているのだが、出向前のガイダンスで仄めかされた上層部の本音に従うなら、それら壮大なビジョンの大半が単なるダミーの可能性もあるわけだ。

 現に隣の城西市でもこの構想の内容と重複した研究所の建設を進めており、そちらはほぼ完成している。似たような施設を重複して設ける必要があるのか。

 要は現住世代が死に絶えて、完璧に廃墟化する日を待っているだけ─。その間、隙の無い管理を継続し、プロジェクト長が再三言っている風評被害の根を完全に断てれば、そこで目的達成ということではないのか。

 ただ、そうなると今度は高齢者用マンションの着工だけを妙に急ぐ意味が理解できない。成澤に訊けばそれについても教えてくれるだろうか。

「今、言った最優先で接収してる場所のことなんですが、いきなりブルトーザー入れて測量や仮囲いしましたよね。まるで全体の買収完了を待たずにあそこだけ進める勢いで。それでいてその後は工事が進展しない。あれ、一体どういう意図なんですか? 」

「本部は何て? 」

「家を売った住人の代替住居だから、手を入れられる部分から急いでるって」

「辻褄は合うと思うけど」

「でも、余りに拙速ですよね。見切り発車っていうか。現場で動いてる営業の連中は、今のままの提示額だとこの辺が限界だって明言しているのに」

「あっ、今夜もまた説明会か」

 成澤は目を逸らして呟いた。はぐらかそうとしているのか。あるいは彼も知らない上層部の意向がこの問題にも絡んでいるのだろうか。

 藪蛇になったらこちらも怖い。何れ深掘りするのは止めることにした。

「今回は七時からです。連休明けにどれだけ人が集まるか知らないけど、上で営業が準備してます」

「まあ、そこそこ来るんじゃないかな。毎回そうみたいだから。ただ、今の土地家屋の代わりに介護付きの集合住宅を用意ったって、少なくともバーターに近い形じゃないとね。みんな昔、一億前後で買った頭があるから」

「接収の目的が知られ過ぎていて、そこへさらに尾鰭も付いている感じです。純粋に立ち退きの補償と受け取って欲が出ている人も多いみたいで。まあ、普通は造り替えた後には大層な付加価値が付くんだろって考えますからね。さっきも一人、ゴネ得を狙っていそうなのに会いましたし。となれば、やはり買い値を一律に引き上げるしか─」

「どうかなあ。それでもどこかの時点で歩留まると思いますよ」

「住み慣れた家への愛着が勝る? 」

「そういう表現もできるけど、むしろこの土地の影響を強く受けて縛られている連中が少なからずいる、と言った方が─」

 やはり彼も自分と似た漠然とした不安を抱えているようだ。頭痛に加えて鳩尾の辺りまでキリキリと痛み始めた。

「じつはわたしもそのこと、道すがらに考えたんです。つまり今、残っている住人の大半は何というかその、もうすでにノーマルな状態ではないんじゃないかって─」

 成澤は黙って頷いている。内情を打ち明けた甲斐があるという顔付きだった。

「─本部から渡された特別監視世帯のリスト、あれ以外にも雰囲気がヤバイ人を毎日のように見ますから。さすがに人前で空に浮かぶわけじゃなし、どこがどう変なのかは上手く説明できませんけど」

「うん。だからね、あなたも含めて上の階のみんなは、もっと用心するべきなんです。ここの住民はもちろん、本部の姿勢に対しても。最後にそれを言いたかった」

 頭の中で指折り数える。着任してからの短い間にも、管理室内のメンツだけで三名の人員が入れ替わっている。ここへ自分の前任者を含めれば、都合四名が消えた勘定だ。

 彼らが外された理由である「業務に支障を来しかねない甚大なダメージ」とは、一体どんな事柄を指しているのだろう。

 場の作用で頭がイカれるのか。それともそれは体調に響くのか。心身共に壊れるのか。

 さほど親しくはない間柄、しかもむくつけき男同士でありながら互いの息が触れ合う距離まで顔を寄せ合っていることに気づく。

 成澤が浮かれていると感じたのは間違いだった。間近に見るその両眼には降り積もった苦悩の色が滲み出ている。口の端も引き攣り、小刻みに震えていた。

「室長はこの地下のシフトもある程度、把握していますよね」

「ええ、まあ。管轄外ですが何となく」

「ここ、原則は二人体制なんだけど、実際には今日みたいにワンオペでやることも多いんです。そんな時、画面の中の誰かがまた突然、こっちを見て笑いかけてこないかって。それがもう嫌で嫌で・・・・・盗撮や盗聴に加担する後ろめたさとはまた違う意味で─」

「さっきのを見せられて同じ気持ちになりました」

「─そう、とくにアレ。高村亜紀子。ただ宙に浮かぶだけの不思議な美熟女っていうんなら、僕ぁむしろ歓迎です。だってめちゃ好みのタイプだし、それだけ考えればファンタスティックだし。でも、そうじゃないでしょ?

 あの女、これまで何人もの男たちを次々と自宅へ連れ込んでいるわけですよ。でも、そこからはまだ一人も出てきた試しがない。そしてさらに今度はその同じ家に、気が触れた人殺しの妹まで帰って来たっていう・・・・・。

 モニター越しの他人事にしても僕はそろそろ限界です。あなたには悪いけど、先にサヨナラさせてもらいます」

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